yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1998年韓国南部農村住居の現代化は家族生活の中心となるコシル、ウチ・ソトを分離・結合するヒョンカンに現れていた

2016年09月23日 | studywork

1998 「韓国南部新築農村住居における生活様式の現代化」 日本建築学会九州大会

 生活の現代化に伴って住まいにも手が加えられ、ときには大規模な改修や建て増し、建て替えが行われる。
 韓国の伝統的な住まいでも改修や建て替えなどの現代化が行われているが、伝統的な住まいの形が分からないと、どこを改修したのか、どこに伝統性が残され、どこが現代化したかが分からないし、伝統を現代化する理由を探らないとその妥当性が判断できない。ということで、韓国・慶尚南道・九満面では住み方と現代化も調査した。
 間取りと部屋名側からないとちんぷんかんぷんになるかも知れない。詳しく知りたい方はホームページを。
 概要だけでいい方は、太字のまとめを読めば想像しやすい。

2. 伝統的な生活様式
 伝統住居のモムチェ平面を構成する空間は、ジョンジ、ジョンジバン、クンバン、チャグンバン、チャグンバンジョンジ、デーチョンである。
 これを基本として、さらにジョンジバンを設ける場合やアンチョンを設ける場合がある。
 いずれもデーチョンとチャグンバンジョンジはマダン側に開放されている。
 各空間の使われ方と空間の性質を検討した。就寝は、女性はクンバン、男性はチャグンバンで行う。
 炊事はジョンジで女性が、食事・団らんは男女を問わず、夏はデーチョン、冬はクンバンで行われる。
 接客は冬は男女別を基本とするが、夏は男女ともデーチョンで行われる。
 チャグンバンジョンジはチャグンバンを暖めるアグンイの機能が主である。
 つまり、ジョンジバンを含めたジョンジは女性専用の作業的空間性、チャグンバンは男性専用の居室的空間性をもっており、クンバンは女性専用の居室を兼ねた家族的・社会的空間性、デーチョンは男女両方の居室を兼ねた家族的・社会的空間性をもち、チャグンバンジョンジは作業空間性に限られていることがうかがえる。
 
 次に、各空間へのアクセス経路から空間のウチ・ソト性を検討した。
 家族がクンバンで食事をする時をみると、チャグンバンにいる男性はデーチョンを通り、クンバンへアクセスする。
 女性は炊事をジョンジで行い、料理を食膳にのせ、いったんマダンへ出て、デーチョンを通りクンバンへ運ぶ。
 従って、デーチョンはウチであるクンバンとチャグンバンをつなぐウチ性と、ウチであるクンバンとソトであるマダンをつなぐ媒介的空間性をもつことになる。
 同様に、ソトのマダンからウチの各部屋へのアクセスは必ずデーチョンを通らなければならないし、ジョンジはマダンからアクセスし、ジョンジバンはクンバンから、直接、またはデーチョンを通り、マダンとジョンジを経てアクセスしており、デーチョンの媒介空間性を裏付ける。
 ところが、夏の食事や接客はデーチョンで行われており、この場合、デーチョンはウチ性をもつことになる。

 以上の各空間の使われ方にみる空間の男・女性および空間へのアクセス経路にみるウチ・ソト性を対比すると、伝統的な生活様式では、ソトのマダンがウチ化されており、デーチョンはウチ・ソトの両義性をもっていること、クンバン・ジョンジバン・ジョンジは女性空間、チャグンバンは男性空間として領域が分割されていることが推察できる。

3.生活様式の現代化
 新築住居のモムチェ平面は、クンバン、チャクンバン、コンノンバン、コシル、ブオクまたはジョンジ、ダヨンドシル、モクヨクタン、ヒョンクァン、ボイラーシルなどによって構成される。
 いずれも平面の中心部にジョンジとコシルが配置され、ジョンジとコシルの間はオープンまたはガラス張りの引き戸になる。さらに、コシルとクンバンやチャクンバンなどの各部屋の間は扉が設けられ、ヒョンクァンからコシルを通って各部屋に入る仕組みになっている。
 住み方と各空間の性質を検討した。就寝は夫婦ともクンバンである。
 炊事は主に主婦がブオクで行い、これに伴う収納はダヨンドシルを用いる。
 男女は一緒に、食事をクンバン、ブオクまたはコシルで、接客・団らんをコシルまたはクンバンで行う。
 宿泊客はチャグンバンまたはゴンノンバンを用い、祭祀はコシルで行う。
 つまり、ヒョンクァンは出入専用の通路性、ブオクは作業を兼ねた家族室、ダヨンドシルはブオクの付属庫性をもち、クンバンとコシルは社会性を兼ねた家族室、チャグンバンとコンノンバンは予備室となる個室性をもつ。また、空間の性質はすべて男女一緒の中性的であることがわかる。
 
 次に、各空間へのアクセス経路からウチ・ソト性を検討した。
 ソトであるマダンからウチの部屋へのアクセスはヒョンクァンとコシルを通らなければならない。これから、ヒョンクァンはウチとソトを結ぶ接点としての位置づけが浮かび上がるが、生活機能は特に与えられておらず、媒介空間性に限られるといえる。
 ところが、内部それぞれの空間はコシルを中心に配置されているため、コシルを経由することになる。つまりコシルは、アクセスの要であると同時に、団らん、接客、祭祀の場として社会的家族空間性をもつ空間担っていることが分かる。

 すなわち、新築住居では、空間における男・女差別はなくなる一方、ヒョンクァンを介してウチとソトの空間領域が明確に分かれ、マダンはソト空間として、モムチェ(母屋)はウチ空間として位置づいていること、さらに、コシルが各部屋の中心に置かれ、動線的にも家族生活の上でもコシルがモムチェの中心として位置づいていることが推測できる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギルバート著「大聖堂の殺人」は推理小説としては不完全燃焼になったが、地方のイギリスの考え方がかいま見えた

2016年09月22日 | 斜読

 book426 大聖堂の殺人 マイケル・ギルバート 長崎出版 2007 /2016.9読 
 著者マイケル・ギルバートはロンドン大学卒業で、弁護士をしていたが第2次大戦中にイタリアの捕虜となり、収容所で読んだ本をきっかけに作家に転向したそうだ。
 推理小説の第1作が1947年の「大聖堂の殺人」で、読み終わった印象では唐突感が気になった。まだ、系統だって証拠、証言を分析し、立証していくといった展開が弱いと感じた。

 p278では、主役の一人で事件を解明するヘイズルリッグ主席警部について、・・根気よく、執拗で、どこまでも食い下がろうとする集中力・・選択的集中力・・、適切な除外を行う・・と評している。
 これがギルバートの推理の姿勢のようだが、証拠、証言を見誤ったり、証拠、証言が偏っていれば、「大聖堂の殺人」のように、事件が長引き、殺人が繰り返されてしまう。
 最初に明晰な推理を重ね、動機となる心理を読み取らねばならないのではないだろうか。
 しかし、「大聖堂の殺人」のあとは本格的推理作家としてアガサ・クリスティに匹敵すると評価されたほど、人気が高まったそうだ。
 
 この本の舞台はメルチェスター大聖堂である。メルチェスターは、物語の様子からは、ロンドンからの日帰りが難しい地方の小さな町で、大聖堂があるから歴史的には地方の中核のようである。
 巻頭に、「英国の境内移住区」からのコピーと記された大聖堂の敷地見取り図が掲載されている。
 この見取り図を見ると、大聖堂の敷地の外周には上るのが難しいほどの塀が巡らされ、時間がくると閉められてしまう正門、主教門、南門の3つの門が設けられている。
 敷地の中央東寄りに十字型平面の大聖堂が建ち、敷地を囲む北、西、南の塀に沿って住区が設けられ、ここに主席司祭、司祭、聖歌隊長、聖歌助手、校長、教授、巡査部長などが、屋敷を構えている。
 ここではきわめて閉鎖的なコミュニティが形成されていて、すべてが筒抜けになると同時に、深層の心理を表に出さないうわべの上手なつきあいが日常となっている。これが地方のイギリス社会の伝統かも知れない。

 物語は、年老いた主席聖堂番への嫌がらせのいたずら書き+手紙から始まる。
 主席司祭は、問題を穏便に解決しようと、甥でスコットランドヤードの巡査部長に休暇を取って調べに来てくれるように依頼する。巡査部長はさっそく調査に乗り出すが、その矢先主席聖堂番が大聖堂横の機関小屋前で殺されているのが発見される。
 この時点までは、巡査部長が事件解明の主役かと思っていた。
 実際は、上司であるヘイズルリッグ主席警部が乗り込んできて、巡査部長とともに証拠、証言を調べ、選択的集中力=適切な除外で犯人を絞っていくことになる。
 こうした思い違いを引き起こす流れも、唐突さを感じさせる要因だろう。
 しかも、選択的集中力で犯人を絞り込んだはずだが、新たな事件が発生して推理を練り直すことになる。適切な除外が誤っていた=犯人の周到さが一枚上手だったことになる。人間誰しも間違いはあってもいいが、ベテランの警部の明晰な推理を期待しているのだから、犯人の周到さを見抜いて欲しかった。
 最終的にはクロスワードパズルを解き、殺人犯を突き止め、主席聖堂番の悪事を暴くことになる。が、推理小説としては物足りなく感じた。

 物語は、1章 不眠の司祭、2章 事件の下調べ、3章 大聖堂の夕拝、4章 殺人、5章 言葉の綾、6章 ポロック、尋問する、7章 ミッキー教授、白状する、8章 ベア・ホテルにて夜の検討作業、9章 身近な者たちへの疑い、10章 プリン聖歌助手、ほぼ確信にいたる、11章 お茶会と、その後の出来事、12章 アリバイ崩しと手強い相手との対決、13章 クロスワードパズル、14章 死しているがなお語る、15章 捜査開始、16章 事実の構築と展開する。

 推理小説としては不完全燃焼になったが、イギリスの地方の暮らしぶりや考え方、生き方、つまり本音のイギリス人・・聖職者特有の世界かも知れないが・・を理解することができたのは収穫である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1998韓国南部農村住居の調査で、儒教思想の女性空間・モムチェ、男性空間・サランチェの名残を実感

2016年09月21日 | studywork

1998 「韓国南部農村住居の伝統的秩序と現代化」 農村計画学会研究発表会

 1995年ごろから、韓国の集落調査を始めた。慶尚大学教授李先生(当時)にはずいぶんとお世話になった。韓国留学生S君と現地を見て回った結果、韓国南部の慶尚南道に位置する九満面を調査対象とし、数年、調査を重ねた。
 その一部が、表題の韓国南部農村住居の伝統的秩序と現代化である。

 この報告の目的は、「韓国では、1972年から始まった農村セマウル運動に代表される農村近代化政策が実施され、農村の生活水準が大きく向上してきた。
 しかし、農村景観や生活様式に関する調査研究が十分でなかったため、立地環境と調和した伝統的な景観や先人の知恵として継承されてきた自然環境と共生する住み方が損なわれ始めている。
 そこで本研究では、韓国の伝統的農村住居における住空間構成と住み方を抽出するとともに、集落立地と空間構造、ならびに伝統的な生活様式の現代化の観点から、改良された住宅、および新築された住宅における住志向を検討し、現代化の実態を求めること」である。

 屋敷空間構成と使われ方で、「敷地はおよそ25m×20mの四角形が一般で、ナットンマウルでは、北から南、または東から西に向かって、ファッチョンマウルでは、北から南に向かって傾斜し、もっとも高い側にモムチェと呼ばれる母屋が配置され、低い側に屋敷入り口がとられる。
 敷地周囲には、原則として高さ2mほどの屋敷囲いを設け、門扉を付けていて、外部に対して閉じた空間構成をとる。
 敷地内には、モムチェ、マダンと呼ばれる庭を中心にサランチェ、ソマグ、ゴバン、テウェビサなどと呼ばれる付属屋が建つ。生活の中心はモムチェであるが、サランチェにも居室が設けられ、後述するが男の空間として利用される。
 ただし、サランチェが居室専用になっている例は宗家に限られ、一般にはソマグやゴバン、テウェビサなどと共用される。
 ソマグは牛舎のことで、数頭の牛が飼育される。テウェビサは牛の飼料庫、ゴバンは農業用倉庫で、屋敷内が生業空間として活用されていることを示す。
 付属屋のモムチエに対する位置関係を検討したところ、屋敷入り口・サランチエ・モムチエの順列が得られた。これも後述するが、サランチエが男の接客空間として位置づいていることを示す。
 マダンは、モムチエの前面に配置されていて、モムチエ内のデーチョン・チャグンバンとともに儀式に用いられるが、日常は農作業や洗濯物の干し場として使われる」ことを示した。

 予備知識で予測はしていたが、韓国の伝統的な屋敷は、マダンという中庭をはさんで、高い側=多くは北側にモムチェ、低い側=入口側=多くは南側にサランチェを配置していること、モムチェは母屋に相当するが、女性の生活空間であり、サランチェが男性空間となっていて、これはヤンバン両班の生活様式の基本となっている儒教の男女7才にして席を分ける観念の継承であることを実感した。

 間取りでも伝統がよく継承されていた。その一方、確実に現代化に向かった改良が始まっていた。
 住まいにおける風水思想も気になるが、伝統と革新の融和をどう図るかも着目点になる。韓国の調査がますます興味を引いた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016京都を歩く ⑨鞍馬山縦断は仁王門→鞍馬寺→奥の院魔王殿→西門がお勧め、およそ2時間の山歩きだった 

2016年09月20日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑨奥の院魔王殿 西門 2時間 仁王門→鞍馬寺→奥の院魔王殿→西門 川床

 奥の院魔王殿の周りにある岩の説明板にはジュラ紀?と書かれていた気がするが、どの岩もごつごつとした硬そうな表面で、どれがジュラ紀?か分からなかった。ていねいに探せば、サンゴなどの化石が見つかるらしい。

 空はどんよりして、ときおりちらつくことはあったが、まだ雨にはなっていない。これから貴船まで下るので急ぐことにする。
 下りはなかなかの難所だった。道幅が狭いところあり、段差が大きいところあり、砂利が流れるところあり、窪みが滑るところあり、段や坂がきゅうなところあり、まるで登山である。
 途中ですれ違ったグループはいずれも山歩きスタイルだった。私は防水性のあるトレッキングシューズを履いてきたが、気をゆるめず、頻繁に一息入れながら下った。
 森が深く遠望はできないが、ときおり鳥のさえずりが励ましてくれる。雲の流れは速く、薄日になることもあったが、ほとんどどんよりしていて、雨を思わせる冷たい風が吹き抜けることもある。
 パンフレットには見どころは記されていない。ひたすら下る。パンフレットにはおおよその距離が書いてある。奥の院魔王殿から西門まで573mと書かれていたが、30分ほどかかった。
 ときおりパラッとくることがあったが、ついに雨になった。傘をさしながら坂道、石段を下ると、朱塗りの橋が見えた。石段は雨ですべりやすい。ゆっくりと下る。冠木門と呼ばれる簡素な門=西門をくぐり、橋を渡る。


 鞍馬側の仁王門をくぐったのが10時少し前、貴船側の西門を出たのが11時50分ごろ、途中の参拝、見学、休憩はやや急ぎ足だった、およそ2時間の行程になった。
 それぞれの名所をじっくり鑑賞し、歴史に思いを馳せ、持参の茶菓子や弁当を楽しめば、3時間ぐらいになろうか。
 曇りときどきパラッだったが、何とか雨にあわずに済んだ。宇宙に通じるエネルギーのお陰かも知れない。鞍馬口から鞍馬寺を参拝して奥の院魔王殿にいたる山道は、見どころも多いし、奥の院魔王殿~西門の山道に比べると登りやすい。
 一方の西門から奥の院魔王殿への山道は見どころはなく、登りはかなりきつそうである。仁王門→鞍馬寺→奥の院魔王殿→西門のコースがおすすめである。

 西門の先には山裾に沿って小さな川=貴船川が流れていて、川に沿った通りの向こう側に料理屋が並んでいる。
 西門あたりの川はかなり狭いが、少し先は川幅が広く、川の上には床が設けられている。いわゆる川床である。
 貴船川は、叡山電電車の貴船口駅あたりで鞍馬から流れてくる川と合流し、市原駅あたりで西に向かって賀茂川に合流、出町柳駅あたりで高野川と合流して鴨川となり京都市街を南に流れていく。
 かつて、夏の暑さをしのごうと、鴨川沿いに桟敷が設けられ、納涼床として人気を集めた。いまでも夏の風物詩として人気を集めている。
 その鴨川の上流に当たる貴船はもともと市内よりも気温が低い。しかも、貴船川では川の上に床を設けるのだから、鴨川べりの納涼床とは比べものにならないほど、涼しさは格別である。
 周りは緑にあふれ、鳥がさえずり、川のせせらぎで気持ちがいやされる。ということで、貴船の川床の人気が急上昇した。
貴船川に沿って歩くと、流れが見えないほど、川床が並んでいる(写真)。ほとんどの川床は、日除け?のすだれを天井代わりにしている。
 あいにくと雨が本降りになってきた。すだれでは雨はしのげない。川床で料理を楽しんでいた人々は川床をあきらめ、料理屋に飛び込んでいった。
 川床を体験しようと思っていたが、ますます雨足が強くなってきたので、貴船神社の参拝を先にして雨の具合をみることにした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年、建築学会集住文化小委は、各地に継承されている多様な集住文化を収集・整理し、「美しく住むかたち 集住の知恵」として出版

2016年09月18日 | studywork

2005 今伝えたいトピックス「集住の知恵 循環型社会の原理を読み解く」 建築雑誌 /2005.3記

 2001年?のころ、日本建築学会農村計画委員会集住文化小委員会では各地に継承されている多様な集住文化について計画論的視点から比較分析し、地域の環境資産として評価し、集住の知恵として次世代に伝えていこうと、事例を集め、議論を重ねた。
 2004年ごろ、成果がまとまり、出版が決まった。建築学会から「今伝えたいトピックス」として投稿を依頼されたので、経過と成果の抜粋を建築雑誌に投稿した。その一部を以下に紹介する。

ばったり
 折り畳み式の腰掛けで、上げ下げの時に「バッタリ」と音がすることからの呼称。同様の形式のものは各地で見られ、あげみせ、アゲ床几、アゲ棚、繰り店、アゲ縁、ぶっちょう、ミセなど呼ばれている。京都の町屋にみる「あげみせ」とならび、四国の漁村にみられる「ミセ」や「ぶっちょう」はよく保存されているため、徳島県手羽島で阿波のまちなみ研究会と共催し、「ミセ」と住居、集落が織りなす絶妙の空間構成について現地見学および公開研究交流会を実施した。一般参加も加わり地元の新聞社と放送局の取材を受けるなど強い関心が示された。このキーワードはその経験を基にまとめたものである。
 ミセは上ミセ、下ミセの上下二枚に分かれている。上ミセは蔀戸になっており、開けるときは垂木に取り付けられた引掛木に止める。また、下ミセを降ろすと足が自然に降りてきて縁になる。ミセはかつては漁業生活に密着していたもので、漁具の手入れをする作業所や濡れた網の置場として使われていた。その他に縁台として近所付き合いの場所、子供の遊び場などに使われていた。玄関は半間と狭いため大きな荷物の出し入れにも使われていた。また、祭りの際には行商の場を提供していたといわれている。天候にかかわらずこのような多様な使い方を可能にするためか、ミセは深い軒下に配置されている。
 上下のミセを閉じれば暴風雨にも耐える頑丈な雨戸として機能する。上下のミセを開け、ガラス戸や障子を開ければミセは部屋の延長となり、居住空間の狭さを補う役割を担っている。また、通りの公的な空間と内側の私的な空間をつなぐ半公的空間を形成しており、人を招きよせるコミュニティースペースとしての役割を果たしている。

築地松
 出雲地方では、冬の強い西風から散居の屋敷を守るため、屋敷西側を中心に屋敷林が植えられ始めた。自然堤防上の古い民家ではタブ、シイなど常緑樹が多く見られるが、散居の位置する沖積地は塩分があるため黒松が植えられるようになった。さらに、沖積地の土壌が不安定で喬木は強風で倒れやすく、喬木の日陰により水田の収量に影響が出ることがわかってきた。また黒松の枝葉は燃料としても使える。ということで、黒松は母屋の屋根ほどの高さで剪定されるようになった。この剪定を地元では陰手刈(のうてごり)と呼び、剪定された黒松の屋敷林を築地松と呼んでいる。陰手刈は5年ぐらいごとに専門の職人が行い、築地松は競うように力強い整った形に仕上げられた。まさに用の美の景観が形成されたのである。

 成果は、2005年、技報堂出版から「美しく住むかたち 集住の知恵」として刊行された。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする