2016年5月 京都を歩く⑫相国寺 総門 足利義満 塔頭 水上勉 雁の寺 鐘楼
同志社大学正門の横に同志社大学の敷地に挟まれて北に向かう道が通っている。
この道が相国寺参道につながっている。今出川通からこの道に入った。
突き当たりに小作りだがプロポーションのいい堂々たる門が待ち構えている。山門=三門かと思ったが、三門跡が別にあるから、これは総門になる。
相国寺は、1392年、足利三代将軍義満が後小松天皇の勅命を受けて建立した寺である。
受付でもらったパンフレットには法堂を正面とする通りには勅使門が設けられていて、総門は勅使門の東側に建っている。
勅使門は通常は閉まっていて、勅使を迎え入れるときだけ開けられる。対して総門は日常の通用に使われる。私たちは勅使ではないし・・勅命も持っていないし・・総門をくぐった。
当初の総門は消失し、1466年、八代将軍義政が再建したが、その後も焼失・再建を繰り返し、1797年に再建された。それでも、この門は220年の歴史を誇る。
傘をさしながら早足で参道を進む。左手は低い生け垣で仕切られた松林で、ところどころに空地があり三門跡などのかつての痕跡を伝えている。
右手には塀が巡っていて、門には玉龍院、光源院の表札が掛けられている。塔頭である。
塔頭は、弟子が始祖や高僧の徳を慕って寺院内に墓塔を建てたことに始まり、のちに僧侶が庵、小院を設けて坊=住まいとした。
相国寺のパンフレットには、林光院、普廣院、養源院などの塔頭が書かれていて、相国寺が大勢の僧侶を擁する中心的な存在だったことをうかがわせる。
パンフレットによれば、金閣寺、銀閣寺をはじめ90余の末寺の大本山と記されている。いつも観光客で賑わっている金閣寺=鹿苑寺、銀閣寺=東山慈照寺も相国寺の山外塔頭であり、相国寺の僧侶が任期制で派遣され、管理・運営しているそうだ。
確か、金閣寺にしろ銀閣寺にしろ、パンフレットには臨済宗相国寺派と明記されていた。人は関心のあることには注意を傾けるが、反面、関心をもたないと目には入っても思索の対象にはならないようだ。人は見たいものしか見ない、は真理をついた名言である。
作家の水上勉氏(1919-2004)は福井の生まれだが家が貧しかったため、9才のころ、相国寺塔頭・瑞春院に小僧として出される。
修行に耐えられなかった氏は10代に寺を出て職を転々としながら作家の道を目指す。この紀行文の冒頭にも氏について触れ、座右に「雁の寺・筑前竹人形」を持参したと記した。
行きの新幹線では読み終えず、京の旅を終えてから読み通した。
「雁の寺」と、だいぶ前に読んだ「金閣炎上」には氏の体験を元にした相国寺と金閣寺=鹿苑寺などの塔頭の仕組みが細かく説明されている。
塔頭を擁する寺を訪ねるなら、予習代わりに「雁の寺」「金閣炎上」がお勧めである。
光源院の先の右手の鐘楼は1843年の再建で、1層目を背丈より高い袴腰にして、楼上を鐘楼とした堂々たる風格を見せる(写真)。屋根は入母屋で、プロポーションがいい。