yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2016京都を歩く ⑤五山を眺めながら懐石を楽しみ、天然温泉で疲れを取る、翌日は鞍馬へ、湛慶の仁王像が結界

2016年09月07日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑤ 五山 京都駅ビル 鞍馬 仁王像 湛慶

 5月5日午後5時半ごろ、桃山御陵駅で近鉄京都線に乗り、京都駅に向かう。夕食は伊勢丹8階の眺めを期待して、加賀屋を予約しておいた。予約の6時15分、ほぼ定刻通りに着いた。
 東本願寺の均整の取れた大屋根、はるか先には送り火で知られる五山の山並みも見える。「左から、左大文字、奥に舟形、やや右に妙法の妙、さらに右に妙法の法、ズーと右手前に大文字」と、和服姿の係が説明してくれたが、どの山かは分からなかった。
 「火がつけばすぐ分かりますよ、でも送り火の8月16日は予約で満席になります」、とのことだった。やがて日が落ち、町に灯りがつき始めた。夜景を見ながら、加賀屋+京風の懐石料理を美味しく頂いた。

 夕食後、酔い覚ましをかねて京都駅ビルを散策した。今日は子どもの日である。大階段に鯉のぼりをデザインしたライトアップが現れた(写真)。パット点滅し、次は一面の兜のライトアップに変わった。イベント担当者も楽しんでいるようだ。
 ホテルに戻る。このホテルを選んだのは、駅に近いという立地もさることながら、天然温泉を楽しめるのが決め手になった。地下から源泉を汲み上げているそうだ。大浴場は最上階8階にあり、広々としていて、眺めもいい。今日は新幹線の移動があったにもかかわらず、石清水八幡宮の男山~伏見の酒処から御香宮神社まで2万歩も歩いた。無色透明の炭酸水素泉にのんびり浸る。足の疲れが引いていく、ような気がする。

 5月6日・金曜、外は雨の跡が残っていた。曇り空にはときおり怪しげな雲が流れていく。今日の予定は鞍馬の山歩き、念のため傘を持ち、あとは運を天に任せることにする。
 ホテルは素泊まりで予約したので、駅ビルに出かけ、サンドイッチのチェーン店Sに入る。Sに入るのは初めてで、最初にパンを選び?、次にサンドイッチに挟む具を選ぶ?。店内かテイクアウトか、暖めるかそのままか、など係が次々に問いかけてくるが、そのたびに一息つまる。
 ずいぶん前、コーヒーチェーン店のSに初めて入った。ブレンドを頼んだら、カップの大きさを聞かれ、一息つまった。初めてだと、ロングがどのくらいの量か見当がつかず、つまってしまった。
 どちらも一度経験すればどういうことはないが、初めてだと要領が分からずつまってしまう。
 地下街を急ぐ通勤客を眺めながら、手軽な朝食を済ませた。駅近のホテルは何をするにも地の利がいい。
 9時、地下鉄烏丸線で国際会館駅に向かう。9時半ごろ、国際会館駅前から鞍馬温泉行きの京都バスに乗り込む。秘境の鞍馬温泉も魅力的だが、今回は鞍馬から貴船のハイキングが狙いである。手前の鞍馬でバスを降りる。
 10時前、バスを降りたあたりには食事処、土産屋などの民家が屋並みをつくっていて、その先に、うっそうとした森を背景にして、急峻な石段の上に山門=仁王門が構えていた(写真)。
 1100年代創建だが、現在の門は1911年の再建である。左右の仁王像は、鎌倉時代の仏師・運慶の子である湛慶の作だそうだ。彫りが深く、猛々しい形相をしている。
 ここが結界、仁王が邪気を払い、浄域に踏み込む。
 空はますますどんよりし、うっそうとした森で山道は薄暗い。右に保育園があり、子どもの声が聞こえる。最近、保育園・幼稚園の声がうるさいからと反対運動が起き、建設が中止になった「事件」があった。
 自分が子どものころは大騒ぎしていたはずなのだから、うるさいから建設に反対するとは理解に苦しむ。鞍馬の保育園では思い切り大騒ぎできそうだ。
 
 人がいないと薄気味悪いほど薄暗い山道を登る。右手の先で、女性二人が写真を撮りあっている。見上げると、2階分ほどの高みに社があり、水が流れ落ちている。鞍馬山案内のパンフレットには魔王の瀧と記されている。
 650万年前??に魔王が降臨したそうで、パワースポットとして知られているらしい。手を合わせ、パワーを受ける。

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「アルケミスト」は羊飼いの少年が夢の可能性を実現しようとピラミッドまで旅する示唆に富んだ物語

2016年09月06日 | 斜読

book425 アルケミスト 夢を旅した少年 パウロ・コエーリョ 角川文庫 1997 /2016.9読
 表紙の絵や副題の「夢を旅した少年」から、子ども向けの物語かと思ったが、とんでもない、哲学書に分類できるほど示唆に富んでいた。
 アンダルシアに住んでいた少年サンチャゴは、羊飼いになれば未知の世界を旅することができると考え、父に頼んで羊飼いになる。
 物語は、羊の群れを連れて見捨てられた教会に着くところから始まる。かつて祭壇だったところに大きないちじくの木が生えていた。少年は本を読むのが好きだった。読み終わった本を枕にして横になると、1週間前に見た夢と同じ夢を見た。
 それは、エジプトのピラミッドに宝が隠されているという夢だった。少年は、p16夢が実現する可能性があるからこそ人生はおもしろい、と考え、エジプト行きを決意する。
 しばらくして少年は老人に出会う。老人は少年の夢=エジプトのピラミッドに隠された宝を探す旅を言い当て、ウリムとトムミムという白い石と黒い石を与える。黒は「はい」、白は「いいえ」を意味するが、p38できれば自分で決断し・・前兆の語る言葉を忘れず、運命に最後まで従うようにと諭す。

 タンジェに着いた少年は、だまされて有り金を持ち去られてしまう。一文無しになった少年はキャンディ売りの店の組み立てを手伝い、キャンディをもらう。
 キャンディ売りはアラビア語、少年はスペイン語だったけど話しが通じた。p53・・新しいことをたくさん学んだ・・そのいくつかはすでに体験したことで、本当は新しいことではなかった・・今まで気づかなかっただけだ・・なぜ気づかなかったのか、それはあまりにも慣れてしまっていたからだ・・言葉を用いず理解できるようになったら、世界を理解することができると思った・・。
 
 お金がないのでクリスタルの店で働いた。客足が途絶えていたが、少年の工夫で客が増え、たいへん繁盛した。
 11ヶ月が経ち、少年は十分なお金を貯めることができた。そこで、エジプトに向かうキャラバンに参加することにした。旅の途中、らくだ使いが「p90・・自分の必要と希望を満たす能力さえあれば未知を恐れることはない・・私たちは命であれ、所有物であれ、土地であれ、それを失うことを恐れている・・しかし、自分の人生の物語と世界の歴史が同じ者の手によって書かれていると知った時、そんな恐れは消えてしまう」と話してくれた。
 
 砂漠を進んでいる途中で少年は錬金術師と出会うことができた。
 錬金術師は少年にいろいろなことを示唆する。p150・・この自然の世界は単なるまぼろしで、天国の写しにすぎない・・目に見えるものを通して、霊的な教えと神の知恵のすばらしさを理解するために、神がこの世界を作られた・・、p151・・おまえは砂漠にいる・・砂漠に浸りきるがよい・・砂漠がおまえに世界を教えてくれるだろう・・おまえは砂漠を理解する必要はない・・一粒の砂をじっと見つめることだ・・その中に創造のすばらしさを見るだろう・・。
 
 何度も危険な目にあいながら、ついに少年は砂に埋もれたピラミッドを発見した。そこで砂を掘り続けたが、何も見つからなかった。そのときアラブ人の難民が通りかかり、少年の宝物探しの旅の話を聞いて、少年が嘘をついていると思い死ぬほど殴り続けた。
 立ち去るとき、リーダーが、スペインの見捨てられた教会の祭壇の横のいちじくの木の下に宝物があるという夢を続けてみたが、そんな夢を信じると痛い目にあうだけだ、と捨て台詞を吐いた。
 
 フラフラと立ち上がった少年は、宝物ありかを確信したのである。それは羊の群れを連れ本を枕にした、見捨てられた教会のいちじくの木の下なのである。
 
 少年は羊飼いで儲けたお金でタンジェに向かい、お金を盗まれてクリスタル店で働き、そのお金でエジプトを目ざしすという大旅行を遂げたのである。
 その間、老人=王様に出会い、クリスタル店の主に出会い、紹介しなかったが錬金術師を捜すイギリス人に出会い、オアシスでらくだ使いに出会い、錬金術師に出会い、さまざまなことを体験し、示唆を受けたのである。
 もし、最初にいちじくの木の下の宝を発見していたら、大旅行を知らず、いろいろな人との出会いもなく、平凡な人生で終わったに違いない。
 著者パウロ・コエーリョは、私たちに、夢を追い続ける人生を勧めているのである。

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1982年・1991年 煉瓦組積造の台湾・台中駅は西洋的表現を取り入れ見応えがある

2016年09月05日 | 旅行

1982+1991 台湾を行く 台中駅 /1993.1記

 初めての海外は1982年の台湾だった。もう35年も過ぎた。経済成長前の台湾には歴史を伝える建築が残っていた。台中駅もその一つである。その後も縁が続き、台湾に何度も訪ねた。経済成長を経て風景は大きく様変わりしたから、以前に見学したり、調査に訪れた歴史建築も少なくなった。台中駅はどうだろうか?。新幹線の新駅ができたから、1982年、1991年に見た駅舎はないかも知れない。台中駅の紀行文を再掲する。

 1982年3月14日、台湾省高雄の華泰飯店をあとに高雄駅に向かう。北回帰線よりやや南に位置する高雄はすでに初夏の風が吹いている。
 昨日は佳冬の四合院形式の大邸宅を見学したあと、誘われるまま、深夜までよく食べ、よく飲んだ。楽しい席だったためか、目覚めはよかった。
 高雄駅舎はコンクリートののっぺりとした四角い建物だが、3階には瓦葺きの方形屋根がのり、2階の入口正面側に瓦葺きの切り妻屋根、1階の入口ポーチ部分には瓦葺きの庇がつく。台湾土着のかたちや大陸の建築様式の面影はまったくなく、どう見ても日拠時代の質の悪いデザインとしか思えない。残念である。
 朝10時、莒光6号が定刻通り走り出す。東海道新幹線にたとえればこだま号に相当する台湾自慢の特急列車である。しばし、童心にかえって窓にしがみつく。

 窓の外に広がる水田はもうすっかり青々として、日本の初夏の農村を思わせる。しかし、農家の多くは、一条龍と呼ばれる一の字形の横長住宅か、一の字の左右のいずれかを手前に伸ばした単身手と呼ばれる鍵の字形の住宅、あるいは一の字の左右両端を手前に伸ばした凹の字形の三合院形式であって、背後のヤシの木とともに景観は異国である。
 もっともこれらの住宅も土着ではない。主に明朝、清朝以降に大陸から移り住んだ漢族の系譜と考えて間違いなく、大陸南方出身であれば三合院形式、北方出身であれば□の形の四合院形式が卓越する。

 存分に写真を撮ったので、地元の新聞を広げる。漢字がびっしり並んだ紙面は、息もつかせず漢字が目に飛び込んでくるように感じる。漢字を拾い読みするもなかなか意味はつかみにくい。
 広告に目を転じると、「31坪~39坪、3房2廳高級住家、毎月只付6000元」とある。3寝室・2広間のマンションとなろうか。二点透視図の挿絵は都市住宅の典型をうかがわせ、窓の外の農村住宅との落差の大きさを感じさせる。

 ほどなく台中駅に到着した。駅舎は1917年竣工で、高雄駅と同じ 日拠時代になるが、比べてデザインの質は高い。構造体は煉瓦組積造だが要所に石を用い、テクスチャと色合いの対比で表情を豊かにしている。
 入口正面は柱を3階まで立ち上げ、上部をコーニスやペディメントと呼ばれる西洋的な表現を用いて正面を誇示し、ペディメント部を丸窓つきの草木をモチーフとした浮き彫りで飾り、翼廊部分の窓上部を石造アーチで仕上げて要石をはめ込んで曲線を強調している。身廊の中央部屋根には尖塔風に塔を立ち上げ、重々しくなりがちな煉瓦造を軽やかに仕立てるなど、建築として整っている。
 素材として使われている煉瓦は、当時の日本の近代建築が西洋を模して盛んに取り入れた建築材料で、横浜や神戸の西洋館などで馴染み深いが、中国大陸でも土着の材料としての歴史は古い。これまでに見てきた三合院、四合院形式の住宅はいずれも煉瓦造であり、素材の表情からは中国建築との違和感を感じさせない。

 加えて、台湾は1642年からオランダによって一時的に占拠され、その当時に建てられた西洋館が少なくない。近くの鹿港民俗文物館もその一つとして知られている。
 始めて台中駅に降りたにもかかわらず、駅舎に親しみを感じたのはそんなことが背景にあったかも知れない。
 駅舎はレールを曲げ加工して構造体にしている。私に小さいころ、京浜東北線の駅舎にもレールが構造体に使われていたが、いまはほとんど見かけない。珍しい構造なのでカメラに収めた。

 その後、1991年に日本建築学会国際交流基金による台湾訪問で台中の東海大学、逢甲大学を訪れた際、幸運にも台中駅舎の変わらぬ姿に出会うことができた。
 写真を見比べると、ホーム屋根を支える支柱が黄色く塗り替えられたぐらいで、寸分と変わるところがない。正面から見上げたり、駅舎の回りを歩いたり、ホームに出て駅舎を眺めたりしているうちに、少しずつ始めて訪れたときの様子がよみがえってくる。
 人の時間に比べ建築の時間ははるかに長い。そして建築の表現は記憶の背景を鮮明にしてくれる。

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埼玉建築設計監理協会主催の2006年卒業設計コンクール、「新世紀農業集落の風景」が最優秀賞

2016年09月04日 | studywork

2006年 第6回・埼玉卒業設計コンクール/埼玉建築設計監理協会主催

 埼玉建築設計監理協会主催の卒業設計コンクールは、「・・新しい世紀の第1線で活躍が期待される建築系学生の能力向上、育成を図る目的で、次代を先取りした意欲ある作品を募集し、若い学生達の考えた想像価値と熱意を奨励・・」を目的に、2001年から毎年開催されている。
 第6回目には埼玉、東京の大学から26点の応募があり、プレゼンを含む審査の結果、最優秀賞1点、優勝賞2点、埼玉賞1点を選んだ。

 最優秀賞「新世紀農業集落の風景」は、新潟県上越市での農業、農村再生をテーマにしている。家業が兼業農家だそうで、農業、農村の衰退を日々感じていたのが動機のようだ。
 場所は上越であっても日本の農業、農村問題、ひいては国土形成計画への一石となるテーマであり、まずテーマ性を高く評価したい。
 さらに従来型の農業生産、農村社会の限界を感じ、現代的な多様な農業展開、多様なライフスタイルの魅力を取り入れ、10のライフスタイルを想定した農業、農村再生計画のアイデアもいい。
 真摯なプレゼンテーションも好感が持て、最優秀賞に選ばれた。
 しかし、農業、農村の風景はその土地の地域特性を読み切り、構築されてきた文化としての表現のはずだが、提案されたデザインは上越の風景への理解が乏しく感じられた。
 大いに農村を歩き、風景として表現された文化を考えて欲しい。

 優秀賞「systema city」は最優秀賞に準じた得票を得た作品である。
 大型ロケット発射場として知られる種子島宇宙センターは発射時期には職員が3000人となる。しかし、発射がないときは70人ほどに激減する。
 そこで、3000人のための空間を日常的にも活用できないか→種子島の歴史、宇宙ロケット、美しい海を題材にしたミュージアムはどうか→ミュージアム⇔集合住宅へと可変できるシステムをどう組み立てるか、と構想が発展し、優れた作品となった。
 調査報告書も展示されていて、その努力も高い評価になった。が、システムの提案に重点がおかれすぎたため、種子島という場所性が薄れ、あるいはこのテーマを通した社会への切り込みが弱まってしまったように思う。

 優秀賞「連なる境界線」は多様な活動で社会を支えているNPO、ボランティア団体が活動拠点に不足し、また横の連携が弱いことに着目し、お台場に共同オフィスを構想した作品である。
 活動が波のうねりのように連続し、発展することをイメージした形はユニークで、模型は注目を浴びた。が、形の処理にとらわれすぎたためかテーマの掘り下げが弱い。
 例えば、災害などに特化し、防災減災、災害支援、復旧復興支援活動の意義を掘り下げた方がよかった、と思う。

 埼玉賞「MACHI+REKISHI=MUSEUM」は川越を取り上げ、町並みを構成する環境要素すべてを展示媒体とするエリアミュージアムを提案した作品である。
 伝統を保存しつつ活性化を図るエリアミュージアムの発想が高く評価されて、埼玉賞となった。
 川越は再三取り上げられているし、研究蓄積も多い。単に環境要素をエリアミュージアムとして再構成するのではなく、エコミュージアムのように、環境要素の社会的意義を掘り起こした活用やこれからのまちのあり方を見越した再構成の提案が望まれる。

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2016京都歩く ④鳥羽伏見戦の弾痕を発見→徳川家康が建立した御香宮神社へ

2016年09月03日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ④鳥羽伏見戦の弾痕 御香宮神社 徳川家康

 少し北に京阪本線の伏見桃山駅、その先に御香宮神社がある。地図を見ながら北に向かった。
 両替町と書かれた通りには歴史を感じさせる建物が散見できる。あちこち眺めていたら、左側の老舗の料亭の前に「鳥羽伏見戦の弾痕」と書かれた説明板が置かれていた。
 のれんをかけた入口の右手の柱に大きなめり込みがあり、格子にもこすれた痕がある(写真)。その横の格子にも横一線に削れた痕がある。
 鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩が新式銃で装備し、刀槍の会津藩+新撰組と激突したはずだから、この弾痕は薩摩藩が撃った銃痕であろう。
 両替町あたりは伏見桃山駅に向かって上っている。弾痕から推測すると、上手の薩摩藩が下手の会津藩+新撰組に向かって銃を発射し、流れ弾がこの老舗の格子に当たったようだ。
 およそ150年間、弾痕を保存し、鳥羽伏見戦の証拠をいまに伝えてくれた老舗料亭に敬意を表したい。夕食の予約がなければ、この料亭に席を取り、幕末~維新を思い出すのも一興だが先を急いだ。

 伏見桃山駅を右に折れると大手筋通の坂道で、すぐ先に近鉄京都線・桃山御陵駅がある。
 坂道をさらに上ると左手に御香宮神社の表門が見えてくる。この表門だが、足もとの基壇が歩道にせり出していて、御香宮と彫られた石碑、表門の両側の石灯籠の立派な基壇も歩道に設置されていて、歩道が狭くなっている。
 どうしてこういう不思議な都市計画になってしまったのだろうか?。表門から本殿まで150~160mほどある。大手筋通の整備のときに表門を数mさげれば不思議な歩道にならずに済んだと思うが、道路担当者は神の領域に遠慮してしまったのだろうか。
 表門は、伏見城大手門の移築だそうで、国の重要文化財に指定されている。間口3間、切妻本瓦葺き、薬医門形式の堂々たる構えである。
 あるいは、表門の堂々たる風格に圧倒されてしまったのだろうか。
 
 石の鳥居をくぐり、石敷きの参道を進む。参道はまっすぐ本殿まで伸びているが、社叢が枝を垂らしていて本殿は見え隠れしている。まっすぐ伸びる参道は奥行きを感じさせ、気持ちを静める効果があるようだ。
 御香宮神社は徳川家康により1605年に建立された。
 家康が関ヶ原の戦いに勝利したのが1600年、翌年、伏見城に入り政務を司る。
 1603年に征夷大将軍の宣旨を受け、二条城で祝賀の議を行う。
 その後、江戸城に戻るが、1605年、伏見城で将軍位を秀忠に譲り、駿府城に居を移す。御香宮神社建立は、家康の隠居の年ということになる。
 家康の命ということもあり、その後、徳川御三家が改修費用などの寄進をするのが習わしになったそうだ。伏見城の大手門を表門にできたのも納得である。

 参道の突き当たりに拝殿が建つ。この拝殿は、中央が石畳の通路になり、左右の拝殿を壁で囲った珍しい構成を取っている。
 中央通路の拝殿は割拝殿と呼ばれ、これも珍しい。
 本殿は、すでに見学時間は過ぎていて、扉は閉まっていたが、透かしの塀からなかをのぞいた。正面は5間の流れ造りで、いたる所を極彩色で仕上げてある。天下を統一したばかりの家康の力を見せつけるような絢爛豪華さを狙ったようだ。

 境内には伏見の七名水に数えられ、名水百選にも選ばれている清泉があり、御香水と呼ばれている。
 1602年に生まれた家康の10男頼宣の産湯にこの御香水が使われたそうだから、家康も名水のこと知っていて、神社建立を命じたのかも知れない。
 参拝客が御香水を口に含み、味わっていた。

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