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2016京都を歩く ⑪新島襄創立の同志社大学でネオ・クラシックのクラーク神学校、アメリカ・ゴシックの礼拝堂を見る

2016年09月26日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑪新島襄 同志社大学 クラーク神学校 ネオ・クラシック ハリス理化学研究所 イギリス・ゴシック 礼拝堂 アメリカ・ゴシック

  今出川通の歩道はけっこう狭い。その狭い歩道を学生が自転車で遠慮がちに通り抜ける。同志社大学の学生らしい。
 1876年、新島襄が同志社英学校を開設する。これが現在の同志社大学の始まりになる。
 1876年、薩摩藩邸があった相国寺門前に移った。これがいまの今出川校地である。その通りを歩いているから、学生が多いのは当然であろう。
 敷地内には数多くの建物が並んでいるが、国の重要文化財の指定を受けている主な建物でも、1884年の彰栄館、1886年の礼拝堂、1887年の書籍館、1890年のハリス理化学館、1894年のクラーク神学館があげられる。
 明治17年から27年ごろの建物であり、新島襄始め、八重夫人、教授陣がいかに先進的な教育に熱心だったか、そのころの若者が新しい学問に並々ならぬ情熱を燃やしていたかがうかがえる。


 先に相国寺を見学したのだが、話の流れで同志社大学を続ける。クラーク神学館から今出川通に向かう途中に東門がある。
 守衛に見学を伝えてところ・・怪しい者ではないと判断したようで・・教室、研究室など以外の公開されているところは見学どうぞ、とのことだった。学問の場は開かれているとはいえ、ニュースになるほどの事件も少なくない。守衛の毅然たる態度が、事件予防に効果がある、と思う。
東門を入った右手に1894年竣工のクラーク神学館=クラーク記念館がある(写真)。設計はドイツ人R・ゼール・・明治政府が招へいしたエンデ・ベックマン設計事務所員・・、工事は地元の大工・小島左兵衛で、煉瓦造2階建て、ネオ・クラシック様式の落ちついた佇まいである。
 正面から見ると、左は三角の切り妻屋根の形を見せているが、右は塔が建物から飛び出て伸び上がっている。
 R・ゼールのデザインか小島左兵衛の仕業かは分からないが、左右を非対称にするとはいかにも日本的なバランス感覚である。
 のぞいたら、事務室の声をかけてと張り紙があったので、声をかけたら鍵を持ってきて1階の談話室?に案内してくれた。奥が正面左の塔の1階に相当する。居心地のいい部屋で、親密感が増しそうに感じた。

 談話室を見学したあと、木製の二重階段を上って2階に上がると、正面がチャペル、左右が部屋になっている。チャペルは昼休みのみの公開で鍵がかかっている。左右の部屋はゼミ中だった。重要文化財でゼミを受けられるなんて羨ましいね。事務室にお礼を言い、外に出た。

 ちょうど、授業が終わったようで、あちこちの建物から学生が出てきた。若い学生は華やかだし、声が弾んでいるので一気に雰囲気が明るくなった。
 西門に向かって歩くと、右手に1890年竣工のハリス理化学研究所が建っている。設計はフランス人A・N・ハンセル、施工は小島左兵衛、イギリス・ゴシック様式でデザインされている。
 その西隣が近代建築史で学んだ1886年竣工の礼拝堂になる。設計はアメリカ人D・C・グリーン、施工は地元大工の三上吉兵衛で、アメリカン・ゴシック様式である。
 概してヨーロッパのゴシック様式の教会堂は高さがあり荘厳さや華麗さを競っているが、グリーンの礼拝堂は大きな三角屋根をのせ、どっしととしている。アメリカの広々とした風景から生まれたデザインのようだ。


 ハリス理化学研究所も礼拝堂もクラーク神学館のどれも煉瓦造で、イギリス・ゴシック、アメリカ・ゴシック、ネオ・クラシックの違いに違和感はない。いわゆるお雇い外国人として明治期に活躍した人々であり・・グリーンにいたってはプロテスタントの宣教師だった・・、様式建築にさほどこだわらなかっただろうし、木造建築には詳しくてもヨーロッパの様式に馴染んでいない京都の大工が請け負ったから、似たようなデザインになったのではないだろうか。

 礼拝堂は閉まっていたので外観を一回りしてから、西門に出て、今出川町駅から地下鉄烏丸線に乗った。

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