2016年5月 京都を歩く ⑥由岐神社 鞍馬神社本殿金堂 鑑禎 毘沙門天王 牛若丸=義経
魔王の瀧をさらに上ると山道は右に曲がるが、まっすぐ先に由岐神社の鳥居とその奥の石段の上の楼門?が見える(写真)。左手の手水場で手を清め、鳥居で一礼し、石段を登る。楼門?をくぐり、石段を上がりきると正面に本殿が鎮座している。
となると、楼門?と思ったのは実は拝殿ということになる。日ごろ神社に詣でていても目が鱗に覆われていたようだ。しかも、拝殿の中央が通路=石段になっているから、御香宮神社と同じ割拝殿の形式である。日々勉強が続く。
拝殿は、木の古びた佇まいが幽玄さを印象づけていた。
本殿は小作りだが、古びた木造の落ちついた佇まいで参拝者を迎えている。
平安時代、世情が不安定だったことから、京都御所に鎮座していた由岐神社を北方鎮護のため鞍馬に移したのが鞍馬の由岐神社の始まりになる。
遷宮のとき、かがり火をたいて先導し、その行列が1kmにも及んだことが鞍馬の火祭の発祥になったそうだ。
いまの本殿、拝殿は豊臣秀頼による再建で、国の重要文化財に指定されている。
本殿の回廊の左右には狛犬の彫刻が飾られていた。隣に置いてあった説明板によるとこの狛犬は安産、万物継承、火除けにご利益がある霊宝で、原形は京都国立博物館に寄贈されていて、これはレプリカだそうだ。
インターネットでは子どもを抱いている狛犬として紹介されている。楼門と思ったら拝殿であり、本殿に狛犬が飾られ、その狛犬が子どもを抱いている。鞍馬の地は珍しいことが多い。
由岐神社の参拝を済ませ、地蔵堂を過ぎる。山道はつづら折りになった。直線ではかなり険しくなるためであろう。
深山に分け入るといった気分だが、ときおり一息しないとつらい。
中門を抜ける。まだまだ坂道が続く。弥勒堂を眺める。ケーブルカーを利用すると、多宝塔を経由し、新参道を登り、弥勒堂を通ってつづら折りの山道に合流することになる。
由岐神社を参拝するコースで多宝塔も見学したい場合は、弥勒堂から多宝塔まで下り、また戻ってこなくてはならない。今日は、鞍馬寺を参拝したあと、貴船まで下る予定なので、すでにときどき一息しなければならない状況なので体力温存を優先させ、多宝塔見学はしないことにした。
石垣、石段が現れた。明らかに手の込んだ構築物だから、本殿は近そうだ。辨財天を通るころ、パラパラと来た。石段を上がると、右に休み所・洗心亭があった。一服しようと思ったがまだ準備中だったので、軒先に雨宿りをして水分を補給する。
左の神殿を眺めながら石段を上ると、境内に出た。本殿金堂に到着である。
10時40分ぐらいだから、バスを降りてから40~50分、登ったことになる。つづら折りや石段などところどころきついところがあるが、難所はないので鞍馬寺本殿金堂は登りやすい部類であろう。
唐招提寺を開いた鑑真が唐から連れてきた高僧の一人の鑑禎が、夢のお告げに従い白馬の先導で鞍馬山に登ると、鬼女が襲ってきた。
そこに毘沙門天が現れ、鬼女を退散させた。鑑禎は夢のお告げで毘沙門天に出会えたと悟り、毘沙門天を祀るために草案を建てた。
ときに770年、これが鞍馬寺の始まりとされる。諸説があるらしいが、伝承、伝説はありがたさを強調する傾向がある。あとは信じる気持ちであろう。
話は変わって、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟にあたる牛若丸=義経は、父源義朝が平治の乱で敗死したため、この鞍馬寺に預けられた。
義経7才のときである。昼間は仏道を学び、夜になると天狗に兵法を学んだとされる。天狗は実在しないから、天狗のような顔をした?武道家が訓練したのであろうか。伝承、伝説はとかく大げさだが、説得力はある。
十分に鍛練を積んで、16才になると自ら元服し、奥州藤原秀衡を頼って平泉に移る。
のちに打倒平氏で活躍するが、頼朝から朝敵として追われ、31で自害する。「判官贔屓ほうがんびいき」は義経に対する同情心として生まれた言葉だそうだ。
義経の墓は鞍馬寺ではないが、ここで修業、鍛錬したことから、山道の途中に義経供養の石塔が建てられた。
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