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2017.10 かつて炭鉱で栄え5300人も住んだ世界遺産・軍艦島=端島は閉山後は無人、廃墟となった

2017年11月14日 | 旅行

2017.10 長崎を行く⑤ 軍艦島上陸

 港を出た。東シナ海である。港内よりは波のうねりが大きいが、天気良し、風は静かで、さほど揺れない。長崎半島を左に見ながら南に進む。島が右に左に、あちらにこちらに見える。小さな島もあれば大きな島もある。港を出て30分、9:40ごろに高島に着いた。高島も8つの構成遺産の一つで、ガイドによれば幕末に武器商人として活躍したトーマス・ブレーク・グラバー(1838-1911)・・旧グラバー邸も構成遺産の一つ・・が武器取引が終わりグラバー商会が破産したあとの1868年ごろ、高島に日本最初の洋式炭鉱である高島炭鉱を開発した。その後、岩崎弥太郎(1835-1885)が高島炭鉱を買収し、グラバーは所長となった。高島炭鉱が三菱財閥の所有になったあと、グラバーは相談役に就いている。高島の最盛期には5000人を越える人々が住んでいたそうだが、生きて帰れぬ鬼ヶ島などといわれるほど劣悪な環境だったらしい。エネルギーが石炭から石油に移行し、粉じん爆発事故もあり、1986年に閉山した。最盛期ごろの住宅地の模型を見ながらガイドの説明を聞き、展示された資料を眺め、岩崎弥太郎のブロンズ像を見ながら、船に戻った。高島に寄るクルーズは少ないが、資料館しか見学できないから時間を節約したい方は軍艦島に絞ったクルーズでもいいと思う。
 10:05出港する。軍艦島は近い。
 40年ほど前、東京電機大学阿久井喜孝氏らによる「実測軍艦島」・・書名は正確でない・・が紹介された。私が読んだのは見開き2頁の抄録?だが、軍艦島の写真は衝撃で、風化しつつある廃墟が厳しかった炭鉱労働者の実体を伝えていた。軍艦島保存活動の動きがあったところまでは知っていたが、その後のことは記憶に残っていない。2010年代に入り、明治日本の産業革命遺産を世界遺産候補にするという動きが長崎で始まったが、軍艦島が含まれていることは気づかなかった。2015年に軍艦島が8つの構成資産の一つとして世界遺産に登録されたことを知った。阿久井氏始め、大勢の方の地道な調査研究や保存運動が実ったのである。見開き2頁の抄録?と軍艦のような写真を思い出した。それから40年も経っている。劣化はさらに進んでいるに違いない。保存活動基金になるなら喜んで現地を訪ねたいと思っていたが、孫のお陰でその機会は意外と早く来た。そして、いま軍艦島を目にしている。
軍艦島は、正式には端島と呼ばれる南北480m、東西160m、周囲1200mの小さな島だが、外観が軍艦土佐に似ていることから軍艦島と通称された。桟橋は、たぶん北の強い風を避けるため南東側にあるが、桟橋側からは軍艦らしくは見えない。船は、廃墟の建物を順に説明しながら、東~北~西へと回っていく。ときどき波が高くなり横揺れする。小さなクルーズ船が大揺れしていた。長崎あたりだと台風の勢力はかなり強く冬の北風も相当激しいそうで、船が接岸できず真水が不足して苦しんだ、とガイドが話していた。島の西南まで来て、船はゆっくりUターンする。確かにここから見ると軍艦に見える(写真)。最初の鉄筋コンクリト造の集合住宅が建てられたのが1916年、次々と集合住宅が建てられたころ、日本は次々と軍艦を建造して戦争に突入していった。抵抗なく軍艦島と名付けられたのであろう。
 船はUターンして、南東側の桟橋に着いた。10:30軍艦島=端島に上陸する。波しぶきが桟橋を越えてくる。穏やかな天候でも波しぶきが桟橋を越えるのだから、天候が荒れているときはさぞやたいへんだったのではないだろうか。上陸したあたりは拡張された地域で、赤みの石積み擁壁で囲まれている。水成岩らしい。石と石の隙間には天川と呼ばれる石灰と赤土を混ぜた接着剤を用いたそうだ。少しでも隙間があれば強い風で波がしみこんでくるため、堅固なつくりにしたようだ。
 島内の見学は拡張地域の南の一部に設けられた通路と3カ所に設けられた広場に制限されている。建物の劣化が激しく危険なことと、住民がおらず管理に手が回らないためであろう。第3見学広場から見た30号棟アパートは、かなり痛んでいる。この30号棟アパートが、1916年に建てられた日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造アパートだそうだ。100年も経っているから老朽化はやむを得ないし、海風の塩分による劣化を考えるとよく建ち残っていると思う。強風を防ぐためなるべく外周を閉じ、中庭を設けたそうだ。地下には売店が置かれ、さらに海側の31号棟アパートには共同浴場、郵便局、理髪店が設置されていた。桟橋に近い第1見学広場からは拡張地域につくられた貯炭用ベルトコンベアーのコンクリート残骸、その先に1958年に建てられた7階建ての端島小中学校の廃墟が見える。
 端島での採炭は1810年ごろで、佐賀藩が小規模に掘っていたが、1890年、三菱合資会社が本格的な採炭を始めた。石炭需要が増大するにつれ、埋め立てによる拡張が進められ、当初の3倍の広さまで拡張された。炭鉱従事者も1920年代は2000~3000人だったが、最盛期には5300人が住み、応じてアパートが隙間なく建てられていった。しかし、エネルギーが石炭から石油へ移行し、石炭需要が減少していった。応じて炭鉱従事者も少なくなっていき、1947年に閉山、無人島になった。無人になれば建物の傷みは早くなる。そのまま朽ち果て、忘れられたかも知れない。世界遺産として脚光を浴び修復、復元の気運が高まることは、ここで辛酸をなめながら暮らした人々の暮らしぶりの記憶の復元でもある。阿久井氏を始めとする研究者たちの労苦の功績は大きい。
 およそ90分の上陸見学を終えて、船に戻る。一路、長崎港へ快調にクルーズし、12:10分、予定通り、帰港する。

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