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2000.8 中国西北シルクロード7 莫高窟=千仏洞/9層楼閣と北大仏→南大仏→釈迦涅槃像

2020年09月26日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 7 /莫高窟 96窟・130窟・148窟・158窟

莫高窟=千仏洞に入場
 広々とした莫高窟駐車場は、頼りなげだが緑が巡っている。乾いた道を歩き、乾ききった川筋の橋を渡ると、駐車場よりも元気な緑に変わる(写真、手すりの左が乾ききった川筋、正面が莫高窟入場口)。
 楽尊が金色の千仏を見たころは、鳴沙山、三危山、ゴビ砂漠が一体となった砂の風景が圧倒していたのではないだろうか。それでも楽尊に続き15世紀まで1000年に渡って石窟が掘られ続けたのだから、どこかにオアシスがあったはずである。
 オアシスの源である祁連山脈の雪解け水が多いときは、砂漠に奔流が流れたのではないだろうか。水が流れなければ乾ききった川床になる。奔流は大泉河と名づけたられたらしい。漢人は表現が大げさである。
 莫高窟が発見され大勢が訪ねてきて、研究所なども設けられ、防砂・防風のため植林が進められた。ポプラのほかに枝を広げた広葉樹も植えられた。緑の隣は砂漠が迫っている。人が手を緩めれば砂の風景に戻ってしまう。砂の力は想像を超えて大きいそうだ。

 莫高窟入場口は、南北1600mの莫高窟のだいたい真ん中に設けられている。
 確認されている490余の石窟のうちチケット購入者に開放されているのは27窟で、ほかに別途料金の必要な特別窟が13公開されているが、どれを見学するかは案内を担当するガイドがおよそ1時間半を目安に決めるのが当時の見学ルールだった。

 私たちの案内ガイドは、9:15から11:05まで、96窟=9層楼閣、130窟、148窟、158特別窟、61窟、57特別窟、45特別窟、329窟、16・17窟を順に案内した。案内ガイドはくどいように石窟前に設けられた柵の中は撮影禁止と注意していた・・洞窟内はかなり暗く、撮影には光量の強いフラッシュが必要で、入場者が次々フラッシュを点けたら貴重な壁画の劣化が進んでしまいかねない。撮影禁止の趣旨は理解できる。・・となれば見学者は記念+思い出に複製品、絵はがき、写真集、ポスターが欲しくなるから経済効果もありそうだ・・。

 ・・この紀行文を書きながらwebを調べると石窟内の写真が大量に掲載されていた、見学当時のメモでは記憶を掘り起こすのに限界がある、映像は見学当時の興奮を思い出させてくれた、文献、資料の写真も多いようだが詮索はせずに参考にし、転載させて頂いた・・。

96窟=9層楼閣と弥勒大仏=北大仏
  入口から250mほど南に、高さ43mの楼閣が岩山から飛び出してそびえている(写真、柵の外から撮影)。木造架構の鮮やかな朱色が白茶けた色の岩山から浮き出ているので遠くからでも目立つ。正面から見上げると7層しか見えないが、8層、9層は奥まっていて離れれば視認できる。・・平山郁夫画「シルクロード・敦煌石窟9層楼(2007)」では9層分の楼閣が描かれている・・。
 引率ガイドによると、北涼時代(420~)に岩山が堀り始められ、初唐時代(618~)に楼閣と高さ34.5mの本尊・弥勒大仏が完成したそうだ。弥勒大仏は座像で、北大仏とも呼ばれる。

 もともとは、岩山を掘りながら大仏のおおよその輪郭を削り出し、漆喰で造形して彩色したらしいが、その後、泥で補修し顔つき、身体は白色に仕上げていまの大仏が出来上がった(写真、web転載)。荒削りの形に漆喰、泥をかぶせて細かな表現に仕上げる石胎塑像と呼ばれる技法である。鳴沙山の崖を掘った莫高窟では石胎塑像が多く見られる。
 大仏の高さ34.5mは11~12階に相当し、見上げると圧倒する迫力を感じるが、尊顔が上過ぎて顔立ちがはっきりしないが、合掌して表に出る。

130窟 弥勒大仏=南大仏
 96窟・北大仏から300mほど南の130窟に入る。中には高さ29mの弥勒大仏が座していて、またも圧倒された(写真、web転載)。盛唐時代(712~)756年の完成で、北大仏と同様の石胎塑像である。もとは彩色が鮮やかだったのだろうが、顔つき、身体は白っぽい。
 ・・このときは白い顔に何も感じなかったが、後半の石窟の仏画を見学して、仏教がインド伝来であり、河西と西域の交流を考えれば、褐色の顔つきでも不思議ではないと思った・・。
 大仏を顔の大きさは7mもあるそうだ。穏やかな顔を見上げ、合掌する。

 南北の壁には晩唐時代(848~)作の高さ15mの菩薩像、盛唐時代(712~)の供養に向かう行列の図(写真、web転載)、宋時代(960~)の飛天図、天井に宋時代作の蓮の天蓋=華蓋と龍が描かれている。行列図は色も鮮やかで細かなところもで描かれていて、当時のたぶん身分の高い人々の服装がうかがえる。

 時代を超えて仏教が厚く信仰されてきたことがうかがえる。

148窟 釈迦涅槃像
 130窟・南大仏から南に100mほど先の148窟に入る。96窟、130窟の見上げるほど高い石窟とは打って変わって、148窟は高さ6mほどしかなく、奥行き7mほど、幅17mほどの横長の窟である。・・一説には棺の形だそうだ。
 西側奥の岩の台座の上に、ほぼ横長一杯の頭を左=南にした手枕の釈迦涅槃像が安置されている(写真、web転載)。盛唐時代(712~)756年に完成した石胎塑像である。
 釈迦の後には、72人の弟子や菩薩、羅漢など83体の塑像が悲しげな表情で並んでいる。塑像群は後世の修復だそうだ。
 塑像群の背後の南~西~北の壁には長さが23mに及ぶ涅槃教変が描かれている。涅槃経は釈迦が入滅する日に弟子たちに残した教えで、この涅槃教変には60のテーマが取り上げられ、500人以上が登場する大作である。東壁にも薬師教変、観無量寿教変が描かれ、天井には千仏が整然と並んでいる。
 盛唐時代は教変絵画が盛んだったようだ。
 
158特別窟 釈迦涅槃像
 案内ガイドは次の158窟・涅槃像は当時60元≒800円/人の別途有料と言いながら、148窟・釈迦涅槃像から200mほど、130窟・南大仏から50mほど北に戻った上層階の158窟に案内した。
 窟は148窟と類似し、高さ9.5mほど、奥行き7.4mほど、幅17.1mほどで、西側奥に岩の台座が削られていて、頭を左=南にした手枕の釈迦涅槃像が安置されている(写真、web転載)。
 中唐時代だが河西は吐蕃=チベット族支配下(781~)である。吐蕃=チベット族も敬虔なチベット仏教信者だから、中唐以前の石窟+仏像+仏画に倣い、石窟が掘られたようだ。

 涅槃像は15~16mほどで、南には立像、北に跪坐像を安置されている。
 案内ガイドによれば、立像は過去を意味し、釈迦の十大弟子の一人である迦葉カショウのイメージ、釈迦涅槃像が現在で、跪坐像が未来を意味し、同じく弟子の阿難アナンのイメージだそうだ。
 釈迦涅槃像も立像、跪坐像ともに、148窟の涅槃像に比べ、顔はふっくらとし表情は穏やかで、涅槃像は安らかに眠っているように見える。同じ石胎塑像だが、148窟・涅槃像は後世に手を加えられて表現が変化したが、158窟・涅槃像は盛唐の様相を残しているためであろうという説が納得しやすい。

 148窟・涅槃像の背景の涅槃教変は壁画として独立していたが、156窟では壁画の弟子や羅漢、菩薩たちが台座の釈迦涅槃像を囲んで嘆き悲しむ構図になっている。涅槃像の頭側のカショウ、足側のアナンも釈迦の入滅を悲しんでいて、釈迦涅槃像を囲む立像、跪坐像、壁画が一体となって涅槃教変を構成しているのである。148窟に比べ、158窟は涅槃教変の構成がダイナミックに進化している。

 北側の壁画に描かれた人物は褐色の人も描かれ、服装も異なる(写真、web転載)。なかには自分の身体を傷つけて悲しむ様子も描かれている。吐蕃=チベット族支配だったため西アジアの人種、民族、風習まで視野が広まったこともあろうが、仏教伝来のインド、西域との交流を考えれば、河西では人種にこだわりが無かったのではないだろうか。
  続く(2020.9)

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