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2018.4 八条宮初代智仁親王の古書院+2代智忠親王の中書院+3代隠仁親王の新御殿の雁行形は優雅

2018年09月11日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 2日目 ⑨桂離宮/古書院 中書院 新御殿 月見台
 笑意軒見学後、船着場の横を通って広場に向かう。目の前に書院群が出迎えている。私のカメラでは最大の広角にしても全景が入らないので新御殿中書院を撮った(上写真・南外観、下写真はweb転載古書院・東外観)。
 web転載下写真が初代智仁親王(1579-1629)の建てた古書院、私の写真の右が第2代智忠親王(1619-1662)が桂山荘を復興したときに増築した中書院、左が第3代隠仁親王(1643-1665)が増築した新御殿である。
 古書院は入母屋屋根を東に向け、中書院と新御殿は入母屋屋根を南に向けている。

 書院前の広場は蹴鞠や弓場に使われたようでかなり広い。中書院も池に面して、古書院に並んで建てることもできる。入母屋屋根を直交させてL字型にして並べれば、構造に無理は無い。
 しかし、建物が大きくなりすぎる。中書院をつくるとき、智忠親王は急逝した父・智仁親王のデザインを壊さず、さらには智仁親王に遠慮して、中書院を南にずらし、棟を直交させたのではないだろうか。

 新御殿をつくるとき、中書院を中に挟んで古書院と対称的に並べ、入母屋屋根を東に向けてコの字型に配置する方法もある。構造に無理が無いし、小さなスケール感を維持できる。
 しかし、それでは中書院が中に隠れ、新御殿が古書院と並び立ってしまう。養子の隠仁親王は義祖父・智仁親王、急逝した義父・智忠親王に遠慮して、新御殿を中書院の奥にずらしたのではないだろうか。

 新御殿を中書院の西に建てる方法もある。構造に無理は無いが、新御殿が中書院に隠れ、父・後水尾天皇の行幸にはふさわしくない。
 新御殿を中書院の南に建て、入母屋屋根を東に向けた構造にすると、中書院の入母屋屋根は無くなってしまう。
 古書院+中書院の優美な形をさらに高めるには、新御殿を中書院の南に、中書院とは半分ほどずらして配置し、南向きの入母屋屋根とするのがよさそうである。
 中書院と新御殿の南向き入母屋屋根がズレながら併走し、流れるような形になる。この場合、中書院と新御殿の屋根の取り合いが難しい。そこで、中書院と新御殿のあいだに小作りで寄棟屋根の楽器の間を挟み込んだ。
 智忠親王の父への気遣い、隠仁親王の義祖父、義父、実父への気遣いが書院群を雁行形とし、穏やかなデザインになったと思える。

 私の勝手な想像だが、隠仁親王は新書院と古書院が半分ずれて連続した形に優雅の芽を感じ、新御殿をさらにずらして雁行形に仕立てたのではないだろうか。
 新御殿と新書院が入母屋屋根を併走させながら古書院から伸び出す雁行形が優雅さをつくり出していることは間違いない。

 ナチスからマークされていたブルーノ・タウト(1880-1938)は亡命先を探していて、1933年に来日した(日本に3年半滞在したが日独関係が親密になったため日本亡命はかなわず、トルコに亡命した)。
 来日早々、桂離宮を訪れ、その後も何度か訪ねている。三代にわたって増築された雁行形の書院にも感動したに違いない。真の日本文化に出会ったと書き残しているそうだ。
 3年半のあいだ、各地の伝統建築を見て回り、「日本美の再発見」ほか多数の本を著している。日本美の再発見はずいぶん前にじっくり読んだ。
 随所に、単純にして優雅な日本美について言及している・・鴨居が低く何度も頭をぶつけたとか、トイレの臭いが追いかけてくるとかも書き残しているが・・。


 古書院には月見台が設けられている(写真、web転載、参観者は外観しか見学できない)。桂離宮全体に月を愛でる仕掛けが作られている。
 月のみならず、春夏秋冬の移ろいを感じる仕掛けも入念に仕掛けられている。山、川、谷、海、大自然、各地の名園を連想させる仕掛けも巧みに配置されている。
 ブルーノ・タウトは桂離宮で美を感じる研ぎ澄まされた感性に共感したのだと思うが、25名がぞろぞろ歩く参観では美を感じる感性がなかなか作動しない。不完全燃焼を感じながら書院をあとにする。

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