6/24(水)梅雨の中休みの今日、九州オルレ武雄コースを歩きました。このコース日本で最初にオルレコースとして認定されたそうです。
車を武雄温泉駅の駐車場に置き、オルレスタートします。
9:50 武雄温泉駅スタート。もう気温も30度を超えているのか暑いです。
最初のカンセは、白岩運動公園です。ここから緩やかな上りになります。
矢ノ浦古墳は、武雄地方で最初に確認された前方後円墳で、白岩運動公園トリムコース内、白岩山の東尾根(標高45m)上に築かれています。墳丘は全長37m、後円部径17m、前方部の幅15m、
長さ20m、高さ2.7mで、前方部が低いやや古式の形態をしています。葺石や埴輪・周溝等の外部施設は確認されていません。遺体を納める内部主体は、後円部中央に2基と後円部南西斜面に
小児用の石蓋盤棺墓1基が確認されています。墳項部の2基は、ともに床面や側壁に粘土を張りめぐらして人頭大の石で覆う粘土槨状の土壙墓です。平面形は隅丸方形で、北側の主体部は長さ4m、
幅0.9mの大きさです。南側の主体部は長さ2.6m、幅0.9mで、床面から変形獣帯鏡と呼ばれる製の青銅鏡が出土しました。
本古墳の築造年代は、5世紀初頭から前半にかけてのものと考えられ、杵島地域の古墳文化の先駆をなすものであり、県下の古墳文化を考えるうえで重要な存在です。(武雄市HPより)
白岩運動公園展望所から下りてくると貴明寺があります。この寺の開基、後藤貴明は、天文3年(1534)大村純明の二男として大村に生まれ12歳の頃、武雄後藤氏の養子となり、
のちに第19代の家督を継いだ人物。この貴明寺には、後藤貴明の木像が安置されています。
貴明寺前の池には、蓮の花が咲き始めていました。
池ノ内湖にやってきました。池ノ内湖は、1625年(寛永2年)に武雄領内の耕地3.1haの灌漑用水として築造された小池であり、また鍋島藩武雄領主の猟場でもあった。
1808年(文化5年)新田開発に伴って堤の嵩上げ工事が行われ、また、戦後も食糧増産や旱魃(かんばつ)による用水確保のために数度の嵩上げや改修が行われ、武雄地域で最大の貯水量を
持つため池で、一級河川六角川の農地156haの水田・畑の灌漑を担っている。(WIKIPEDIAより)
池ノ内湖の周りには、リゾートホテルやペンションなどの宿泊施設、緑の芝生の広がる公園、散策ができるプロムナード、宇宙が学べる宇宙科学館などがあり、一帯が保養村になっています。
また、ホタルの名所としても知られています。
ここで最初の休憩をします。
休憩の後、再スタートします。この池ノ内湖の周りは、散策道になっており、小川には、アジサイが咲いており、歩いていて非常に気持ちがいいです。
このあたりから山岳遊歩道に入ります。杖が置いてあるのでこれを借りての歩行です。
浮橋があります。このところコロナ太りで体重がオーバー気味ですが、渡っても沈みませんでした。川面には浮き草があります。ハート形は、8月ごろ咲く「羊草」かな?
二つ目の浮き橋を渡り、山の中に入っていきます。
先ほどの遊歩道とは違い、急こう配の階段を上っていきます。私が若かったらこんな坂など一気に上れたと思いますが、あれからもう半世紀経っています。ここは、マイペースでゆっくりゆっくり
上ります。山頂近くで「見晴らしコース」「森林浴コース」の分岐点があります。終盤合流するのですが、ここは見晴らしコースを選択しました。
やっとのことで山頂付近に到達しましたが、ここから下りです。下を見ると急勾配で岩がゴロゴロしています。幸いに横にロープが張ってありそれを伝って下ります。
悪戦苦闘の末、やっと下りて広い道に出ました。側道には、野ばら(野茨)が咲いています。この野ばらを見るとすぐ浮かんでくるのが、当時の市川染五郎(現松本白鳳)さんが唄った歌、
「野ばら咲いてる路」です。♬野ばら咲いてる山道を二人で歩いたね~♬ ほかに誰もいませんので大きな声で歌いました(笑)この歌1967年(昭和42)の曲だそうですね。
武雄市街地に入りました。武雄文化会館の所には、鍋島茂義公の銅像が建っています。
武雄の代28代領主鍋島茂義は、23歳の若さで佐賀藩の請役(筆頭家老)に異例の抜擢をされたほどの人物でした。
茂義は、天保年間の初め(1830年頃)、長崎警備を担当した際、オランダ船を見学、西洋の進んだ科学力に深い感銘を受け、蘭学の積極的な導入を開始したとされます。天保3年には、
当時の西洋砲術の第一人者高島秋帆に家臣を入門させ、その後、西洋砲術や戦術の習得、大砲鋳造、種痘の実施、ガラスの製作、写真術の導入、蒸気船製造など様々な分野の事業に
取り組んでいます。
茂義は佐賀藩主鍋島直正の義兄であることから、直正に大きな影響を与え、武雄領の功績は、佐賀本藩の高度な軍事技術・機械技術の先駆けとなったと言えます。(武雄市観光協会HPより)
武雄神社は、『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽
(船の艫)に鎮座し創祀されました。而して天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、
幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、
武雄心命を合祀し北麓に奉遷し武雄宮が創建されたと記されています。(武雄神社HPより)
武雄神社の裏手には、「武雄の大楠」があります。
武雄の大楠は、全国巨木第7位にランクし、樹齢3000年以上で、市の天然記念物に指定されています。樹高30m、幹回り20m、枝張りは東西30m・南北33m。武雄市内最古の神社、
武雄神社の神木となっています。象の足を思わせる根元がごつごつした樹皮に覆われ、その中央が地表近くで口を開けています。広さおよそ12畳の内部には、天神が祀られています。
武雄神社を折り返し、再び武雄文化会館の方に向かいます。文化会館から少し登ったところには、「塚崎の大楠」があります。
武雄の大楠に比べ少し小さいですが、県内第3位の巨木で、樹齢は2000年とも3000年とも言われ、市の天然記念物に指定されています。樹高18m(南側の史枝)、幹回り13.6m、枝張りは東西18m、南北15m。昭和38年に落雷に遭い、残念ながら本幹の9m以上が失われましたが、根回りは38mに及び、かつては壮大な姿を誇っていたと想像されます。
塚崎の大楠から天神崎の信号を左折します。前方に武雄市役所が見えてきます。ここで11,3kmです。
JRの高架橋の下を通りゴールの武雄温泉楼門に向かいます。この辺りは、昔、長崎街道を歩いた時通りました。
14:30 ゴールしました。ゴール後はもちろん武雄温泉に直行です。
温泉で汗を流し、スタート時、武雄温泉駅カイロ邸で予約していた佐賀牛の駅弁を取りに行きます。この駅弁JR九州駅弁コンテストで3年連続グランプリを受賞しました。
駅の観光協会では、今年2/29に行われる予定でしたスイーツオルレ(コロナで中止)の缶バッチをいただきました。
今日(6/24)のGPSです。