熊本の大地が育んだリオ五輪代表の植田と豊川 類稀な個性を磨いた母校に息づく”成長の輪廻”
阿蘇の雄大な山々に囲まれた大地、熊本。
この地を襲った熊本地震は、熊本県・大分県などを中心に九州地方の広い範囲に大きな被害をもたらし、今もなお多くの住民が避難生活を余儀なくされている。
鹿島アントラーズでレギュラーの座をつかんでいる植田直通は、この地で生まれ、育まれた。16日に開催されたJ1リーグ戦の試合後、インタビューに応じた植田は、故郷への思いから目を涙で潤ませ、しばらく言葉を発することができなかった。「自分にできるのは、試合で結果を出すことだけ。できることはそれ以外にないが、熊本が元気になるなら何でもやりたい」と声を振り絞った。
また植田と同じく、熊本で生まれ育ち、鹿島でプロキャリアをスタートさせ、今季は期限付き移籍によってファジアーノ岡山でプレーしている豊川雄太もまた、故郷へと思いを馳せている。「(Jリーグで活躍して、)オリンピックのメンバーに入って、熊本出身の人間がそこで頑張っていることを伝えられれば」と、自身が活躍することで熊本に元気を届けたいと、強い決意を語った
1月に開催されたリオ五輪アジア最終予選へと出場し、日本を本大会へと導く活躍を見せた2人が、その個性を磨いた場所。それが、地元・熊本県立大津高校だった。砂ぼこり舞う土のグラウンド奥につるされたボール。何度もシュートを重ねた古びたゴール。そして、“変態”を育てるちょっと変わった指導者。
類稀なる個性を持つ2人の戦士。その原風景を、恩師の言葉とともに振り返る――。
植田と豊川の恩師が口にする「『変態』を育てたい」という言葉
熊本駅から2両編成の列車に乗り、阿蘇の雄大な山々に囲まれた豊後街道を真っすぐに揺られること30分。終点の肥後大津駅へと到着する。駅に降り立ち、駅前広場に停まっていた1台のタクシーに乗車し、5分あまりで目的地にたどり着く。
熊本県立大津高校。これまで数多くのJリーガーを輩出し、インターハイ準優勝1回を誇る全国屈指の強豪は、大自然に囲まれた中にある。この学校で3年間学んだ植田直通と、豊川雄太は、今年1月のAFC・U-23選手権で大きな存在感を放った。植田は6試合中5試合にフル出場を果たして日本の守備を支えた。豊川は負ければ終わりの準々決勝イラン戦で途中出場。延長前半6分に室屋成(FC東京)の右からのクロスを頭で合わせ、決勝弾を叩き込んだ。この活躍の裏には、熊本の大地で育まれた武器が生きていた。大津高サッカー部監督である平岡和徳は常々、こんな言葉を口にしている。
「僕は『変態』を育てたい。ありきたりではなく、形はいびつでも、絶対の自信を持つストロングポイントを持つ選手を育てたい」
平岡監督が口にする「変態」の意味とは?
平岡が指す“変態”とは、「他とは違う特徴を持った選手」のことだ。平岡の目には、植田も、豊川も入学当初から変態に映った。
「今の日本には、一人ひとりの選手がストロングポイントに気付く機会が少ない。ストロングポイントがはっきりしている選手は、一つの個の輝きを持っている。だからこそ、大人もそれを気付かせて、伸ばしていくサポートをしてあげないといけない。植田は初めて見た時、日本にいない規格の選手だと思った。蹴る、飛ぶ、当たる。本当に身体能力がずば抜けていて、きちんと育てれば日本代表クラスになるなと直感しましたね」
小2から始めたテコンドーでは世界大会出場を果たすほどの有名選手だったが、小3から並行して始めたサッカーでは大津高に入学するまでほぼ無名の存在だった。「サッカーの方が楽しかったから」(植田)と、中学からサッカーに打ち込むが、思うような結果は出なかった。その無名の中学時代に『ある伝説』を残している。
「サッカー部は全国中学サッカー大会予選で負けたら陸上部にいったん入るんです。それで練習も何もやっていないのに、三段跳びでいきなり大会に出るように言われた。熊本県の大会に参加して、前日に飛び方を教えてもらって、次の日やってみたら県で2位になった。記録は確か13メートルくらい……。無理やり助走距離を合わせて飛んだらうまく飛べちゃって」
全く未経験の三段跳びで県2位に入ってしまう。恐ろしいまでの身体能力を裏付けるエピソードだ。テコンドーでも、陸上でも、やれば結果が出るが、サッカーだけは違った。チームは県大会にすら出場できず、県選抜には選ばれたが序列は一番下。逆にそれが闘争本能に火をつけ、のめり込むきっかけとなった。「熊本でサッカーをやるなら大津高しかない。ここにチャレンジをしないと、俺の気が済まない。ライバルは多ければ多いほど燃える」と、迷わず願書を出した。推薦入学ではなく一般入試だったが、すぐに平岡の目に留まった。入学時のスポーツテストで、類を見ない数値を叩き出したからだ。
「もう驚きしかなかった。それまでの大津高の最高数値は藤嶋栄介(現ジェフユナイテッド千葉)で、もうこの記録を誰も抜くことはできないだろうと思っていた。でも、植田は立ち幅跳びで2メートル80飛んで、50メートル走も6秒で走った。反復横跳びを70回もこなす。185センチの高さがあるのに、俊敏性と、スピードがある。これはとんでもない奴だと思った」
この“とんでもない”変態の出現に、「もう楽しみしかなかった」と胸を躍らせた。
平岡が見い出した豊川の隠れた“変態”部分
そして同時に、もう一人の変態が入学してきた。谷口彰悟、車屋紳太郎(ともに川崎フロンターレ)を輩出した熊本市立長嶺中からやってきた豊川は、中学の3年間、熊本県選抜のエースストライカーを張るなど、名の知れた選手だった。
「プレーのアベレージは高かった。ボールがあるところにしっかりと顔を出せるし、今も見て分かるように、田舎もんにしては洗練されたプレーができる」
平岡は、この平均的にうまい豊川に変態な部分を見い出した。
「彼はシュートがずば抜けてうまい。それが、彼のストロングポイント。じゃあこれを磨くには、どのエリアで動く量を増やして、どこでイマジネーションを作り上げるのか。バイタルエリアで積極的に動くとか、常に相手が嫌がる動きと、シュートを一番生かせるオフ・ザ・ボールの工夫を繰り返し教えた」
平岡は、この2人を1年の時からAチームで出場させた。豊川も、植田も中学時代のポジションはFWだった。大津でもFWを希望したが、平岡は迷うことなく豊川をトップ下に、植田をセンターバック(CB)にコンバートした。
「豊川には入学後、すぐにセカンドストライカーの動きを教え始めました。人が動いた後のスペースに入っていく動きを徹底することで、シュートを打つ時間が作れる。なおかつギャップをイメージして、そこに入っていけば、ヘディングでも点を取れる。シュートは足だけじゃない。ヘッドも立派なシュート。彼には頭の中身と全身を使って、どんな形でもシュートを打てるプレーを意識させた。植田は持っているポテンシャルをどこで使うかを考えた。もっと言うと、『どこで日本代表にさせようか』と考えていた時、彼の高さ、強さ、速さ、闘争心を生かすならCBしかないと思った」
U-23選手権でのイラン戦の豊川のゴールは、まさに平岡が教え込んだ形であった。植田も空中戦と対人の強さ、闘争本能を惜しげもなく発揮した。まさにこの雄大な自然に囲まれた場所で、彼らの運命は切り開かれていったのだ。
2人をさらに成長させたライバル関係
豊川と植田が紡いだ3年間。それを知るのは、平岡と、豊後街道沿いに位置する大津高の広大な土のグラウンドだ。このグラウンドで、2人は”変態”に磨きをかけた。
「2人とも本当に負けず嫌いだったね」
練習に励む選手たちの姿を見ながら、平岡は懐かしむように語り出した。コンバートされた2人は、よく1対1や、紅白戦でもマッチアップをしていたという。
「最初はね、豊川は植田をちょっとバカにしていた。そりゃそうだよね、中学の時の実績は天と地だったんだから」
しかし、植田がCB転向わずか3カ月でU-16日本代表に選出されると、豊川の意識は大きく変わった。破竹の勢いで頭角を現していく植田に対し、「絶対に負けたくないと思った」と、ライバル心に火がついた。全体練習のない日も、グラウンドには砂ぼこりを上げながらシュート練習をする豊川の姿があった。それに負けじと、植田も貪欲に上を目指し続けた。
「豊川は本当にうまいけど、僕は本当に下手くそだったので、みんなより努力しようと思った。大津高の大先輩の巻誠一郎(現ロアッソ熊本)さんが、高校時代に『ものすごく努力をしたから日本代表としてワールドカップ(W杯)に出られた』という話を監督から聞いて、自分も日本代表を目指そうと思えました」
グラウンド奥には、ひもでつるされたボールがある。その傍らのフェンスには、2006年のドイツW杯でプレーしている巻の写真が大きな幕となって張られ、そこには『進化』と書かれている。
このボールこそ、巻が来る日も来る日もヘディングをし続けた『ヘディングマシン』だ。マシンといっても、ただボールをひもでつるしてある原始的な代物。だが、巻は回を重ねるごとに、ボールの高さを上げ、より高い打点と正確にミートする技術を3年間磨き上げた。平岡が目をかけた“変態”の一人は、不断の努力を重ねた。「利き足は頭」という名言を残し、そのヘッドでW杯戦士となった。偉大な先輩の後を追うように、植田も「僕は誰よりも高く飛びたかった。だからこそ、毎日挑戦する気持ちで飛んでいた」と、このボールで自らの武器を磨いた。
“成長の輪廻”が息吹くこの場所から
着々と成長を続ける植田と、切磋琢磨する豊川。植田は守備の要となり、2011年のU-17W杯ではベスト8を経験。豊川も2年から10番を託され、チームの大黒柱となった。そして卒業後、そろって鹿島に加入し、U-23日本代表でも確かな活躍を見せた。
「人は自分の得意な部分や、武器が磨かれていくと、自信をつけていく。自信は人を育てる上での重要な要素。ストロングポイントをコントロールする過程で、人は探究心を大きくし、苦手なモノも克服しようとする。2人はそれに3年間挑んでくれた」
平岡によってもたらされた“成長の輪廻(りんね)”は、今も続いている。奇麗な天然芝と立派なクラブハウスがある鹿島とは環境こそ違うが、大津高と同じように切磋琢磨する2人の姿がある。今季、豊川は岡山に期限付き移籍しているが、2人の関係が変わることはない。今も大津高のグラウンド奥にあるヘディングマシン。巻の幕の横には、植田の幕が新たに張られていた。そして豊川は五輪予選後、グラウンドに姿を現し、後輩たちにエールを送った。平岡は、真剣なまなざしでこう言った。
「ウチに来る選手たちは可能性を持っている。大人のアプローチ次第で、人は変わっていく。豊川と植田が日の丸をつけると思った人は少ないかもしれない。でも、ストロングポイントを伝え、本人が努力をすれば、必ず日本の役に立つ選手になる」
このグラウンドから巣立った”変態”を見て、後輩たちが刺激を受け、また努力を重ねて新たな”変態”が生まれる。この輪廻が、この場所には息吹いている。それは練習に打ち込む選手たちの目を見ていれば伝わってくるものだった。
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熊本県では今、地震によって深刻な被害を受け、多くの人々が不安と戦いながら日々を過ごしている。復興、そして成長に向けて、これからどれほど長い時間を要するのか、今はまだ分からない。
だからこそ、“成長の輪廻”の息吹く地で生まれ育まれた2人だからこそ、自身のプレーを通して、被災した人々に元気と勇気を届けたいと誓ったのだろう。
サッカーにはチカラがあることを、私たちは知っているはずだ。今こそ、選手だけではなく、Jリーグ、クラブ、そしてファン・サポーターもまたその力を結集し、団結して、前に進んでいくことを願う。
[PROFILE]
植田直通(うえだ・なおみち)
1994年10月24日、熊本県生まれ。中学時代にはテコンドーで日本一になった経験を持ち、大津高時代にFWからDFにコンバートされた。鹿島アントラーズ入団2年目にセンターバックで先発の座をつかみ、15年1月のアジアカップに日本代表の一員として参加した。
豊川雄太(とよかわ・ゆうた)
1994年9月9日、熊本県生まれ。大津高時代にプリンスリーグ九州で得点王に輝いた得点力を買われ、2013 年に鹿島へ入団。U-23アジア選手権では準々決勝イラン戦の延長前半6分に値千金の決勝弾を決めるなど、リオ五輪出場に貢献。今季からJ2岡山に期限付き移籍加入した。
〈サッカーマガジンZONE 2016年4月号より一部加筆修正をして転載〉
【了】
安藤隆人●文 text by Takahito Ando
安藤隆人、ゲッティイメージズ●写真 photo by Takahito Ando, Gettyimages
チンチロリン
植田と豊川を育てた熊本県立大津高校について記すサッカーマガジンZONE誌の安藤氏である。
大津高サッカー部の平岡監督は、「僕は『変態』を育てたい。ありきたりではなく、形はいびつでも、絶対の自信を持つストロングポイントを持つ選手を育てたい」と語る。
平岡監督の言う『変態』とは、「他とは違う特徴を持った選手」とのこと。
その平岡監督に目に留まったとんでもない『変態』が植田だった。
恐るべき身体能力であったことを語る。
また、シュートの巧さが『変態』であった豊川も同様である。
二人の特異性を見極めポジションをコンバートしたのも平岡監督であった。
植田と豊川はこの監督の下、大きく成長した。
そして、更に『変態』を鹿島にて極めることとなるのだ。
今後も成長を続け、故郷に元気を与えていって欲しい。
期待しておる。
チンチロリン