yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

最後の報告書と二つの想い出の条

2008-09-05 19:22:45 | yaasan随想
 最後よければ全てよしなんだけれどね・・・ 

 最後の報告書には一杯想い出が詰まっている!

と書きながら、その具体的中身を書かなかったので、今日はその想い出の一端をご紹介しておこう。

 想い出その一

 上幸さんの現場には3代目のお茶大の女子学生が来てくれていた。その中の一人が以前ご紹介した 千葉県市川市にあるW女子大学の先生になった OYさんだった。

 前回現場で発見された礎石建物については詳しく述べたが、実は、この調査はとても難しい調査だった。現地表下10cmくらいのところで直ぐに長岡京期の遺構面に達するのである。だからそれまで建っていた木造の建物の基礎でさえ、遺構面をかなり破壊していたものと思われるのである。

 礎石建物と言っても長岡京で礎石が残っていた例はほとんどない。わずかに大蔵と推定している施設に自然石の礎石が残っていたくらいである。大半は根石と呼ばれる礎石の基礎固めの石の跡が出てくるだけなのである。

 さらにこの現場では、その後の削平によって、その根石すら多くが失われ、何となくあちこちに塊がありそうに見えるだけなのである。とても検出が難しい遺構であった。そんな現場なので、毎日やることは丁寧に地表面を削ること、出てきた小石も見逃さずに図面に入れていくことだった。厳寒の2月の現場で図面ばかり採ることほど辛いものはない。

 だから彼女たちのやった作業は大半がガリかけと図面書きであった。いろいろなものが出てくるものと期待していた彼女たちはがっかりしたに違いない。そこを何とか、周辺の遺跡を案内したり、その意義を説明したり、興味を抱き続けてもらえるようになだめすかして??(笑)現場に出てもらったのだ。その中で一番喜んだのが、上幸さんのご主人や男子学生だったのではないだろうか(失礼!!もちろん私も楽しかったですよ(笑))。なんと言っても普通は70過ぎたお爺さんしか現場には居ないのに、この時に限って明るい女性の声が現場に響き渡ったからだ。

 そんな彼女たちに柱の跡に立ってもらって遺構の撮影をしたり、現説の手伝いをしてもらったり、長岡京の調査では珍しい明るい現場だった。その中心がOYさんだったのだ。あれから14年経ってようやく報告書が日の目を見ようとしている。

 想い出その二 

 次いで思い出深いのが、勝山中学校の体育館建設の事前調査で発見された長岡京造営時の地鎮祭跡であった。その一つは先にもご紹介したように中学生相手に行った課外授業での一コマであったが、実は最後の最後にとんでもないハプニングが待っていた。

 それこそ今日で現場は終わり!断ち割などに最後のレベルを記入して引き上げようとしていた15時頃、突然雷が鳴り、もの凄い勢いで雨が降り出したのである。あっと言う間にトレンチは水没してしまった。ポンプなど今更手配も出来ない。だからといって翌日からは工事も始まる。
「・・・・」
仕方がない!裸足になり、雨の中を現場に飛び込んだ。手探り?で断ち割のところへスタッフを持っていきレベルを測ること30分ほど。

 そんな無様な姿を当時京都新聞の花形記者!?!○藤□里子さんに撮られてしまったのだ。その後十年会でも度々一緒に食事をする彼女にとってもとても印象深い現場であったらしい。

 まさかこの現場が私の長岡京最後の現場になろうとは思いもしなかった。

 なかなか平凡な人生は送らせてくれませんね 

 この他、市役所の直ぐ横でナーンニモ出なかった現場や、例の後になって遺物の紛失騒動の主人公になった森本町の現場など、想い出?の尽きない報告書となった。