yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

卒業式後の宴の条

2010-03-26 15:31:01 | 三重大学考古学研究室情報
 卒業式がうるさくて退屈だったことは先に記した。

 しかし卒業式の本来の目的は考古学研究室卒業生とのお別れ宴会であるから余り気にはならない。



 この頃の学生は酒が弱いので直ぐに寝てしまう奴が出る。そんなのも叩き起こしてみんなで記念撮影。

 二年生から四年生まで総勢15人の内13人が我が官舎に集まっての恒例大宴会だった。飛び入りで他の研究室の学生四人も集まったので最終的には17人が狭い我が官舎で5時から11時まで食べ、飲み、話した。

 滅多に人気のない我が官舎の部屋だからきっと上下のお部屋の人は驚かれたに違いない。ごめんなさいね。

 実は今年の四年生とは一年生の時からの付き合いだから卒業という時を迎えて私にはそれなりの感慨があった。我が人文学部には一年生対象にオリエンテーションセミナーという学部での学問追究に当たってどの様な方法論があるのか、具体的なテーマを与えられたり、関係する機関を訪れたりしてそのきっかけを作ろうということで、入門的な場を与えるのである。本来なら教官全員がそれぞれどんなことをやるのかを示して学生が選べばいいのだが、これまた相変わらずの「負担」という魔物が出てきて毎年八人の先生がそれぞれの分野を学生に選択させてやるに過ぎない。

 多様な学生をそのニーズに合わせてやるのだから全教官が自分達はどんなことをやっているのか、どんなことをやれば自分の研究に馴染めるのかを示して初めて意味があると思うのだが、これが、そんな、毎年やるのは仕事が増えてイヤだ!というのである。一週間に二コマしかしない教官もいる中(そんな教官に限ってゼミ生0というのもある)、これが半期一つ増えたからといってドンだけ負担やね!!と言いたくなる。それに対して私は負担になってもいいからやらしてと言うと、それは規則違反だからアカンと言う!!なんやねこいつらは?と思うのだが、所詮我々は少数派なのでこの意見が通らないのである。悲しい。



 資料の入った段ボールを机代わりの台にして俄テーブルでの宴会である。食材は昨日京都から持ってきたものを官舎で調理して出した。

たまたまこの四年生が一年生の時は私が担当だったので思いきり考古学のことをやった。するとどうだろう。18人ほど受けていた学生のほとんど15人くらいが歴史と考古に進んだのだ。だから考古も多いが歴史にも沢山の知り合いの学生がいたのだ。そんな学生の卒業だからしんみりするものがあった。

 前回にも記したとおり就職する学生が0という大変な状況ではあるが、ま、そこは慌てることもないかと言うことで、みんな和気藹々と楽しいひとときを過ごすことができた。

 たまたま2年前の卒業生が訪ねてきてくれて、彼女も一緒に宴会に加わることに。食事を作ってくれた我が嫁と共に、「みんないい子だね!感謝しないと!」ということに。

 

 在学生からの花束贈呈



 みんなが書いた寄せ書き贈呈。



 そして私にもみんなからの寄せ書き色紙。なかなか神妙なことが書いてあったが、これから本気になってね。

 途中食材や酒を買い足して結局23時頃に解散。いつもなら朝まで麻雀をしたり、トランプをしたりで何人かは泊まるのだが、今年は平日でもあったため、翌る日に発掘に行く連中もいてやむなくお開きに。結局二年生一人だけがお泊まり。

 とにかく楽しい夜だった。

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2009年度卒業式の条

2010-03-25 12:25:00 | 三重大学考古学研究室情報
 今日3月25日は恒例の卒業式の日である。

 今年の卒業予定者は本来なら10人いるはずなのだが、二人は単位が足らず、3人は就職が決まらないので卒業延期、結局卒業したのは5人となった。もちろんこれでも多いのだが、その中味が大問題。



 2人が久しぶりに我が三重大学の人文科学研究科へ進学してくれたのはいいのだが、残る三人は就職しないという。端から就職活動もしないし、公務員試験を受けるでもない。就職したくないという何とも優雅な方々である。

 ということは就職率0%という最悪の事態となったのである。これまで例のない事態である。いくら世の中不景気とはいえ、一人くらいどっかいってくれればいいのに、これが今時の若者の考え方なのだろうか。それとも私の指導が悪いのか?アー悲しい!!こんなことで将来どうするのか?これでは日本の将来が案じられて仕方がない。とてもまともな大学生活を送らなかった私ですら、そして決して私の時代にも就職状況がよかったわけではないのに、一応就職して正職員として働いた!働かざるを得なかった。父親がいないし、妹はまだ学生だし、そんな状況で働かなかったらなんと言われることやら。

 でも今時の親はそんなことも嘆けないのだろうか?

 そんな中での卒業式に久しぶりに出てみた。
 以前は結構真面目に毎年出ていたのだが、ある時からたまたまこの時期に外国で調査することが多くなり、足が遠のいていた。出てみてびっくり!!何とも騒がしいのである。うるさいのである。なんだかあの成人式の喧噪を想像させるような雰囲気が伝わってくるのである。

 最も驚いたのは各学部の総代が呼ばれたときに出るその学部の学生達の異様な反応であった。

 「エエッツ!!」トカ「ハアッツ』とか何とも言えないため息が漏れ、中には笑いまで出てくるのである。



 みなさんガウンを身につけられて仰々しかったが、中味がこれではね-。興ざめ!!

 各学部の総代がどの様にして選ばれるのかは知らない。かつて私が責任者をしていた頃には2学科で交代交代で総代を出す。その総代は文化学科では名簿の一番と決まっていたのだが、今年はどうもそうではなかったらしい。誰がどの様にして決めたのだろうか。ま、どうでもいいことではあるが、儀式というのはとかくいろんな反応を呼び起こすものだということか?

 一通りの儀式が終わって、学長の挨拶。歴史好きの学長らしく10000年前の氷河期(??)からはじまって、7世紀の日本国の成立等々えらく文化系的な式辞であった。

 これに対する答辞が何とも言えないありきたりのものでとても寂しかった。文化学科の学生らしいのだが、私は名前をよく知らない学生なのでどこかほかの地域で学んだ者なのだろうが、指導した人の影響が強すぎたのか、何か圧力でもあったのか、知らないが、せめてもう少し個性的な答辞が欲しかった!!特に文化学科なんだから(とは言っても最近の文化も平凡な学生が増えすぎだけれどね)。

 特に最後におまけが付いて応援団のパフォーマンスをやるという。もうええ加減にせいよ!!と言う感じでそれは見ずに帰ってきてしまった。だから卒業生との記念写真はこの後我が家での宴会ですることにする。

 これで12回目の卒業式だが、年々つまんなくなっていくのは歳のせいだろうか?せめて我が家での宴会は楽しくやりたいものだ。なんと言っても今朝京都の自宅から予め下ごしらえした食材何トン??何十キロもの重いのを私が運ばされてきたのだからみなさん心して召し上がってね。

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第14回東海例会と大学院入試の条

2010-02-08 02:15:36 | 三重大学考古学研究室情報
 2月6日は標記の行事が重なり大変な一日だった。

 そもそもが例年の大学院の試験はもう少し後に実施されており、開催日の決まっている東海例会とブッキングすることはなかったのだ。ところが、文科省の圧力らしいのだが、大学院定員を厳守しろ、と言うことで、今年から定員をオーバーして採れなくなったのだ。旧帝大などでは定員が充足せず困っていると聞くのに、そちらの未充足は棚に上げて、地方国立大学にのみ圧力をかけて学生の研究意欲を割こうという姑息なやり方には本当にむかつくのだが、国家権力の圧力にはとても弱い現在の大学当局は「ハイ、ハイ」と直ぐに従ってしまうのだ。そのせいで9月入試はなし!、2月入試が早まったというわけだ。

 しかし、例年なら我が研究室の学生は進学希望でも、大抵私の研究分野の者がいないので、よその大学院(京大、名古屋大、奈良女、南山)に放り出すのだが、今年は珍しく4人も古代をテーマに卒論を書き、内二人の卒論がなかなかよく頑張ったので、折角だからもう少し勉強してみないか?と提案すると、進学したい!というのだ。当初はこれで久しぶりに指導できる学生ができて喜んでいたのだが、上記のような事態がその後判明し、困り切っていたのだ。たった4人の定員に同じ専攻の者が二人はいるには相当の成績をあげてもらわなければならない。卒論が終わってホッとする間もなく、直ぐに大学院入試の勉強に取り掛からせた。しかしこの二人はなかなか根性がある。

 「若い女の子が三日もお風呂に入らないのはどうかと思う。」などと言いながら泊まり込んで勉強を続けたのだ。でも流石に最終日には感極まったのか、なみだをながしながらやるもんだから、はやいめにかえったら?と慰める始末。それでも試験当日の朝まで頑張って、流石に風呂に入り身支度をして出てきた。

 その成果が出るか否か、審判結果は10日でないと出ない。後は祈るばかりである。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!アーメン!!」

 さてこのためにとばっちりを食らったのが考古学研究会東海例会。特に病み上がりの三重県埋蔵文化財センターの竹内英昭さんだった。急遽司会を替わってもらう羽目になってしまった。なかなかまとめにくい4人お方方の発表をとてもうまくまとめて頂いた。感謝、感謝!!である。

 それにしても大雪で事前にお出でになると予約なさっていた方も来られなかったというのに、50人もの参加者で一杯だった。討論に参加いただくことはできなかったが、皆さんとても熱心に聞いていただいた。これも感謝である。東海例会が着実に根付いてきた証拠であろうか。

 その後6時から懇親会。いつものパセオの心のこもったとても美味しい料理を頂き、二時間、ばっちり大いに飲んだくれた。さらに、当日泊まられる方がいらっしゃったので、お誘いして、超グルメで有名な三重県のHHさん行きつけの大門の「くじらせんもんのお店」に繰り出し、日本酒をしこたま飲んだ。

 どうもその辺りから記憶が定かでないのである。お店を出て、皆さんと別れて歩いて帰る途中でローソンに寄り、ビールとおつまみを買い、帰って直ぐにお風呂に入ったはずなのだ。お風呂上がりにビールを1本空け、2本目を開けたところまでは覚えているのだが、どうもそのまま炬燵の中で寝入ってしまったらしいのだ。朝方付けっぱなしのテレビの音で眼を覚ますのだが、頭が痛く、また寝てしまい、ようやく10時に目覚めて急いで近鉄を予約し京都に帰ってきた。寝不足のせいか今日は一日中ボーッツとしていた。

 さて次回第15回の東海例会は8月1日(日)に静岡大学で開催することになった。

 テーマは、

「東海地方における古墳出現期の諸相-辻畑古墳出現の背景を考える-」

の予定です。この日の日程を空けておいて下さいね。

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菰野町の講演会を大急ぎで終えて名古屋で結婚式の条

2010-02-01 21:30:17 | 三重大学考古学研究室情報

 主役!!余りに可愛すぎるので横からぼかした写真しかお見せできません!悪しからず。

 味噌の国のガバリ族酋長結婚おめでとう!!

 実は2人の出会いと私と少し関係があるのです。
 三重大学では中国の江蘇大学と学術交流をしています。2人が3年生と院生の時、大学で現地での環境をテーマにした研究発表の募集があったのです。私は彼女にいい機会だから卒論でやる予定の「日本の古代トイレと都の環境」について応募しろ!と申したのです。直ぐに応募したのですが、担当の方で英語能力についてイチャモンがついたのです。
曰く

「大学院相当の英語能力がなければ連れて行かない!」

と。そこで私は怒りに震えて文句を言いに行ったのです。
「それなら大学院生しか募集しなければいいではないか。そんなことどこに書いてあるんだ!環境」がテーマであるといういことしか書いていないではないか。内の学生だけがはねられる理由が不透明だ!本当に英語能力に問題があるというなら、全員集めて模擬発表させればいいではないか!!」
こんな調子だった。どうも何か事前にあったようなのだ。内の学生が予想外に応募していったので予算にでも問題があったのかも知れない。英語でもちらつかせれば引き下がるとでも思われたのだろう。事実彼女は「もう辞めます!」と弱気になっていたのだ。

 そんなこんなで交渉に行くと拍子抜けに、「判りました」という。それ以上ことを荒げても仕方ないので、結果よければ全てよし!と言うことで無事彼女は中国へ一週間ほど旅することができたのだ。

 ナナナント、その時に一緒に行っていた工学部の院生が結婚相手だというのである。人生判らんものである。

だから私が!キューピットなのである!!! 大笑い!!



 彼女の同級生達が全員集まったので記念撮影。



 ところで結婚式に駆けつけるまでが実に大変だったのである。

 1月30日はとても忙しい土曜日だった。
 ほぼ徹夜状態で海外調査の準備と講演会のレジュメの印刷をし、お昼に久留倍遺跡を考える会の方々と今後の活動についての打ち合わせのためにパルミタ美術館へ出かけ、午後二時からは菰野町よもやま歴史教室で講演会、そして少し早く出させてもらって17時からの卒業生の結婚式のために名古屋へ、湯の山線菰野駅発16時の電車に飛び乗った。結婚式はとてもとても華やかで、予想通りとても美しい花嫁さんでうっとり。その余韻を楽しむように参加した同級生達との二次会を名古屋の繁華街で22:30まで一緒して、ギリギリ最終の新幹線にこれまた飛び乗って、京都へ。二次会でも話題になった乗り越ししそうなくらい爆睡していたが何とか京都の手前で目が覚めて、無事帰京。帰って久しぶりのお風呂(エエッツ何日ぶり??内緒!!)にゆっくり入っていたもので、途中で眠たくって水没しそうだった(笑)。

 そんなこんなで昨日の日曜日は昼まで爆睡。その後は例によって、息子の息子に捕まって、いろいろな冒険物語を創作?させられた。もう一日居てもよかったのだが、海外調査の準備がとても複雑怪奇で眼が回りそうなので一日早く津へ戻った。

 さて講演会だが、

「聖武天皇と鈴鹿山脈~大仏建立を支えた鈴鹿の資源~」と題してこんな話しをした。
「天平15(743)年10月15日、聖武天皇は紫香楽宮での大仏造立の詔を発す。翌年11月には紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の「骨柱」を立て準備に取り掛かる。しかしなぜか紫香楽での造立を断念し、天平17年8月、今の東大寺の地で造立を再開する。天平19年には鋳造が開始されるが、仕上げが未完成のまま天平勝宝4(752)年4月9日、大仏開眼供養会が盛大に開催される。聖武太上天皇の病気により早められたという。大仏鍍金に用いられたのが陸奥国の金と伊勢国の水銀であった。銅と錫の合金である大仏は、金と水銀を混ぜ合わせアマルガム状にして表面に塗り、その後熱で水銀を蒸発させて鍍金したという。古代伊勢国の重金属資源の役割について考えたい。」

 もちろん言うまでもなく盧舎那仏鋳造には長門国長登の銅が不可欠であり、それまで全く産出することがなかった金(gold)がなければならなかった。百済王氏敬福によって陸奥国小田郡から金の産出が報告された時には朝廷をあげての大喜びであった。しかし得られた金も水銀がなければ仏像を光らすことができない。そこで手配されたのが縄文人ですら知っていた伊勢の水銀であった。さらに建立にはもう1人伊勢(伊賀?)に立役者がいた。大仏殿を建立した大工・猪名部百世である。彼の手によって、当時全国二位の高さだった大仏殿の建物の建立が可能になったのであった(ちなみに一位は出雲大社の本殿)。脇役ではあるが伊勢の力なくして大仏様は完成しなかったのである。

 これだけならばある程度の聴衆はご存知である可能性がある(事実講演後の質問コーナーでは「先生はいわなかったが、伊勢の水銀は中央構造線の地層から出るものである!」との指摘を受けた。もちろん知ってはいたが敢えて難しい言葉は出さなかっただけなのだが・・・)。そこで少し知られていない地元の情報を!

 それは二年前の学生が卒論で調べる中で知ることとなった治田銅山についてである(2007年4月5日記事参照)。菰野町の直ぐ近く、かつての北勢町にあったのが江戸初期に開発された治田銀山であった。この銀山についてはいなべ市の分布調査で歩くことができ現地に赴いたことがあるが、その折りに気付いたことが「水銀」なのである。
ちょっと歩くと地表面に水銀を含んだ鉱石を拾うことができるのである。
「これだ!!」と手を打った。
以前から勢和村の水銀についてはもちろん知っているのだが、はたしてこの地だけの水銀で、あの膨大な(660貫、約2.5トンとも言われる)もの大仏の水銀がまかなえたのだろうかという疑問である。
 私は鈴鹿山脈の裾沿いに点々と残る「丹」地名は見逃すべきではないと考えているからだ。
 身近なところでは、三重大学の所在する地がかつては「鬼が塩屋」と呼ばれていたのである。「鬼」は間違いなく「小丹」である。なぜか?実はかつて大学の直ぐ南東部の志登茂川の左岸には「小丹神社」が所在していたことが知られているのだ。今は2キロほど西の丘の上にあるのだが、元々は志登茂川の河口部にあったのだ。もちろん神社の位置ほど当てにならないものはないので、「間違いない!」というのは言い過ぎなのだが、
・・・。
 ではなぜ「小丹」と水銀が関係あるのか?
 今でも丹塗りの箸という言葉があるが、「小丹=おに」とはまさにこの丹を指すと考えるのである。ではなぜ志登茂川の河口部に丹と関係する神社が?
 私は、志登茂川の上流部(おそらく鈴鹿山脈の裾野)にかって丹を生産する場があったと推定するのである。この丹が川船で港まで運んでこられ、積み替えられて他国に運ばれた。そんな場=港に水銀の無事を祈って立てられたのが小丹神社ではないかと考えたのである。

 小丹神社をさらに北に進むと猪名部川の支流に「丹生川上」という地名が残り、その地こそ新町と呼ばれた江戸時代に治田鉱山の銀や銅を仕分けし管理した地でもあった。そして「丹生川上」の地を縦断して流れるのが治田鉱山から流れてくる「青川」である。

 「青川」の青は治田鉱山の銅に由来するものと私は思うが、まさに私が水銀を含む鉱石を見たのはこの青川の上流、治田鉱山(後の銅山)から流れ下ってくる川の直ぐ近くだったのである。

 日本の鉱物資源は中央構造線沿いに多く分布するのだが、中央構造線から北に延びる鈴鹿山脈の北端からこうした鉱物資源が大量に出るというのは刮目すべきであろう。ちなみに治田銀山の銀は江戸時代初期の開発当初、徳川家康の孫娘、豊臣秀頼に嫁いだ後、大阪夏の陣で坂崎出羽守に助け出されたと言う逸話もある千姫に化粧料として与えられていたものである。その後銀が生産されなくなると銅に変わり、江戸前半期には大量の生産量を誇っており、幕末まで細々と生産が続けられた。

 千姫に与えられた頃には石見銀山に匹敵する程の生産量を誇った大銀山であるのが治田銀山である。その採掘鉱床はとても長い間歩からなっていることが知られる。
 12世紀の説話集『今昔物語』によれば、伊勢の水銀を採掘するために飯高郡の郡司に徴発された男が仲間と採掘のために10丈余もの坑道に入ったところで落盤にあって閉じ込められたが日頃信心していた地蔵によって助け出される話しがあるが、当時の水銀採掘が水銀床に沿って横へ横へと掘り進むものであったことが判る。治田銅山の銅生産と酷似し、その山に水銀鉱石が分布しているのである。

 大仏の水銀は鈴鹿山脈全体から生産された!
これが私の仮説=妄想なのである。何とか証明するために発掘してみたいのだが・・・。

 治田鉱山も有力な水銀生産地だと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


「長岡京ふしぎ発見~桓武におまかせ~」展好評開催中の条

2010-01-19 21:00:18 | 三重大学考古学研究室情報
 「「長岡京ふしぎ発見~桓武におまかせ~」展
 
 大好評開催中22日金曜日午前中まで!!三重大学講堂へ全員集合!!

 

 10月から進めてきた一年生対象の入門的授業PBLセミナーの展示準備が整い、昨日から三重大学講堂で華々しく???開催する運びとなった!!

 オープンセレモニー?には大学理事の先生方が多数参加頂き、テープカットこそなかったが、無事開催することができた。
 早速伊勢新聞の取材があり、本日の朝刊に大きく?取り上げて頂いた。




 案内している学生の着ている衣装は額田王を想定した真っ赤な古代衣なのだが、残念ながら新聞は白黒でその豪華さは伝わらなかった??残念。

 さてオープン早々大学広報のNCさんが来て下さったお蔭であっという間に大学中枢部に連絡が回り、早速お二人の理事が会場へ足を運んで下さり、えらく感心して頂き、直ぐに大学HPに紹介していただくことになった。

 何と、現在三重大学HPのトップに紹介されているのだが、その制なのか?!先程から大学のHPにアクセスできない(笑)。

 本日は多忙な中,内田学長もわざわざ会場へ足を運んで下さった。何でも学長は若かりし頃長岡京市に一年間ほど住んでおられたとかで、とてもよく長岡京のことをご存知であった。これまた驚きの真実であった。30分以上学生の説明を聞いてたくさんの質問をして頂いた。

 学長、是非素敵な博物館を頼みますよ!!(笑)

 ざっと会場の様子を写真で紹介しておこう。



 会場入口の大看板である!!これを目印に来てね。




 もちろん案内役は章君人形である(嘘!古代衣装に着飾った学生が案内してくれる)



 玄関を入ると直ぐに凛々しい?受付の学生が声をかけてくれる。ちょっとこの時はたまたま他の学生が案内に回っていたので、むさ苦しい中大兄皇子に扮した学生が受付だったが、いつもはこんなんじゃないからね・・・。



 入って直ぐ、受付の前に古代衣装が並んでいる、希望すればこれに着替えて古代人を味わうことができる。



 桓武天皇の肖像画が先ず表れ、展示会の概要を教えてくれる。





 詳細は充実した冊子でゆっくりご見学いただくことにしてその他の催しものコーナーを紹介しておこう。

 超満員?行列のできる展示会となっているらしい???
 あ、そうそう、もちろん入場無料ですよ。





 何処の遊園地にでもある、ありきたりの写真コーナー、でも結構人気なんですよ!

 その他おみくじ、クイズ等々、クイズでは全問正解すると世界に二つとない素晴らしい???!景品が当たります。いろいろ楽しんで頂けるコーナーを用意していますので是非お立ち寄り下さい。

 面白そうだな、行ってみようか、と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

卒業論文が提出されましたの条

2010-01-15 07:06:35 | 三重大学考古学研究室情報
 昨日までの喧噪が嘘のように大学の研究室一帯は静まりかえっている。不夜城のように煌々と輝いていた各部屋の光も消え、不気味な暗闇が広がっている。



 あの大北横穴群が形になりました!!



 これが噂の?石櫃です。

 昨日、1月14日は卒業論文提出日だった。
 昨年までは1月21日と決まっていたのだが、いろいろな人からの意見?苦情!によって、センター試験前の木曜日が提出日と変更されたからである。昨年に比べて一週間も早くなってしまった。

 当初は卒論を出す方に影響が出るかなかなと心配していたのだが、杞憂だった。彼らは初めてのことで、この日と決まっていればその予定で執筆を進めるだけで、余り気にはしていないようなのだ。
 困ったのは教官の方だった!特に今年の様にたくさんの学生がいる私の研究室では、年末から正月にかけてひっきりなしに学生が私の部屋を訪れるようになったのである。従来なら正月に最終追い込みをして正月明けにチェックを受け、提出という段取りだったのである。ところがこのスケジュールになり、年末が原稿のほぼ完成する時期なので、その前の冬休みに下書きのチェックを受けに来る学生が急増したのである。予想通り今年の学生は卒論の追い込みが遅れていたため、年末ぎりぎりまでこのチェックの依頼があり、酷いのになると正月明け早々に泣きついてくる有様であった。

 もちろん流石に正月そのものは勘弁してもらったのだが、正月明けの5日から山口へ研究会に出かけた二日を除いてほぼ毎日、夜討ち朝駆け状態だったのである。(涙!)
 
 疲れた!

 おまけに今年の冬休みはインフルエンザやら、台風の休講やらで2日も補講を科せられたのである。結局私の冬休みは正月三ヶ日だけだった。

 それが昨日の16時が締め切りで、皆さんぎりぎりに駆け込むように提出し、あたふたと机の散乱していた資料を片付けて帰ってしまったのである。もっとも私はこれで万歳!という訳にはいかず、その後大学院の授業を20時過ぎまでやって、やっと開放。余りに疲れたので少しうたた寝をして目を覚ますと、頭書のような静けさになっていたのであった。ま、何とか形だけは間に合ったようなのでよしとすべきであろうか。できばえの方は例年通りというところだろうか、残念ながら全員がいい論文を書いたということにはならなかったが、最悪の事態は避けられそうだ。

 ただし、どうもいずれの皆さんも、文章を書くことが苦手のようで、これもセンター試験のマークシート式試験の弊害であろうか。卒論を書く段になって初めて真面目に本を読むようになった学生も多いのである。三重大学唯一といってもいいくらいの文系の学科の学生がこのザマだから、他の学部や学科は推して知るべしというところである。

 もっともある程度はこのようになることは一年間、彼らが行ってきた卒業論文の中間的発表内容から想像はついていたのだが、開けてみて予想通りだとちょっとがっかりもする。たまには予想を覆す大逆転のいい卒論を見たいものである(かくいう私自身の卒論はこの学生達と全く一緒であったので・・・・)

 そんな中でなかなか面白い成果となったのが「7~9世紀における伊豆地域の火葬ー大北横穴群出土石櫃の考察からー」と「山陽道駅家の機能に関する一考察」であった。両学生共に三年次からこのテーマに沿った演習発表を繰り返し進め、少しずつ充実させてきたものの集大成となった卒論だから読む方も安心して読める。その上、彼らに限って、卒論を準備する前に関係する現地を実際に歩き、その目で確かめている点に共通点がある。要するに真剣に取り組んでいる学生の卒論は、三重大生くらいの能力があればそれなりのレベルにいくのである。

 実は今回は就職の関係で提出を遅らせたが、もう1人の「宝塚古墳の円筒埴輪の再検討」(仮題)を認めた学生もまた同様で、炎天下の埴輪収蔵庫に隠っての力作であった。提出しなかったのは残念だが、このご時世、仕方がない(もちろんそれ以外の学生もこちらの指示に従ってそれなりに現場を歩いてはいるのだが、どうも論理的文章が苦手なようで・・・)。

 いうまでもなく論文を書くには、考古学のようにある空間に置かれた遺跡(遺物)を素材とする学問分野では、遺跡の現地に立ってみることは不可欠である。①徹底した資料の収集をした上で、できるだけ多くの資料を実見し、②対象資料の検出状況を現地に立って体感し、③なぜ人はこの地で暮らし、埋葬されたのかなど、書籍では感じ取ることのできない遺跡の風景を脳裡に焼き付けること、これが発想の形成や転換に大いに役立つのである。



 石櫃に納められた火葬骨

 大北横穴群には私も現地に行ってみた(友人には温泉にも入らずにビジネスホテルに泊まるなんて信じられん!!と言われた(笑))が、あの限られた空間に突然出現する石櫃には本当に驚かされる。卒論では丁寧に石櫃の出現から石櫃を用いない火葬骨の埋葬までの変遷を追い、それまでの横穴に土葬していた地域社会が一変する様を見事に描き出している。残念なのは、分析が伊豆半島に限られている(もちろん、伊豆半島のこの地域が極めて異常なのだが)ため全国的な火葬の普及(普及しないことも含めて)との比較ができなかったためにその特異性が地域の個性のようになってしまった点であるが、その点は本人も大いに自覚していて、できれば大学院に進んでさらに勉強してみたいといっている。とても嬉しいことだ。



 伊豆半島の代表的な横穴群の1つ柏谷横穴群の中から見た光景

 山陽道も学生と一緒に歩いた。播磨、備後」だけではあるが(この地域に発掘調査例が限られている)、遺跡立地の歴史的背景を考えるにはとてもいい経験になった。もう今から10年も前に、安芸国の駅家として唯一調査事例の知られる安芸駅(下岡田遺跡)も丸一日踏査したことがあるので、少しはイメージを持つことができていたのだが、改めて論文を書く立場で歩くといろいろ新しい課題が見付かって来るものだ。



 葦田駅家は川沿いにあって、礎石建ちの巨大な倉庫を伴う。これ何型なんだろう。故高橋美久二さんにこの論文を是非読んでもらいたかった!!

 卒論では、駅家の施設配置と立地との関係から山陽道駅配置のモデルを造り出し、分析を加えたのであるが、その類型の中で最も興味深かったのは駅-津-「伝路」-官衙(国府や郡衙)機能が集中する位置に設けられた駅家の基本構造の指摘であった。山陽道とよく似た位置を通る東海道についてもおそらく同様の配置や構造があるに違いない。今回は学生の地元ということで、山陽道に限ったが、今後進学してさらに研究を進めるというからこれまた心強い次第である。できれば東アジア全体に目を向けて、東アジア世界の交通制度との比較もやってっもらいたいものだ。



 品治駅家はなかなか面白い位置づけの駅だと判定されました!!

 全く新しい方法論の卒論が登場したのも今年の大きな特徴であった。

 GISソフトを使用した鈴鹿関の景観復元と、その成果による関の機能の分析であった。まだまだソフトを使いこなせていない問題があり、十分な解析には至っていないが、あの小難しいソフトをあっという間に習得し、それなりに動かしてここまで到達した技量には感嘆する。これまた、IT世代の申し子というところであろうか。彼らもまたこうしたソフトを使った仕事に就きたいということでしばらく勉強するというから楽しみだ。

 ま、なんだかんだ言っても、少なくとも彼らは論文を一本完成させたわけだから、この間まともに論文も書けていない私に比べれば立派なものだ。この経験を是非活かして社会に、更なる研究に活かせてもらいたい。


 おめでとう!!

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超超超多忙な魔の1ヶ月を乗り越えての条

2009-12-23 00:34:15 | 三重大学考古学研究室情報
 ご無沙汰致しております!


超超多忙でもこんなに元気な章君です。

 やっと11月末から今日までの超超超多忙な毎日から解放されました。先程何の因果か、私に今年課せられた最大の試練!!??官舎の自治会長最後(ホントはもう一回大事な総会が1月7日にあるのだが・・・)の仕事を終えて帰って来たところです。
 そこで久しぶりに溜まりに溜まった話題を一挙掲載!!と行きたいところなのですが、それにはそれ相応の準備が必要なので、まずは楽しい話題の紹介から! 

 ハハ、世の中居るもんですね、絵心の豊かな人類があちこちに。

 ここ三年間続けてやって来たPBL セミナーという授業、テーマは「実践、学芸員」きっと噂が噂を呼んで「山中の授業は一杯宿題やら調べ物があって止めといた方がエエよ!!」(笑)とうとう人文学部文化学科の1年生だけの6人になってしまった授業なのですが、これがまた絶妙の男女6人組が揃ってくれてとても楽しい!!

 こんな仲間となら来年もやってもいいのだけれど、どうもこの頃は大学本部の執行部が、こうした授業の中味をチェックするとか言い出して(別二私はチェックされて恥ずかしいことはやってないし、高く評価されると思うのだけれど・・・)、こういう当局の姿勢が大嫌いで、来年からはこちらからおさらばしてやることにした。

 そんなこんなで10月から始めた授業の成果をいよいよ公開する日がやってきた。

  スーパー章君と共にみる長岡京パネル展開催!



 彼が御案内役の「章君人形」です。(PBLセミナーでは3年間、いろいろな形で一年生を主役に学芸員のための基礎を学ぶために学生主体で展示会をやって来ました。一応今年はその実験的授業の総まとめ、最終章ということで、こんなタイトルの展示会が準備されつつあります。)


 長岡京ふしぎ発見 ~桓武におまかせ~  

 なんだかどこかで聞いたようなコピーなのですが、そこは彼らのセンスをそのまま活かして茶々を入れないことにしました。



 10月からの成果です!!!是非見に来て下さい。

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 展示の基本的な構想は、以前も紹介した一昨年の秋に千葉の歴博で行った企画展「長岡京遷都-桓武と激動の時代-」で用いたパネルです。以前から考えていた企画で、折角いろいろなご無理をお願いして頂いた資料ですから、是非一度公開したいと思って、虎視眈々と狙っていたのです。

 全く未熟な一年生の企画ですから、優しい目で見てやって欲しいのですが、みんなとてもとても熱心でしたよ。特に授業が始まって直ぐの休みには朝から夕方まで、インフルエンザの猛威の長岡京域を丸一日歩いたのです。その成果も展示される予定です。

 さて展示会は、4部構成となっていて、

 第1部が「桓武とゆかいな田村麻呂」と題して桓武天皇治世の二代事業の一つ征夷をテーマにした展示。
 第2部が「ゆかいな人々と呪われた長岡京」と題してとかく噂の多い、長岡京は「呪われている!!?」をテーマにした宗教の世界。
 第3部は「長岡京のゆかいな構造と他の都との比較」などと言うここまで来るとさっぱり何が言いたいのかわからないテーマ。

 要するに「ゆかいな」が共通テーマらしいのだが、本当にゆかいなんだろうか?よう判らん3部なのであります。

 そして第4部が「ゆかいな長岡京跡地」と題して自ら歩いた遺跡の紹介だそうです。ま、騙された!と思ってきて下さい。ただし遺物は一点もありません。パネルだけの展示です。

 古代衣装を身にまとったゆかいな学生が御案内致します。
日時 2010年1月18(月)~22日(金)    10時から17時 場所 三重大学講堂ロビー


あきらくんの独り言

桓武天皇って知ってるかい?
「鳴くよ(七九四)鶯平安京」は知ってるよね。平安京遷都の年号。この平安京を造ったのが桓武天皇。
実は桓武天皇はもう一つ都を造っていたんだ。平安京を造る十年前の延暦三(七八四)年に、平安京と目と鼻の先に長岡京という都を造ったことが記録に残っているんだ。
今から五十年程前まで長岡京は「幻の都」「仮の都」などと言われて、平安京を造る前の仮設的な都だと思われていたんだ。だってちゃんとした都を一つ造るにも十兆円以上かかると言われるているのにそれを二つも造ったとすると、国家財政が麻痺してしまいかねないものね。きっと今の政府なら事業仕分けされて「アウト!!」だと思うよ。
ところが一九五四年に、中山脩一さんという偉い学者が、「自分の生まれ育った地こそ長岡京の跡だ!きっと立派な都が埋もれているに違いない!!」こう信じて、私財をなげうって発掘調査を始めたんだ。以来今日までに三千回を優に超す調査が行われていて、次々と新しい事実が解ってきたんだ。
まず長岡京の大きさは、平安京と同じ東西四キロ、南北五キロもある広大な規模を持っていたことが判ってきた。四万人以上の人が住み、中国の最新の文化を取り入れた新しい社会を造ろうとしたらしいんだ。
じゃ、なぜ、桓武天皇はそこまでして都を造ったのか?その折角造った長岡京をわずか十年で廃止してしまったのか?これが私たちが今回挑戦した「長岡京ふしぎ発見!?~桓武におまかせ?!~」展のテーマなんだ。
今回の展示を企画したのはPBLセミナーA 山中 章「博物館学芸員への道」ゼミの六人のメンバー。いずれも人文学部文化学科の一年生だが、この四ヶ月、長岡京現地も訪れ、二五年前にできた向日市文化資料館も見学し、万全の体制で取り組んできた。使用するのは一昨年、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で行われた企画展示「長岡京遷都―桓武と激動の時代―」で使用されたパネルなんだけど、これにメンバーが新しく造ったパネルも加えて若々しい学生達の趣向で展示を行うことになった。できばえはどうかな?どうぞご堪能下さい。

二〇一〇年一月十八日 
あきらくんこと
人文学部文化学科考古学研究室 山中 章




 スーパー章君登場!!(いずれこれもバックに使わせてもらおうかなと思っています。)これを書いてくれた学生のお母さんはいつも私たちの主催する講演会に参加して下さっているとか、有り難いことです。
 また、今回学生が着る予定の古代衣装は久留倍官衙遺跡を考える会ご所蔵のものです。皆さんも着てみませんか?!

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第2回久留倍まつりと第11回三校交流会の条

2009-11-16 02:03:33 | 三重大学考古学研究室情報
 11月14日は第2回久留倍まつり、15日は第11回三校交流会だった。

 昨年に続き久留倍まつりは午前の部に衣装隊による行列、午後を講演会として準備して来た。ところがあいにく14日は午前中大雨の予報。仕方なく前日に行列は中止と決まった。ただし、折角用意した衣装であるから、雨の日用に確保してあった朝明プラザで衣装のお披露目をすることになった。


 


 何と!その解説を私がする羽目に。

 俄に資料の印刷に罹り、何とか簡単なものを用意したのだが、さらに追い打ちが!!

 時間が余るので何か話をしろ!という。それでなくとも午後の講演会すら種切れ状態なのにそれに加えて絞り出すものはこれ以上ない!!

 どないしょ!!

 悩んでいるうちにどんどん時間が経つ。夜中の3時頃に起き出していろいろスキャンしたり、本を読んだり・・・。

 あっという間に時間が過ぎて、まだ準備ができていないのに、遅刻は許されないので、江戸橋駅まで走って電車に駆け込む。激しい動悸がして気分すら悪くなる中、電車の中では何もできず。とにかく会場のある近鉄富田駅まで到着。さて、タクシーに乗ろうと思って学生にお金を渡そうとしてポケットを触るも何もない!!

 慌てて出てきたもので、研究室の机の上に忘れてきてしまったのだ。もっとも最近は財布にお金を入れることがないので、現金はないのだが・・・。大慌てで鞄の中から予備においてあるお金を出して学生に。

 会場に着くと直ぐに着替えて!と思ったらまだ会場が開かないという。どんどん時間が過ぎていく中、途中で止めてきたプレゼンテーションの作成を急ぐ。しかし、会場の準備も手伝わなければならず、もう頭も身体もてんやわんや。途中で目眩がして、ひょっとして倒れるかも知れないと思い、ソファに腰掛ける。倒れたら倒れた時や!と思いながら大慌てで資料を作り始めると動機も収まって、

 間もなく始めます。

 と言う声と同時に完成。ご来賓の挨拶の間にプレゼンテーションの話しの段取りを頭の中でシュミレーションして、直ぐに開始。


 子どもたちが久留倍遺跡に興味を持ってくれると最高なのだが・・・。


 たくさんの子どもたちが衣装を着てくれただけでなく、新聞に載せてもらったお蔭で市民の方も着て下さった。(雨が降らなかったらいい行列になったのにな・・・、と少し悔しい思いがこみ上げてきたが、こればかりは仕方がない。)



 市民の方の関心も高く!!

 あちこちからお借りした衣装や会員さんの皆さんが作って下さった衣装を一つ一つその意味を含めて紹介して何とか時間を過ごす。

 写真撮影などに時間がいったので一息ついてミニ講演を。「古代の衣服と色彩」というにわか作りのプレゼンテーションで20分ほどお話しをする。25年程前、向日市史を書いた時に作った衣服令の一覧表が大いに役立って、何とか話を終えることができた。特にこの後予定の雅楽の演奏に時間が必要だから早く終われという指示にホッとして、休憩。



 ミニ講演は疲れた!

 そうこうするうちに午後の講演者である早稲田大学他で講師をなさっている古代の渡来系氏族を中心とした氏族研究の第一人者、加藤謙吉さんがお見えになる。雑談をしていると加藤さんを訪ねて次々とお客さんが来られる。加藤さんはこの富田にある三重県有数の進学校・四日市高等学校のご出身なのである。小学校の時の担任の先生やら、同級生のお母さんやら、ご兄妹やら、次々と開会前の控え室に来られるのである。

 故郷に錦を飾るとはこのことかも知れない。

 そして、講演会の開始。私の話は短くして加藤さんにじっくり話していただく。

 「伊勢国の猪名部について」と題した講演である。事前に原稿を頂いていて、それに添って関連史料を丁寧に読みながら、一つ一つの史料をかみ砕くように丁寧にお話しいただいた。内容的にはかなり高度なものなのだが、実に判りやすく、しかし深みのあるお話しをじっくり1時間45分いただいた。
 
 特に、猪名部氏の最初の本拠地は播磨国の猪名川流域であったが、遅くとも5世紀後半までには東海地方(伊勢北部或いは南部)へ到達し、ここで宮殿建築を専門とする大工へと変化しながら定着するという。

 東大寺大仏殿の建設大工として著名な猪名部百世は記録上は「伊賀」の出身となっているが、おそらく伊勢の間違いであろうと解説され、伊勢ならば郡名にその名を残す北伊勢の員弁郡の人であろうという。

 度会郡と員弁郡に定着した猪名部氏(或いは船木氏)は、本来の造船技術を活かして宮殿建築も行う氏族として成長し、大仏殿建設に功をなすまでになるのだという(この内容は『国史跡久留倍官衙遺跡講演会 資料集』として200円で会で販売しているので、是非ご覧頂きたい。お申し込みは私まで。)

 加藤さんのお蔭で、会場に来られた200名余りの皆さんはとても満足した顔でお帰り頂いた。もちろんその後は加藤さんと一杯やって、とても楽しい一時を過ごすことができた。ただし、私は15日にも学生達の毎年行っている「三校交流会」が奈良女子大学であるので、眠たい目をこすりながら最終近い特急で京都へ。よくぞ乗り過ごさなかったことだと思うくらいよく寝たが何とか自宅へ。

 そして日曜日の昼からは奈良へ。前夜あんなに飲まなければ桜井の纒向遺跡の現説に行けたのだが、午前中はほとんどボーッツ!そして奈良女へ。


 紅葉に映える重文指定の奈良女子師範時代の旧校舎


 三重大学・奈良女子大学・京都府立大学の学生が年に一回集まってお互いの研究成果を披露する会である。私が着任して以来だからもう11回になる。昔は何かテーマを決めてそれについてそれぞれの大学が発表したのだが、近年は卒論予稿集の事前発表のような様相を呈している。だから、余り期待していなかったのだが、京都府立大学の学生の発表は後期旧石器を代表する国府型石器の編年に関するものだったが、内容も発表方法も、資料の作り方もとてもよくできていてなかなか興味深いものであった。


 我が研究室代表NAさんも内容はよかったのだが発表の仕方がな・・・・。

 終了後いつもの通り軽いつまみで懇親会が開かれたが、そこで、びっくり!が。

 「私向日市に住んでいるんです」

 「??」

 「瓦をやっています。特に宮都系の瓦を」

この後宴会場で7757だの、7133だのマニアックな瓦の型式番号である数字の話題がしばらく続くことに。とても楽しかった。

 Yさん頑張ってこれからも研究を続けてね。

こうして今週もまた土日が終わってしまった。来週の土日は大宰府である。

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 オバマ大統領にゆっくり再来日してもらって、ヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!


宝塚古墳出土埴輪再検討の条

2009-11-02 23:36:19 | 三重大学考古学研究室情報
 松阪市に所在する宝塚古墳は大型の船形埴輪がほぼ完形で出土したことで全国的にもよく知られる三重県では数少ない大型の前方後円墳である。
 既に正報告書も出版され、出土埴輪についてはおおかたの情報が発信されている。しかし、報告書をよく読んでみると形象埴輪についての分析は多いが、大半を占める円筒埴輪については余り多くの情報は記されていないのが実情である。もっとも、円筒埴輪についてはそもそもが余りできのいい作り方ではなく、担当者の知的欲求を刺激しなかった可能性は高い。



 これは前方部先端部におかれた楯形埴輪の円筒部。これが楯形の一部であることも彼女の資料で確実になった。

 実は前にも記したかもしれないが、今年の四年生は当初10人も所属していた。しかし、元々無理だと判っていたのだが、二人が留年確実となり、一人がいろいろな事情で抜けることになり、今は7人になってしまった。これでも文化学科のゼミ生としては多い方から2番目という盛況ぶりなのである。

 ただしこれには大いなる落ちがある。実は最近就職状況調査なるものが度々回ってくるのだが、私の学生の欄は今のところ誰も就職欄に丸がつかないのである。もちろん不況と言うこともあるのだが、かなり積極的に自らの意志で就職しようとしない学生が大半なのである。

 進学するか、じっくり準備をして、自分のやりたいことをやるという学生ばかりなのである。困ったことなのである。恐らくご父兄にしてみれば、「山中はけしからん!!」とお怒りであるに違いない。



 学生が「この地区の埴輪は胎土が悪くて持つと痛いのです。さらにとても重くて、大きくて、こんなのこの地区にだけあるんです!!」と言ってた代物である。確かに重くて大きい。

 そんな学生の一人、三年生まで合気道に打ち込んでいた女子学生が、4年生になってピタリと辞め、卒論の準備を始めた。一年生の時から知っている学生で、その頃から「埴輪が大好き」という学生であった。ただし、別に学問的に何か興味があるわけではないのである。何となく、人物埴輪とかが「可愛い!」から好きなだけなのである。そこで、ま、折角だから地元にある有名な埴輪でも扱えばちょっとは印象に残る学生時代ということになるのかな、と思い、

 「宝塚古墳でもやってみないか?」と提案してみた。

 「先ず、報告書をじっくり読んで、その中から何か新しい課題でも見つけようか」と具体的な方法を指示してみた。

 

 今回の調査で、埴輪には少量のスサが入れられ、藁のようなもので「ナデ」ているていることが判った。これも現物を見ての収穫であった。

 それから1ヶ月、川西さんの「円筒埴輪総論」だって読んだことのない彼女が円筒埴輪と苦闘しだした。夏休み前になると、自ら購入したという報告書が真っ黒になるくらい読み込み、書き込み、分類した資料が山のように示された。まるで川西論文を読むかのような分析結果が、宝塚一号墳の墳丘や造り出しに用いられた円筒埴輪の分析から示された。もちろん川西さんの説にうまくのらない埴輪も沢山あった。
 「報告書だけでは情報も足りないから、現物を見に行ってあなたの分析結果を再検討しようよ」と提案した。
 夏休みの40度を超す松阪市埋蔵文化財センターの収蔵庫に毎日通った彼女のデーターはさらに詳細に、大量に積み上げられていった。夏休み中ほとんど日本にいなかった私の下にメールで報告が届く。とても興味深いものへとどんどん進んでいた。その結果が10月半ばの演習で報告された。しかし私自身の目で見ないと納得できない点も多々あった。そこで、10月30日に学生と一緒に収蔵庫に出かけ、一緒に埴輪を確認した。

 

 底部にも藁圧痕がたくさん付いている。

 分析通り、調整やタガの断面、胎土や成形技法の共通点もあったが、もう少し丁寧なグルーピングも求められた。ただし、とにかくよく観察し、よく記録に留め、資料化していることに感心した。



 造り出しの正面側には胎土の質のいい、綺麗な円筒埴輪が置かれていたという。
それに比べて先程の奴は大きくてとても胎土が悪い。これまでいろいろ言われてきたことの一部ではあるが、円筒埴輪でこれが証明できれば素晴らしい!!

 松阪市の教育委員会には実は私が三重大へ行って初めの頃に教えた女子学生が一般職で就職していた。彼女の卒論は三重県地方の円筒埴輪を詳細に分析し、その製作集団と古墳築造者との関係を見事にあぶり出したものだった。実は彼女が卒論をやる少し前に宝塚古墳の発掘調査が進んでいた。埴輪に興味を持っていたし、実家が直ぐ近くなので、是非埴輪の整理をやらせてやって欲しい。バイト賃も何もいらないから作業をさせてやって欲しいと、私は何度も頭を下げた。

 しかし、何故か、させてはもらえず、遠く同志社大学から院生が来て整理などを手伝ったらしい。とても残念だった。彼女なら、恐らく、今回の四年生がやった作業の大半はその時にやり終え、報告書に活かすことができたに違いない。悔しかった。

 でもそのやり残した仕事を、今回後輩がやってくれそうな勢いである。今、彼女には、大学院進学を勧めている。そして、宝塚だけではなく、全国の埴輪を徹底的に再分析してくれることを大いに期待している。

 7人は一人として「就職」しないかも知れない。でも、こんな学生が巣立ってくれれば、少しは教師らしい仕事ができたかな、と思いたくなる。

 この前伊豆へ調査に行った学生、春に山陽道を歩いた学生、みんなみんな女子学生だ。今は彼女たちの方がとてもとても熱心で、能力に溢れ、頑張っている。もちろん学問に性差は関係ないのだから、「女子」学生などと言うのはナンセンスなのだが、まだまだ社会の目はそう甘くはない。彼女たちこそこのまだまだ偏見に満ちあふれた社会を打ち破る先兵として頑張って欲しい。

 そんな思いを強くした一日だった。

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 そしてもちろん、 オバマ大統領の11月ヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!<



卒業生の結婚式の条

2009-08-11 00:14:52 | 三重大学考古学研究室情報
真靖君、幸喜子さんお幸せに!!

   

 土曜日には卒業生の結婚式に呼ばれて岐阜まで行ってきました。

 式次第に載った出席者の着席表に新郎(卒業生)のご両親の名前があった。勿論普通ならそれが当たり前なのだが、彼のご両親は5年前に相次いで亡くなられた。それから彼は残された田んぼを一人で耕して頑張ってきた。うちの学生達も稲刈りのシーズンになると手伝い??邪魔!!しに岐阜まで行っていた。

 我が家の一年間の米は実は彼のところから届けられてくる。とても美味しいお米である。

 彼とは今から6年前に中国陝西省の西安から東へ120キロにある商洛という町の東龍山漢墓を共に発掘調査した。西安からの移動の車中で居眠りしている彼を見てしかり飛ばしたり、発掘現場で、ある理由から、もう一つ現場に集中できない彼を一日蟄居させたり、ま、いろいろありました。

 でもとても真面目な彼はサソリも出る、泥棒も襲ってくるかも知れないという過酷な現場で3ヶ月よく頑張ってくれました。感謝感謝!!
 そんな彼の結婚式だからとても思い入れは深かった。



おしあわせに !!
これからは二人で稲刈りするのかな?



もうあれから5年も経ってしまった。
彼も今は岐阜県内の市役所で働いている。少し残念なのは、今は市民課にいて考古学とは無縁なことだ。早く教育委員会に戻してやってね。




内のワル共のパフォーマンス。
みんな彼の先輩連中だ。合宿で同じ釜の飯を食ったせいだろうか、とにかくとても仲がいい。



彼が大学在学中に相次いで亡くなってしまわれた天国にいらっしゃるYのご両親。みんなの思いのこもったこの風船が届くことでしょう。





ソフト部の顧問とかで、とにかく元気で、明るいお連れ合いでした。尻に敷かれること間違いなし。ま、Yにはそれがお似合いかもね。




二次会も20人の大部隊で占拠!!
遠くは和歌山・静岡から、まるでわが研究室の同窓会だった。卒業生が集まって祝福した。卒業以来初めてのゼミ生にも会って、とても嬉しかった。この後実は3次会。これまた15人ほど残って駅前で大騒ぎ。
ひさしぶりにわかがえった!!とても楽しかった。やっぱり合宿生活が必要だよね。



相変わらず元気なN君!
いい先生になったよな、お前も。




二人のホントのケーキカットの日は?・・・!
早くね!!俺が生きている間にしてくれよ。



次はいつ集まれるのかな?噂では2月○日とか・・・。さて、この中の誰でしょうか?そっと教えてくれて嬉しかった。

彼らの未来のためにも、核武装論者を排除し、本当に平和な日本を作りたいものです。その第一歩として、 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

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三重大学人文学部オープンキャンパス勾玉作りの条

2009-08-04 01:28:43 | 三重大学考古学研究室情報
 オープンキャンパス大変だねと御もったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 3日は午後からオープンキャンパスであった。
 この頃は私たちのやる勾玉作りコーナーが人気コーナーとなったために、委員の先生方から熱い依頼のメッセージを頂き、開催することとなった。


(我がゼミ生の書道部学生の手になる看板)

 ところが、いつも使っている整理室の一角がいやらしいことにロビーに変な施設が造られて使うことができなくなった。仕方なく担当の先生に無理をお願いして講堂ロビーを私用できるようにして欲しいと申しあげた。いろいろ御配慮いただいて、実現した。


(いつもなら汗だくで奮闘する生徒さん達だが、それを知ってか知らずか、ゆったりとした空間で快適に作ることができた。)

 準備にはちょっと遠距離をいろいろな物を持ち込まないといけないので、苦労したが、会場はエアコンも効いて快適!!いつもよりゆったりとした空間で落ち着いてやることができた。K先生有り難うございました。

 ところがいざ始めて気付いたのだが、勾玉用の石がいつもと違って異様に厚いのである。

 「???」

いつもの所で買う石なので油断していた。いつもより厚いので切ったり削ったりするのが大変なのである。




(ノコギリで怪我でもしないかとヒヤヒヤしながら見守る)



こんなパネルも3年程前に整備してくれたのでとても効率よく進めることができる。

 今年も延べ100人を超える生徒さん達に大好評の内に進めることができた。準備をしてくれた我がゼミ生他の皆さん、有り難う!!
 来年もここを予約しておこうっと!!


 ところでこのオープンキャンパスなるもの、いろいろ課題はあるそうだ。
 今年は人文学部始まって以来!ナナナント1000人を超える生徒さんが来てくれたのだが、これが手放しでは喜べないのである。

 何故?

 オープンキャンパスに来た学生が受験してくれないのである。ナナナント、人文の受験率は25%以下だという。どうして?といいたくなる。
 まさかオープンキャンパスをやったがために化けの皮がはげてよそへ行くなんということはないと思うのだが、・・・・。今年は特に大金をはたいてトイレも最高級のウオシュレットになったし、エアコンの効く教室は100%だし。外見も業者に依頼して壁の掃除をしてもらう始末。ここまでやって来てくれんかったら一体何やんね?とぼやきたくなる。

 来年の4月には合格祈願の勾玉持ってきてね!!

 それはそうと、1日から始めた四年生との卒論進行具合報告メールのやりとり、なかなか順調で皆さん真面目にメールしてきてくれる。
 特にある学生は具体的に資料を添付してきてその問題点や使う資料の入手方法などを聞いてきてくれる。やりとりがとても具体的なのである。
 勿論、今日も大して進みませんでしたで終わる学生もいるのだが、どちらにしろ最後は自分自身の問題なのだから、ここまで対応を準備してこれ以上のわたしの責任の問いようがないように思うのだが・・・。

 明日はとても大事な遺跡の現地見学。ブログに書けるかどうかはまだ判らないが、いずれ新聞に載ったらご紹介することにしよう。それが済んだらまた津に戻らねばならない。毎日毎日行ったり来たりでくたびれます。
 

 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

86まで後3日、叫び続けよう核兵器廃絶!!
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前期最後の「授業」津高等学校出前授業の条

2009-07-31 08:41:32 | 三重大学考古学研究室情報
 我が校でも出前授業を!とお思いの方は
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 7月31日は2009年度前期の最後の日である。
 金曜日の試験が実施されているのだが、私は三重県立津高等学校へ「出前授業」(高校では大学模擬授業と呼ぶ)に出かける。



 ここのところ毎年のように津高校からは呼ばれて話しをする。夏休み前に、一年生に進学への動機付けを図ろうとする企画らしく、とても熱心に聞いてくれる。特に気持ちいいのが、毎年二年生が先生方の対応をするようになっているらしく、応接室での事前打ち合わせや、お茶の提供など、テキパキと進めてくれる。

 以前、三重県下のある高等学校へやはり「出前授業」へ出かけたところ、企画自体が「業者」に丸投げされていて、説明から対応まで全て業者がやるという学校だった。「業者」自体は訓練されていて、別に悪い対応ではないのだが、所詮余所者である。トイレの場所を聞いても、予定外の機械の確認などをしても場所が判らず右往左往。ところが先生方も委託事業という意識があるのか、全く関心なく、いろいろ質問しても知らん顔!



 なんぼ大学が大学の宣伝も兼ねて(無償で協力して)いるからと言って、それはないやろう!!と腹が立ったことがある。高校側にしてみれば県教委か校長かがやるかってな負担であって、わしゃ知らん!なのかも知れないが、協力している我々はそれなりに真面目にやっているつもりなのだ。大学のためならば、と積極的に手を挙げて出かけているつもりなのである。それが、受け手でこれではなんだか虚しくなる。



 最近はほぼ全員が「出前授業候補授業」をホームページに掲げ、高校からのお呼びを待つというスタイルになり、それなりに定着し、積極的な高等学校では毎年必ず開催するようになってきた。ただ残念なことに、候補授業の半分くらいしか利用がなく、お忙しい先生は一年に何回もお出かけになるが、そうでない先生もいらっしゃる。折角多彩な授業が提供されるようになっているのだから、もったいないのである。



 我々としても高等学校の時からきちんと動機づけされた学生が来ることが一番望ましいのであって、稀に出前授業がきっかけでその分野に進学したと聞くととても嬉しいのである。

 今日のお題は「ローマ時代の地中海世界~ポンペイ・ビブロス・テイールの都市遺跡~」である。勿論、私の専門は日本の古代宮都研究であるが、近年その比較対照として東アジアのみならず、西アジアやヨーロッパの都市遺跡を扱っているので、こんな内容になったのである。
 授業の主旨としては次のような観点から高校生に歴史や考古学に興味を抱いてもらえるような授業にしたいと思っている。
 ・ なぜ日本考古学が地中海なのか
 ・ 比較史の視点を大切に!:世界に視線を及ぼす
 ・ 同時代を比較する中で現在の日本がどの様にしてできてきたのかを考える契機とする:紀元前1000年から紀元後200年 = 弥生時代の日本と世界
 ・ 同機能を比較:港湾都市の施設(都市構造)・立地に見る共通点や相違点
 ・ 歴史を現代社会に活かす



 果たしてどんな反応があるのか、楽しみである。



勿論一番伝えたいことは「平和だからこそ歴史学を学び、その教訓を活かすことができるんだ」ということである。平和の尊さをきちんと伝えようと思っている。

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明日から夏休みである。今年から四年生全員に毎日携帯からその日の卒論状況を報告させることにした。私も彼らに倣って、この夏休みは毎日書くことを義務づけようと思っている。その分少し内容が薄く、短くなるかも知れませんが、どうぞよろしく。 

『 大森俊輔追悼文集 羽化登仙 』 その後の条

2009-07-12 14:02:40 | 三重大学考古学研究室情報
 僕の親友Shiozyがそのブログでこんな記事を載せてくれた。全文をそのまま転載させてもらった。彼こそ、大森俊輔が津和野の三松堂に行くことになった(なるはずだった)そのきっかけを作った人物であった。彼は今、脳梗塞で倒れた「妻のために生きる」と宣言し、献身的な介護生活を送っている。

shiozyの介護生活
 
『博物館学各論前期レポート』 大森俊輔


正直に言って、学芸員をなめていた。

この授業をとるまで、漠然としかしらなかったもので、

倍率がものすごく高いとは聞いていたから、

学芸員になるまでは大変そうだ、としか思っていなく、

いったん学芸員になればいすにでも座ってコーヒーでも飲んで

のほほんとしてりゃいいんだろう、とまで思っていた。

学芸員になれればいいなと思った理由の大部分が、

楽そうだったから、である。

ものすごく失礼な話だ。


しかし、やはり世の中はそんなに甘くはなかったようで、

僕のだめなほうの理想は粉々である。

まさか学芸員にこれほど知られざる仕事があったとは。

普通に博物館に行ってぷらぷらしているだけでは気づきようもなかった。

これでは、時々道で見かける企画展の看板にケチをつける資格もないではないか。

誤算である。


とはいえ、だめなほうの誤算だけではない。うれしい誤算だってある。

つまりそれだけ学芸員というものはやりがいがあるということだ。

いすに座ってコーヒーを飲む毎日なんて五年もすれば飽きてしまうだろう。

早めに分かってよかったというべきか、

だめなほうの理想が粉々でもあまり残念な気がしない。

これはやはり、いいことである。


さて、そんな「やりがいのある」学芸員の仕事であるが、

博物館の管理というものがある、らしい。

常設展の展示物の展示構成、管理、保護、研究というものである。

本当にぶらぶら表からのぞいているだけでは気づかない。

表に展示されているものの何倍もの資料が博物館の裏側に隠されているなんて。

いや、それ以前に、何をどう展示するかを決めているのも学芸員だったなんて。

表に見せていませんでしたが、けっこう何回も驚いていたんです、授業のとき。


博物館にはいろんなコーナーがある。考古学、中世、現代・・・きりがない。

それぞれに専門の学芸員がいるのも、もちろん知らずに育ってきたのです。

とにかく、そのコーナーのレイアウトを考えるのも学芸員の仕事。

それどころか博物館そのものも時にはかんがえていくことがあるとも聞き、

学芸員の責任の大きさに戦慄したりもした。

しつこいようですが、

本当にコーヒーの砂糖の分量に戦々恐々している場合ではないのである。

つまり、学芸員の性格が直接に構成の仕方に出てしまうということで、

専門職でない、一般の人々にも分かりやすく展示しなくてはならない。

展示説明も学芸員の仕事だ。

何を伝えて何を伝えないかを考えていかなくてはならない。

学芸員は、専門職というより、総合職の側面が強い、らしい。


特別展、企画展を取り仕切るのも学芸員だ。

このことすら知らなかったが、だったら誰がやっていたと聞かれても困るのである。

学芸員が企画から何から、すべて考える。

学芸員の研究成果の発表の場であるという。腕が鳴るというものだ。

別の博物館から、モノをかりうけるということもある。

よそのものを、もちろん自分の博物館のものもだが、壊して返すわけにはいかないのだ。


あぁ、なんか知らなかったことばかりを列挙しているようだがそれはしようがないと思う。

ほとんどをこの授業で教わったことだからである。

しかし、学芸員の倍率の高さにだまされたかたちだ。

博物館法には学芸員が必要だと書かれているのになぜこうも需要がないのか。

学芸員になれるということは、並大抵ではないのだ。

皆さん、だてにコーヒーを飲んではいないのである。

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前振りとオチはプロ級である。

この技をもっていれば、どんなレポートも「優」だと思えるほどだ。

技巧以前に、文章に肩の荷を負っていないところがいい。

背伸びせず自然体で語る口調は、20代の若者とは思えない。

むしろ「老成の感」さえある。


山中教授が彼に考古学の後継を望み、

だが意に反して彼は和菓子職人の道を目指した。

もし、私と出会う機会があったとしたら、

私は私の後継、

すなわち「コピーライター」の道を彼に薦めたかもしれない。

授業のレポートを「エッセー風」に書けるのは、天性のものだと思うからだ。


最後に、『博物館学各論前期レポート2』の結びを紹介しておこう。


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まず家から近いところ、それがこの企業博物館、というか美術館を選んだ理由である。

最近車の運転をしていないしちょうどいい距離ではないか、

帰りにケーキでも買って帰ろう、なんて思った。

都合よく学芸員に電話をしていくということも忘れて、

受付嬢に手間をかけさせ、正直お金もなく、要覧も買えなかった。

全く何やってんだか、といいつつも、しっかりとケーキは買っているのである。

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向田邦子のエッセーの匂いがした。 といえば言いすぎだろうか。


大森俊輔22歳。






一度会っておきたかった人である。<合掌>


※ この大森俊輔の二つ(実際は3つのレポート)は三重大学で博物館学の非常勤講師をして下さっているSM博士に提出されたもので、博士の手元に大事に残されていたものを「大森俊輔追悼文集 羽化登仙」に紹介して頂いたものである。博士にも厚く御礼申し上げたい。

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『 大森俊輔追悼文集 羽化登仙 』少し残部があります。ご希望の方は私yaasanまでお申し付け下さい。このコメント欄にお名前・ご住所をお知らせ下さっても構いません。勿論それらは公開しません。

考古学研究会東海例会第13回例会決定!!の条

2009-05-12 04:58:51 | 三重大学考古学研究室情報
超多忙で、ブログを更新できていません。ごめんなさい。
これは最新情報です。是非多数ご参加下さい!! 


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                                  2009,5,11
 考古学研究会東海例会<第13回例会>案内


テーマ「庭園風景と考古学」 


1. 趣 旨
 考古学が直面する課題のひとつに、研究や調査成果を如何に日常的な生活のなかに融合できるかというテーマがある。これまでにも考古学は、発掘調査や史跡整備という行為において、人々の関心を引き寄せながら蓄積してきた実績がある。
東海例会では、これまで例会テーマに「史跡整備」や「風景」を取り上げ、「まちづくり」へと結実できる可能性を模索してきた。今回の例会では、多くの人々に観賞されかつ観光や日常のなかで親しまれている「庭園」を取り上げ、「庭園」の分野に対する近年の考古学の貢献と今後の関与の可能性を探りたい。

2. 日  時   2009年8月1日(土) 12:45~17:45

3. 場  所   名古屋大学 文学研究科237講義室 

4. 報告内容
12:45~13:00   開会と趣旨説明
13:00~13:30  「江馬氏下館跡の庭園遺構と整備」大平愛子(飛騨市教育委員会)
13:30~14:00  「多気北畠氏城館跡と庭園」熊崎 司(津市教育委員会)
14:00~14:30  「大知波峠廃寺跡にみる庭園遺構と山林寺院」
                     後藤健一(湖西市教育委員
14:30~14:45   休憩
14:45~15:30  「庭園研究と考古学」小野健吉(奈良文化財研究所)
15:30~16:15  「浄土庭園 平等院の系譜」溝口正人(名古屋市立大学)
16:15~16:30   休憩
16:30~17:30   座談会    
17:30~17:45   次回案内と閉会
18:00~      懇親会

           問い合わせ先:〒464-8601名古屋市千種区不老町
           名古屋大学大学院文学研究科 考古学研究室
            E-mail: kajiwara@lit.nagoya-u.ac.jp

寒桜 咲いたのメール の条

2008-12-08 13:11:11 | 三重大学考古学研究室情報
 秋萩の 歌剥片と 瓶の宅 (あきはぎの うたはくへんと みかのいへ 


(この山背国分寺の塔跡から南西方向、木津川の向こうに遺跡はある)

 馬場南遺跡のある現在の岡田国神社の裏山はひょっとしたら当時の最有力貴族橘諸兄の邸宅(別荘)のあったところではないかという説もあるらしい。その遺跡から「「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11字が墨で書かれた木簡が出土した。万葉集巻10に収録されている作者不明の歌「秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも」の冒頭部分とみられている。
 あるいはこの邸宅で諸兄や家持が歌を歌い、『萬葉集』の編纂に従事していたと思うととてもワクワクするのだが・・・。

(かつて紫香楽宮とされたこの地は今は甲賀寺ではないかと考えられている。11月2日苅谷俊介さんご一行を案内いたおりに)

 昨日、一昨日と二日間続けて今年の木簡学会だった。
 今年の大会報告は昨年に続き会長である栄原永遠男さんの研究テーマに沿った「歌木簡の総合的研究」であった。
 紫香楽宮の「安積山木簡」の再発見を契機に俄に高まった「万葉木簡」の研究、新たな事例も相次いで見付かりその意義についての熱い研究会であった。特に国文学者のシビアーな研究報告とその内容に関する質疑は久しぶりに緊張感溢れるものであった。ただ少し気になったのは、紫香楽宮や馬場南遺跡で発見された和歌と推定される木簡がこれまでの研究で『萬葉集』の第一期編さん時とされた8世紀中頃に限りなく近い資料であるにもかかわらず、国文の研究者が300年後に写本されて残る資料を基準にして分析する姿であった。

 私なら、後の『萬葉集』に載せられている和歌に限りなく近い歌木簡があれば、そちらこそ、伝わらなかった原『萬葉集』に載せられたものに限りなく近い和歌(和歌の表記方法)だと考えるのだが、どうも彼らは違うようだ。次々と地下から資料の出てくる考古学では、仮説は次々と変遷していく。ところが、ほとんど新たな資料の出てこない上代文学の世界では、定説化した仮説を変えるなんてことは研究者のプライドが許さないらしい。そうかなーーー?!

 安積山 謡うは妹子 宮赤し (あさかやま うたふはいもこ みやあかし)

 そんな国文学者の「解釈」を許すのも、考古学者の責任のような気がする。今回も、木簡を出土した遺跡の調査担当者の報告は少し寂しいものがあったからだ。
 紫香楽宮跡や祢布ヶ森遺跡の報告はとても判りやすく、出土木簡との関係についても積極的に理解しようとの意欲も感じられ、参加者は十分に理解することができたに違いない。しかしそれ以外については少々首をかしげたくなるものがあった。果たして何が伝えたいのか、木簡と遺跡との関係がどの様なものであるのかがさっぱり判らなかったのである。
 中には複雑な事情があるので公表が難しく、説明できないものもあったらしいのだが、それにしてももう少し工夫の余地があったのではないだろうか。
 聞くところによるとある調査については、新聞記者や一部の学者には現地も公開されているとか、ウーン!?と考えさせられてしまう。


 近年地方自治体を初めとする調査主体者の情報隠蔽や恣意的な情報公開が目につく。こんなことで果たして本当の意味での学問研究ができるのだろうか,そんな思いを強くする行為が目につく。日本考古学が停滞している大きな要因がここにもあるように思う。

 かつて頑なに情報公開を拒んできた宮内庁ですら、先の山田博士のブログに紹介されているように(百舌鳥御廟山古墳を見る・・・・の巻)、ここのところかなり積極的に管理する陵墓の調査情報を公開するようになってきた。にもかかわらず、その一方で、ここ半世紀ほど日本の遺跡の発掘調査の大半を担ってきた地方自治体などの公開拒否や選択的公開が目に余るようになってきている。どんな理由があろうとも、税金を使って発掘調査をしている以上、その結果を全面的に公表するのは当然ではないだろうか。特に発掘調査の情報は報告書やネット情報では理解しにくい、現地でなければ確認しにくい情報や資料をたくさん有している。一部の学者にのみ公表して情報を秘匿するというのも実に不公平である。学問というのは平等に資料を公開しその資料を基に多くの研究者が分析して自説を展開するのが原則なのだから!

 もう一つ苦言を呈したいのは、だらだらと弥生時代の遺構や遺物の説明に報告時間を費やす某遺跡の報告者である。もちろん、木簡が出ようが古代の遺跡であろうが、その遺跡がどの様な歴史的背景のもとに成立しているかを説明することはとても大事なことである。とかく木簡の文字のみに注目しがちな研究者に警鐘を鳴らし続けているのはこの学会の大きな特徴でもある。だから、弥生時代を省けとは絶対に言わない。しかし、何の脈絡もなく、だらだらと弥生時代の様子を説明し、突然木簡がここから出ました、墨書土器はこんなにありますと言われても、普通の人間は理解できない。たまたま日本中に著名な遺跡の関連報告なので、参加者は何とか我慢されたのであろうが、一番前に座っていた私等はよほど「もうちょっと古代のことも勉強して報告しろよ!」と怒鳴りたかった(怒鳴らないところが私も歳をとったのかも知れないが(笑))。そんな思いを強くする報告もあった。
 もちろんそうした報告者を選んだのは私も含めたこの会の委員会なのだから大いに反省しなければならないと思った。折角遠方から貴重な時間を割いて、高い会費を払ってきていただいた方々に本当に申し訳なかったとお詫び申し上げたい。初日の和歌木簡の研究報告が素晴らしかっただけにその落差に呆然とした一日でもあった。

 愚痴はこれくらいにして、とてもいい知らせが大会中に舞い込んだ。

 とは言っても、大会中は携帯を切っていたので、何度も電話をくれた本人とは話すことはできなかったんだが・・・・。

 苦節5年、今年三十路を迎える卒業生のN君が関西の某市への就職が決まったのだ。この間、北陸のT県や関西のK市で嘱託職員として頑張っていたのだが、ようやく正職員としての試験に通り採用されたという。

 彼はとても個性的な学生で、1年生の入学式直後からわたしの研究室を訪れ、現場に出ていた学生であった。こう言うとどこが個性的なんだ?と不思議に思われることだろう。本人の名誉のこともあるので相当抑えてご紹介すると、まず第一に研究室に来て直ぐに発した言葉が「先生1000円貸して」だった。「ウン? 何でや」「金ないねん、・・・」経済的に困っていたようなので貸してやった。ところがバイトをし始めても、どうもいろいろ遊びにも行っているようなのに、一向に返しもしなければ状況報告もない。ある時、
 
 「おい、N!! おまえな,金の貸し借りはきちんとせんといかんぞ!俺にとって1000円は別に踏み倒されてもどうという金ではないが、しかし、お前という人間はそういう人間やと思ってしまうぞ。ええんか?」

 もちろん慌てて返しに来た。そんなやりとりがあったからだろうか、彼はよく現状を報告に来た。付きあっている彼女のこと、飼っている猫のこと、弟のこと、お母さんのこと、剣道をやっておられるお父さんのこと等々。とにかく元気だけは人一番いいので研究室を引っ張る人間にもなっていった。卒論は群馬県の三ッ寺遺跡を取り上げて古墳時代の豪族居館を論じた。その資料調査でもエピソードが・・・

 相変わらず金のない彼はバイトの金を切り詰めて群馬へ向かった。ところがお金はどう見ても足りない。そこで、公園の子供が遊ぶコンクリートのトンネルの中で野宿をしていた。朝起きてボーッツとしているとたまたま公園を散歩中の人に話しかけられ、かくかくしかじかと話すと、俺の所へこいという。旅館のご主人だったのである。半額で泊めてもらった上、朝夕の食事も出してもらったとか。卒論は大したことはなかったがそれでも現地まで行こうという努力は評価してやった。

 そして卒業式。

 ナナナント頭を剃り、真ん中にハート型を残し、そこをピンクに染めて出現したのである。みんな唖然!!非難囂々、しかし我関せず。

 そんな彼が大学院へ行くと言うので2年間面倒を見た。そして修了式。運良く??彼の所属している研究科がその年の総代を出す年に。伝統で総代は名簿の順番だ。ろころが、彼より早い名簿の院生が休学中。で、彼に総代の役割が。ご家族中が喜ばれたとか。ついにご両親までもが修了式お出でに!!お父上は北陸の某大学の著名な学者だったのである。さす8がに修了式は真面目な黒のスーツ。頭は完全に刈り、丸坊主。


 その彼にようやく春が!

 私の贈った歌がこれ

 寒桜 咲いたのメール はらはらと 

おめでとう!!しっかり勉強してみんなから褒められる様な調査員になるように!!





(ハイこの中にその1年生の時私の研究室に来た3人が含まれています。やっぱり目的意思,がしっかりしていると違うね。みんなとても立派になりました!!嬉しい!!)