ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「オセロー」について

2023-05-13 19:22:26 | シェイクスピア論
<ヤン・コットのオセロー論>

「オセロー」には王様もお姫様も魔女も出て来ない。
オセローという黒人の将軍と、その白人の妻デスデモーナをめぐる夫婦の物語であり、そのため「家庭劇」とも呼ばれている。
彼らが駆け落ちしたところから、芝居は始まる。
オセローの部下でイアゴーという男が、策略を使って二人の間を裂こうとし、デスデモーナの不貞をオセローに信じ込ませる。
高潔で疑うことを知らないオセローはまんまと騙される。
彼は苦しみ悶えつつ妻を殺してしまうが、直後にすべてが噓で、でっち上げだったことが判明。オセローは自害する。

この作品についても、ヤン・コットと吉田健一が興味深い論を展開しているので紹介したい。
まずはヤン・コットの「オセロー」論から、適宜引用していきます。
ヤン・コットについては、拙文「リア王について Ⅱ」に簡単な紹介を書きましたのでご覧ください。 

① イアゴー
 イアゴーはオセローを憎むが、そもそも彼はあらゆる人間を憎んでいる。 
 彼の憎悪にはどこか打算を離れたところがあることに、批評家たちは早くから気づいていた。
 彼はまず憎み、その後初めて憎悪の理由を考え出すように見える。
 
 彼は悲劇を考え出すだけでは満足せず、それを夢中になって演じ、あらゆる配役を周囲の者みんなに割り当てて自分も出演しなければおさまらない。
 彼は悪魔的な舞台監督というより、マキアヴェリ的舞台監督と言うべきかも知れない。
 彼の行動の動機はあいまいで隠されているが、彼の理性は精密でさえている。
 「人の身体は庭園で、人の意志がその庭師となる」(1幕3場)

 悪魔的なイアゴーというのはロマン派が作り出した虚像である。
 彼は悪魔ではない。リチャード三世と同じように近代的な野心家なのだが・・・経験主義者で空論家を信じない。
 バカな連中は名誉や愛を信じている。だが実際にあるのはエゴイズムと欲望だけだ。
 強い人間は自己の情熱を野心に従わせることができる。
 自己の肉体もまた一つの道具となりうる。
 彼は意志の力を信じている。

 イアゴーは言う。この世は悪党とバカで、つまり、食う連中と食われる連中とでできている。
 人間は獣と同じように交尾し、互いに食い合う。
 弱者を憐れむのは間違いだ。弱者も強者も同じようにいとわしい。
 ただ弱者は強者よりも愚かであるに過ぎない。この世は汚れているのだ。
 オセローは言う。この世は美しく、人間は崇高だ。この世には愛と忠節がある。

 ・・・この嫉妬の悲劇、この裏切られた信頼の悲劇は、結局オセロ―とイアゴ―との間の議論になってしまう。
 議論の中心は、世界がどういうものか、ということだ。
 それは良いのか悪いのか。・・・生と死の間の短い時間の究極の目的は何なのか。
 イアゴーはリチャード三世と同様、破滅する。
 この世は汚れている。イアゴーの言う通りだった。
 そして彼が正しかったという他ならぬそのことが、彼の破滅の裏づけとなった。
 これが第一の逆説である。

残念ながら、ここでコットに対して「待った!」と言わねばならない。
この世が汚れているからイアゴーが破滅するとは、どういうことだろうか。
イアゴーが破滅するのは、彼の妻エミリアが正直な女で、自分が侍女として仕えていた女主人であるデスデモーナを愛していたからではないか。
エミリアのまっすぐな行動からも明らかなように、この世は汚れてはいない。
エミリアは邪悪で冷酷な夫に刺し殺されるが、心は平安だろう。
死を前にして彼女は言う、「こうして私の魂は天国へ、真実を話したのだから」。
決してコットの言うように、この世が汚れているからイアゴーが破滅するのではなく、事態はまったく逆なのだ。
コットの言葉に戻ろう。

 ・・イアゴーは言葉において勝つ・・。
 威厳に富み誇り高く美しいオセロー・・
 「王族の血を引いている」オセロー(1幕2場)。・・おとぎ話や夢や伝説の要素がある。・・異国的なもので固められた世界である。 
 オセローの価値の世界は、彼の詩や言葉と共に崩壊してゆく。
 というのは、この悲劇にはもう一つ別の言葉、別のレトリックがあるからだ。
 それはイアゴーのものだ。
 彼のセリフには・・嫌悪、恐怖、不快感を起こすものが出てくる。
 ・・にかわ、餌、網、毒、浣腸、ピッチ、硫黄、悪疫・・・。
 ・・オセローは次第にイアゴーの言葉をしゃべるようになる。
 彼はイアゴーのもっていた固定観念をすべて引き継ぐ。

② デスデモーナ
 オセローはデスデモーナに魅せられているが、それよりはるかに強く、デスデモーナはオセローに魅せられている。
 彼女はすべてを捨てたのだ。だから彼女は急いでいる。もはや一晩もむなしく過ごす気にはなれない。オセローの後を追ってならサイプラスまででも
 行かねばならない。
 デスデモーナは従順であり、同時に頑固なのだ。・・・
 シェイクスピア劇に登場する女性の中で、彼女は誰にもまして感覚的である。
 彼女はジュリエットやオフィーリアよりも口数が少ない・・・。

 デスデモーナは自らの情熱の犠牲となる。彼女の愛情は彼女にとって不利な材料となる。
 愛が彼女の破滅の原因になるのだ。これが第二の逆説である。
. 
 自然はオセローにとってのみならず、シェイクスピア自身にとっても悪なのである。
 それはちょうど歴史と同じように狂っており残酷である。
 ・・・この腐敗は清められることがない。あがないがないのだ。
 天使はことごとく悪魔に変わってしまうのである。

 オセローはデスデモーナを殺すことによって、道徳の秩序を維持し、愛と信頼とを回復しようとする。
 彼女を殺すことによって、彼女を許しうる状態になる。
 その結果、善悪の決着がつき、世界は平衡のとれた状態に戻るのである。
 彼は必死になって人生の意味を、いやおそらくは世界の意味を、保とうとしている。

 オセローの死は何を救うこともできない。・・・
 デスデモーナは死に、愚かな道化のロダリーゴーも、慎み深いエミリアも死んでしまった。・・・
 誰もが死んでしまう。高貴な人間も悪党も、分別のある人間も狂人も、また、経験主義者も絶対論者も。
 あらゆる選択が悪なのだ。

 シェイクスピアの世界も、地震のあとで平衡を取り戻しはしなかった。
 われわれの世界と同じく、それは統一を失ったままだった。
 シェイクスピアの「オセロー」という劇では、最後には誰もが賭けに負けるのである。

以上、いかにもヤン・コットらしい、陰鬱極まりない論調である。
彼は筆が立つので、うっかりするとその華麗な文章に飲み込まれそうになるので気をつけないといけない。
注意深く読んでいくと、彼の論理の進め方は時に大げさで大雑把で強引、時には妄想チックなところさえあることに気がつく。

ここには引用しなかったが、デスデモーナのことを「貞節ではあるが、どこか蓮っ葉女めいたところがあるに違いない」などと言ったり、
「デスデモーナは性的な意味でオセローのとりこになっている」と決めつけたり、「つい先ごろまで伏し目がちにオセローの物語を聞いていた少女が見せた
官能のほとばしりが、オセローを驚かせ恐れさせたかのようだ」などと言ったり。
あまりにも深読みが過ぎる。
想像力が豊かなのは認めるが、シェイクスピアはそんなこと考えてもいないだろう。
そこまで想像の翼を広げなくても、書かれている文字だけで、十分、この芝居を味わい楽しむことができるはずだ。
彼は、相変わらず自分の言いたいことに話を強引に持っていこうとしている。

次回は、吉田健一の見た「オセロー」を紹介します。














コメント
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