休診日。午後から白金台の台北駐日経済文化代表処公邸へ行き、『八田與一展』~台湾を愛した日本人~を見に行った。きのう古民家みかものスタッフ会議で渡辺さんからチラシを渡されたので行ってみた。
産経新聞社生活情報センターによる八田與一の紹介
「不毛の地を大穀倉地帯に変えた「嘉南(かなん)大しゅうの父」
八田與一氏は、東京帝国大学で土木工学を学び、1910(明治43)年、24歳の時に台湾に赴いた。衛生事業に従事したのち、28歳から水利事業に携わり、その生涯のほとんどを台湾での事業にささげた人物。
中でもほとんど不毛の地と言われた台湾南部の嘉南平野における水利事業は今も語り継がれている。八田技師はこの地において当時アジア最大で世界第三位の規模を誇る烏山頭(うさんとう)ダムと、全長一万6000kmに及ぶ灌漑用の水路網を計画、自ら先頭に立って難工事を遂行し、いずれも10年という歳月をかけて完成させた。この大事業によって潤された嘉南平野15万ヘクタールは台湾でも有数の大穀倉地帯に生まれ変わった。八田技師はこの偉大な水利事業の名前から「嘉南大しゅうの父」と呼ばれている。
その敬意の念は単に事業の功績によるものだけではなく、台湾人も日本人も区別なく接した誠実な人柄によるところも大きい。また八田技師は労働者の生活にも最大限の配慮をし、家族と一緒に住める宿舎を用意し、テニス場をはじめ余暇を楽しむさまざまな施設を造った。
以上
日本ではあまり知られていない人物だが、昨年の5月8日には台湾の馬総統の4年前の公約通り台湾の財政支出で建設した「八田與一記念公園」が開園している。馬総統は開園式の挨拶で「烏山頭ダムのおかげで嘉南平原は台湾の穀倉地帯となった。日本統治時代(1895年~1945年の50年間)に台湾の米の多くは日本へ運ばれたが、台湾の中華民国復帰後、その恩恵は台湾にもたらされている。八田技師は『衆生平等』の強い信念を貫き、台湾人、日本人とも対等に付き合っていた。われわれも台湾に極めて大きな貢献を果たしたこの日本の友人を台湾人と同じように扱うべきなのである」と述べた。
日本人は熱して冷めやすいと言われる。それは恩を受けたことも忘れやすいことに通じるかもしれない。しかし台湾の人たちは違うようだ。地元の農家の方々は八田技師の銅像を造り、今でも毎年5月8日の八田與一氏の命日には有志による追悼活動が行われているとか。氏没後71年目にしてまだ続けているのだ。このように昔受けた恩を永く忘れない国民性だからこそ今回の311大震災の義捐金が台湾だけで200億円(全世界中の義捐金を集めても145億円)にも上るわけである。
今年の11月には平野久美子先生と行く台湾スタディーツアーの第二弾を予定している。その幹事として動き出し始めたところだ。