伊東充隆先生の主催する青空禅フォーラムに久しぶりに顔を出した。これまで四谷の紫山会館であった時にはよく行っていたけど、湾岸地域にサロンを移転されてからは初めての参加だった。7時から始まる会の直前に大きな空と東京湾の夕方の景色をゆっくり見れたのが良かった。
いつものように誘導瞑想を30分ほどしてから、伊東先生のお話を聞く。今日のお題は「ゆとり」と言えようか。
1。閉じたシステムか開いたシステムか
「私たちが自然治癒力を最大限発揮する時に大事なことは『ゆとり』をもつことです。そのために普段からゆとりを持つことを大事にしていく。」
「20世紀の医学は「抗」の医学でした。薬はほとんど抗○○剤、抗××薬と、その原因、現象と戦うことを前提としていた。これに対し、21世紀の医学は、共生の医学と見られている。これは私たちの身体のこと(内部環境)だけでなく、地球環境(外部環境)に対しての考え方も同じです。」
「共生、循環の社会を実現するためには私たちは私たちの本質に気付かないといけない。私たちはこの身体が「閉じている」という概念、いや強い固定観念があります。身体を閉じたシステムとみなす。例えば四角い長方形としましょう。この中であるときガンという固まりが発生する。私たちの身体が閉じていると考えていると、その中で発生したガンは脅威です。これと戦ういしかない、と考える。」
「同じように私たちの心も閉じたシステムとみなすと、心に生じた不安や恐怖、イライラ、悲しみといった感情はこれを消そうとします。そうしないと元の健やかな状態に戻れないという強烈な思い込みがあるから。」
「ところがここで、『私たちの身体も心も閉じたシステムではなく、開いたシステムなのだ』という気付きがあると事態が変わってきます。まず問題だと思っていることと戦わなくてもよいのではないか、と考えるようになり、思考の自由度が増す」
「私たちが身体を閉じたシステムだと考えていると身体に発生したガンと戦わねばならないと考え、問題解決にばかり時間をかけてしまう。」
「確かに肉体には腫瘍があるけれども、それとは別に心に喜びや幸せの種を植え、育てる。もちろん育てたものが無に帰したりして落ち込むこともあろうが、そういうこともあると先読みしておく。そしてある瞬間、1%でもガンより喜びの方が多くなる瞬間が来る。その時、『私はガンだ』という概念よりも『私は幸せだ』と思えるようになり、ガンが出ていったりガンを包含してしまうことも起きる」
「このようなことを起こすには土台として『私たちの肉体は閉じている』と考えないことが必要だ」
2。肉体をどう捉えているか?
「通常、私たちは我々の肉体を固体だと考えている。固体的イメージで自分を見ている。しかし、生理学的な観点から見ると私たちの身体は水の袋だといえる」
→これは僕もそう考えている。私たちの身体、有機生命体はホントにスライムのようなぶよぶよした水の袋だと思える。だって里芋パスタで腹水が取れるのは浸透圧の法則なわけであり、それは私たちのお腹を通して水分が体内から体外へ出ていく現象なんだから。がっちりした他とはまったく隔絶された固体でできているわけではないんだな、私たちの身体は。これは経験しているのでこの先生の話は良く腑に落ちた。
「さらに今度は物理学的視点で身体を観ると私たちの身体を作っている原子というのはほとんどが空間なのだ。ミクロシステムはマクロシステムと相似になっていて、太陽系の太陽、惑星のような関係が原子の世界の原子核と電子、陽子との関係となっている。その原子の世界では物質としての原子核、電子などの質量は空間に比して10万分の一くらだとか。ということは私たちの身体は空間でできているのだと観れるようになるだろう」
「さらに、最先端の量子力学的な視点から観れば『物というものが存在しているのではなくて、回転している何かあるのでそれが物として見えている』だけらしい。となると私たちの身体は100%ただの空間だ、ということになる」
身体に対するイメージ | 精神の状態
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固体的イメージ | 「この身体が自分である」と考えている。
↓ | 「この身体と自分が同化している」
| =物質主義者
液体的イメージ | 「心」「霊」「魂」「スピリット」などなどが
↓ | 自分であると考えている。同化している。
空間的イメージ | ただ、在る。
| 同化するものがなくなってしまう。
3。想念、思考について
「私たちには想念、思考があるので、簡単に自分のことを液体的イメージとか空間的イメージとして捉えることができない、想念、思考が邪魔をしてしまう」
「想念や考え方(思考)はあなたではない。自分のように思えるがこれはあなたではない。ちょっとずつ、この思考、想念を外していくことが大事であり、思考、想念は自分ではないと「気付く、気付いている」ことがとても重要なのだ。この「きづく」ことでスペースができ、ゆとりができる」
第一ステップ
「あ?また過去に囚われているな」とか「あ?また未来に意識を向けて不安を作っているな、今、ここに意識がないな」と気付く。
第二ステップ
それをそのまま気付いていれば良い。なんとかしなくてよい。「あ?また思い癖をやっているな」と気づき、軽く観ていれば良い。それを眉間にしわを寄せて「あ~いかんいかん、こういう心じゃだめだ」とかやっては×。
→心というのはうまくできることもあるし、できないこともある。「心」が自分だと思っていると心をコントロールすることに力を注いでしまい、平穏にはならない。
「私たちの本質は青空の部分であり、雲ではない。心はさまざまな出来事にすぐ反応する。その起きた反応は放っておく。「あ。またやっているな」と気付くとともに、その雲を落としていく。そうすると少しずつ青空が増えていく。「ただ、在る」という状態を少しずつ増やしていく。」
→青空禅フォーラムとは「野外で禅を行う」という意味ではなくて、「私たちの本質は青空である」ということに気付くという意味らしい。(伊東先生に確かめたわけではないんだけど・・・)
その青空にぽっかり浮かんでいる雲、これが心、マインドといったもの。ほとんどの人がこの雲に覆われて青空の部分が無くなっている。この雲をちょっとずつ消していく、それが私たちの道なのだという。
欲望だからさまざまなものがある。「あの雲よりもっときれいになりたい。早く飛んでみたい。大きくなりたい」などなど。
だから「心をきれいにしたい」というのも欲望。悟りたい、というのも執着、欲望なわけだ。
僕がスピ系のことにいろいろ興味を持っていたのは、それらを学んでそれらの知識や体験を誇ることで人に優れたい、人から認められたいという欲求が背景にあったのは否めない。それはこれまでと同じように人と自分を比べていることなんだね。結局それはこの世の物質世界から見えない世界へ土俵を変えただけで、やっていることはそこでも人との競争、比較、エゴの拡大・・・といった、同じことなんだろう。最近スピ系のワークショップなどにはほとんど食指が動かなかったのはそういうことに気付いたということが大きいかもしれない。
今回参加して思ったのは、僕ががん患者さんにしてきたことは、心のスペースを広げることに通じていたのではないか、ということ。肉体ではない、魂が本質です、と語ることは。そして心にスペースができ、視野が広がり、ゆとりがもてるようになることで、自然治癒力が最大限発揮できる、というわけなんだね。
でも、実はその先があって、心、魂が本質ではないんだ、ということをより深く知ったのが今回のフォーラムだった。いや~これから先も学びは深く長いんだね、わくわくしています。
常連さんである「てぃ~だぬえぃり~」さんのブログ。今回も参加されていて、伊東先生の同じ話を別の視点から書かれています。青空禅フォーラムの告知もしていますので、参加されたい方はえぃり~さんのブログから飛んでみてください。
Healing Space Tiida