癌、病気には意味があるのだろうか。これまで渉猟した文献から抜粋してみる。もちろんこれが正解というものではない。長文なので悪しからずご了承願いたい。
『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A』より
Q1.そもそも地上生活の目的とは何でしょうか?
A1.そもそもの目的は、
本来の自分を理解することです。そのためには、物的身体の機能と霊としての資質を存分に発揮することが必要です。物的なことに偏って、霊的存在としての義務をおろそかにするのもいけませんが、霊的なことに偏って物的存在としての義務をおろそかにするのも間違いです。両者のバランスをとり、この世にありながら、この世的人間に堕することのないようにすべきです。
肉体は神の分身である霊の神殿ですから、十分な手入れが必要です。そして成長と進化の過程にある霊は、その肉体を通して、成長と進化のための機会を与えられる必要があります。
この世に生きる目的は、地上を去った霊が次の界層での生活になじめるように、さまざまな体験を積むことです。 そこで、まず地球へやってくるのです。地球はトレーニングセンターです。肉体に宿った霊が、次の次元への装備を提供してくれる教訓を学ぶための学校のようなものです。
そういう理由から、私は改めて申し上げます。あなた方が嫌な体験と思っているものが、最高の薬になっていることがあるのです。本当の自分を見出すのは日向の生活の中ではなく、嵐のような生活の中なのです。雷鳴が鳴り響き、稲光がひらめいている時です。
人間は厳しく磨かれ、清められ、純化されなければなりません。絶頂もどん底も体験しなければなりません。地上生活だからこそ体験できるものを、体験しなくてはいけません。そうした体験によって霊性が強化され、補強され、死の向こうに待ち受ける生活への準備が整うのです。
この世に生きる目的は、霊性を活気づけることです。そのために、地上界の出来事は二面性と二極性を鮮烈に体験するようになっており、そこに地上生活の地上生活たるゆえんがあるのです。たとえば善と善でないものとが同居しています。これは私達の世界にはないことです。高次元の世界には、対照的なものが存在しないのです。
地上生活の目的は、魂がその霊的資質を発揮できるように、様々な体験をするチャンスを与えて、霊性を一段と強化することです。そのために悪もあれば罪もあり、暴力も存在するのです。
地上の全生命の存在目的は、人類をはじめ動物、その他の全生命に宿る神性に火がともされて火種となり、灯火となり、火焔となって燃えさかるように、刺激的体験を得ることです。霊的意識が目覚め、地上にありながら、生命の現象的側面にとどまらず、もっと大切な内的側面をも理解して、その恵みを享受するようになります。
『シルバーバーチの霊訓』より
「あなた方もお一人お一人がミニチュアの大霊すなわち神なのです。その霊はあなた方の努力次第で生長と発達と拡大を続け、成熟して開花する可能性を秘めているのです。どこまで発揮できるかを決定付けるのはあなた自身です。他の誰もあなたに代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。あなたも大霊であることを自覚することです。そうすれば神の王国があなた自身の中にあることに理解がいくはずです。霊力は絶対に裏切りません。」(『シルバーバーチの霊訓9』潮文社)
「地上生活の目的はいたって単純です。本来のあなたである霊的本性を開発、強化して死後に待ち構える次の生活の身支度をすることです。となると、ありとあらゆる人生体験、楽しいことも苦しいことも光も蔭も、有利なことも不利なことも、愛も憎しみも、健康も病気も、その一つ一つがあなたの霊的生長にとって何らかのプラスになるということです。」(『シルバーバーチの霊訓9』潮文社)
「地上への誕生のそもそもの目的は魂が目を覚ますことにあります。もしも魂が目覚めないまま終われば、その一生は無駄に終わったことになります。地上生活が提供してくれる教育の機会が生かされなかったことになります。」
「地上生活の究極の目的は、人間が霊的成長のある段階において、物的現象の世界の裏側に存在する実在に気付くようになり、さまざまな体験を提供することです。」(以上『シルバーバーチの霊訓8』潮文社)
「改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的は各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ち受ける次の段階の生活にふさわしい進化を遂げることです。」
Q.「たとえ生活水準が今より向上したところで不老不死ということは有り得ないのは言うまでもないのですが、もしも完全な生活水準が整ったら150歳までは生きられるのではないかと思うのですが・・・」
A.「肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長、発展、開発の程度です。」
「肉体が地上で永らえる年数を長引かせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えができると肉体が滅びるということでよいのです。ですから寿命というものは忘れることです。
長生きをすること自体は大切ではありません」
「地上生活のいちばん肝心な目的は、霊が地上を去った後の霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身に付けずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。」(以上『シルバーバーチの霊訓10』潮文社)
『大霊界7 神と医』(隈本確、弘文出版)より
霊界においては、浄化の段階の違う神霊同士は決して交流できず、したがって、霊界での霊の向上は、たった一人の孤独な闘いの歳月であるということを、思い出していただきたい。しかも、数多の階層のある霊界で、霊界人たちがそのたった一段階を登るためには、数百年、数千年という歳月を要するのである。
ところが、肉体を持った人間の中に住んでいる魂(生き霊)は、どうであろうか。これらの魂は、人間の肉体というものを媒体として、あらゆる神霊との交流が可能なのである。 魂は、いかなる高級神霊とでも、また、いかなる低級霊とでも、自分(魂)を包んでいる肉体を仲立ちとすれば、自在に交流ができるのだ。それが霊界入り以前、すなわち発生当初の魂のみに与えられた特権である。
さきほど、「人間は、百年足らずの持ち時間の間に、いったい何をすればいいのだろうか」という疑問を提示したのであるが、ここで、その答えを明かそう。 それは、人間が自己の肉体をフルに活用して、でき得る限り高級神霊との交流を持つように努力し、魂を磨くことに他ならない。 人は生前においてさえ神になることができるのである。自己の内に鎮まる魂の存在を、高き神の位にまで磨くことができれば、私達は生前に肉体を持ちながら、高き神霊の持つ位と力とを得ることができるのだ。 それが人間としてこの世に生まれてきたことの意味である。
<私見>
この世に生まれてくる意味は何か?霊界がどういうところかを知ることにより理解できるかもしれない。
<霊界では言葉を必要とせず想念が相手にそのまま伝わるらしい>
私達人間は肉体が使えなくなっても(死んでも)霊として存在する。生きている間経験したことや知識、感情などすべてを携えて向こうでの生活を始める。その際には肉体ではなく幽体という自己を表現する身体を使う。こちらと同じく社会生活を営み他人とコミュニケーションを取る、と言われている。
ただその際にこの世と異なるのはコミュニケーションの媒体が言語ではないらしい。霊界は思ったことが相手にそのまま伝わる世界であり、そのため言葉が必要なくて、地上にいる際には私達は他国語を話す人とはコミュニケーションが取りにくいが、霊界ではそのようなことはなく誰とでも意思、想念のやり取りができるそうだ。 これは自分の思ったことがすべて外部に放射されて他者に知られてしまう、隠し事ができない場所ということであろう。
<自分と同じ考え、価値観の者同士が集まって生活するらしい>
そのようなところでは人々は自然と自分とまったく同じ考え、価値観、嗜好、感情の人たち=霊格が同等の者どうしが集まり生活することになるらしい。なぜなら自分の考えと合わない人といても自分の心が隠し立てができないから、その場をとりつくろうとか丸く治めようということができずまっさらの自分しかだせないところであり、合わない者とは同居ができなくなり、おのずと価値観を共有する者が集まることになると。
霊界は霊格が同等の者どうしがつくる界層(「階層=上下に積み重なっている」ではない。「境界のある」という意)社会であり、その界層が無限の数だけあると言われている。私達すべての霊という存在はバイブレーション=波動の存在であり同じ波動、波長の者同志は共鳴しあってまったく同じ界層を築いて生活するらしい。
であるから地上で夫婦、親子であったとしても意見が合わなかったり反目していたりした者どうしは霊界では決して一緒に暮らすことはない、できない。霊界で共に暮らせるのは愛情に結ばれた者同士、同じ価値観を共有するものどうしと言われている。 この環境はまったくの平和ではないか。自分とまったく同じ感性の人間だけが住んでいる世界。とても快適に違いない。これが争いのない世界、人々の理想とするいわゆる“天国”という場所なのだろう。
<退屈してより魂の向上を求めたくなる>
このような平和な世界には本人が居ようと思えばいくらでも居ることができるだろう。霊界には時間はないというし。魂によっては何百年、何千年と同じ境遇に居る者もいるようだ。しかしたいていの霊はその環境に飽きてくる。平和であるということは魂を鼓舞するような刺激が少ないということだ。私達はすべて霊であるがその存在目的は“魂の向上”だそうだ。そして平和な環境に浸かっているということは魂が向上しないのだ。
魂を向上させるためには自分より優れた者と交わって学んだり、自分より劣った人たちを助けるなどといった行為が望ましい。同じ界層の相手では平和であり魂の鼓舞が難しい。人は困難にあってこそ始めて魂が鼓舞されるのだ。だから自分の界層には同じ霊格の者しか居ないので、それを求めて霊格の高い霊たちがいる界層や、低い霊たちのいる界層に行きたくなる。しかし行くには行けるがそこでは活動ができない、魂の向上が図れないのだ。
<他の界層でも魂の向上は困難である>
例えば自分より崇高な霊の界層へ行ったとしよう。まわりは自分よりはるかに気高い人たちばかりである。自分から見ればとんでもない善人ばかりの世界にいると思って欲しい。そこで人がすごい自己犠牲を払っているのを見て「そこまですることはないんじゃない?自己満足じゃないの?」とあなたが思ったとしよう。するとそのあなたの想念がそのまま、その自己犠牲を払っている人に伝わる。先ほど述べたように霊界ではあなたの心に思ったこと=想念は隠すことができずそのまま全世界に放射されていくからだ。
その崇高な界層ではあなたの霊格が発する、その界層ではまだ未熟とされる想念が相手に届く。相手は当然困惑するだろうし、その相手からの好ましからざる想念があなたに返されて来るだろう。当然良い関係は築けない。あなたの霊格との差が大きければ大きいほどあなたはその霊界の界層社会で生活を営むのは困難となる。
その逆もまた真である。あなたより霊格の劣った人たちを指導しようとそのような界層社会にいったとしよう。あなたからみるとひどい感情を持っていたり乱暴をする者達の中に入っていった時、あなたが「なんてひどい連中なんだ」などと思えばそれが即、相手に伝わってしまう。そこではあなたは爪弾きにされるのではないだろうか?このように霊界では上に行くことも下を訪れることも困難だとされている。それが前述の『大霊界7 神と医』で述べられている最初のパラグラフ「霊界においては、浄化の段階の違う神霊同士は決して交流できず、したがって、霊界での霊の向上は、たった一人の孤独な闘いの歳月であるということを、思い出していただきたい。しかも、数多の階層のある霊界で、霊界人たちがそのたった一段階を登るためには、数百年、数千年という歳月を要するのである」となるのだ。
<魂の向上を図るため“この世”に戻りたくなる>
こうして霊界にいると自分の魂の向上を図るには“この世”に行って“修行”することが最も効果的と痛切に理解できるようになる。この世では霊格の高い者も低い者もたくさんいる。出会うことで学ぶことができる。あの世では決して体験のできない困難、病気、災難、などが体験できる。
この世の真の意味、霊的視点から見たこの世の本当の価値、「霊界では得ることができない、魂の向上が図れるまたとない修行の場」ということが理解できるようになる。そのため多くの魂がこの世に戻ることを切望して生まれる順番を待っているのだ。あなたはそうして何度もこちらに生まれてきている存在なのだ。この世に生まれる前から存在し、この世を離れた後も存在する永遠の魂なのだ。
霊は自分の魂を向上させてくれる最も良い時、環境を選んでこの世に生まれてくる。国を、地域を、両親を選んで生まれてくる。この両親ならば私をこのように育ててくれる、反面教師となってくれそうだとか、19世紀初頭のアメリカに今、生まれれば奴隷解放運動に殉じる姿を見せることで何が重要かを人々に知らせることができる(リンカーン)というように。 この世に生まれて来るのはそういう理由なのだ。決して「親が勝手に生んだから」などと言ってはいけない。「ばちが当たる」とかのレベルの問題ではない。もったいないのだ。真の意味を知れば。ただ飲んで食べて仕事して寝て・・・。そして死んでいく。それではもったいない・・・。
肉体を離れて霊界へ戻ってから自分の守護霊と共に自分の今回の生をゆっくりビデオを見るように回想するという。そして「あぁ、あの場面ではああすれば良かった。あれが今回の生まれてきた課題だったのに。失敗したなぁ」などと。無限に進化の階梯が続く霊界から見ればこの世の地上生活は小学校の過程でしかないと言われている。小学校の課題は「人間とは様々な困難に遭う事で霊性を高め、自分が霊的存在ということに気付いて次の(霊界での)生活に備えること」だそうだ。
これらのことを霊界からの通信は教えてくれる。荒唐無稽の物語と思われるのが普通だろう。私も最初に読んだときにはそうだった。しかし、そこに宗教色がないこと(「うちの宗教に入れ、この信仰を信じないと地獄に堕ちるぞ、ほかはすべて邪教だ」など)、思想を強制しないこと、平和を築く礎になる思想であること、何よりも私の大事な大好きな自然、命の価値を認める言葉、そして語る言葉に謙虚さが滲み出ていることなどから私は全面的に受け入れた。
私もこういうことに気付いたのはこの3年間のことだった。まったく気づくのが遅い。今生でのミッションをやり切れるかとも思う。しかしこれが私のコースだった、これ以外のコースは選べなかった、回り道のようであってもこれが私の向上の最短コースだったことを私は思っている。
半分入ったコップの水を見て「もう半分しかない」と思うか「あと半分も残っている」と思うかは自分次第だ。私にもまだまだやれることはあるだろう。