2019年1月25日(金)
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第31回(2019年第3回)、「新選組のふるさとを訪ねる(日野市)」ウォーキングに参加した。
荒川沖駅7時50分発の電車を待っているところ。
常磐線車内
つくばTX開通後の常磐線は比較的空いている。
時間帯にもよると思うが、朝方参加者全員が楽に座って行けるのは嬉しい。
この日の参加者はこの時点で21名。
10時10分、スタート地点の中央線日野駅に到着。
駅ホームに”新選組のふるさと日野”の横断幕が迎えてくれる。
今年は土方歳三没後150年になるという。
駅構内にも別の横断幕が。
『いやぁ 土方歳三一色だねぇ』
日野駅改札口で、待っていたFJさんと合流。
『お待ちどうさま~っ』
結果この日の参加者は22名となった。
10時18分、日野駅を出発!
”土方歳三没後150年”の横断幕が続く歩道を先ずは宝泉寺へ向かう。
日野駅前の横断歩道を渡り、宝泉寺へ。
宝泉寺は新選組六番隊組長井上源三郎の墓があることで知られている。
10時20分、日野駅から2分ほどで宝泉寺に到着した。
宝泉寺は、山号を如意山と言い、臨済宗建長寺派の禅寺である。
江戸期には寺領7石の御朱印状を拝領したと云われる。
宝泉寺の山門を潜ると正面に観音堂が。
観音堂の本尊は馬頭観世音石像で、俗に「持ち上げ観音」の名で知られている、とのこと。
観音堂手前に菩提達磨像が鎮座している。
禅宗の高僧達磨大師である。
宝泉寺本堂には本尊釈迦如来・脇侍文殊・普賢両菩薩の三尊が安置されている。
本堂の左手奥に新選組六番隊組長だった井上源三郎の墓(顕彰碑)が。
因みに慶応元年三月頃の再編組織では、総長近藤勇、副長土方歳三で、隊は十番隊まであり、一番隊組長は沖田総司だった。
井上源三郎の墓(顕彰碑)前で合掌する女性陣の皆さん。
宝泉寺を後にして次に向かったのは八坂神社だ。
10時33分、八坂神社は旧甲州街道沿いにあった。
入口に門人が奉納した天然理心流の扁額の写真が展示されている。
安政五年(1858)、天然理心流近藤周助の門人であり、佐藤道場で稽古に励んでいた二十五名によって、
八坂神社(当時は午頭天皇社)に奉納。
欅板に大小二本の木刀が架けられている。
井上源三郎・沖田惣次郎(総司)・嶋崎勇(後の近藤勇)の名前も見える。
安政六年入門の土方歳三の名前は、この扁額にはない。
八坂神社の社殿
『なんだか神社らしくない建物だよねっ』
『けっこう新しいんじゃないっ?』
八坂神社に参拝
道路向かい側の建物の右側に日野宿問屋場・高札場跡の碑が見える。
10時44分、日野宿本陣に到着
日野宿本陣は、正保年間(1644-46)に日野宿の名主に取り立てられた下佐藤家の住宅である。
日野宿の本陣は上佐藤家、脇本陣は下佐藤家の屋敷で、両家は交替で日野本郷の名主と
日野宿問屋役を務めていた。
嘉永二年(1849)の大火で本陣・脇本陣とも消失したが、脇本陣は当主佐藤彦五郎により
元治元年(1864)に再建された。
都内に残っている唯一の本陣・脇本陣施設である。
冠木門を潜って中に入ると、
明治天皇行幸の碑が目に入る。
日野宿本陣
瓦葺きの大屋根・入母屋の玄関など本陣建築として建築史的にも価値がある、と云われている。
本陣見学用入口
一人200円(22名分4,400円)を払って中へ。
座敷
新選組の羽織
(記念写真を撮るためのもの)
日野宿の名主を務めていた佐藤彦五郎が以前に住んでいた自宅に天然理心流の道場を開き、
そこに近藤勇・土方歳三・沖田総司らが稽古に訪れていた、そうだ。
ボランティアの方の説明を聞く。
佐藤家と土方家の家系
佐藤彦五郎の母親マサさんは、土方歳三の父の妹である。
また、土方歳三が慕う姉のノブさんは、当主の佐藤彦五郎の妻であるため、
佐藤彦五郎は歳三の従兄弟・義兄にあたるという極めて深い繋がりがある。
ボランティアの方の説明に耳を傾ける。
玄関(式台)
一般人ではない、いわゆるお偉い方をお出迎えする間
かつての上段の間
日野宿本陣には上段の間は残っていない。
上段の間の説明
日野宿の上段の間と次の間は、明治26年(1893)の日野の大火の後、
家屋を類焼した佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先有山家に移築されて今ここにないが、
当初はこの縁先に写真に見られる二間が続いていた、とある。
次の間にあたる座敷
座敷から裏庭を望む。
甲州街道に残る本陣の建物は、ここ日野宿の他に、小原宿と下花咲宿にある。
”ウマさんの甲州街道を歩く”の”駒木野宿から小原宿”および”大月宿から阿弥陀海道宿”にて
両本陣を訪れている。
小原宿本陣平井家(平成28年(2016)9月25日撮影)
信州高島藩・高遠藩・飯田藩の大名や甲府勤番の役人が宿泊した。
花咲宿本陣星野家(平成29年(2017)1月22日撮影)
”しばらくの間見学は休止とさせていただきます”の案内が貼られている。
座敷
こちらの部屋は彦五郎と妻ノブさんの寝室だったと言われる。
二羽の兎の釘隠し
子だくさんを願ってのことだそう。
上段の間には、魔除け・福を招くとしてコウモリの釘隠しを使っているそうだ。
先ほどのボランティアの人は、次のお客さんに説明をしている。
重ねてお礼を言って日野宿本陣を後にした。
日野宿本陣の道路向かい側に日野宿交流館が。
旧甲州街道を進み、川崎街道への分岐点を横断
旧甲州街道と川崎街道分岐点の角に道標がある。
高幡山不動尊道と刻まれている。
川崎街道は高幡不動尊へ通じる道である。
旧甲州街道を進む。
有山家の建物で、日野宿の名主を務めた佐藤彦五郎の4男である彦吉が、
有山家に養子に行って建てた家という。
有山家(屋号「綿十」)前-下町-
左手の石垣付近が有山家です。この写真は、明治26年(1893)の大火の前に撮られたものと思われます。
有山家、中嶋家(屋号「嶋屋」)、古谷家(屋号「油屋」)、土方家(屋号「土屋」)と蔵の連なる
甲州街道沿いの町並が分かる一枚です。
11時17分、日野警察署前を通過
旧甲州街道を進む。
旧甲州街道を進む。
右手に多摩モノレールの甲州街道駅が見える。
反対側は立川方面だ。
都道149号(多摩モノレール通り)を横断して、
多摩モノレール線に沿って都道503号(多摩モノレール通り)を進んでいると、
ちょうど高幡不動方面行きのモノレールが到着するところだった。
11時25分、甲州街道駅を通過
多摩モノレール通りを進む。
中央高速道路下を潜って進む。
多摩モノレール線に沿って進むと、
11時36分、万願寺一里塚があった。
当初の甲州街道は、青柳(国立市)付近から万願寺渡船場で多摩川を渡り、
この万願寺一里塚を経て日野宿に入った。
その後、貞享元年(1684)に、上流の日野渡船場を通る道筋へと改められた。
現存する塚は南側の一基だけで、北側の塚は昭和43年(1868)に取り壊された。
『初期の一里塚が昔のまま残っているんだねぇ』
万願寺一里塚碑には、江戸日本橋より九里(約36Km)とある。
多摩モノレール通りを進む。
多摩モノレール通りを進んで行くと、
前方に多摩モノレール万願寺駅が見えた。
案内地図に従って少し手前の信号を左折して、さらにその少し先を右に折れて進むと、
多摩川に架かる橋へ通じる国道20号(日野バイパス)に行き当たった。
道路反対側には真っ直ぐには進むことが出来ない。
『参考本には真っ直ぐ進めるようになってたんだけどねぇ』
仕方なく多摩モノレール通りまで戻ることに。
多摩モノレール通りまで戻り、国道20号(日野バイパス)を横断して、
直ぐに左方向へ。
左手の道路反対側にはその前を通ってきたスーパー「いなげや」が。
日野バイパスの多摩川手前。
先ほど行き止まりになった場所である。
右に曲がって進む。
次の目的地石田寺(せきでんじ)を目指す。
石田寺一丁目辺りを通過して、
右に曲がると、石田寺が見えた。
12時8分、石田寺に到着。
石田寺の境内に入ると、六地蔵が迎えてくれる。
左から堅固慧菩薩、持地菩薩、法印手菩薩、宝処菩薩、宝掌菩薩、地蔵菩薩と並んでいる。
石田寺のカヤの木
樹高約26m、目通り幹囲4.2m、根元から2.5mの高さから三分岐している。
樹齢は400年以上と推定される。
カヤはイチイ科の常緑高木で雌雄別株であるが、当所のカヤは、雌株である。
枝張りは四方に約5mで、樹勢は極めて良好である。
日野市の天然記念物にも指定されている。
(日野市教育委員会)
カヤの木の傍に土方歳三義豊之碑がある。
この碑は、早くして両親を亡くした歳三の親代わりでもあり、家督を継いだ兄喜六の曾孫にあたる
土方康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立したもの、とのこと。
土方歳三義豊之碑の横に土方歳三の墓を指している石碑が。
矢印の方へ行ってみると、あっちも土方
こっちも土方
『み~んな土方って名前なんだねっ』
『ここが土方歳三の墓だよっ』
声のする場所へ向かうと、
土方歳三の墓(右側)があった。
土方歳三の墓
墓碑に本人の写真が埋め込まれている。
(日野で生まれ育った時から新選組で活躍した頃の説明は略す)
慶応三年(1867)10月の大政奉還により、慶応四年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、
土方らも参戦したが、敗れた。
以後、勝沼・宇都宮・会津と転戦し、仙台で榎本武揚の率いる幕府艦隊と合流した。
そして、北海道へ渡り箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任された。
明治二年(1869)、官軍の反撃が始まった。
土方は、弁天砲台に孤立した味方を救出するために、箱館市内に突入したが、
午前10時頃、腹部に銃弾を受けて戦死した。
五月十一日没 三十五歳 法号 歳進院殿誠山義豊大居士
(日野市教育委員会)
合掌!
石田寺本堂にお参りを済ませた。
石田寺には日野七福神(福禄寿)も祀られている。
石田寺を後にして、歳三の子孫が館長を務めるという土方歳三記念館に立寄ろうとしたが、
第一・第三日曜日しか開館していないため、直接浅川の堤防を目指すことにしたのだが、
道に迷ってしまった。
しばらく石田寺の周りを行ったり来たり。
日野高校の裏を抜けると、
やっとのことで、浅川の堤防に出ることが出来た。
『堤防の上を歩くのねっ』
多摩モノレール通りの新井橋の下を潜る。
新井橋の下を潜り抜けると、
浅川の土手に出た。
やはり広々とした景色は気持ちが良い。
浅川の土手を進む。
後方に見えるのは今潜って来た多摩モノレールだ。
浅川
多摩川から1.4Km地点を通過
前方にふれあい橋(正式名称は万願寺歩道橋)が見えて来た。
ふれあい橋は目の前だ。
ふれあい橋を渡る。
高幡不動の五重塔の相輪(九輪)が見えた。
浅川の流れがきれいで美しい。
ふれあい橋(万願寺歩道橋)を渡り、
右に曲がってさらに土手を進む。
浅川に目をやると、
白い鳥が。体長が少し大きい。
チュウサギのようだ。
土手の上で一息入れて、
高幡不動尊を目指す。
高幡不動尊へ。
潤徳小学校の塀に沿って進むと、
京王線の高幡不動駅北口に到着した。
階段とエスカレータで上階へ上り、
高幡不動駅南口へ。
今度はエスカレータで1階まで降りると、
高幡不動尊の参道入口に出た。
『いやぁ 立派な門だねぇ』
『横浜中華街の門みたいだねっ』
参道の門前町商店街を進むと、
高幡不動尊の仁王門が見えて来た。
『謹賀新年て書いてあるよっ』
『まだ1月だからかねっ』
川崎街道を横断して、高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)の仁王門に到着
楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正「号泊如」の筆、とのこと。
ここからは各自が境内を自由に歩けるように自由時間を設けることにした。
先ず線香の煙で身体を清め、
宝輪閣(お札所)
護摩修行の受付所でもある。
不動堂本堂にお参りしよう。
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ、
高幡不動尊として親しまれている。
関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。
不動堂本堂
中ではお坊さんが張りのある声でお経を唱えていた。
お経はスピーカーで境内に響き渡るようになっている。
大勢の人がお坊さんと一緒に声を合せてお経を唱えていた。
不動堂裏の奥殿には、丈六不動三尊が安置されている。
奥殿の本堂
丈六不動三尊
総重量1,100Kgを超える巨像の丈六不動三尊は、古来日本一の不動三尊と伝えられている。
弘法大師の案内に従って進むと、
大師堂と
その隣に聖天堂があった。
大師堂の裏山は、境内八十八箇所参拝コースになっている。
満5年の歳月をかけて竣工したと云われる五重塔は、塔高39.8m、総高45mで、
平安初期の様式を模した美しい塔である。
新選組土方歳三の菩提寺である高幡山金剛寺には、近藤勇・土方歳三両雄の碑や、土方歳三の銅像、
また大日堂には土方歳三の位牌や新選組隊士慰霊の大位牌等、更に奥殿では歳三の書簡ほか
多くの新選組資料が展示されている、とのこと。
しかし、これらの全てを見て廻るには余りにも時間が少なかった。
皆さん、ほぼ駆け足で境内を歩き周り、順次土方歳三像近くに集まって来た。
全員揃ったところで、13時21分、この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
高幡不動境内の土産物店で
土産物などを買う人もいる。
解散はしたものの、全員揃って総門を潜り抜け、
とりあえず門前町商店街へ。
この商店街でお好みの店を見つけて抜けて行った人も。
我々いつものメンバーは、京王線高幡不動駅ビルへ向かった。
とんかつの「和幸」はあいにく満席だった。
『もう13時半を過ぎてるのにけっこう混んでるんだねぇ』
「和幸」の隣に蕎麦と酒肴「たまの里」という店があったので、覗いてみると、
『何とかここは入れそうだねっ』
先ずは『かんぱ~いっ』
簡単なつまみが付いた”ちょいのみセット”(600円)の中生が美味かった。
中生で一杯の後は、ミニかきあげ天丼とそば(600円)を注文した。
『いやぁ けっこうボリュームもあるし、美味いよねっ』
併せて1,200円はリーズナブルである。
この後、京王線で新宿駅に向かい、中央線神田駅で山の手線に乗り換え上野駅へ。
上野駅始発の常磐線で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
この日は”新選組のふるさと”と呼ばれている日野駅をスタートして、新選組ゆかりの寺社や
日野宿本陣などを巡り高幡不動尊まで歩いた。
今年は土方歳三没後150年という節目の年ということもあり、日野駅を始めその周辺は土方歳三一色だった。
日野市最大の観光イベント「ひの新選組まつり」は、土方歳三の命日に合せて、毎年5月上旬に開催されるが、
今年は、5月11日(土)、12日(日)に開催される予定とのこと。
5月11日は土方歳三の命日であり、没後150年が重なるため、大いに盛り上がることだろう。
高幡不動尊の境内は広く、いろんな建物や碑・像などがあり、20分足らずの自由時間では短か過ぎて廻りきれなかった。
1時間以上の時間が必要だったと思われる。
今回の大きな反省点である。
この日の万歩計は、15,000歩は軽く超えていた。
意外と歩いたものである。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第31回(2019年第3回)、「新選組のふるさとを訪ねる(日野市)」ウォーキングに参加した。
荒川沖駅7時50分発の電車を待っているところ。
常磐線車内
つくばTX開通後の常磐線は比較的空いている。
時間帯にもよると思うが、朝方参加者全員が楽に座って行けるのは嬉しい。
この日の参加者はこの時点で21名。
10時10分、スタート地点の中央線日野駅に到着。
駅ホームに”新選組のふるさと日野”の横断幕が迎えてくれる。
今年は土方歳三没後150年になるという。
駅構内にも別の横断幕が。
『いやぁ 土方歳三一色だねぇ』
日野駅改札口で、待っていたFJさんと合流。
『お待ちどうさま~っ』
結果この日の参加者は22名となった。
10時18分、日野駅を出発!
”土方歳三没後150年”の横断幕が続く歩道を先ずは宝泉寺へ向かう。
日野駅前の横断歩道を渡り、宝泉寺へ。
宝泉寺は新選組六番隊組長井上源三郎の墓があることで知られている。
10時20分、日野駅から2分ほどで宝泉寺に到着した。
宝泉寺は、山号を如意山と言い、臨済宗建長寺派の禅寺である。
江戸期には寺領7石の御朱印状を拝領したと云われる。
宝泉寺の山門を潜ると正面に観音堂が。
観音堂の本尊は馬頭観世音石像で、俗に「持ち上げ観音」の名で知られている、とのこと。
観音堂手前に菩提達磨像が鎮座している。
禅宗の高僧達磨大師である。
宝泉寺本堂には本尊釈迦如来・脇侍文殊・普賢両菩薩の三尊が安置されている。
本堂の左手奥に新選組六番隊組長だった井上源三郎の墓(顕彰碑)が。
因みに慶応元年三月頃の再編組織では、総長近藤勇、副長土方歳三で、隊は十番隊まであり、一番隊組長は沖田総司だった。
井上源三郎の墓(顕彰碑)前で合掌する女性陣の皆さん。
宝泉寺を後にして次に向かったのは八坂神社だ。
10時33分、八坂神社は旧甲州街道沿いにあった。
入口に門人が奉納した天然理心流の扁額の写真が展示されている。
安政五年(1858)、天然理心流近藤周助の門人であり、佐藤道場で稽古に励んでいた二十五名によって、
八坂神社(当時は午頭天皇社)に奉納。
欅板に大小二本の木刀が架けられている。
井上源三郎・沖田惣次郎(総司)・嶋崎勇(後の近藤勇)の名前も見える。
安政六年入門の土方歳三の名前は、この扁額にはない。
八坂神社の社殿
『なんだか神社らしくない建物だよねっ』
『けっこう新しいんじゃないっ?』
八坂神社に参拝
道路向かい側の建物の右側に日野宿問屋場・高札場跡の碑が見える。
10時44分、日野宿本陣に到着
日野宿本陣は、正保年間(1644-46)に日野宿の名主に取り立てられた下佐藤家の住宅である。
日野宿の本陣は上佐藤家、脇本陣は下佐藤家の屋敷で、両家は交替で日野本郷の名主と
日野宿問屋役を務めていた。
嘉永二年(1849)の大火で本陣・脇本陣とも消失したが、脇本陣は当主佐藤彦五郎により
元治元年(1864)に再建された。
都内に残っている唯一の本陣・脇本陣施設である。
冠木門を潜って中に入ると、
明治天皇行幸の碑が目に入る。
日野宿本陣
瓦葺きの大屋根・入母屋の玄関など本陣建築として建築史的にも価値がある、と云われている。
本陣見学用入口
一人200円(22名分4,400円)を払って中へ。
座敷
新選組の羽織
(記念写真を撮るためのもの)
日野宿の名主を務めていた佐藤彦五郎が以前に住んでいた自宅に天然理心流の道場を開き、
そこに近藤勇・土方歳三・沖田総司らが稽古に訪れていた、そうだ。
ボランティアの方の説明を聞く。
佐藤家と土方家の家系
佐藤彦五郎の母親マサさんは、土方歳三の父の妹である。
また、土方歳三が慕う姉のノブさんは、当主の佐藤彦五郎の妻であるため、
佐藤彦五郎は歳三の従兄弟・義兄にあたるという極めて深い繋がりがある。
ボランティアの方の説明に耳を傾ける。
玄関(式台)
一般人ではない、いわゆるお偉い方をお出迎えする間
かつての上段の間
日野宿本陣には上段の間は残っていない。
上段の間の説明
日野宿の上段の間と次の間は、明治26年(1893)の日野の大火の後、
家屋を類焼した佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先有山家に移築されて今ここにないが、
当初はこの縁先に写真に見られる二間が続いていた、とある。
次の間にあたる座敷
座敷から裏庭を望む。
甲州街道に残る本陣の建物は、ここ日野宿の他に、小原宿と下花咲宿にある。
”ウマさんの甲州街道を歩く”の”駒木野宿から小原宿”および”大月宿から阿弥陀海道宿”にて
両本陣を訪れている。
小原宿本陣平井家(平成28年(2016)9月25日撮影)
信州高島藩・高遠藩・飯田藩の大名や甲府勤番の役人が宿泊した。
花咲宿本陣星野家(平成29年(2017)1月22日撮影)
”しばらくの間見学は休止とさせていただきます”の案内が貼られている。
座敷
こちらの部屋は彦五郎と妻ノブさんの寝室だったと言われる。
二羽の兎の釘隠し
子だくさんを願ってのことだそう。
上段の間には、魔除け・福を招くとしてコウモリの釘隠しを使っているそうだ。
先ほどのボランティアの人は、次のお客さんに説明をしている。
重ねてお礼を言って日野宿本陣を後にした。
日野宿本陣の道路向かい側に日野宿交流館が。
旧甲州街道を進み、川崎街道への分岐点を横断
旧甲州街道と川崎街道分岐点の角に道標がある。
高幡山不動尊道と刻まれている。
川崎街道は高幡不動尊へ通じる道である。
旧甲州街道を進む。
有山家の建物で、日野宿の名主を務めた佐藤彦五郎の4男である彦吉が、
有山家に養子に行って建てた家という。
有山家(屋号「綿十」)前-下町-
左手の石垣付近が有山家です。この写真は、明治26年(1893)の大火の前に撮られたものと思われます。
有山家、中嶋家(屋号「嶋屋」)、古谷家(屋号「油屋」)、土方家(屋号「土屋」)と蔵の連なる
甲州街道沿いの町並が分かる一枚です。
11時17分、日野警察署前を通過
旧甲州街道を進む。
旧甲州街道を進む。
右手に多摩モノレールの甲州街道駅が見える。
反対側は立川方面だ。
都道149号(多摩モノレール通り)を横断して、
多摩モノレール線に沿って都道503号(多摩モノレール通り)を進んでいると、
ちょうど高幡不動方面行きのモノレールが到着するところだった。
11時25分、甲州街道駅を通過
多摩モノレール通りを進む。
中央高速道路下を潜って進む。
多摩モノレール線に沿って進むと、
11時36分、万願寺一里塚があった。
当初の甲州街道は、青柳(国立市)付近から万願寺渡船場で多摩川を渡り、
この万願寺一里塚を経て日野宿に入った。
その後、貞享元年(1684)に、上流の日野渡船場を通る道筋へと改められた。
現存する塚は南側の一基だけで、北側の塚は昭和43年(1868)に取り壊された。
『初期の一里塚が昔のまま残っているんだねぇ』
万願寺一里塚碑には、江戸日本橋より九里(約36Km)とある。
多摩モノレール通りを進む。
多摩モノレール通りを進んで行くと、
前方に多摩モノレール万願寺駅が見えた。
案内地図に従って少し手前の信号を左折して、さらにその少し先を右に折れて進むと、
多摩川に架かる橋へ通じる国道20号(日野バイパス)に行き当たった。
道路反対側には真っ直ぐには進むことが出来ない。
『参考本には真っ直ぐ進めるようになってたんだけどねぇ』
仕方なく多摩モノレール通りまで戻ることに。
多摩モノレール通りまで戻り、国道20号(日野バイパス)を横断して、
直ぐに左方向へ。
左手の道路反対側にはその前を通ってきたスーパー「いなげや」が。
日野バイパスの多摩川手前。
先ほど行き止まりになった場所である。
右に曲がって進む。
次の目的地石田寺(せきでんじ)を目指す。
石田寺一丁目辺りを通過して、
右に曲がると、石田寺が見えた。
12時8分、石田寺に到着。
石田寺の境内に入ると、六地蔵が迎えてくれる。
左から堅固慧菩薩、持地菩薩、法印手菩薩、宝処菩薩、宝掌菩薩、地蔵菩薩と並んでいる。
石田寺のカヤの木
樹高約26m、目通り幹囲4.2m、根元から2.5mの高さから三分岐している。
樹齢は400年以上と推定される。
カヤはイチイ科の常緑高木で雌雄別株であるが、当所のカヤは、雌株である。
枝張りは四方に約5mで、樹勢は極めて良好である。
日野市の天然記念物にも指定されている。
(日野市教育委員会)
カヤの木の傍に土方歳三義豊之碑がある。
この碑は、早くして両親を亡くした歳三の親代わりでもあり、家督を継いだ兄喜六の曾孫にあたる
土方康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立したもの、とのこと。
土方歳三義豊之碑の横に土方歳三の墓を指している石碑が。
矢印の方へ行ってみると、あっちも土方
こっちも土方
『み~んな土方って名前なんだねっ』
『ここが土方歳三の墓だよっ』
声のする場所へ向かうと、
土方歳三の墓(右側)があった。
土方歳三の墓
墓碑に本人の写真が埋め込まれている。
(日野で生まれ育った時から新選組で活躍した頃の説明は略す)
慶応三年(1867)10月の大政奉還により、慶応四年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、
土方らも参戦したが、敗れた。
以後、勝沼・宇都宮・会津と転戦し、仙台で榎本武揚の率いる幕府艦隊と合流した。
そして、北海道へ渡り箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任された。
明治二年(1869)、官軍の反撃が始まった。
土方は、弁天砲台に孤立した味方を救出するために、箱館市内に突入したが、
午前10時頃、腹部に銃弾を受けて戦死した。
五月十一日没 三十五歳 法号 歳進院殿誠山義豊大居士
(日野市教育委員会)
合掌!
石田寺本堂にお参りを済ませた。
石田寺には日野七福神(福禄寿)も祀られている。
石田寺を後にして、歳三の子孫が館長を務めるという土方歳三記念館に立寄ろうとしたが、
第一・第三日曜日しか開館していないため、直接浅川の堤防を目指すことにしたのだが、
道に迷ってしまった。
しばらく石田寺の周りを行ったり来たり。
日野高校の裏を抜けると、
やっとのことで、浅川の堤防に出ることが出来た。
『堤防の上を歩くのねっ』
多摩モノレール通りの新井橋の下を潜る。
新井橋の下を潜り抜けると、
浅川の土手に出た。
やはり広々とした景色は気持ちが良い。
浅川の土手を進む。
後方に見えるのは今潜って来た多摩モノレールだ。
浅川
多摩川から1.4Km地点を通過
前方にふれあい橋(正式名称は万願寺歩道橋)が見えて来た。
ふれあい橋は目の前だ。
ふれあい橋を渡る。
高幡不動の五重塔の相輪(九輪)が見えた。
浅川の流れがきれいで美しい。
ふれあい橋(万願寺歩道橋)を渡り、
右に曲がってさらに土手を進む。
浅川に目をやると、
白い鳥が。体長が少し大きい。
チュウサギのようだ。
土手の上で一息入れて、
高幡不動尊を目指す。
高幡不動尊へ。
潤徳小学校の塀に沿って進むと、
京王線の高幡不動駅北口に到着した。
階段とエスカレータで上階へ上り、
高幡不動駅南口へ。
今度はエスカレータで1階まで降りると、
高幡不動尊の参道入口に出た。
『いやぁ 立派な門だねぇ』
『横浜中華街の門みたいだねっ』
参道の門前町商店街を進むと、
高幡不動尊の仁王門が見えて来た。
『謹賀新年て書いてあるよっ』
『まだ1月だからかねっ』
川崎街道を横断して、高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)の仁王門に到着
楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正「号泊如」の筆、とのこと。
ここからは各自が境内を自由に歩けるように自由時間を設けることにした。
先ず線香の煙で身体を清め、
宝輪閣(お札所)
護摩修行の受付所でもある。
不動堂本堂にお参りしよう。
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ、
高幡不動尊として親しまれている。
関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。
不動堂本堂
中ではお坊さんが張りのある声でお経を唱えていた。
お経はスピーカーで境内に響き渡るようになっている。
大勢の人がお坊さんと一緒に声を合せてお経を唱えていた。
不動堂裏の奥殿には、丈六不動三尊が安置されている。
奥殿の本堂
丈六不動三尊
総重量1,100Kgを超える巨像の丈六不動三尊は、古来日本一の不動三尊と伝えられている。
弘法大師の案内に従って進むと、
大師堂と
その隣に聖天堂があった。
大師堂の裏山は、境内八十八箇所参拝コースになっている。
満5年の歳月をかけて竣工したと云われる五重塔は、塔高39.8m、総高45mで、
平安初期の様式を模した美しい塔である。
新選組土方歳三の菩提寺である高幡山金剛寺には、近藤勇・土方歳三両雄の碑や、土方歳三の銅像、
また大日堂には土方歳三の位牌や新選組隊士慰霊の大位牌等、更に奥殿では歳三の書簡ほか
多くの新選組資料が展示されている、とのこと。
しかし、これらの全てを見て廻るには余りにも時間が少なかった。
皆さん、ほぼ駆け足で境内を歩き周り、順次土方歳三像近くに集まって来た。
全員揃ったところで、13時21分、この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
高幡不動境内の土産物店で
土産物などを買う人もいる。
解散はしたものの、全員揃って総門を潜り抜け、
とりあえず門前町商店街へ。
この商店街でお好みの店を見つけて抜けて行った人も。
我々いつものメンバーは、京王線高幡不動駅ビルへ向かった。
とんかつの「和幸」はあいにく満席だった。
『もう13時半を過ぎてるのにけっこう混んでるんだねぇ』
「和幸」の隣に蕎麦と酒肴「たまの里」という店があったので、覗いてみると、
『何とかここは入れそうだねっ』
先ずは『かんぱ~いっ』
簡単なつまみが付いた”ちょいのみセット”(600円)の中生が美味かった。
中生で一杯の後は、ミニかきあげ天丼とそば(600円)を注文した。
『いやぁ けっこうボリュームもあるし、美味いよねっ』
併せて1,200円はリーズナブルである。
この後、京王線で新宿駅に向かい、中央線神田駅で山の手線に乗り換え上野駅へ。
上野駅始発の常磐線で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
この日は”新選組のふるさと”と呼ばれている日野駅をスタートして、新選組ゆかりの寺社や
日野宿本陣などを巡り高幡不動尊まで歩いた。
今年は土方歳三没後150年という節目の年ということもあり、日野駅を始めその周辺は土方歳三一色だった。
日野市最大の観光イベント「ひの新選組まつり」は、土方歳三の命日に合せて、毎年5月上旬に開催されるが、
今年は、5月11日(土)、12日(日)に開催される予定とのこと。
5月11日は土方歳三の命日であり、没後150年が重なるため、大いに盛り上がることだろう。
高幡不動尊の境内は広く、いろんな建物や碑・像などがあり、20分足らずの自由時間では短か過ぎて廻りきれなかった。
1時間以上の時間が必要だったと思われる。
今回の大きな反省点である。
この日の万歩計は、15,000歩は軽く超えていた。
意外と歩いたものである。
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