ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第八回 (中山道)藪原宿~贄川宿(1日目)

2015年10月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年10月25日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
今年は、旧街道の中でも見所が多く、人気のある区間を選んで歩くことにした。
旧街道全てを歩くのは、時間的にも資金的にも大変なため、ある街道の中から
気に入った宿間を独断で選んで歩くものである。
今回は、日帰りを主としているが、コースによっては宿泊も有りとしている。
なお、旧東海道の三島宿から京都三条までは、別の機会を見つけて歩くことにしたい。

「旧街道(特選)を歩く」第八回は、中山道の藪原宿~奈良井宿~贄川宿(約20Km)を2日間かけて歩いた。

第一日目
新宿駅で駅弁を買い、8時ちょうど発の「あずさ5号」に乗車。


この日の参加者は、8名。
全員お互い向い合ってゆったりと座れた。
なお、I子さんは、奈良井宿の宿で合流することになっている。


10時31分、塩尻駅に到着。


塩尻から10時50分発の中津川行ワンマン電車(2両)に乗り換える。


中央線は、ガラガラだった。


まるで貸し切りである。
通勤通学時間帯も過ぎているので空いているのだ。


間もなくこの日のスタート地、藪原駅だ。
車内に料金が表示される。


11時26分、塩尻から30分ほどで、藪原駅に到着。


藪原駅に昔の旅姿をした女性がいた。
鳥居峠を越えて奈良井宿まで行くとのこと。
もう10年も続けているらしい。
仲間がカメラを向けると気軽に応じていた。


一緒に歩けるかと思っていたが・・・
その女性は、こちらの態勢が整う前に発ってしまった。
後を追ったが・・・


次第に離されてしまい、そのうち急に姿が見えなくなった。


『ここを入って行ったみたいだねっ』
そこには地下通路があった。


ここを通るとJR線路の下を潜って反対側の中山道に行けるようになっているのだ。


藪原宿の宿場町を進む。


旧式ポストの横に高札場跡の標柱が立てられていた。
高札場は、幕府や領主が定めた法度や掟書などを木の板札に書き、
人目を引くように高く掲げたものである。


11時39分、お六櫛の「萬壽屋」前を通過。
「萬壽屋」は、江戸時代からお六櫛問屋として店を構えている。
現在は、卸のほか、伝統のミネバリやツゲで作るお六櫛などの小売販売もしている。
ミネバリは、御嶽や駒ヶ岳の高知に生える落葉樹のこと


お六櫛を看板として掲げている店も見られる。


防火高塀跡
元禄八年(1695)、薮原宿のほとんどが焼失する大火があった。
その後の防火対策として、宿再建の際に各戸一間につき一寸の割合で提供しあって、
上横水と下横水の二箇所に四ッ辻の広小路を作った。
文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り、
石垣を築き、その上に高い土塀を造って防火壁とした。
これを高塀と呼んでいたという。(説明板)


宿の途中で、中山道は右に折れている。
藪原神社200m、鳥居峠2.2Kmと表示されている。


鳥居峠に向かう前に藪原神社へお参りして行こう。
真っ赤な一の鳥居、


続いて二の鳥居を潜ったその先に、


藪原神社の拝殿があった。
『今日も無事に歩けますように』


鳥居峠を目指す。
しばらく中央線の線路に沿って進む。


飛騨街道追分(分岐点)の標柱が立っていた。
藪原は中山道の宿駅として発達した。
この場所には、十王堂(薬師堂)があって、奈川を経て野麦峠・飛騨高山へ通ずる
飛騨街道(奈川道)の追分だった。(以下略)


追分を過ぎるとやや急な坂道が始まった。


湧き水で缶ビールを冷やしていた。
『ここじゃ誰も盗む人なんかいないんだろうねっ』


天降社の大モミジ
この大モミジは、胸高80Cmの巨木で秋の紅葉がたいへん美しく、
道行く人たちの目を楽しませている。(以下略)
『まさに今が見頃だよねっ』 


12時15分、鳥居峠まで1.6Km地点を通過
『お昼は峠辺りだねっ』


『こんにちわ~っ』
鳥居峠を越えてきた一団とすれ違った。


林の入口に黄と紅のコントラスト鮮やかな紅葉が・・・
『いやぁ きれいだなぁ』


12時22分、鳥居峠まで1.3Kmの地点。
杖置き場となっている。


杖置き場を過ぎると道は石畳みに変わった。


『良い天気ですねっ』
また、別の一団とすれ違った。
奈良井駅~藪原駅間は、ハイキングコースとしても人気があるようだ。


12時29分、鳥居峠まで1.1Kmのところの鳥居峠の説明板に見入る。
木曽郡の北東鉢盛山と木曽山脈の主峰駒ヶ岳との間を連立する山脈が、中山道によって
横断されるところが鳥居峠で、木曽路の北端楢川村と木祖村の境にある。
海抜1,197mの峻嶺で、木曽川と信濃川上流の奈良井川の分水嶺をなしている。
峠の東麓が楢川村奈良井で、西麓は木祖村藪原であり、頂上は木祖村に属し、
藪原駅から約3Km、奈良井駅から約3.6Kmある。(以下略)


『もう少しで頂上かしらっ?』


頂上への途中、「森林測候所跡地」の標識があったので、道を逸れて寄ってみることにした。


急な坂道を少し上ると「森林測候所跡地」に小さな小屋があった。
休憩所らしい。


小屋の戸を開けるて中に入ると、そこには藪原駅で会った旅姿の女性がいるではないか・・・
ここで、休憩していたようだ。


中には他に家族連れがいて、ちょっと狭かった。
『天気も良いし、ベンチもあるよっ』の声に外に出て広場の方へ。
「森林測候所跡地」である。


広場の周囲だけ真っ白いシラカバの木がたくさん生えていたのが印象に残る。


弁当を広げようとしていたところに、旅姿の女性がやって来て、
『写真を撮って欲しい』と自分のデジカメを差し出した。
彼女の写真を撮り終わり、ついでに記念撮影をお願いしたら、気軽に応じてくれた。
彼女とはここでお別れした。


テーブルで揃って弁当タイムだ。


この日の弁当は、新宿駅で買った”牛べん”(1,080円)である。


13時35分、弁当も終わり、再び鳥居峠を目指す。
鳥居峠の手前に丸山公園の案内標識があったので、丸山公園へ。


100mほど進むと、いろんな石碑が建てられていた。
松尾芭蕉の句碑
木曽の栃 うき世の人の 土産かな


月雪花の句碑
碑の頭部は欠けているが、建立時の記念句集から次の三句が読みとれる。
雪ならば 動きもせふに 山桜」 道元居
染め上し 山をみよとか 二度の月」 以雪庵
雪白し 夜はほのほのと あけの山」 雪香園


鳥居峠古戦場跡の碑
戦国時代の終わり頃、天文十八年(1549)と天正十年(1582)に木曽氏の軍勢が甲斐の武田軍を
この峠で迎え討ったことや、峠の様子などが書かれている。
藪原の「青木原」、奈良井の「葬り沢」など、時代を偲ぶ地名が記されている。
明治三十二年八月、木祖村の有志によって建立されたもの。


間もなく鳥居峠の筈だ。


13時50分、鳥居峠に到着した。
御嶽神社の鳥居が立っていた。
鳥居の笠木・貫が今にも落ちそうで危険なため、鳥居の下は通行禁止となっていた。
(実は峠はもう少し先の「峰の茶屋」だったことが後で分かった)


御嶽神社には御嶽山謡拝所があるらしい。
謡拝所へはロープ脇を通る回り道の細い道がある。


50mほど先に御嶽を謡拝する御嶽神社があった。
峠の名の由来となった神社とのことである。


『御嶽山見えるっ?』


遥か彼方に御嶽山が見えた。
『あれが御嶽山だねっ』


皆でしばらく御嶽山を眺めていた。
時折山頂左側に白い雲のような噴煙が見えたが、風に流され直ぐに見えなくなった。


鳥居峠の栃ノ木群は、木祖村の天然記念物になっている。


栃ノ木の古木”子産みの栃”


14時10分、「峰の茶屋」に到着
ここが鳥居峠(1,179m)だったことが後で分かった。


「峰の茶屋」から奈良井宿らしき家並みが見えた。
『奈良井宿みたいだねっ』


奈良井宿を目指す。


鳥居峠の一里塚跡碑があった。
鳥居峠は、標高1,197m、木曽川と奈良井川の分水嶺である。
江戸時代の五街道の一つ、中山道の宿場町である奈良井宿と藪原宿の境をなし、
旅人には難所として知られていた。


戦国時代に木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったときに、この峠の頂上から御嶽を謡拝し、戦勝を祈願した。
その功あって勝利を得ることが出来たので、峠に鳥居を建てた。
以来、この峠は「鳥居峠」と呼ばれるようになったと云う。
この一里塚は、古老の話や古地図、文献などによって「ほぼ この辺り」としたもの、とのこと。
『塚の跡がないのはそのためだったんだぁ』 納得である。


峠の所々に鮮やかな紅葉を観ることができた。
まさに今が見頃である。
『ほんと きれいだねっ』


奈良井宿を目指して峠を下る。


14時36分、「中の茶屋」に到着。


本沢自然探勝園「葬り沢」の説明に見入る。


「葬り沢」
天正十年(1582)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。
この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたと云われ、戦死者を葬った場として、葬り沢と呼ばれる。
『ここの戦で、事実上武田勢が滅びたんだぁ』


奈良井宿を目指す。


一部石畳の所を下ると、


舗装された道路に出た。


舗装道路を少しばかり歩いていると・・・


中央線の線路だ。
真下に線路が見えるということは、ここはトンネルの真上なのだ。


奈良井宿の町並みを見下ろす。
『奈良井宿は目の前だねっ』


楢川歴史民俗資料館
鎮神社境内にある史料館。
奈良井宿の生活にかかわる民具や祭礼用具、古文書など歴史資料を展示している。
また、宿札や蝋燭入れ・朱傘など、昔日の街道旅にまつわる品々を展示している、とのこと。


15時7分、鎮神社に到着。
元和元年(1615)、疫病が流行したため、上総国香取神宮から経津主神を勧請して祀っている。


鳥居の後ろにご神木の杉の大木がある。


鎮神社に無事到着したことを報告した。
鳥居峠へ向かう人も安全祈願をするという。


いよいよ奈良井宿である。


宿の入口近くに高札場があった。


当時と同じように高札が掲げられていた。


中村邸
奈良井宿の典型的な民家造りが今に残る。
江戸時代には漆櫛の問屋だった家で、間口が狭く奥に深い。
入口から土蔵のある中庭まで土間が通り、店・勝手・中の間・座敷と続く。
天保年代(1830~43)の建物で、資料館となっている。


鈎の手
道が大きく曲がっている。
鈎の手は妻籠宿でも見かけた。


鈎の手を曲がった右側にひっそりと佇む荒沢不動尊。


長泉寺入口付近
日暮れが早くあまり時間がないので、長泉寺は明日訪れることにした。


上問屋資料館
奈良井宿の上問屋は、慶長年間(1602)から明治維新まで270年間継続して問屋を勤めていた。
時には庄屋も兼務していた。
その永い間に残された古文書や日常生活に使用した諸道具等を展示している、とのこと。


かなめや
そばとご飯に地元の山菜などを加えて煮込んだ、深い味わいの「そば雑炊」が売り。、
木曽は、信州の中でも有数のそばの産地である。
古い民家を利用した食事処で木曽の滋味を味わいたい、ところだが・・・
それはまた次の機会にしよう。。


伊勢屋
文政元年に建てられた当時は、下問屋も務めていたという老舗の旅籠。
昔のままの部屋で過ごすと江戸時代にタイムトリップした気分になる。
(予約しようとしたが、この日は満室だった)


本陣跡
今は駐車場になっている。


塗櫛の店松阪屋
寛政年間、お六櫛に漆を施したものが街道を行く旅人の評判になり、やがて江戸や京に出荷されるようになった。
松坂屋には今も工房で作られた塗櫛やお六櫛が各種ある。


徳利屋
かつて脇本陣を務めた原家は、屋号を徳利屋と云い、昭和10年代まで旅籠を営んでいた。
泉鏡花や島崎藤村、正岡子規も宿泊したという。
現在は食事処を併設している。生そば・五平餅が売り。


奈良井宿も次第に日が暮れてきた。


15時42分、この日の宿「民宿かとう」に到着した。


「民宿かとう」の玄関


二階から玄関を見たところ。


夕食は17時30分からになっている。
一風呂浴びた後、缶ビールで喉を潤す。
『お疲れさまでしたぁ』


『風呂上がりの一杯は、やっぱ美味しいねっ』


全員揃ったところで先ずは『かんぱ~いっ』
写真は隣り合わせた宿泊客に撮ってもらった。


二人は北九州市と北海道岩見沢市に住むお友達だそうで、
この日は名古屋で合流し、レンタカーで上高地へ向い、
周辺18Kmを歩いてきたとのことで、健脚である。
(写真は二人の同意を得て載せています)


この日の料理
夕食時にのる野菜はすべて自家農園で栽培。
お袋の味が自慢の家庭的なお宿である。
これに蕎麦が付く。


美味しい料理に話が弾む。
お隣さんともすっかり意気投合である。


いったん部屋に戻って話の続きでまた盛り上がる。


『ビールの後はお酒に限るねっ』


I子さん(中)も無事到着し、話に加わる。

『明日も頑張って歩きましょうっ』

”中山道(藪原宿から奈良井宿)歩き”の1日目が無事終わった。
藪原駅で見かけた旅姿の女性も無事歩き終えて家路に就いたことだろう。

中山道鳥居峠越えの道は、それほど険しい場所もなく、標識もしっかりとしていて、とても歩き易かった。
何よりも雲一つない快晴の天気に恵まれたことが、旅を楽しめた大きな要因である。
鳥居峠の景色も素晴らしく、街道の秋を存分に味わうことができた。

奈良井宿は”日本一の宿場町”と謳うだけあって、立寄り場所も見所も多い。
街道歩きが終わったら、別の機会にもう一度訪れてみたい。

明日は、奈良井宿から贄川宿・贄川駅を目指す。
明日も天気は良さそうだ。

この日の万歩計は、15,000歩に達していた。

ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする