ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

中原街道(虎ノ門から五反田)の歴史探訪

2015年02月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年2月27日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第36回(2015年第7回)、「中原街道(虎ノ門から五反田)の歴史探訪」ウォーキングに参加した。
この日のコースと立寄り先は、「首都圏旧街道を歩く」(メイツ出版)を参考にした。

中原街道は、江戸に幕府を開いた徳川家康によって、海辺に沿う東海道が整備されるまで、
台地上を行くこちらの道が東海道の一部として機能していた。
東海道の整備後は、平塚中原(神奈川県平塚市)と江戸城虎ノ門口を結ぶ脇往還とされ、
江戸まで先を急ぐ旅人や農産物の運搬には、距離も短い中原街道を利用したという。
(「首都圏旧街道を歩く」)

荒川沖駅8時19分発の電車を待つ。
この日は平日だが、通勤時間帯は避けたので楽に座れた。


上野から東京メトロ銀座線に乗り替える。
この日の参加者は16名である。


東京メトロ銀座線車内
既に通勤時間帯は過ぎているため、銀座線でも座れた。


10時ちょうど、虎ノ門に到着。
写真は国道1号線虎ノ門交差点


虎ノ門は江戸城外郭門のひとつだが、外郭門は明治6年に撤去されている。
虎ノ門交差点の北東角、銀座線虎ノ門駅8番出口を出たところに、小さな虎の像を据えた碑があり、
虎門遺跡」と刻まれている。
この日は、ここが出発点である。


「虎門遺跡」の次は金刀比羅神社へ向かう。
金刀比羅神社は、虎ノ門交差点の斜め向かいだ。


虎ノ門琴平タワービルの真下に、堂々とした鳥居がある。


金刀比羅神社拝殿
万治三年(1660)に讃岐丸亀藩主の京極家が金毘羅宮(本宮)の御分霊を江戸屋敷に勧請したのが始まり。
後に現在地に遷座。江戸市民の強い要望で、毎月10日には邸内を開いて参詣を許していたという。


この日の無事安全を祈願していこう。


国道1号線(中原街道)をちょうど2階建オープンバスが走って行くのが見えた。
『いやぁ 眺めが良いだろうなぁ』
『一度乗ってみたいわねっ』


中原街道を進む。


虎の門2丁目交差点を渡る。


虎ノ門3丁目付近。


左へ曲ると、トンネルがあり、愛宕神社参道の案内が見えた。


トンネルの入口に愛宕神社への参道があった。


急な石段を上る。
『愛宕山ってそんなに高くないんだよねっ?』


螺旋状のような急な石段を上って行くと、


10時25分、愛宕山の山頂に到着した。
愛宕山は、標高26mで東京23区内で最も高い山とされる。
『山頂はけっこう広いんだねぇ』


愛宕神社
慶長八年(1603)に江戸の防火の神様として、徳川家康の命によって祀られた神社。


愛宕神社へお参り。


愛宕山は、「桜田門外の変」で井伊直弼を討った水戸浪士が終結した地でもあり、「桜田烈士の碑」がある。


『せっかくだから』ということで、正門の男坂から下りることにしたのだが・・・


かつては直ぐ下が芝の海岸、その向こうには房総半島まで望めたという。
『ここを降りるのぉ』
『急過ぎないっ?』


『怖いよねぇ』
皆さん、手摺りから手を離せない。


全員無事に下りることができて『良かった良かった』
参道の男坂と呼ばれる86段からなる石段は、講談でも語られる「出世の石段」とのこと。
『ここを馬に跨って駆け上がったって本当かねぇ』


トンネルをくぐって中原街道へ向かう。


中原街道に戻り、神谷町交差点辺りを進む。


左手に東京ワターがちらりちらりと見えて来た。


『ビルの間から見える東京ワターもなかなか良いねぇ』


直ぐ近くなのにビルに邪魔されて見えない東京ワター。
たまにビルの間から見えると何故か嬉しい。


10時59分、赤羽橋交差点に到着。
麻布飯倉あたりを土器町(かわらけまち)と称し、坂道も土器坂というが、
土器職人が多数住居していたため赤埴(あかはに:赤い素焼きの土器)と呼ばれ、
これが転じて赤羽という地名になったと伝えられる、そうだ。
江戸時代初期は赤羽川(古川)の灌漑を受けた水田地帯だった、とのこと。


赤羽橋は寛文七年(1667)に架けられた。
現在、上空には首都高速道路が走っている。
川の水は濁っていてお世辞にもきれいとは言えない。


橋の南詰西側にかつての赤羽橋親柱が保存されていた。


中原街道を進む。


後ろを振り返ると東京タワーが道の中央に聳える。


東京タワーを背に三田一丁目辺りを進む。


左手にはNEC本社ビルが見える。


中原街道(桜田通り)沿いに春日神社があった。
春日神社は、天徳二年(958)武蔵国国司藤原正房卿任国の折、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる、
大和国春日社第三殿に祀る天児屋根命の御神霊を勧請鎮座した。


江戸府内唯一の春日社として、徳川将軍をはじめ江戸城登城の諸大名の崇敬も厚かった。


境内で一休み。
境内は小さくて狭いが、桜田通りの喧騒から一時的に開放され、静寂さが漂う。


11時19分、慶応義塾大学前を通過


国道1号線は、三田二交差点で右に曲っている。
中原街道は、三田二交差点を渡って50mほど先の三田3丁目交差点を右折する。


三田3丁目交差点から道なりに少し進むと、緩やかな聖坂が始まる。
三田3丁目交差点からの旧中原街道は、車はあまり走っていない。


聖坂の途中に亀塚稲荷神社があった。
亀塚稲荷神社は、この先の亀塚から出土した亀形の石を祀った小さな神社である。


弥陀種子板碑
神社裏手に関東地方に見られる中世の弥陀信仰を記した「弥陀種子板碑」がある、とのことだが・・・


神社の裏は、石垣に穴が開いた状態になっており、残念ながら「弥陀種子板碑」は見つけられなかった。
「弥陀種子板碑」は、板状の秩父青石に刻まれた供養塔、だそうだ。


クウェート大使館前を通過


さらに聖坂を進み、


11時38分、聖坂を上りきった辺り、済海寺に到着。


済海寺は、浄土宗の寺で、江戸三十三ヶ所観音霊場の26番札所である。


江戸時代は月の岬と呼ばれた台地の一画で、文字通り、観月の名所だった、そうだ。
安政六年(1859)にフランス領事館、その後、公使館となり明治7年まで続いた、とのこと。
後ろの高層ビルは、三田ツインビル西館


幽霊坂
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名が付いたらしいが、有礼坂の説もある。
幽霊坂は、東京中に多く七か所ほどある、そうだ。


11時48分、薬王寺に到着


薬王寺本堂
元和七年(1621)に麻布狸穴(まみあな)に開設、寛文元年(1661)に現在の地に移転。
境内には昔から霊水とされる井戸水が湧き、江戸中期の俳人・加賀の千代がその評判を聞いて立ち寄り、
「朝顔につるべとられてもらい水」と詠んだ井戸がある。


境内には、いくら探しても”千代の井戸”が見つからないので、本堂の横の小さな門をくぐって寺の奥へ。
案内などは何もない。


寺の裏は墓地になっている。
この墓地のどこかに井戸があるのだろうか?


真直ぐ進んだ突き当りの左側に


探していた”千代の井戸”があった。
「あさがおに つるべとられて もらいみず」と詠まれている。


次の目的地、魚藍寺ぎょらんじ)に到着した時、時計は12時ちょうどを差していた。
魚藍寺は、浄土宗寺院で、三田山水月院と号する。
魚藍寺は、法誉上人が大分県中津市の圓應寺地中に魚藍院として元和三年(1617)創建、
寛永七年(1630)三田に移転したといわれる。
その後、法誉上人の弟子称誉上人が承応元年(1652)観音堂を創建して一寺となったといわれる。


本堂の前に塩地蔵が鎮座しており、たくさんの食塩が供えられていた。


塩地蔵の前に亀石(子宝石)があった。
亀に似ているので、いつという事なく亀石と呼ばれ、子供のない人が子宝を願います、と刻まれている。


本堂
本尊の魚藍観音は、右手に魚籠(びく)を持ち、左手に羽衣を持った乙女の姿に身を変えて
仏の教えを広めた観音さま、とのことである。


中原街道に戻り、伊皿子(いさらご)交差点を渡る。


12時13分、大石良雄(よしたか)等自刃ノ跡碑に到着。
自刃ノ跡碑は、都営高輪アパート(旧細川藩下屋敷だった場所)前にぽつんと立っていた。


元禄十五年(1702)12月に吉良邸討ち入りの折、大石内蔵助良雄以下17名が高輪の細川屋敷に預けられ、
翌年2月に切腹が言い渡された。
四十七志の墓がある泉岳寺は東海大学の裏に位置し、ここから直線で150mほどのところである。


東海大学前を通過
「お弁当」の旗が気になってしょうがない時間だが、『五反田までもう少し、頑張りましょうっ!』


12時19分、承教寺に到着。
正安元年(1299)に開かれた日蓮宗の寺で、承応二年(1653)に現在の地に移転した。


表門脇には「二本榎」の碑がある。
江戸時代にこの辺り(高縄手という小高い丘陵地)に榎の大木が2本あり、旅人の目標となっていたそうである。
誰言うとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになり、そのまま「二本榎」の地名となった。


榎が枯れた後も、二本榎という地名は残っており、今に続いている。


承教寺の狛犬は変わった顔・形をしている。
ユーモラスな表情が人気、とのこと。
『こんな顔の狛犬は初めて見たよねっ』


表門を入って進むと正面に仁王門があるが、通り抜けることは出来ない。


承教寺本堂
本堂前には英一蝶(はなぶさいっちょう)の墓がある。
英一蝶は、狩野安信に絵を、松尾芭蕉に俳諧を学んだ江戸時代の画家で、
46歳のときに将軍綱吉の放縦な生活を風刺したため、三宅島に流された、とのこと。


中原街道を進む。


12時28分、高野山東京別院に到着。
徳川幕府が江戸に開かれた際、高野山の学侶方の在番所として浅草の日輪寺に寄留し、開創した。
その後、芝の地を下賜されたことにより、延宝元年(1673)にこの地に堂宇を建立した。
昭和2年に「高野山東京別院」と改称された。


合掌礼拝して境内に入ると、直ぐ右手に弘法大師の修業の像がある。


弘法大師の前には、四国八十八ヶ寺のご本尊が並んでいる。


お百度石もある。


昭和六十三年(1988)に建立された本堂。


境内には、高野槇が植えられていた。


高野山東京別院を後にしてこの日最後の訪問地雉子神社を目指す。


広い道路に出た。国道1号線(桜田通り)である。
五反田駅はこの道を真直ぐ(手前に)進めば良い。


相生坂を進む。
ゴールが近付いたためか、皆さん足が速くなってきた。


ビルの中に神社らしきものが見えたので入って確かめてみる。
(50mほど先に雉子神社の鳥居があったのを後で知った)


神社のように見えたのは、やはり雉子神社きじじんじゃ)だった。
古くは荏原宮といい、文明年間(1469~87)には大鳥明神、山神の社とも呼ばれた。
徳川三代将軍家光がこの地に鷹狩りに来た折、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを、
まことにめでたく奇瑞であると、「以後、雉子宮と称すべし」との言葉を頂戴したことが社名の由来。
中原街道の拡幅工事の度に社地は狭まり、現在ではビルの1階ピロティ部分に本殿と拝殿がある。
よく見ると、本殿の大屋根(左)に雉が止っている。
『いやぁ こんなビルの中に神社があるんだねぇ』


拝殿の脇には神輿が2基鎮座していた。


雉子神社鳥居
『こっちから入れたんだねっ』


雉子神社の鳥居の横に大きな銀杏の木がある。
雌の銀杏で、幹の回りは約4m、高さは18mあり、推定樹齢は150年から200年。
木の勢いも盛んで樹姿も整っており、品川区内の銀杏の中でも代表的な巨木だそうで、
品川区の指定天然記念物となっている。


雉子神社でこの日予定していた訪問地は、全て回ったことになり、
あとは五反田駅へ向かうだけである。


13時6分、ゴールの五反田駅に到着
この日はここで解散とし、めいめいお好みの昼食をして帰ることにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


駅近くの食べ物屋を探し、1軒の店へ。


先ずは、ビールで『乾杯っ!』
『今日はお疲れさまぁ』
『これがあるから止められないんだよなっ』


4人揃って鶏肉のかつ丼と蕎麦を注文。
お腹が空いていたこともあり、美味かった。


”首都圏の旧街道”旧中原街道(虎ノ門~五反田)を歩き、旧街道の歴史の一端に触れることが出来た。
当時とは様変わりをした街中ではあるが、残された遺跡や建物などを探しながら歩くのも楽しいものである。
機会があれば、また企画したいと思っている。


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