ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.99 中城城

2017年02月20日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年2月20日(月)

この日は、昨日泊った北谷町のホテルから中城城へ直行した。
中城城についての予備知識は、概略以下のようなものである。

城は沖縄本島中部の中城村の石灰岩丘陵上に築かれており、
北東から南西にかけて6つの郭(かく)が並んでいる。

中城城は、14世紀後半に琉球の豪族先中城按司(さきなかぐすくあじ)が
数世代にわたり、西の郭・南の郭・一の郭・二の郭の主な部分を築き上げた。

1440年に読谷の座喜味城から移って来た「読谷山按司:護佐丸(ごさまる)」
によって北の郭・三の郭が増築され、現在見られるグスクの形が完成したと
考えられている、とのこと。

護佐丸は、1458年、勝連城主阿麻和利(あまわり)の策略によって滅ぼされた。
護佐丸滅亡後は、琉球国王の世継ぎである中城王子世子の居城となり、
さらにその後は間切番所、中城村役場が置かれ、1945年(昭和20年)3月頃に
戦争により焼失するまで、中城村の行政の中心となっていた。

駐車場から管理事務所に向かう途中、中城城(なかぐすくじょう)の
城壁の一部が見えた。


9時50分、中城城跡に到着する。
中城城跡案内図を見る。
東西に長く、郭が並んでいるようだが、何しろ初めてなのでよく分らない。
世界遺産だし、城内各所に説明板くらいはあるだろう。
と気軽に考えていたが、これが甘かった。


9時59分、チケット売り場で観覧料400円/人を購入。


登城口は坂道になっている。
いきなりの坂道に、『ここは歩くしかないな』と歩き出そうとした時、


かみさんたちがカートに乗り込んで、早く乗るようにと促された。
無料で上まで運んでもらえるのだそうだ。
拝観料に含まれているのかも・・・
せっかくなので、カートに乗ることにした。


カートは1分足らずで世界遺産の碑前に到着し、ここで下された。
距離にして、150mほどだった。
2000年12月2日、中城城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、
ユネスコの世界遺産リストに登録された、とある。
日本100名城にも選定されている。


世界遺産碑の脇に城跡の模型があった。
右側(北東)から左側(南西)にかけて、石垣で築かれた連郭式の城域だ。
右側から三の郭・二の郭・一の郭・南の郭と郭が連なっている。
中城城跡の最大の特徴は、数多い沖縄のグスクの中で、
最も多くの遺構がほぼ原形のまま残されているということ、のようだ。


石段の先に、三の郭の東側の城壁(石垣)が見える。


三の郭は、新城(ミーグスク)とも呼ばれる。
1440年に座喜味城から移ってきた、護佐丸が増築したと考えられている。


三の郭の石垣は、石を五角形や六角形に加工して、


「相方積」(亀甲乱れ積み)という積み方で築かれている、とのこと。


三の郭の前の広場は、記念運動場になっている。


広場から中城湾を望めるが、この日はあいにく曇っていて、
遠くまで見通すことは出来なかった。


広場の一角に下へ下りられるような石段があったが、
ロープが張られ通行禁止の札が立っていた。
「与喜屋ノロの墓」へ通じる入口ではないかと思われる。


東に向かって建てられた裏門
北の郭から三の郭へと通じる拱門(アーチ形の門)である。


ペリー探検隊一行がエジプト式と評した裏門の精巧なアーチ形が美しい。


10時12分、裏門を潜ると北の郭へ出た。
北の郭の左奥は三の郭へと続く石段がある。


北の郭側から裏門を見たところ。
しっかりとした造りの門だ。


裏門の左側には、北の郭のアザナ(物見台)がそそり立っている。
石垣の先端が反り返った相方積みの城壁である。


急な石段を上って三の郭へ。


三の郭へ上ると、右手に琉球石灰岩で積まれた二の郭の高い城壁が聳える。
迫力ある造りに圧倒される。


向かって左側の城壁
布積み(豆腐積み)と呼ばれる技法が用いられている、そうだ。
思わず見惚れてしまう。


こちらは向かって右側の城壁
城壁の角の先端が反り返っているのが特徴だ。


三の郭の広場から二の郭の城壁全体を望む。
築城技術を見て、幕末に訪れたペリー艦隊の島内探検隊がその美しさや堅固さを
絶賛したと伝わる。


三の郭の広場と城壁


三の郭の城壁には石段があるが、上には行けない。


10時18分、三の郭を後にして、北の郭へ。


北の郭の城壁からの眺望
右手に先ほど潜って来た裏門が見える。


北の郭の城壁からの眺望
挟間が設けられている。


ウフガー(大井戸:番所井戸)の案内標識が。


石段を下って行くと・・・


ウフガー(大井戸)があった。
西の郭には夫婦井戸と呼ばれる二つの井戸がある、そうだ。
ウフガーは、別名バンジュガー(番所井戸)とも呼ばれている。
もともと城郭の外側にあった水場を、護佐丸(1440~1458年居城)が、
城内に取り込むため北の郭を増築して井戸を造ったと考えられている。


この井戸はバンジュガー(番所井戸)とも呼ばれていることから、
一の郭に番所が置かれていた頃に造られた石積みではないかと考えられている。
城郭内に水を確保していることが、この城の特徴でもある、そうだ。
井戸の周辺ではひんやりとした冷気を感じた。


北の郭へ戻り、


二の郭・一の郭・西の郭へ通じる門を潜る。


西の郭へは立入禁止になっていた。
西の郭は諦めて、


順路に従って二の郭・一の郭・南の郭方面へ。


階段を上ると、


10時24分、二の郭の広場に出た。


二の郭から見る一の郭の城壁
二の郭の城壁と同様、布積み(豆腐積み)と呼ばれる技法が用いられている。


二の郭の広場
三の郭の広場より少し広い感じだ。


二の郭の城壁へは石段があり、上れるようになっている。
城壁を歩いてみよう。


二の郭の石積みは、布積みという技法で積まれている。


城壁の曲線が美しい。
本土の城の石垣とは異なり、一際目を引く。


城壁から見た二の郭の広場
正面に見えるのは、一の郭の城壁である。
手前の石碑は日露戦争の忠魂碑


二の郭の城壁から三の郭を見下ろしたところ。
三の郭前の記念運動場も見える。


二の郭の城壁から中城湾方面(太平洋)を望むこともできる。


二の郭の城壁上を一周し、一の郭へ。


一の郭へ通じるアーチ門
ペリー探検隊一行が称賛したと言うのも頷ける。


10時31分、アーチ門を潜ると、中城城で最も広く最も標高が高い一の郭に出た。
一の郭は正殿跡があった場所である。
歴代の先中城按司や中城按司「護佐丸」が居城していたと伝えられている。
ここは、中城城の中心にあり、政(まつりごと)を執り行っていた建物が
建っていたと考えられている。
(注:沖縄のグスクには、本土の城にあるような天守閣は存在しない、とのこと)


護佐丸滅亡後は、中城の地が琉球国王の世継ぎである中城王子の所領となり、
17世紀前半にはこの場所に間切番所(まぎりばんじょ)が置かれ、
明治期には琉球の日本併合とともに番所は役場と名を改め、
1945年4月の沖縄戦で焼失するまで、同地は中城の行政の中心地として
長い期間使用されていた、とのこと。


後に建てられた間切番所(まぎりばんじょ)は、廃藩置県後は
中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失した、そうである。
一の郭の正殿付近から今潜ってきたアーチ門を見る。


城内には、各所に拝所が見られる。
城内には八つの御嶽があるという。


一の郭にも2つ拝所があり、これはそのうちの一つ。
拝所:中森ノ御イベ(通称:着替御嶽:ちげーうたき


一の郭から、拝所及び二の郭へ通じるアーチ門方面を望む。
城壁の曲線が美しい。


一の郭には観月台がある。


観月台からの眺望は素晴らしい。


観月台からの眺望


沖縄成田山福泉寺


まるで廃城のような不気味な建物だ。
最初に遠目に見た時は、中城城の一部かと思った。


中城湾に面して石油備蓄タンクが見えるが、何かの工場?だろうか。


一の郭の西側城壁前には、解体工事のためか、
番号と数字の書かれた石が並べられていた。


南の郭へ通じる石造拱門(アーチ形の門)は、既に解体工事は終わっていた。


10時39分、門を潜った内側から南の郭の拱門を望む。
アーチ形に石を組んだこの形式の門はグスクの特徴ともなっている。


拝所・雨乞いの御嶽


拝所:小城ノ御イベ
南の郭にある聖地久高島への遥拝所(通称久高遥拝所)


南の郭


御當蔵火神(通称:首里遥拝所)


南の郭の城壁に残る穴は、火矢のための挟間だった、と考えられている。
鍛冶屋や西の郭近くから、金属弾や石弾が見つかっている、そうである。
種子島に鉄砲が伝来するより約100年も前のことと言うから、驚きである。
琉球は、唐や明と貿易をしていたことから、武器先進国だった中国から
火器を容易く手に入れることが出来たと考えられる、とのこと。


10時43分、南の郭から正門へ


正門は、首里城に向かって開かれ、かつては石造りの門の上に
木造りの櫓が乗っていた痕跡がある、そうだ。


正門の正面(首里城方面)から見たところ。
後ろに見えるのは、修理工事中の一の郭の西側城壁だ。


正門の前に「史跡中城城」の碑が建てられている。


正門正面から全体を望む。


順路に従って鍛冶屋跡へ。


10時46分、坂道を下ると、広場に出た。


右手に見えるのは、アメリカ統治時代の不良債権の残骸?
心霊スポットでもあるらしい。


広場の左手に回ると鍛冶屋跡(カンジャーガマ)が。


鍛冶屋跡(カンジャーガマ)
鍛冶を行っていた所と云われているが、城のためか集落のためか定かではない。
一説によれば護佐丸か阿麻和利に備えるために武具を作っていたとも伝えられている。


10時49分、鍛冶屋跡を後にして、入口へ戻ることにした。
途中に世界遺産の碑が建てられていた。
最初に見た碑と同じである。


左側が戻りの道だ。


戻りの道は、舗装されている。


ハイビスカスが咲いていた。


10時56分、城の入口に到着
およそ1時間の城内散策だった。
かみさんたちは、とっくに到着してゲームに夢中な様子だった。


この後、歴史的建造物(民家)で、国の重要文化財に指定されている、
中村家住宅に立ち寄った後、首里城へ向かった。


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