2016年8月1日(月)
チャシ跡は、アイヌ文化期(13~19世紀)の砦跡とされているが、チャシ跡の築造は、18世紀頃までとされている。
砦の他にも見張場・聖地・祭祀場などの使われ方をしたようで、その規模や形状はさまざま、そうである。
北海道内には500ヵ所以上のチャシ跡が確認されている。
特に道東地方はチャシ跡の分布密度が高く、根室市内にはチャシ跡が32ヵ所現存している。
その殆どがオホーツク海を臨む海岸段丘上に造られている。
根室半島のチャシ跡群は保存状態が良好なこと、分布密度が高いこと、寛政元年(1789)の
和人のアイヌ民族に対する非道が発端の「クナシリ・メナシの戦い」と関連性が高いことから、
根室半島に分布する24ヵ所が、「根室半島チャシ跡群」として、昭和58年に国指定史跡となっている。
根室半島のチャシ跡群分布図
日本100名城ガイドブックの他には何も資料を持ち合わせていないため、
前日、スタンプ押印も兼て「根室市歴史と自然の資料館」を訪れることにした。
ガイドブックには「根室市歴史と自然の資料館」の住所は記載されておらず、
電話番号を頼りにNAVIに入力すると、花咲港中央付近が案内された。
花咲港近くの大八カニ店から「根室市歴史と自然の資料館」へ直接電話して、場所を教えて貰った。
電話では直ぐ近くのようだったので、歩いていけると考え、指示に従って進むことにした。
これが意外に遠かった。
指示どおり近くに花咲港金刀比羅神社があった。
金刀比羅神社から少し先の坂道を上って行くが、それらしき建物は見当たらない。
場所を間違えたのではないかと、少々不安になった。
深い霧の中、急坂の道を上って行くこと約400m、
ようやく「根室市歴史と自然の資料館」に辿り着いた時には、体中が汗だくになっていた。
「根室市歴史と自然の資料館」でスタンプを押印し、パンフレットを貰った。
パンフレットには、ヲンネモトチャシ跡とノツカマフ1・2号チャシ跡の説明や、
クナシリ・メナシの戦いとチャシ跡の関係など、日本100名城ガイドブックには
記載されていない情報が載っていた。
これらの情報を元にチャシ跡を訪れることにしよう。
大八カニ店に戻り、今夜のつまみに花咲蟹を購入。
花咲蟹がたっぷりと入ったカニ炒飯もお薦めらしい。
NHK-BS3の”心たび”で日野正さんが美味しそうに食べていたのを思い出した。
カニ炒飯は、実際に大変美味しく孫にも好評だった。
花咲蟹が美味かったのは言うまでもない。
翌日(8月1日)、先ずは納沙布岬を訪れることにした。
納沙布岬へ向かう途中、根室市街地(西浜町)の近くの岬にチャシ跡らしきものが見えたが、
これは、日本100名城ガイドブックに記載されているアツケシエト1号2号チャシ跡だろうか?
納沙布岬灯台
北海道灯台発祥の地で、本土最東端の灯台である。
日本で一番早く朝日が昇る。
本土最東端納沙布岬の標柱を前に孫と記念撮影
納沙布岬には、北方領土の返還を求める標柱が多い。
”呼び返そう 祖先が築いた 北方領土”
”返せ 全千島 樺太 北の防人”
全ての日本人の願いが込められている。
北方館の建物には、”北方領土は日本の領土”と書かれている。
四島返還を求める碑には、”四島のかえる日平和の日”が英語で併記されている。
四島のかけ橋の碑
聖火のように赤々と灯が燃えている。
四島が返還されるまで絶えることなく燃え続けるのだろう。
四島のかけ橋には、次のように刻まれている。
四つの島がしっかり支え合っているこのシンボルは、歯舞・色丹・国後・択捉島の祖国復帰をひたすらに願う
全国民の祈りを込めて、建立されました。
みなさんとともに、わが国固有の領土であるこの島々が祖国に還る日を、力強く祈念しつづけましょう。
北方館の前に寛政の蜂起和人殉難墓碑が建てられていた。
「根室市歴史と自然の資料館」で入手したパンフレットにも記載されている。
「墓碑裏面には、和人の視点からアイヌ民族が不意に襲って来たとあるが、
和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と事実は異なる」
との記述がある。
墓碑表面:横死七十一人之墓
(不慮の死を遂げた七十一人の墓)
墓碑裏面には、
寛政元年五月に、この地方の凶暴なアイヌが集まり、突然反乱を起こした。
偶然居合わせた侍や漁民、合計七十一人が殺された。その姓名の記録は役所にある。
ここに合わせて供養し、この碑を建てる、と刻まれている。
和人を殺害したアイヌ民族37人は、ノッカマップに連れてこられ処刑された、そうである。
墓碑側面には、文化九年歳在壬申四月建
(文化九年四月に建てる)と刻まれている。
日本100名城ガイドブックには、根室半島の概略地図と、チャシ跡名が記載されている。
そこで、記載されていた納沙布岬近くのポンモイチャシ跡を探した。
地図で示された辺りの景色だが、ここがポンモイチャシ跡かどうかは定かではない。
標識などは何もなく、残念ながらポンモイチャシ跡を見つけることは出来なかった。
パンフレットに示されたチャシ跡を求めて、温根元漁港へ向かう。
温根元漁港の近くにヲンネモトチャシ跡の標識があった。
標識に従って進むと、草原に人が歩けるほどの細い道が続いていた。
草原の中を進むと、ヲンネモトチャシ跡の案内板が立っていた。
案内に従って進むと、
温根元野鳥観察舎があった。
海鳥やチシマシギをじっくり観察できるスポット、だそうだ。
野鳥観察舎をさらに進むと、右手に温根元の漁港が見えてきた。
温根元漁港を見ながら進むと、
根室半島チャシ跡群の標柱が建っていた。
ヲンネモトチャシ跡
チャシ跡は平に盛土され、周りを壕が囲んでいる。
深さは2-3m、かつてはもっと深かったのだろう。
小高い所がヲンネモトチャシ跡で、手前の窪んだ所が壕跡である。
ヲンネモトチャシ跡に立って、先ほどの根室半島チャシ跡群の標柱(白い杭のようなもの)を見たところ。
後方には温根元の民家が見える。
手前の窪んだ所が壕跡。
ヲンネモトチャシ跡には先ほどとは別の標柱が建っていた。
チャシ跡から温根元漁港を望む。
ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(1)
ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(2)
ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(3)
今度は、温根元漁港からヲンネモトチャシ跡を見てみた。
日本100名城ガイドブックに載っていた写真と同じだ。
岬の先端がヲンネモトチャシ跡で、標柱が見える。
ヲンネモトチャシ跡を後にして、ノツカマフチャシ跡へ向かった。
ヲンネモトチャシ跡から根室市方面へ10Kmほど走ったノッカマップ岬に
ノツカマフ1号・2号チャシ跡の案内標識があった。
小さいながらも車が数台停まれる駐車場もあった。
案内標識に従ってノツカマフチャシ跡へ向かった。
雑木林を抜けると、
広い草原になっていて、細い道が続いていた。
細い道は次第に細くなって、草むらの中を歩く感じである。
この日は霧雨のような雨が降っていたので、ズボンの膝から下はびしょ濡れになってしまった。
ノツカマフチャシ跡の案内板
左側は2号チャシ跡で、1号チャシ跡は右側になっている。
最初に右側の1号チャシ跡へ向かった。
草むらの中を50mほど進むと、根室半島チャシ跡群の標柱が立っていた。
チャシ跡は、16~18世紀ごろ造られたアイヌの砦跡で、当チャシ跡は、
壕が半弧形に横二つ合わさったように掘られている、とある。
ノツカマフ1号・2号チャシ跡の説明板
ノツカマフ1号・2号チャシ跡の周辺地形図
ノツカマフ1号チャシ跡は、半円形の壕が2つ連結して構成されている。
壕の幅は約5m、深さは2-3mと深く、壕の一部に「土橋」と思われる高まりが見られる。
壕の内側は盛土され、チャシ跡中心部は平坦になっている、とのこと。
1号チャシ跡(正面から見たところ)
深くなっている所が壕である。
壕の向うは盛土がされて小高くなっている。
1号チャシ跡(左側の壕)
1号チャシ跡(右の壕)
1号チャシ跡中央部から説明板方面を見たところ。
1号チャシ跡(右の壕)
1号チャシ跡(土橋のある辺りか?)
1号チャシ跡から右方向に小さな港が見える。
1号チャシ跡から引き返し2号チャシ跡へ向かう。
1号チャシ跡から120mほど進むと、ノツカマフ2号チャシ跡の標柱があった。
2号チャシ跡標柱から先端を見たところ。
2号チャシ跡から標柱を見たところ。
左右に窪みが見られるのは、半円形で幅2-3mの壕が巡り、深さ50Cmほどと浅く造られている。
2号チャシ跡の先端は海に面している。
先端から海を見たところ。
ノッカマップ湾の海岸から見たノツカマフ1号チャシ跡
ノツカマフ1号・2号チャシ跡は、ノッカマップ湾に突き出した岬の上にある。
また、オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕が巡る形となっている。
この後、土砂降りとなった雨の中、日本100名城ガイドブックに紹介されていた他のチャシ跡(ヒリカヲタチャシ跡)を探したが、
残念ながら標柱も含めて見つけることはできなかった。
根室半島を後にして、知床方面へ車を走らせた。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
チャシ跡は、アイヌ文化期(13~19世紀)の砦跡とされているが、チャシ跡の築造は、18世紀頃までとされている。
砦の他にも見張場・聖地・祭祀場などの使われ方をしたようで、その規模や形状はさまざま、そうである。
北海道内には500ヵ所以上のチャシ跡が確認されている。
特に道東地方はチャシ跡の分布密度が高く、根室市内にはチャシ跡が32ヵ所現存している。
その殆どがオホーツク海を臨む海岸段丘上に造られている。
根室半島のチャシ跡群は保存状態が良好なこと、分布密度が高いこと、寛政元年(1789)の
和人のアイヌ民族に対する非道が発端の「クナシリ・メナシの戦い」と関連性が高いことから、
根室半島に分布する24ヵ所が、「根室半島チャシ跡群」として、昭和58年に国指定史跡となっている。
根室半島のチャシ跡群分布図
日本100名城ガイドブックの他には何も資料を持ち合わせていないため、
前日、スタンプ押印も兼て「根室市歴史と自然の資料館」を訪れることにした。
ガイドブックには「根室市歴史と自然の資料館」の住所は記載されておらず、
電話番号を頼りにNAVIに入力すると、花咲港中央付近が案内された。
花咲港近くの大八カニ店から「根室市歴史と自然の資料館」へ直接電話して、場所を教えて貰った。
電話では直ぐ近くのようだったので、歩いていけると考え、指示に従って進むことにした。
これが意外に遠かった。
指示どおり近くに花咲港金刀比羅神社があった。
金刀比羅神社から少し先の坂道を上って行くが、それらしき建物は見当たらない。
場所を間違えたのではないかと、少々不安になった。
深い霧の中、急坂の道を上って行くこと約400m、
ようやく「根室市歴史と自然の資料館」に辿り着いた時には、体中が汗だくになっていた。
「根室市歴史と自然の資料館」でスタンプを押印し、パンフレットを貰った。
パンフレットには、ヲンネモトチャシ跡とノツカマフ1・2号チャシ跡の説明や、
クナシリ・メナシの戦いとチャシ跡の関係など、日本100名城ガイドブックには
記載されていない情報が載っていた。
これらの情報を元にチャシ跡を訪れることにしよう。
大八カニ店に戻り、今夜のつまみに花咲蟹を購入。
花咲蟹がたっぷりと入ったカニ炒飯もお薦めらしい。
NHK-BS3の”心たび”で日野正さんが美味しそうに食べていたのを思い出した。
カニ炒飯は、実際に大変美味しく孫にも好評だった。
花咲蟹が美味かったのは言うまでもない。
翌日(8月1日)、先ずは納沙布岬を訪れることにした。
納沙布岬へ向かう途中、根室市街地(西浜町)の近くの岬にチャシ跡らしきものが見えたが、
これは、日本100名城ガイドブックに記載されているアツケシエト1号2号チャシ跡だろうか?
納沙布岬灯台
北海道灯台発祥の地で、本土最東端の灯台である。
日本で一番早く朝日が昇る。
本土最東端納沙布岬の標柱を前に孫と記念撮影
納沙布岬には、北方領土の返還を求める標柱が多い。
”呼び返そう 祖先が築いた 北方領土”
”返せ 全千島 樺太 北の防人”
全ての日本人の願いが込められている。
北方館の建物には、”北方領土は日本の領土”と書かれている。
四島返還を求める碑には、”四島のかえる日平和の日”が英語で併記されている。
四島のかけ橋の碑
聖火のように赤々と灯が燃えている。
四島が返還されるまで絶えることなく燃え続けるのだろう。
四島のかけ橋には、次のように刻まれている。
四つの島がしっかり支え合っているこのシンボルは、歯舞・色丹・国後・択捉島の祖国復帰をひたすらに願う
全国民の祈りを込めて、建立されました。
みなさんとともに、わが国固有の領土であるこの島々が祖国に還る日を、力強く祈念しつづけましょう。
北方館の前に寛政の蜂起和人殉難墓碑が建てられていた。
「根室市歴史と自然の資料館」で入手したパンフレットにも記載されている。
「墓碑裏面には、和人の視点からアイヌ民族が不意に襲って来たとあるが、
和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と事実は異なる」
との記述がある。
墓碑表面:横死七十一人之墓
(不慮の死を遂げた七十一人の墓)
墓碑裏面には、
寛政元年五月に、この地方の凶暴なアイヌが集まり、突然反乱を起こした。
偶然居合わせた侍や漁民、合計七十一人が殺された。その姓名の記録は役所にある。
ここに合わせて供養し、この碑を建てる、と刻まれている。
和人を殺害したアイヌ民族37人は、ノッカマップに連れてこられ処刑された、そうである。
墓碑側面には、文化九年歳在壬申四月建
(文化九年四月に建てる)と刻まれている。
日本100名城ガイドブックには、根室半島の概略地図と、チャシ跡名が記載されている。
そこで、記載されていた納沙布岬近くのポンモイチャシ跡を探した。
地図で示された辺りの景色だが、ここがポンモイチャシ跡かどうかは定かではない。
標識などは何もなく、残念ながらポンモイチャシ跡を見つけることは出来なかった。
パンフレットに示されたチャシ跡を求めて、温根元漁港へ向かう。
温根元漁港の近くにヲンネモトチャシ跡の標識があった。
標識に従って進むと、草原に人が歩けるほどの細い道が続いていた。
草原の中を進むと、ヲンネモトチャシ跡の案内板が立っていた。
案内に従って進むと、
温根元野鳥観察舎があった。
海鳥やチシマシギをじっくり観察できるスポット、だそうだ。
野鳥観察舎をさらに進むと、右手に温根元の漁港が見えてきた。
温根元漁港を見ながら進むと、
根室半島チャシ跡群の標柱が建っていた。
ヲンネモトチャシ跡
チャシ跡は平に盛土され、周りを壕が囲んでいる。
深さは2-3m、かつてはもっと深かったのだろう。
小高い所がヲンネモトチャシ跡で、手前の窪んだ所が壕跡である。
ヲンネモトチャシ跡に立って、先ほどの根室半島チャシ跡群の標柱(白い杭のようなもの)を見たところ。
後方には温根元の民家が見える。
手前の窪んだ所が壕跡。
ヲンネモトチャシ跡には先ほどとは別の標柱が建っていた。
チャシ跡から温根元漁港を望む。
ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(1)
ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(2)
ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(3)
今度は、温根元漁港からヲンネモトチャシ跡を見てみた。
日本100名城ガイドブックに載っていた写真と同じだ。
岬の先端がヲンネモトチャシ跡で、標柱が見える。
ヲンネモトチャシ跡を後にして、ノツカマフチャシ跡へ向かった。
ヲンネモトチャシ跡から根室市方面へ10Kmほど走ったノッカマップ岬に
ノツカマフ1号・2号チャシ跡の案内標識があった。
小さいながらも車が数台停まれる駐車場もあった。
案内標識に従ってノツカマフチャシ跡へ向かった。
雑木林を抜けると、
広い草原になっていて、細い道が続いていた。
細い道は次第に細くなって、草むらの中を歩く感じである。
この日は霧雨のような雨が降っていたので、ズボンの膝から下はびしょ濡れになってしまった。
ノツカマフチャシ跡の案内板
左側は2号チャシ跡で、1号チャシ跡は右側になっている。
最初に右側の1号チャシ跡へ向かった。
草むらの中を50mほど進むと、根室半島チャシ跡群の標柱が立っていた。
チャシ跡は、16~18世紀ごろ造られたアイヌの砦跡で、当チャシ跡は、
壕が半弧形に横二つ合わさったように掘られている、とある。
ノツカマフ1号・2号チャシ跡の説明板
ノツカマフ1号・2号チャシ跡の周辺地形図
ノツカマフ1号チャシ跡は、半円形の壕が2つ連結して構成されている。
壕の幅は約5m、深さは2-3mと深く、壕の一部に「土橋」と思われる高まりが見られる。
壕の内側は盛土され、チャシ跡中心部は平坦になっている、とのこと。
1号チャシ跡(正面から見たところ)
深くなっている所が壕である。
壕の向うは盛土がされて小高くなっている。
1号チャシ跡(左側の壕)
1号チャシ跡(右の壕)
1号チャシ跡中央部から説明板方面を見たところ。
1号チャシ跡(右の壕)
1号チャシ跡(土橋のある辺りか?)
1号チャシ跡から右方向に小さな港が見える。
1号チャシ跡から引き返し2号チャシ跡へ向かう。
1号チャシ跡から120mほど進むと、ノツカマフ2号チャシ跡の標柱があった。
2号チャシ跡標柱から先端を見たところ。
2号チャシ跡から標柱を見たところ。
左右に窪みが見られるのは、半円形で幅2-3mの壕が巡り、深さ50Cmほどと浅く造られている。
2号チャシ跡の先端は海に面している。
先端から海を見たところ。
ノッカマップ湾の海岸から見たノツカマフ1号チャシ跡
ノツカマフ1号・2号チャシ跡は、ノッカマップ湾に突き出した岬の上にある。
また、オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕が巡る形となっている。
この後、土砂降りとなった雨の中、日本100名城ガイドブックに紹介されていた他のチャシ跡(ヒリカヲタチャシ跡)を探したが、
残念ながら標柱も含めて見つけることはできなかった。
根室半島を後にして、知床方面へ車を走らせた。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
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