ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第2回 吉田宿~藤川宿(1日目)

2018年06月03日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年6月3日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージは、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から歩き始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにしている。

第Ⅲステージ第2回(1日目)は、吉田宿(JR小坂井駅)~赤坂宿(名電赤坂駅)を
予定している。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅6時56分発新大阪行「こだま号」に乗車


今日は富士山がはっきりと見える。
雪はかなり解けており、あまり残っていない。


9時8分、定刻通り豊橋駅に到着した。


豊橋駅でJR飯田線に乗り換え、


9時46分、この日の出発地小坂井駅に到着


前回(2018年5月15日(火))は前を通過しただけの
菟足(うたり)神社へ寄ってみることに。


9時58分、本殿の鳥居前に行ってみると、


神社では神前結婚式が執り行われていた。
どうやら式は終わったようだが、”吉田の手筒花火”が行われるとのこと。


危険だからということで、一般の人は境内から出され、
結婚関係者は本殿の中から見物するという形に。
祝いの手筒花火が始まった。


これがあの勇壮な”吉田の手筒花火”なのだろう。
TVで見たことはあるが、実物は初めてだ。
最後にドカンと大きな音ががして、辺り一面煙に包まれ、
境内には火薬の匂いが立ち込めた。


この後花嫁・花婿は社殿を後にして、


鳥居前の田んぼを見下ろす場所へ移動。
この後、若い二人の門出を祝う盛大な花火が打ち上げられた。


菟足神社を後にして旧東海道へ戻り、この日の目的地赤坂宿を目指した。


10時15分、JR飯田線の踏切を横断し、この日のスタートだ。


道が緩くカーブしている所に秋葉神社があった。


境内の常夜燈は文化五年(1808)の建立、とのこと。
秋葉神社の社に軽く参拝して、旧東海道へ。


10時25分、諏訪山明光寺前を通過


左手に伊奈村立場茶屋跡(茶屋本陣跡)らしきものが見えた。


茶屋本陣は、吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられた。
茶屋のうち格式高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、
「良香散」という腹薬が有名であった。
芭蕉とも親交のあった俳人の鳥巣(うそう)はこの加藤家の生まれである。
かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」の芭蕉句碑が建つ。


旧東海道を進むと村社迦具土(かぐつち)神社の鳥居が。


迦具土神社は、延宝八年(1680)創建と伝わり、
伊奈村茶屋町の氏神だったと推察されている。


旧東海道を道なりに進むと、山本太鼓店が。


伊奈一里塚跡
山本太鼓店の角に江戸から数えて75番目の伊奈一里塚碑があった。
碑が立っているのみで当時の面影は何もない。


速須佐之男(はやすさのお)神社の鳥居があった。


速須佐之男神社社殿
明和七年(1770)10月9日創建で、速須佐之男命を祭神とする。
旧伊奈村新町の氏神で、天王社と呼ばれていた。


佐奈川に架かる佐奈橋の歩道(左側)を渡る。


時折現れる旧い家に目を奪われながら進むと、


冷泉為村(れいぜいためむら)卿の歌碑の案内標識が。


標識に従って右に折れて100mほど進むと、
冷泉為村歌碑と若宮白鳥神社遥拝所と刻まれた石柱があった。


江戸中期の歌人冷泉為村が、桜町に訪れた際に詠んだ歌が刻まれている。
散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ


時折見かける古い家は、連子格子の様式が多い。


白川に架かる五六橋を通過すると、


白鳥生コンの工場が現れる。


西古瀬橋を渡ると、


大小の工場などが立ち並ぶ。
工場団地といった環境になる。


そのまま旧東海道(県道496号)を進むと、県道31号に突き当たった。
真っ直ぐには進めない。


仕方がないので、左に曲がって、県道31号下を潜り、


反対側の旧東海道(県道496号)へ。
途中案内表示などは見当たらなかったが、道は合ってるのかな?


構わず旧東海道(県道496号)と思える道を進むと、


白鳥5西交差点で国道1号に合流した。


名鉄名古屋本線を跨いで進む。


国道1号国府町薮下交差点で、旧東海道は、左へ分岐する。


11時52分、国府交番前を通過


寿司・うなぎの「だるま」辺りが旧国府立場の江戸方出入口と思えるが・・・


常夜灯
旧国府立場の江戸方出入口付近に残る秋葉山常夜灯。
寛政十二年(1800)国府村の火除け・村中安全を祈願して建立された、そうだ。


薬師堂
熊野へ行く途中、国府の郷を通った行基は、二人の姉妹が住む家に投宿した。


姉妹が死んだ父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼み、
行基が近くの古木の杉から薬師瑠璃光如来像を刻むと、
姉妹はこれを安置した寺を建立したという。


瑠璃殿の扁額には文政四年(1828)八幡山巌禅翁と書かれている。


薬師瑠璃光如来像


薬師堂境内の石仏群


旧東海道(県道374号)を進むと、交差点があり、


国府観音200mの案内標識が。
芭蕉句碑とも書かれている。
ちょっと立ち寄ってみよう。


12時24分、旧東海道から200mほど逸れた国府観音に到着


高麗門形式の山門を潜ると、


左に鐘楼があり、


その少し奥に芭蕉の句碑があった。
紅梅や 見ぬ恋作る 玉すだれ


国府観音本堂


本尊は一寸八分の観音像と云われている。


本堂右側の小さなお堂の中には御賓頭盧様(おびんずるさま)が祀られていた。


旧東海道に戻り、


旧東海道を進む。


12時42分、大社神社に到着。
大社神社は、昔は国府大明神とも呼ばれていた。
明治五年(1872)国府村の総氏神となった。


鳥居を潜り、


大社神社拝殿へ
大社神社は、天元・永観年間(978~985年)大江定基が三河守に着任の折、
三河国の安泰を祈念して出雲大社より大国主命を勧請、
合わせて三河国中諸社の神々を祭神に祀ったと社伝にあるという。


拝殿内


本殿の裏で弁当タイムだ。
今日の弁当は、東京駅で買ったおにぎり弁当(864円)である。


大社神社の境内に身代わり大黒がある。
”自身の病有る箇所に水を掛け流せば、病気平癒の霊験あり”と
書かれた説明があった。


大社神社社殿に向って左手奥に、進雄神社(天王宮)と、
御鍬稲荷神社が祀られていた。


右に進雄神社(すさのおじんじゃ)(天王宮)、
左に御鍬稲荷神社(みくわいなりじんじゃ)が祀られている。
狛犬の狐の表情が怖い。


大社神社を超えて100mほど進むと蒲郡信用金庫国府支店の
植え込みの中に江戸から数えて76番目の御油一里塚の碑がある。
伊奈一里塚同様、碑が立っているのみで当時の面影は何もない。


御油一里塚を少し進むと、姫街道と東海道が分岐する追分があり、


道標と立派な常夜燈が立っている。


旧街道を進んで行くと、


13時26分、御油橋に到着
最初は織田信長が架けたと云われている、そうだ。


音羽川


音羽川を渡った御油橋角に小さな若宮八幡社があった。
若宮八幡社の詳しいことは分らない。


花・ベルツゆかりの地
明治政府が招いた日本近代医学の祖といわれるドイツ人医師ベルツ博士。
ベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしていた荒井花子は、
博士が亡くなった後もドイツに残っていたが、第一次世界大戦のため、
大正11年(1922)に日本に帰国。1936年、74歳でこの世を去った。
父親の生家が御油宿で戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所。


連子格子の旧家前を通り、御油松並木へ。


御油宿高札場跡
江戸時代に代官所が町民や旅人に、諸規則を知らせるために設置した掲示板を
高札という。
御油宿ではこの場所に高札が立てられていた。


旧東海道は、案内表示では、この高札場跡で直角に曲がることになる。


御油宿問屋場跡
江戸時代の宿場町で、公用の荷物や人の継ぎ送りに必要な人足や馬を備え、
大名や幕府の役人などに人馬を促供し、輸送にあたらせた所。
御油宿の問屋場は、この場所にあった。


御油松並木の案内表示。
御油松並木まで1000mとある。
御油宿の中心地は、クランク状態に曲がっている。


問屋場跡の先を左に曲り、旧道を進む。


御油宿本陣跡
御油宿には2軒の本陣があった。
この場所は鈴木半左衛門が営んでいた本陣の跡である。


御油宿で味噌・醤油の醸造を行っているイチビキの工場(蔵)
明治44年に御油工場に完成した、桶底の直径が1丈3尺(約3.9m)
高さ1丈3尺(約3.9m)容量約50tという日本最大級の味噌仕込桶が
自慢のようである。
一度実物を見てみたいものだ。


東林寺の案内表示があった。


東林寺山門
浄土宗の寺院、山号は招賢山
三河准四国八十八ヶ所50番霊場で、御油観音と呼ばれている。


東林寺本堂
室町時代中頃の永享年間(1429~1441)に瀧月日蔵和尚によって創建されたという。
本尊の阿弥陀如来は、牛若丸と契りを結んだ浄瑠璃姫の念持仏と言い伝えられている。 


三河の領主であった徳川家康も2回立ち寄った。 


本堂左手の墓地の中には御油宿場の繁栄の陰で働いていた
飯盛女たちの墓がひっそりと佇んでいる。


旧東海道を進む。
旧い家が立ち並び、宿場の雰囲気が感じられる。


連子格子の家の先に、


13時56分、御油の松並木の東端に到着


御油の松並木の入口に、御関札立掛場跡がある。
御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、
宿泊先となる宿場の本陣や問屋に事前に申し伝え、宿泊当日の
3日前迄に本陣、町役人は、宿場の出入り口に板に宿泊年月日・
藩主名・出向く先を記入し、太い竹竿に取り付け、立掛けられた看板を言う。
寛文元年十一月二十一日 松平丹波守宿という関札が立掛けてある。


天然記念物 御油松並木
この松並木は慶長九年(1604)徳川家康が植樹させたもので、当初600本以上あった。
長い歳月の間に減少したが、現存する松並木では昔日の姿を最もよく残すものとして、
第二次世界大戦中の昭和19年11月7日、国指定の天然記念物となった。


御油松並木の東端に十王堂があった。
十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のこと。
閻魔大王もその一人である。
仏教では、死者は冥界で順次十人の王の裁判を受けて、
次に生まれてくる所が定まるとされている。


十王堂からクロマツの並木が600mに渡って続いている。
樹齢300年以上のものが350本ほど保存されている、そうだ。


御油松並木は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくる弥次郎兵衛、
喜田八が狐に怯えた珍騒動の舞台にもなっている。


約10分で御油松並木の西端に到着


松並木のすぐ先に見附跡の説明板が。


赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道を挟んだこの辺りの両側にあり、
西は八幡社入口付近の片側にあった。(以下略)
ここは赤坂宿の東(江戸方)入口である。


連子格子の家


14時19分、関川神社に到着


関川神社拝殿


芭蕉「夏の月」句碑
夏の月 御油よりいでて 赤坂や
この句は延宝四年(1676)、初めて伊賀上野に帰省するとき詠んだもので、
御油、赤坂間の距離の短さを踏まえて詠んだもの、とされる。


関川神社の楠は町内一の巨木で、幹の周りは目の高さで7.29m、高さ25.7mあり、


推定樹齢は約800年、と云われている。


木の根元のえぐれている部分は慶長十四年(1609)十王堂付近から出火した
火災時に焼けたもの。


旧い家


軒下の酒の銘柄は今でも残っているのだろうか。


赤坂宿本陣跡
赤坂宿の本陣は、宝永八年(1711)の町並図によると、4軒あった。
そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、
人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。


赤坂宿高札場


旅籠尾崎屋
軒下の看板に「曲物民芸品製造卸問屋」と書かれている。
(曲物は、檜・杉など薄く削った材を円形または長円形に曲げて作った容器)


旅籠大橋屋は保存整備工事中だった。
亭保十八年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせ屋敷400軒のうち、
83軒が旅籠屋だった。
大橋屋の旧屋号は鯉屋。
正徳六年(1716)の建築と云われ、赤坂宿の旅籠屋の中では大旅籠で、
間口9間・奥行23間ほどあった、そうである。


旅籠大橋屋を江戸時代の建築当初の姿(一部近代を含む)に復原する
保存整備工事を平成30年12月頃まで実施しています。
(豊川市教育委員会)


御休所「よらまい館」
平成14年にオープンした赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設である。


中では子供たちがゲームに夢中だった。


赤坂陣屋跡(三河県役所跡)
赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、年貢の徴収や訴訟などを取り扱った。
幕末に三河県役所と改められたが、廃藩置県後、明治五年に廃止となった。


赤坂陣屋跡の近くに高札場跡の標柱が。
文字が消えそうな状態のところに、ガードレールが邪魔をして、
危うく見落とすところだった。


ここから先は明日歩くことにして、


名電赤坂駅を目指した。
国道1号を横断


15時9分、名電赤坂駅に到着


15時12分の伊奈行に乗車し、


国府(こう)で豊橋行に乗り換え、15時40分、豊橋駅に到着した。


大橋通り方面


広小路を歩き、今宵の食事処を探す。


今宵はかつ丼の「かつ里」にしよう。


ときわ通りを抜け、


15時58分、ホテルルートイン豊橋駅前に到着
前回と同じホテルである。


2Fの大浴場で汗を流し、さっぱりした後、
広小路の「かつ里」へ食事に出かけた。
一人で食事するには、このような店に限る。


ビールで喉を潤した。


第Ⅲステージ第2回目(吉田宿から藤川宿)の1日目(吉田宿から赤坂宿)
を歩き終わった。
菟足神社では偶然にも神前結婚式に遭遇し、吉田の手筒花火を見ることが出来た。

やはり旧東海道は、見どころが多い。
歩いた距離はそれほどないが、いろいろなものがあって、退屈しない。
しかし、一人で歩いていると、見落とすものが多いのも事実である。
これからも出来るだけ見落とさないように気を付けながら、
歩いて行きたい。

この日の万歩計は、26,000歩余を計測していた。

旧東海道第Ⅲステージ第2回 吉田宿~藤川宿(2日目)

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