ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅡ 第一回 中山道(蕨宿~大宮宿)

2018年01月21日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年1月21日(日)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
として、新たな”街道歩き”を始めることにした。

「旧街道を歩くⅡ」第一回目は、中山道の蕨宿~大宮宿間(約11Km)を歩いた。

荒川沖6時37分発の電車に乗車。


いつものメンバー、話も弾む。
この日の参加者は、自身も入れて7名である。


上野から京浜東北線に乗り換え、8時20分、蕨駅に到着


8時24分、蕨駅前を出発!


最初に立寄ったのは和楽備神社
この日の無事・安全を祈願して行くことにした。
和楽備神社は、社伝によると、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、
渋川氏が蕨城築城の折、八幡神を祀ったのが最初とされる。


江戸時代には蕨八幡と呼ばれ、明治44年に町内18社を合祀して和楽備神社と改称した。
合祀後の神社名に、祭神名(八幡神)を取ることは、各集落とも承服しない状況であり、
蕨一字では尊厳味がないので、岡田健次郎元町長の知人本居豊穎に依頼し、
万葉仮名から取って、和樂備神社と命名した、とのこと。
和楽備神社拝殿に参拝!


和楽備神社を後にし、旧中山道へ。


8時48分、蕨市役所前を通過


旧中山道(中山道蕨宿本陣跡交差点)に到着。
前回(2016年2月28日(日))、ここまで歩いているので何となく見覚えがある。


中山道武州蕨宿 板橋宿二里十町と刻まれた道標が。


反対側には、浦和宿一里十四町とある。
浦和までおよそ5.5Kmほどだ。


中山道(国道17号)を浦和方面へ。


400mほど進むと、「中山道ふれあい広場」があった。


蕨宿の浦和宿側の出入口である蕨宿上方木戸跡があった場所である。
(写真は、旧中山道蕨宿方面)


旧中山道との合流点は蔵造りの交番になっており、
交番の裏に「中山道ふれあい広場」がある形になっている。


「中山道ふれあい広場」の壁には大名行列などが描かれている。


旧中山道は、交番前の錦町三交差点を横断し、真っ直ぐに進む。
右は中山道(国道17号)になる。


旧中山道沿いには古い建物を見ることが出来、昔を偲ぶことができる。


旧中山道を進む。


長久山宝蔵寺という寺があった。


日蓮宗の寺院である。


宝蔵寺の少し先に中山道蕨宿一六橋と書かれた木柱があった。
一六用水に架かる一六橋のいわれ(説明の立札)
この橋は、見沼用水の分流、通称一六用水に架かっており、一六橋と名付けられた。
「一六」という名称は、南北朝時代~戦国時代(十四世紀~十六世紀)に、
この辺りで一と六の付く日に、「市」が開かれたことによると伝えられている。
江戸時代にはすでに一六橋の名が見えており、明治初年に書き上げられた
「武蔵国 郡村誌」には、長さ五尺(約151.5cm)、巾五尺の石造りと記されている。
平成24年3月吉日 一六会


一六橋の直ぐ先に中山道蕨宿一番地と書かれた木柱が。
境橋のいわれ(説明の立札)
この橋は、蕨宿と辻村との境を流れる見沼用水分流の笹目用水に架かっており、
そこから境橋と名付けられた。
江戸時代の中ごろまでは木製であったが、寛政九年(1797)に
蕨宿の池上氏が中心となり石製の橋を完成させた。
明治初年に書き上げられた「武蔵国 郡村誌」には、
長さ一間半(約2.7m)、巾二間半(約4.5m)の石造りと記されている。
平成24年3月吉日 一六会


9時33分、外環道手前の辻の一里塚跡に到着
日本橋から数えて5番目の一里塚だが、現在は碑が残るのみ。


一里塚碑の隣に、弁財天が祀られている。


弁財天の説明には、次のように記されている。
昔、この辻地区は湿地が多く、村人達は大変難儀をした。
この水難を守る為、水の神弁財天を安置し、地区の守り神とすると共に、
中山道を旅する人々の安泰を願った。
由来伝記の為、有志相計り保存会を結成し、
祠を再建して、ふる里の道しるべとする。


外環道を潜り、少し進むと、


小さな神社があった。
熊野神社である。


”おくまんさま”といわれ、辻の鎮守として地域の人々から信仰を集めている。


旧中山道を進む。


焼米坂
本名は浦和坂だが、江戸時代、新名物焼き米の看板を掲げ、
中山道を通る旅人に炒った米を売る茶店が数件あり、
この焼米坂の名が定着した。


焼米坂
江戸時代には旅人にとっては難所であったというが、
実際にはそれほどの坂には感じられなかった。


焼米坂に隣接して南浦和小学校がある。
焼米坂と南浦和小学校の真下をJR武蔵野線が走っているのだ。


旧中山道を進む。


旧中山道を進む。


旧中山道を進む。


神社らしき木立が見えた。
10時21分、ここで少し休憩していこう。


立寄った所は調神社(つきじんじゃ)だった。
調神社は、およそ1800年前に創建されたとされる。
調とは、古代の税「租庸調」の調(貢ぎ物)で、武蔵国の調がここに集められた。
伊勢神宮へ納める貢物の初穂を納めた倉庫群の中に鎮座していたと伝わっている。


調神社は、鳥居の無い神社として有名。
調が音韻で「つき」となることから月待信仰と結びついたため、
神社の守護は狛犬ではなく兎になっている。


御手洗の水は、水の神様である龍神様から戴き、身を清めるといった意味があるが、
この調神社では、龍ではなく兎になっている。


調神社の境内で一休み。
各自が持参した茶菓子を配り合うのがこのグループの習わしになっているが、
一度では食べ切れない量である。
半分持ち帰ってかみさんに上げることにしよう。


調神社を過ぎると浦和宿だ。


両側をビルに挟まれた旧い家(文壽堂原田表具店)を見るとエールを送りたくなる。
『いつまでも頑張って!』


文壽堂の向い側の青山茶舗で浦和宿Map(100円)が売られていたので買った。
(この後、浦和宿Mapを手に歩いたが、かなり役に立った)


右手に浦和駅を見て、


県庁通りを横断する。


門前通り
細い通りの奥に真言宗豊山派の王蔵院が見える。


奈良漬の老舗酒井甚四郎商店前を通過


うらわ美術館とパインズホテル


石臼を椅子代わりに利用している。
ここで、KKさんが浦和宿Map上に本陣跡があるのを見つけた。
少し戻ることになるが、行ってみよう。


石臼のイスから、すぐの所に仲町公園という小さな公園があり、
その入口に浦和宿本陣跡の説明があった。
説明によると、浦和宿は、本陣一軒、脇本陣三軒、旅籠十五軒、商家二百軒余りがあり、
本陣は、代々星野権兵衛が勤めていた。
加賀前田家や皇女和宮が浦和宿で休憩したということが伝えられている。


仲町公園内の浦和宿本陣跡には、本陣跡説明板と明治天皇行在所跡碑が建てられている。


常盤公園への入口に野菜を売る農婦の像があった。


農婦の像の横に、二七の”市場通り”の説明が。
この通りの北側にある慈恵稲荷の社頭で、戦国時代以来、
昭和の初めまで毎月二・七の日に市が開かれた。
そこでは、農産物や各種生活必需品が取引された。
現在もその名残として市神様と市場定杭がある。


昭和55年、当時を偲んでこの通りに”市場通り”の愛称が付けられた。


慈恵稲荷神社
マンション群の間にひっそりと建っている。


参道に、二七の市場の跡碑が残されている。
江戸時代、十返舎一九は「代ものを 積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑い」
と詠み、浦和の市の賑いを表現している。
周辺では、蕨「一・六の市」、鳩ヶ谷「三・八の市」、与野「四・九の市」、
大宮「五・十の市」で市が設けられており、毎日どこかで市が開かれていたことになる。


慈恵稲荷神社
浦和宿上町の人々が祀った稲荷社で、二・七の日には鳥居を中心に
南北二町の範囲で市が立った。


国道463号を潜り、


JRの線路を跨ぐと、


右手の浦和橋の袂に笹岡稲荷神社の幟と赤い鳥居が見えた。
道路の反対側を歩いていたため、神社には立寄ることが出来なかった。
近くには、日本橋から6里目の一里塚があった、そうだ。


北浦和の市街地に入る。


浦和と言えばJ1浦和レッズの本拠地で有名である。


北浦和駅近くの通りに選手の手形や足型が並べられていた。


11時54分、北浦和駅前を通過


廓信寺(かくしんじ
サツマイモの女王といわれた紅赤発祥の地の碑がある。


参道を進むと六地蔵が迎えてくれる。


廓信寺の仁王門を潜る。
江戸後期の建立とのこと。


仁王門の金剛力士像(吽像)


山門を潜って境内へ。


境内には聖観世音菩薩像や法然上人像が建立されている。


廓信寺本堂
鎌倉期の木造阿弥陀如来坐像が安置されている。


秩父宮妃殿下御成お手植えの紅梅が咲いていた。


浦和市指定天然記念物のカヤの木
樹高16.5m、目通り幹周り2.46mの雄株で、枝下8mの直幹と
大きな樹冠から自然に垂れ下がる枝が、大樹の趣を見せている。
樹齢は、約300年と推定される。
平成8年11月(浦和市教育委員会、廓信寺)


12時16分、廓信寺を後にする


旧中山道を進んで行くと、


一本杉の仇討ち跡の説明板があった。
この地は、中山道界隈で「一本杉の仇討ち」として語り継がれた事件のあった場所。
この事件は万延元年(1860)常陸国鹿島津の官沖の船中で、水戸藩士宮本佐一郎と
讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が口論のすえ、斬り合いとなり、
宮本佐一郎が命を落としたことに端を発する。


河西はこの斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった
大老井伊直弼が桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ、吟味を受けた。
そのため、居所が宮本佐一郎の息子である宮本鹿太郎の知るところとなった。
鹿太郎は4年後の文久四年1月23日(1864年3月1日)に、西野里之進、西野孝太郎、
武藤道之助の3人の後見人と共に、仏門に入ろうと不動岡総願時から江戸に向かう河西を、
針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごとに父の仇を討って本懐を遂げたと伝えられている。


その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方へ引き取られ、1月27日に浦和宿にて
幕府の取り調べが行われた後、小石川の水戸藩邸へ引き渡された。
事件は幕府最後の仇討ちとして、刷り物・はやり歌などで中山道界隈に広まり
語り継がれていった。
かつて、一本杉は樹齢約18m、周囲約3mと云われ、松並木の中で一際秀でた大樹だった
また、河西祐之助は観音寺(廃寺)に葬られたが、現在は北浦和にある廓信寺で
供養されているという。


旧中山道与野駅辺り。
時計は12時40分を過ぎており、お腹も空いてきた。
ファストフード店でもと思ったが、それらしき店がなかなか見つからない。


県道159号の下を潜って100mほど進むと・・・


ファミレスRoyal Hostがあった。


近くに他に店が無さそうなので、Royal Hostで昼食を摂ることにした。


豚肉と野菜の甘酢あん(税込1,166円)を注文。
お腹が空いていたこともあり、美味しかった。


大宮の氷川神社を目指す。


さいたま新都心駅周辺の高層ビル群が見えて来た。


”お女郎地蔵と火の玉不動”は、さいたま新都心駅前の県道164号の反対側にあった。
もう少しで見落とすところだった。


お女郎地蔵(右)
大宮宿に柳屋という旅籠があり、千鳥と都鳥という街道筋でも評判の姉妹が
旅人の相手をしていた。
やがて、宿の材木屋の若旦那と千鳥が恋仲となり、末は夫婦にと堅い約束。
そこに割って入ったのが悪名高い神道徳次郎という大盗賊。
何が何でも千鳥を身請けするとせまり、ついに宿に火をつけると凄む始末。
これを知った千鳥は、思い余って高台橋から身を投げてしまった…。
哀れに思った町の者が、女郎地蔵を建立したという。


火の玉不動(左)
高台橋のあたりを毎夜火の玉が飛ぶので、ある男が火の玉に斬りつけてみると、
キャっと声がして火の玉が消え、暗がりにいた不動明王と名乗る男が、
「剣を斬り落とされた」と言い残して姿を消した。
高台橋に行き不動の姿を確かめると剣を持っていなかった・・・。
以来火の玉不動と呼ばれるようになった。


北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水に架かる橋が高台橋で、
中山道の東側は暗渠になり、橋であることに気が付かない、とある。
この下を鴻沼(こうぬま)用水が流れていることになる。


13時54分、さいたま新都心駅を通過


コクーンシティの景観や


さいたま新都心駅周辺の高層ビル群などをキョロキョロ見回しながら進むと・・・


氷川神社一の鳥居が見えた。


武蔵国一之宮碑
氷川神社は武蔵国の一之宮であり、大宮の地名の由来大いなる宮居ともなっている神社。
2000年以上の歴史があるともいわれ、各地に点在する氷川神社の本拠を成す存在である。


氷川神社参道入口
古く中山道は、一部この参道を通っていたが、不敬であるということで、
江戸初期に新たな道が開削された。


是より宮まで十八丁(約2Km)とある。
長い参道には、ケヤキを始めとした高木が600本以上植えられている、とのこと。
ここから宮までどのくらい時間がかかるのか計ってみよう。
14時3分、スタート


宮を目指して歩き出して100mほどで、一丁の石柱が現れた。
この先、十八丁まで続くのだ。


氷川神社参道を進む。
車は一方通行となっている。


14時15分、八丁を通過


氷川神社参道を進む。


十三丁を通過


14時27分、二の鳥居を通過


二の鳥居から先は、参道は人だけになり、広いので歩き易い。


名代氷川だんご
人気のだんご(みたらし)は2本200円、甘酒250円。
酒まんじゅうをその場で揚げてもらう揚げまんじゅう(2個200円)がお薦め、とのこと。
店の前には行列が出来ていた。


十七丁を通過
残りはあと一丁だ。


14時32分、十八丁に到着
一の鳥居をスタートして2Kmをおよそ30分、時速4Kmということになる。
しかし、氷川神社の本殿はまだ先だった。


十八丁の先には、露店が続いていた。


露店に続いて、三の鳥居を潜ると、


右手に神楽殿


その左隣には額殿が建っている。


左手には戦艦武蔵の碑や


酒造、水の神様の松尾神社が見える。


神池に架かる赤い橋を渡ると、ようやく氷川神社の楼門が見えてきた。


氷川神社の楼門を潜り、神社内へ。


舞殿の先に拝殿がある。


14時38分、拝殿前に到着した。
日曜日とあってか大勢の人が参拝していた。


我々もこの日の旅の無事を感謝して参拝!


拝殿の中は、大勢の人がお祓いをしてもらうために整列していた。


氷川神社への参拝を終えたことから、大宮駅へ向かうことにした。
再び楼門を潜り、


参道へ。


神池の橋を渡り、三の鳥居を潜り、露店の間を抜け、


今度は、逆方向に参道を歩く。


大宮駅を目指す。


二の鳥居で氷川神社の参道を離れ、大宮駅方面へ。


駅近くの商店街を通り、


駅前の細い”焼肉街”を通り抜け、


15時18分、この日のゴール大宮駅に到着した。


「旧街道を歩くⅡ」第一回目 中山道(蕨宿~大宮宿)を歩き終えた。
距離はさほどないと思っていたが、中山道に因む名所旧跡に立ち寄ったため、
万歩計は27,000歩を越えていた。
氷川神社から大宮駅への帰りは、ふくらはぎがパンパンに張って正直疲れた。

次回(2018年2月)は、東海道(興津宿~由比宿~蒲原宿)を予定している。
颯田峠から富士山の絶景を観ることができれば最高なのだが・・・

ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする