ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

城下町佐倉 侍のまちウォーキング

2015年11月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年11月27日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第22回(2015年第33回)、「城下町佐倉 侍のまちウォーキング」に参加した。
この日のコースは、2011年10月~12月にJR佐倉駅が開催した”城下町佐倉 サムライのまちハイキング”の
1枚の地図が頼りである。

常磐線荒川沖駅7時50分発の電車に乗り、我孫子駅で8時24分発成田行に乗り換える。
成田線車内は我孫子発時点では、ほぼ満席に近かったが、成田に近づくにつれ空席が目立ってきた。


9時9分、成田駅に到着。


成田駅9時26分発(9分遅れ)の逗子行に乗り換え、9時40分、ようやく佐倉に到着。
この日は、天気が良いので弁当を食べるには佐倉城址公園にしようということで、
地図とは逆の反時計回りにウォーキングすることにした。


この日の参加者は、現地直行の2名と合わせ、32名。想定を超える人数となった。
点呼を取るのを容易にするため、3班に分けることにした。
体調を整えて、9時52分、第3班10名に続き、第2班12名が出発!
しんがりは第1班10名だ。


駅舎内から駅前の歓迎の塔が見える。
『佐倉11万石か けっこう大きな藩だったんだねっ』


駅前から真っ直ぐ、国道296号へ向かう。
様々な女性の銅像が設置され、目を引く。


高崎川に架かる常南橋を渡り、


国道296号を横断。


国道296号に沿って酒々井方面へ進む。


ほどなく左手に千葉県印旛合同庁舎が現れた。
『いやぁ 立派な建物だねぇ ヘリポートもあるみたいだねっ』


印旛合同庁舎の信号を左折。


印旛合同庁舎の少し先、住宅地のあまり広くない生活道路へ。
(50mほど行き過ぎて道を間違ったことに気が付き戻ってきたところ)


住宅地の裏手に小さなお地蔵様がポツンと佇んでいた。
(地図にも載っていたので目印になる)


ところどころに色づき始めた紅葉を見ることが出来る。
『この辺りはまだ少し早いのかしらねっ』


ゲートボール場? 手前を左に曲がると薄暗い坂道になった。


『この坂道ちょっときついけど良い運動になるよねっ』
女性陣は元気いっぱいだ。


坂道を登り切ったところに、有料老人ホーム「ゆうゆうの里」があった。


10時31分、「ゆうゆうの里」の200mほど先に法光山要行寺という小さなお寺があった。


水分補給のため要行寺で小休止だ。
いつの間にか佐倉の見所の一つ、”旧堀田邸とさくら庭園”を通り過ぎてしまったようだ。
しかし、それらしき建物や看板は見当たらなかったように思うが・・・
どうやらコースを間違ってしまったのかもしれない。


今更”旧堀田邸とさくら庭園”(500m)に引き返すのも時間がかかるし、
ここは次の目的地「佐倉順天堂記念館」(800m)を目指すことにした。


全農家畜衛生研究所の生垣に咲いている山茶花を鑑賞しながら進む。


全農関連のクリニックセンターや、テニスコート、駐車場などが続く。
『全農って凄いわねっ』


住宅地を抜けた先の広い道路を左折し、「佐倉順天堂記念館」へ。


「佐倉順天堂記念館」の少し手前に旧佐倉順天堂と佐藤泰然・舜海の碑があった。
順天堂創設者・佐藤泰然の顕彰碑(写真左)には、泰然の生い立ちや生涯の業績を讃えた碑文が刻まれている。
佐倉順天堂三代目・佐藤舜海の頌徳碑(写真右)は、明治35年(1902)に門人らが舜海の「耳順」(60歳)を
祝って建立した頌徳碑。
二基の碑は、都市計画道路建設に伴い、平成5年に南方60mの場所から現在地に移設された、とのこと。


10時52分、「佐倉順天堂記念館」に到着。
「佐倉順天堂記念館」は、二基の碑の直ぐ先の信号を左折したところにあった。
案内板によると、
「順天堂」は、長崎に遊学後江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が佐倉に移り住み、
天保十四年(1842)に開いたオランダ医学の塾である。
(中略)
佐倉の順天堂は泰然の養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、「佐倉順天堂」として医療活動を続けた。
現在残っている建物は、安政五年(1858)に建てられたもので、その後拡充された施設の一部である。


前庭には、順天堂創設者佐藤泰然の胸像が。


入館料通常100円のところを20名以上の団体割引を利用し70円を払って入館。
”成田街道を歩く”で2012年5月24日(木)に一度訪れてはいるが、この時は時間の都合上入館しなかった。
再びこの記念館を訪れることがあるとは思っていなかったので、感慨深いものがある。


見学風景(1)


蘭医学塾「順天堂」創設者佐藤泰然


見学風景(2)


手術道具
『当時はこんなのこぎりなんかも使ってたんだぁ』


療治定(手術料)
様々な外科手術の料金が定められている。
『帝王切開なんかも当時からあったんだねぇ』


創設当時の病院マークは、菊の紋章になっている。


見学風景(3)


当時の佐倉順天堂病院の復元模型
『けっこう広かったんだねっ』


西南役大阪臨時病院負傷兵施術光景
西南戦争での負傷者のために大阪に臨時病院が設けられ、佐藤進がその院長に任命された。
この絵はエーテル麻酔下での脚切断手術場面を描いたもので、中央には監督する佐藤進が見える。
(以下略)


「佐倉順天堂記念館」を後にして、蘭学通りを進む。


蘭学通り(成田街道)


11時14分、佐倉市登録有形文化財に指定されている三谷家住宅前を通過
座敷屋は昭和十年(1935)頃に建てられ、出桁造りの主屋と並んで袖蔵が建つ、
当時の佐倉の伝統的な商家の構えを残している。(佐倉市教育委員会)


肴町山車飾
江戸時代後期の山車飾りに使われる彫刻が陳列されている。


11時25分、「手作り工房さくら」前を通過。
「手作り工房さくら」は、旧商家を活用した地域情報の発信拠点。
機織り・陶芸・工芸の実演や展示、ここにしかない佐倉の産品販売もあるお休み処。


11時26分、「佐倉新町おはやし館」に到着。


おはやし館前の高札場を復元した掲示が目を引く。


「佐倉新町おはやし館」は、毎年10月に秋祭りで活躍する山車人形の展示などを通して、文化・伝統を紹介する施設である。
入口に各町内の所有する6体の山車人形のうち2体が展示されている。
これはその一つ、二番町所有の玉井(たまのい)龍神
二番町に伝わる祭礼用山車の上部に置く山車人形だ。


こちらは肴町所有の竹生島龍神


中に入ると、秋祭りに使われる小道具が展示してあった。
各町内で使われる山車提灯


だるま・きつね・ひょっとこの面
佐倉の秋祭りでは、山車だけではなく、御神酒所という引き回し用屋台を町内ごとに引く。
その屋台の中で仁羽という曲に合わせていろいろなお面で舞を踊る演目がある、とのこと。


小太鼓
小太鼓には、古くから伝わる締太鼓という綱を使った太鼓と、近年のボルト締めの太鼓がある。


新町通を進むと、明治の呉服商「駿河屋」(今井家住宅)があった。
現在の建物は、今井氏が「駿河屋」の屋号で呉服商を営んだ古民家である。
主屋は、明治二十二年(1889)~明治二十五年(1892)前後に建てられた。
またここは、江戸時代の郷宿(旅籠)「油屋」の跡地でもあった。
桂小五郎(長州藩士)や山本覚馬(会津藩士)、清河八郎(庄内藩士)などが、
宿泊したことが、宿帳より分かっている、とのこと。
現在は、まちづくり情報発信・交流センターとして利用し、歴史学習や休憩ができる、
とのことだったが・・・戸は閉められていた。


佐倉市立美術館
大正時代建築の旧川崎銀行佐倉支店(県指定有形文化財)を活用し、
佐倉・房総ゆかりの作家・作品を中心に収蔵・展示している。


11時43分、麻賀多(まかた)神社に到着。


麻賀多神社拝殿
古くから「まかたさま」と親しまれてきた佐倉藩の総鎮守である。


お腹も空いて来たことだし、先を急ぐことにした。
弁当を予定している佐倉城址には、あまり遅くならないうちに到着したい。
麻賀多神社を後にして、次の訪問地武家屋敷へ向かう。


住宅地を武家屋敷へ向かう。


住宅地の中の細い道を道標に従って何度か折れ曲がって進むと、緑に囲まれた静かな一角があった。


武家屋敷である。
武家屋敷は、旧河原家・旧但馬家・旧武居家の3軒があり、拝観料は210円である。
団体割引(20人以上)で、150円で入ることが出来た。


旧河原家(1)
武家屋敷の規模や様式は、藩士の身分の象徴で、大きさや門の形などが異なる。
旧河原家は大屋敷(300石以上)、旧但馬家は中屋敷(100石以上)、
旧武居家は小屋敷(100石未満)にあたると推定される、そうだ。


旧河原家(2)


旧河原家(3)
台所


旧河原家(4)
風呂
桶に沸かしたお湯を溜めて入ったものと思われる。


旧河原家(5)


旧河原家(6)
座敷はそれほど広くはない。


旧河原家(7)
屋根は藁葺きである。


旧但馬家の入口


旧但馬家(1)
但馬家の屋根も藁葺きだ。
曲り屋様式の造りとなっている。


旧但馬家(2)
旧河原家よりも位が高い武士の住宅だった、とのこと。
室内の調度品も立派である。


旧但馬家(3)
畳は最近張り替えたばかり、だそうである。
座敷・居間全て畳表がへり付となっているのは、大屋敷の制である。
今でも充分に住めそうな感じである。


旧武居家は、但馬家の裏から出入りするようになっている。
旧武居家(1)
旧河原家、旧但馬家は、藁葺屋根だったが、旧武居家の屋根は、現代風だ。


旧武居家(2)


旧武居家(3)
百石未満の藩士が住む小屋敷だった、とのこと。
旧河原家・旧但馬家に比べるとどことなく質素な感じがする。
畳表は、へり無である。


武家屋敷を後にして、佐倉城址方面へ向かって行くと、


突き当たったところに、侍の古径「ひよどり坂」の案内標識があった。


細い急な坂径の両側には太い孟宗竹がびっしりと生えていた。
江戸時代の書物「古今佐倉真佐子」に登場する古道、とのことである。


竹林に囲まれた坂道は、“侍のまち”らしい雰囲気が漂う。
『素敵なところだよねっ』


ゆっくり歩いて3分ほどで「ひよどり坂」の出口に出た。
『もうちょっと長ければ良いのにねっ』


「ひよどり坂」の後は、佐倉城址を目指すだけだ。


12時27分、佐倉市民体育館横を通過。


佐倉中学校前に大手門跡の碑が。
この門の西側には広小路、中下町、大下町といった武家屋敷地が整備され、
三の丸御殿、会所なども置かれていた、とある。
ここに惣曲輪の表門があり、武家屋敷が門を囲むように立ち並んでいたのだ。
写真からはかなり大きな門だったことが伺える。


佐倉東高校生の活躍を祝福する横断幕を見ながら進む。


12時33分、佐倉城址公園センター前を通過。
”日本百名城 佐倉城 スタンプ”の文字を見て、2010年8月19日(土)ここに来たことを思い出した。


12時34分、佐倉城址公園に到着。


空堀
城の防御のために掘られた溝で、土塁とともに城を外敵から守るために掘られたもので、
空堀を巧みに配置して城の守りとしている。
水があるものを水堀という。


弁当に適当な場所を求めて、歴史民俗博物館方面へ。
自分もだが、皆さんかなりお腹が空いているようだ。


馬出の近くの広場で弁当タイムだ。


めいめい広場周辺で弁当を広げる。


『天気が良いから外で食べるのは最高だねっ』


後で気が付いたが、弁当を広げたすぐ後ろが”馬出し空濠”だった。
城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られないようにした土手が馬出しである。
この空濠は明治初期に連隊造営により埋め立てられていたものを復元したもので、
長辺121m、短辺40mのコの字形をしている。
深さは、当時5-6mあったのを現在は3mにしている。


弁当の後は、歴史民俗博物館前で記念撮影だ。
中を見学するのは、また別の機会にしよう・・・


13時37分、歴史民俗博物館を後にして、佐倉駅へ向かう。


佐倉城址の帯曲輪方面へ。
この辺りは散歩コースとなっている。


出丸跡の清水御門?を潜り、濠を渡ると城外へ通じる。


濠に沿ってゴールの佐倉駅を目指す。


佐倉八景園を右折し、


竜灯橋手前の信号を渡ると、高崎川の土手へ出た。


高崎川の土手を佐倉駅方面へ。
土手沿いに桜の並木が続く。
『花見の時期にはなかなか良さそうな所だねっ』


朝方通った常南橋を渡り、


女性の銅像を横に見ながら進むと、


正面に佐倉駅が現れた。


14時16分、ゴールの佐倉駅に到着した。


14時17分発の成田行電車が、ちょうど発車したところだった。
次の電車は、14時50分だ。
『もうちょっと早く着いていれば間に合ったかもねっ』
残念だが、ここは待つしかない。
待ち時間を利用して土産物や飲み物を買い求める人も。


14時50分発の成田方面行の電車に乗車。


『いやぁ 今日は天気に恵まれて良かったよなぁ』
Oさんの満足そうな笑顔が印象的である。


成田から我孫子までは成田線である。


『佐倉って、来た事なかったけどけっこう良い所だったわよねっ』
手に手に土産物を持つ皆さんの笑顔がこの日の例会を楽しめたことを物語っている。

『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

今回は、”侍のまち佐倉”を歩いたが、歴史を感じさせる建物も多く、一日楽しめた。
武家屋敷や「ひよどり坂」では、”侍のまち”に相応しい雰囲気を味わえた。

見所のひとつである旧堀田邸・さくら庭園を見落としたのは、少々残念だった。
下見をした訳でもなく、2011年10月~12月に催された”城下町佐倉 サムライのまちハイキング”の
1枚の地図だけを頼りに歩いた結果なので、これはご勘弁を願いたい。

この日の万歩計は、19,000歩に迫ろうとしていた。
意外にも歩いたな、というのが正直な感想である。

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