ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第2回 品川宿から川崎宿

2014年03月08日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年3月8日(土)

当初2月9日(日)に第二回目の旧東海道歩き(品川宿から川崎宿)を予定していたが、
実に40年振りという大雪の影響で延び延びとなり、いったんは3月2日(日)に実施する
ということで落ち着きかけていた。
しかし、3月ともなれば仲間の皆さんいろいろと行動計画があったようで、参加可能な人が
かなり減ってしまうことが分かった。
「旧東海道を歩く」会としては、出来る限り多くの人に参加してもらうことを会是としている
ことから、再度皆さんの都合を勘案し、ようやくこの日1か月遅れで実施の運びとなった次第。

この日の参加者は11名となった。
3月2日に実施していたら7名しか集まらなかったかもしれないので、一応正解ということにしておこう。
上野駅で山手線に乗り換え、品川から京浜急行でスタート地点の新馬場へ向かう。


新馬場駅(品川宿)に到着
今朝方、常磐線荒川沖駅を出たとたん、ひたちの牛久駅手前で”異常音がした”ため、常磐線が
20分以上遅れた影響で新馬場駅には、予定より30分近く遅れて到着するというハプニング。


9時20分、この日の安全祈願のため、新馬場駅直ぐ前の品川神社へ。


品川神社は、東京十社のひとつでもある。
また東海七福神の1社として、大黒天を祀っている。


境内の梅が満開だった。


包丁塚
次のように記されていた。
そもそもここ品川の地は、往昔より江戸出入の要宿にして、近代となりてその地域広大となるも、
まことに殷賑をきわめるゆえに調理をなりはいとする店多く、またそれらに使用されし庖丁数知れぬなり。
このたび品川区鮨商組合連合会発足二十五周年を記念しここ縁りの地品川神社の神域に庖丁塚を建立、
調理に役し、使い古されし数多庖丁を納め、とわにその労を謝すと共に、同じくそれら庖丁により
調理されし鳥獣魚介の類、はた又惣菜等を慰霊し、併せて業界の発展を期し、とこしえに
連合会の隆昌を願うものなリ。
この碑は昭和51年に建てられたものである。


品川神社の境内の一角には、溶岩とコンクリートで作られた富士塚があり、品川富士登山ができる。
現役の頃、新馬場から徒歩で10分ほどの所に2年間ほど勤務していたことがあり、初詣などで
何度か訪れたことはあるが、富士登山のことは全く知らなかった。


品川富士から京浜急行を見下ろしつつ、旧東海道品川宿へ。
なかなかの眺望だったというのが率直な感想である。
品川神社には第一回目に行けなかったので、気になっていたが、これで気持ちがすっきりした。


北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川
そのため、目黒川に架かる品川橋は、かつて境橋とも呼ばれていた、そうだ。


品川橋(境橋)を渡ると、旧東海道の南品川宿になる。


品川宿の松
旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、
29番目の宿場があった浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された、樹齢約80年の黒松。


長徳寺本堂
長徳寺は時宗寺院で、恭敬山と号し、本尊は阿弥陀如来立像。


長徳寺本堂正面左手に閻魔堂がある。


鎌倉時代の木造寄木造りの閻魔像は「品川のお閻魔さま」と呼ばれ親しまれているそうだ。
中を覗くと閻魔様らしき像が見えるが、あいにく顔までは分からない。


天妙国寺の山門
朱色の構えが印象的な門である。


天妙国寺の本堂
法華宗の寺院で、鎌倉時代に創建されたと云う古刹である。
家康の宿舎となった寺で、七堂伽藍を構えた大寺だったそうだ。
15世紀頃建立された五重塔が慶長十九年(1614)の大風で倒壊。
その後家光によって再建されたが、元禄十五年(1702)大火で焼失。
今は心礎が残るのみ、とのこと。


天妙国寺の鐘楼


旧東海道の青物横町通りを進む。
北品川宿・南品川宿に比べると幾分賑わいが少ない感じがする。


10時17分、品川寺(ほんせんじ)に到着。
大同年間(806~810年)弘法大師空海の開山と伝わる。
長禄年間(1457~1459年)に太田道灌が創建し、承応年間(1652~1654年)、
弘尊上人の中興によって「品川観音」として信仰を集めるようになった。


六地蔵
江戸の入口6か所に設置された「江戸六地蔵」の1番で、旧東海道に顔を向けた大きな
地蔵菩薩像が安置されている。高さは2.75mある。


洋行帰りの鐘
鐘楼の鐘は慶応三年(1867)にパリ万博に出品され、その帰途に行方知れずとなり、
昭和5年にジュネーブの博物館から返還され、洋行帰りの鐘として親しまれている。


品川寺本堂
あまり見かけないちょっと変わった建築様式である。
水月観音と聖観音を本尊とし、「品川観音」の名で人々の信仰を集めてきた寺、とのこと。


本堂では読経の最中だった。
真言宗醍醐派とのことで、般若心経のようなお経だった。


品川寺の大銀杏
山門脇にある大銀杏は、幹回り5.35m、樹高25m、推定樹齢600年の古木で、
品川区の天然記念物に指定されている。


10時38分、鮫洲八幡神社に到着。
新馬場駅を出発して1時間20分、まだ3Kmほどしか歩いていない。
この状況では、8Km先の川崎宿にお昼頃に到着するのは難しい。
どこで食事を摂るか、街道筋で適当な場所を見つけることにしよう。


鮫洲八幡神社
江戸城御用の鮮魚を納めた「御菜肴八ヶ浦」の一つ。
漁師町が支えた神社で、境内には地元の漁師たちが寄贈した狛犬や灯篭が多い。


この狛犬もそのうちの一つ。
表には町内猟師中、裏には嘉永元年酉年(1848)十月奉納と刻まれていた。


11時2分、立会川に架かる浜川橋に到着
橋の名前は、浜川という地名から名付けられたそうだが・・・


鈴ヶ森刑場で処刑される罪人が裸馬に乗せられて江戸府内から護送されると、
この橋の袂で隠れるようにその縁者が涙ながらに別れを告げたところから、「涙橋」の名前がある。


「涙橋」から立会川(上流)を望む。
流れる水はお世辞にもきれいとは言えない。


浜川神社は、江戸時代・天明の頃に修験者・数光院了善が厄神大権現として祀ったことに始まる。
明治維新後、神社となり浜川神社と称した。
厄神の信徒は上総・安房にも及び現在に至っている、そうである。
厄払いの神社は初めて見た。


11時14分、鈴ヶ森刑場跡に到着。
鈴ヶ森刑場は、慶安四年(1651)に設けられたお仕置き場である。
受刑者を供養する碑が建てられている。


鈴ヶ森刑場は、見せしめのために、あえて人通りの多い街道沿いに刑場が置かれたのだと云う。
丸橋忠弥、天一坊、八百屋お七、白井権八、白木屋お駒など演劇などで知られた者が処刑されたことで知られる。


刑場は、間口40間、奥行9間あったとされるが、東海道(現第一京浜)の拡幅工事などにより、
旧態を留めていない。


国道15号線を進む。


11時23分、京急大森海岸駅付近を通過。


大森本町一丁目、平和島口交差点
左は平和島公園方面に至る。


平和島口交差点を過ぎると、旧東海道はいったん国道15号線に沿った細い道になる。


環状七号線(環七)を渡り、美原通りを進む。


大森海岸ではかつて江戸前の海苔が採れたので、この辺りはその名残で海苔屋が目に付く。
この「松尾」の看板には寛文九年(1669)創業と書かれている。
350年以上も前から続いている老舗ということになる。


美原通りを進む。
東海道は昭和二年(1927)に拡幅され、第一京浜国道が完成した。
そのため、往時の幅員を比較的多く残しているのは、この美原通りと六郷地区の一部だけ
となった、そうだ。


この辺りの旧東海道は、かつて”三原通り”と呼ばれた。
三原とは、字名の南原・中原・北原の三原のことで、美称して美原になった、とのこと。


旧東海道は、大森警察署前で再び国道15号線に合流。
写真左側が国道15号線、右は国道131号線(産業道路)で穴守稲荷方面へ通じている。


京急梅屋敷駅が見えてきた。


時刻は既に12時を回っている。時計を見たら、急にお腹が空いてきた。
どこかにファミレスでもないかな、と探していたら、梅屋敷駅前にスキヤの看板を見つけた。
”安くて早くて旨い”ということで、スキヤで昼食を摂ることに全員が賛同してくれた。


我々一行11名が入ってもまだ満席にはならなかったが、着席直後から急に混み出してきたので、
正にグッドタイミングだったと言える。


昼食も終えて、後は川崎宿を目指すだけである。


国道15号線の反対側の梅屋敷公園を観ていくことにした。
梅屋敷は、「江戸名所図絵」や「江戸名所百景」にも取り上げられている梅の名所である。
大森和中散という道中常備薬を商なった山本家が自家の庭に梅を植えて休憩所としたことに始まる。
往時は3,000坪もの広さを誇ったと云う。


「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」の碑
明治天皇は、殊の外梅屋敷の風致を好まれ、明治元年(1868)から同三十年(1897)の間に
九度の行幸をされた、とのこと。


山本久蔵の句碑
天保五年(1834)に梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したもので、
神酒ささぐ 間に鶯の 初音かな 麦住亭梅久 と刻まれている。


梅屋敷公園の白梅、


紅梅も今が満開である。


京急蒲田駅付近
現在、大規模な高架化工事が行われている。


京急蒲田駅を通過
間もなく大きく様変わりした京急蒲田駅を見ることになるのだろう。


国道15号線沿いに恐ろしく先端が鋭く尖ったビルがあった。
Webで調べたら、「大田区産業プラザPio」と分かった。
大田区産業の環境基盤を整備し、その活性化を図り、併せて産業活動を担う勤労者の福祉向上に
寄与することを目的とした、産業支援の拠点施設として設置された、とのこと。
しかし、あの尖った部分はどのように使っているのだろう? 少々気になった。


雑色(ぞうしき)商店街のアーケード前を通過。


13時22分、六郷神社に到着。
六郷神社は、多摩川下流域の六郷一円の総鎮守で、創建は天喜五年(1057)と云うから古い。


源頼義・義家父子がこの地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、京都の石清水八幡に
武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、前九年の役(1062)に勝利。
その分霊を勧請したのが始まりと云われている。


家康も鷹狩りの折に立ち寄り、葵紋を用いているのはその縁による。


いよいよ多摩川を渡ることに。


六郷橋からの景色はなかなかのもの。
河川敷では野球やテニスなどのスポーツに汗を流している。


寒くて少しばかり疲れもあったが、間もなくゴールということもあるのだろう、気分は爽快だ。


実際に水が流れる部分は河川敷に比べてそれほど広くはない。
流れは緩やかだ。


ついに川崎市に入った。
いよいよ川崎宿で、この日のゴールも近い。


六郷橋を渡って直ぐ左に明治天皇六郷渡御の碑があった。


碑には天皇渡御の当時の行列の様子が描かれている。
当時は橋が無く、23艘の船を横に並べてその上に板を敷き渡御された、というから大変な工事
だったろうと推測する。


旧東海道の道標に沿って国道15号線の下をくぐると・・・


ここから川崎宿である。
案内標識には、
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に200年の間、渡し舟の時代が続いた、とのこと。
当時の宿の家並は、旅籠62軒を始め、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、
鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計368軒(文久三年(1863)の縮図から)
と記されている。


田中本陣跡の説明に見入る。
川崎宿には本陣が3つあったと云われ、最も古くからあったのが寛永五年(1628)に設置された
田中本陣である。
江戸寄りにあったので、下の本陣と云われ、明治天皇の東幸の折、ここで昼食休憩をした
という記録がある、そうだ。


川崎宿を歩く。
周りはマンションなどのビルが林立している。


砂金の里資料館
平成13年、宿駅制定400年を記念して川崎宿祭りが開催され、開催時の実行委員長の自宅を
改装して開館した資料館。
なまこ壁の江戸町屋風の外観をしている。
展示の中心は浮世絵で、テーマに沿って企画展が開かれている。
2011年7月11日に一度訪れたことがあるが、


残念ながら、日曜祝日はお休みだった。残念!


砂金交差点を右折し、この日のゴールJR川崎駅へ向かう。


14時24分、JR川崎駅に到着。


エスカレータで駅改札口へ。
階段を歩くことも考えられたが、何となくエスカレータに乗ってみようという気にさせられて
しまった、というのが正しい。
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


40年振りの大雪の影響で延び延びになっていた「旧東海道を歩く」第二回目が無事終わった。
真冬並みの寒さだったが、天気が良かったのは何よりだった。
次回は川崎宿(JR川崎駅)から神奈川宿(JR横浜駅)までを歩くことになる。
いろいろと見所も多そうなので、今から楽しみである。


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