ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第1回 日本橋から品川宿

2014年01月19日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年1月19日(日)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月は成田街道を歩いた。
その後、歩き仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
そこで昨2012年9月から2013年9月のちょうど1年をかけて、旧日光街道を歩き終わった。

当然のように、”次の街道歩きを”という声が上がり、今度は”旧東海道”という声が次第に大きくなった。
しかし、10人ほどが揃って日本橋から京都三条まで歩く、というのは宿泊やらも含めてスケジュール調整など
いろいろと難しい面が多い。とても全員一緒でという訳にはいかないだろう。

そこで、日帰り可能な範囲という制約があるなか、箱根を越えた先の三島宿まで歩こうということに落ち着いた。
三島手前の箱根関所での一泊であれば参加したいということである。
三島宿から先の京都までは、個人であるいは気の合った仲間同士で、ということになった。

ということで、当初は2013年10月からとしていたが、自分の足の故障で延期していた。
足の故障も何とか癒えたことから、この日第一回目の旧東海道、日本橋から品川宿までを歩いた。

この日の参加者は12名である。
上野駅で山手線を待っているところ。


東京駅に到着し、八重洲北口を出て東海道の起点である日本橋へ向かう。
日本橋まで歩くことから準備運動を兼ねているという理由で、特に準備体操は省略だ。


日本橋三丁目の丸善東急ビル前を通過。
天気は良いがやや風がある、しかも冷たい。
しかし、旧東海道歩きの初日ということで気合いが入っているのか、皆さん足の速いこと。


9時5分、日本橋に到着。
日本橋は、東海道・中山道・奥州道中・甲州道中・日光道中の五街道など主要街道の起点となっている。
慶長六年(1601)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備し始め、
四代将軍家綱の代になって基幹街道に定められた。
日本橋が初めて架けられたのは慶弔八年(1603)と伝えられている、とのこと。
現在の石造二重アーチ橋は明治44年に架橋されたもの。


現在、橋の中央に「日本国道路元標」が埋め込まれている。
「日本国道路元標」を起点にしている国道は、1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号の7本。
これを撮るには日曜日などの交通量が殆どない日でないと危険である。
撮影は水戸街道を歩いたとき以来2度目になるが、撮り終わった後、顔を上げると目の前に車が迫って来たので、
車が通過するまで橋の中央で立ちすくむ羽目になった。


橋の脇に建てられた擬宝珠。
日本橋を訪れた記念には欠かせない。


全員で日本橋をバックに記念撮影を済ませた。


橋の中央へは行かなかった人は三越側にある「東京市道路元標」をカメラに納めたりしている。
ポールの下には、複製の「日本国道路元標」もある。


9時6分、あらためて「旧東海道を歩く」のスタートである。
ここから、箱根峠の先の三島宿を目指すことになる。
中央通り日本橋二丁目付近、前方左手に高島屋が見える。
日曜日のため車は少ない。寒いので人も少なく歩き易い。


京橋北詰に「江戸歌舞伎発祥の地」碑がある。
寛永元年(1624)2月15日猿若中村勘三郎がこの地に猿若中村座の芝居櫓を上げたことから
江戸歌舞伎発祥の地として江戸歌舞伎旧史保存会が記念碑を立てた、そうである。


東京八重洲北口を通り過ぎると、直ぐに京橋である。
京橋は、日本橋とともに有名な橋だったが、昭和34年(1959)、京橋川の埋め立てによって
撤去された。
その名残を留めるものとして、北詰東側、


東側、


それに銀座一丁目交番脇に親柱(擬宝珠:ぎぼし)が残されている。


中央通り銀座二丁目付近を通過


「銀座発祥の地」碑前で、我々と同じような格好をした10人ほどのグループと鉢合わせになり、
お互いに撮影を譲り合う一幕も。(写真を撮っているのは他の一行)
やはり箱根を目指して歩いているとのことだった。
あらためて旧東海道を歩くというのは人気があるのだなあと、思った。


慶長十七年(1612)徳川幕府が此の地に銀貨幣を鋳造する「銀座役所」を設置し、新両替町と称したが、
通称「銀座町」と呼称され、明治二年に町名を銀座とすることになった、と紹介されている。
以来東京を代表する繁華街へと成長し、全国各地へ波及した。
その原点となる地である。


銀座三越のライオン像
前週(1月10日)の「隅田川七福神巡り」で三囲神社で見たものと同じだ。


銀座三越の屋上には、明治の始めに築地三十間堀から出世したという銀座出世地蔵尊が安置されている
そうだが、まだ開店前で入れないし、立寄る時間もないので、案内を写真に納めておくだけにした。


銀座八丁目付近
首都高新橋を境に、銀座も終わり新橋になる。


東海道は新橋から国道15号線に入る。
この辺りはゆりかもめ、東海道新幹線・山の手線・京浜東北線のガードが続く。


東海道(国道15号線)をさらに進むと三田の芝大門がある。見て行くことにした。
芝大門の柱は遠くからは分からなかったが、鉄骨で出来ていた。


芝大門だけを見て国道へ戻るつもりだったが、時間に若干余裕があったので、増上寺の大門も見て行くことに。
徳川家の菩提寺増上寺の大門である。
芝大門とは違い、こちらは本物の木で出来ている。


増上寺の大門まで来たら、門の中に入らずばなるまい。
増上寺は、室町時代前期の明徳四年(1393)聖聴上人により開かれた古寺で、
2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6将軍が眠る徳川家の菩提寺である。
墓所には正室と側室の墓も設けられ、皇女和宮の墓もある。
青い空に東京タワーの紅白が映える。


再び東海道(国道15号線)に戻り、品川宿を目指した。


金杉橋から海側を見たところ。
狭い川(運河)にたくさんの屋形船が浮かんでいた。


品川宿を目指す。


西郷隆盛(南洲)・勝海舟会見之地碑


慶応四年(1868)3月14日、幕府の陸軍総裁勝海舟が西郷隆盛(南洲)と会見し、
江戸城無血開城を取り決めた田町薩摩藩邸跡だったところである。
薩摩屋敷のすぐ後ろは海に面した砂浜だった、そうだ。


札の辻交差点に架かる陸橋を渡る。
札の辻は、東海道から江戸への正面入口にあたる。
名前の由来は、ここに高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたことによる。
陸橋からの眺めは東京タワーなども見えて、なかなか良いものだ。


御田八幡神社と書かれたビル
神社はビルの裏にあり、ビルに隠れて見えない。
神社の創建は1,300年以上も前の由緒正しい神社だそうだ。
道路の反対側にあるため、神社の名前の付いたビルの写真を撮るだけにした。


高輪大木戸跡
江戸の南の入口として道幅約6間(約10m)の石垣で、夜間は通行止めとした、とのこと。
今は一部だけが残っている。


高輪大木戸は、品川宿に至る海辺の景観が良く、月見の名所でもあった、そうだ。


東海道で高輪三田と言えば、泉岳寺である。
赤穂浪士四十七士(正確には討ち入り前に自害した萱野三平重實の供養墓を含め四十八士)の墓にお参りして行こう。
中門をくぐると、


山門があるが、ここは直接門を通り抜けることは出来ない。


山門の横を通って境内に入り、泉岳寺本殿にお参り。
家康が外桜田に建てた寺で、寛永の大火で焼失、その後高輪に移転。
家光が毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の大名に命じて再興。
浅野家との縁はこの時からと云われている。


山門の横を通って境内に入り、「忠臣蔵」大石内蔵助をはじめ四十七士の墓へ向かう。
義士の墓の手前に吉良上野介の首を洗って、主君浅野内匠頭の墓前に伴ったとされる首洗井戸があった。


大石内蔵助の墓


義士の墓
次から次へと墓参に訪れる人がいて、どの墓にも線香の煙が途切れる間がない。


泉岳寺境内で一息入れよう。
時計は11時38分を差していた。
品川宿で食事をするにはちょうど良い時間だ。


高層ビル群が見えてきた。
品川駅東側の品川インターシティ辺りと思われる。


高輪海岸の石垣石
江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたもので、平成7年に発掘された。
今はそのほんの一部が展示されているだけである。
三段目から下の石垣の石は現地でそのまま保存されている、とのこと。


12時2分、JR品川駅前を通過。


駅前交差点の信号が青に変わると、大勢の人が横断歩道を渡る。


国道15号線を八ツ山橋で左折して京浜急行北品川方面へ進むと・・・
JR線を跨ぐ陸橋を渡ったところに八ツ山橋の記念碑があった。
ひとつは”屋つやまはし”、もうひとつには”八ツ山橋”と刻まれている。


八ツ山橋の先に京浜急行の踏み切りがあるが、電車がひっきりなしに通るので、簡単には向こうへ渡れない。
上り、下りの電車が後から後から通る。
正に開かずの踏切である。


結局5分以上待たされてやっと渡ることが出来た。
『急いで渡らないと次の電車が来るよっ』


品川宿の商店街通り。
日曜日のためか、あまり人通りは多くない。


品海公園に品川宿の碑があった。
品川宿は、旅人のみではなく見送りや迎えの人でも賑った。
当時の宿場の中心は、北品川駅から青物横丁駅にかけての辺り。
本陣1、脇本陣2、旅籠93、人口約7,000人ほどだったと言われている。


その碑の前で、地元の人達が餅つきをやっていた。
食事場所の情報は、地元の人に聞くのが手っとり早い。
餅つきの一人に訊ねると、案の定たった今通ってきた直ぐ近くの蕎麦屋を紹介してくれた。
席も十分で、丼ものもあるらしい。


早速、紹介された蕎麦処「いってつ」に入って、めいめいお好みを注文。


かき揚げ天丼(800円)
味も良し、値段もリーズナブルである。


食事の後、餅つきのお兄さんに今度は利田神社(かがたじんじゃ)の場所を教え請うた。
餅つきのお兄さんは快く丁寧に教えてくれた。
利田神社は、広重の「品川すさき」に描かれた弁天社だそうだが、


鯨塚の方が有名なようだ。
この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(1798)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを
品川浦の漁師達によって捕えられた鯨の供養碑、とのこと。
鯨の体長は九間一尺(約16.5m)、高さは六尺八寸(約2m)の大鯨で、
江戸中の評判となった、そうである。


隣合せた小さな公園には鯨の頭の部分の像もある。


三度品川宿へ戻り、旧東海道の街道を進む。


京浜急行北品川駅を過ぎた辺りに品川宿本陣の碑があった。
当時の品川宿は江戸四宿の一つで、東海道五十三次の最初の宿駅である。
参勤交代の大名や公家・門跡などが利用した。


明治天皇行幸の行在所となったことに因み「聖蹟公園」と命名されている。


「品川宿交流館 本宿お休み処」へ入ってみた。
中はあまり広くはない。
駄菓子屋のような雰囲気の土産物店と”東海七福神”のPR誌やパンフが並べられていた。
”東海七福神”は「健康ウォーキングの会」で参考にしても良いかもしれない。


この日のゴール京浜急行新馬場駅に向かう途中、荏原神社があった。


荏原神社も”東海七福神”の一つで、恵比寿様を祀っている。


13時48分、ゴールの京浜急行新馬場駅に到着。


品川行き普通電車が入って来た。


品川から上野までは山の手線を利用した。
日曜日ということもあってか、車内は空いていた。
この日は、11Kmの歩程だったが、国道をあっちへこっちへ何度も渡ったりしたので、意外と歩いた。
万歩計は20,000歩以上を記録していた。
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


「旧東海道を歩く」第一回目が無事終わった。
やや寒かったが、天気も良かったのは何よりだった。
これから箱根関所を越え、三島宿を目指すことになるが、
大きな事故もなく無事計画通りに進むことを祈るばかりである。


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