ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

権現堂桜堤は断念 急遽朝日峠展望公園に

2024年03月30日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)3月30日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第20回、令和6年(2024年)第5回「朝日峠展望公園
ハイキングに参加した。
今回が今年度(2023年度)最後の例会となる。

この日は、”花見の名所権現堂桜堤”を企画していたが、桜開花はなんと前日の29日。
29日開花で翌日30日の桜見物はとても無理だろう、ということで権現堂桜堤は断念することに。
3月初旬頃のTV各局では、開花の時期の目安がわかる「600℃の法則」なるものを持ち出して
東京の桜開花予想を3月18日~22日頃ではないかと盛んに報じていた。
そのため30日の”権現堂桜堤散策”は”満開間違い無し”を信じていたのだが・・・
昨年の東京都の桜開花は3月15日だったので、今年は2週間も遅くなったということである。
残念ながら「600℃の法則」は見事に外れてしまったのである。

”権現堂桜堤散策”は断念したものの、30日の天気予報は快晴で最高気温は24℃とあった。
この条件下でのウォーキングorハイキング”中止”は当会としては過去にはなかったことなので、
急遽地元の朝日峠展望公園に変更することにしたという次第。
桜見物は新年度第1回目(4月5日)に計画している地元土浦市の桜川散策に期待しよう、
ということに。

この日の出発地である小町の館駐車場に集まった皆さん。


出発予定時刻の8時30分にはまだ10分早かったが、この時点で集まった参加者は12名。
地元で近いという最も参加が見込める条件にしては、思った以上に少ない。
急遽場所を変更したことよりも皆さんの体調不良や私的都合などが主な要因ではないかと
思われる。


前回(3/15 三ツ石森林公園から円明院)は、出発地の三ツ石森林公園まで来ていながら
喉の痛みのため、止む無く参加を断念したTK会長(85)だが、この日はいつもの変わらぬ
元気な姿を見せてくれた。
ここで、笠間のDD子さんから、愛車のキーが見つからないため、息子の車を借りて
こちらに向かっているとの情報が入った。
近くまで来ているようで、直ぐに追い着くので出発を促すよう連絡があった、とのこと。


小町の館を右手に見ながら、


8時38分、小町の館を出発した。
遅れているDD子さんが追い着き易いようにゆっくりと進む。


目指すのは小町の館周辺で最も我々の年代に相応しいと思われる朝日峠展望公園だ。
朝日峠展望公園の標高は300mほどだが、見晴らしが良く眺望が素晴らしいので
老若男女に人気がある。


TK会長を先頭に朝日峠展望公園コースへ。


朝日峠展望コース入口へ、


緩やかな坂道を上って行くと、8時45分、朝日峠ハイキングコーススタート地点に到着。


ネパールの旗が昨日の強い雨の影響で道路に垂れ下がっていた。
旗の紐の両側を竹の棒に結えているのだが、紐が緩んで地面に垂れ下がってしまっている。
手直ししたいところだが、時間がないためここは旗を跨いで進むことにする。


8時47分、朝日峠展望公園の登山道へ。


登山道が急な上り坂になって来た。


急な登山道を上ること凡そ5分、


8時51分、”左朝日峠展望公園”の標識に到着。


後ろを振り返ると、何と後を追って来ているDD子さんが早くも追い着いてるではないか。
急いでいたと思われるが、息切れしてる様子でもない。
『え~っ もう追い着いちゃったのっ? さすがだねっ』


”左朝日峠展望公園”の標識を過ぎ、全員が揃ったところで、一休みだ。
これでこの日の参加者は13名となった。


8時59分、道端に佇む不動明王像を通過し、


飲めない水が染み出る”水飲み沢”を通過すると、


沢に沿った岩場の上りが始まる。


昨日の雨で岩が濡れているので注意が必要だ。
慎重に岩場を上る。


9時3分、右朝日峠(古道)、左おかめ岩の分岐点を左のおかめ岩方面へ。


沢に沿っておかめ岩方面へ。


しばらく坂道を上って行くと・・・


おかめ岩と古道方面への分岐点があり、そこを右へ曲がり、もみじ谷から朝日峠展望公園方面へ。


おかめ岩から古道方面へ。


50mほどで朝日峠方面と小町の館方面の分岐点に到着した。
古道の分岐点を左の朝日峠方面へ。


”グーの木”を通過すると、


”もみじ谷”の標識が現れた。


”もみじ谷”の標識の先に木製の通路があるが、今日は左側の別ルートを進むことにしている。
木製の通路は朝日峠から下る際に歩くことにしたい。


木製の通路の左側の別コース方面へ。
当会としては初めてのコースとなる。


『朝日峠へはいろんなコースがあるんだねっ』


『あらぁ きれいっ!!』


黄色い葉のもみじが美しい。
『このもみじも秋になったら紅葉するのかしら?』
Webで調べた結果、ヤマモミジではないかと思われる。
3月末~4月中旬は黄色い葉だが、秋には紅葉するとのこと。


ヤマモミジの黄色い葉を眺めながら一息入れよう。
各自が持参したお菓子が振舞われた。


『ごちそうさまぁ』   『いつもありがとうっ』


一息入れ終わり、再び朝日峠展望公園を目指す。


『初めてのコースだけど、それほど急坂でもないから歩き易いわよねっ』


9時26分、小町山ハート石方面と朝日峠駐車場方面の分岐点に到着。


分岐点を右に曲がり、朝日峠駐車場方面へ。


9時29分、分岐点から数十m進むと、庚申塚があった。
朝日峠駐車場はもう直ぐだ。


パープルライン脇の雑木林の先に朝日峠駐車場が見えた。


後続の一団が後ろに続く。


9時32分、朝日峠駐車場に到着した。


朝日峠駐車場の標高は262m、小町山(361m)より100m低い。


朝日峠駐車場からの眺望
いつものように麓が霞んでいる。


朝日峠駐車場から小町山のパラグライダーの離陸場を望む。
この日はパラグライダーが飛び立つ様子を見ることが出来ない。


9時35分、ほどなくして全員が到着した。


皆さん、体調を整え、朝日峠展望公園へ。


男性陣は待ちきれなかったのか、先へ進んで行った。


女性陣も後に続いた。


『こぶしが満開じゃないっ!!』
展望台の近くにこぶしの花が満開を迎えていた。


満開のこぶしの花
『いやぁ 春だねぇ』


筑波山も見える。
『この景色を観れただけで朝日峠に来た甲斐があったってもんだよなっ』


満開のこぶしの花に満足して、展望台へ。


9時59分、朝日峠展望台(標高301.8m)に到着。


朝日峠展望台からの眺望はいつものように霞がかっていた。
数日前はくっきりと見えたそうだが・・・


パノラマ写真


展望台のベンチで寛ぐ皆さん。


『ここからの見晴らしは最高だねぇ』


展望台には他のGもたくさん来ていた。
この日は土曜日ということもあるかも知れない。
たまたま顔見知りの人がいたりして話が弾んでいるようだ。


10時6分、展望台からの景色を堪能した。
いつまでもベンチを占領する訳にはいかないので、下山することにしよう。
これから展望台を目指すGと挨拶を交わす。


朝日峠展望台を後にして、下山開始。


先ずは上りの際には通らなかった”もみじ谷”を目指す。


緩やかな坂道を下る。


「こもれびの森」を通過。


小さな谷に架かる木製の橋(1)を渡り、


続いて木製の橋(2)を渡る。


『やっぱり下りは楽で良いよねっ』


『権現堂でなくても充分に楽しめて良かったわっ』
その一言が嬉しい。


”もみじ谷”を目指す。


10時19分、道祖神像前を通過。


二つ目の小さな谷を渡ると・・・


”もみじ谷”はもう直ぐだ。


”もみじ谷”を前に全員が揃うのを待って、


”もみじ谷”に架かる木製の歩道へ。


”もみじ谷”に架かる木製の歩道を渡り切り、


朝日峠方面と小町の館方面(古道)の分岐点を今度はおかめ岩方面へ。
上って来た時とは逆のコースである。


おかめ岩方面へ。


右おかめ岩経由小町山方面と左小町の館への分岐点へ。


この分岐点で、小町山を目指したいと言う健脚の2名と別れた。
『あの二人はいつも元気があって羨ましいよねっ』


我々は小町の館を目指して坂道を下った。


10時37分、左朝日峠(古道)、直進小町の館の分岐点を小町の館方面へ。


慎重に岩場を下り、


10時40分、水飲み沢を通過。


ようやく先行する先頭Gに追い付いた。


小町の館を目指して山道を下る。


10時49分、朝日峠ハイキングコースの麓に到着した。


上る時には紐が緩んで地面に垂れ下がってしまったネパールの旗が元通りになっていた。
『誰かが元通りにしてくれたんだぁ』


ネパ-ルの旗を潜り、10時53分、朝日峠登山口に到着した。


小町の館駐車場を目指す。


『いやぁ 今日の朝日峠展望公園は良かったよなっ』
皆さん満足そうな表情だった。


何とか無事に下山して一安心といった表情のTK会長


11時1分、小町山を目指した2名を除き、全員無事下山を確認した。


TK会長より『来週(4/5)は桜川の満開の桜に期待しましょうっ』の結びの挨拶があり、
この日はここで解散することに。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

当初は、”花見の名所権現堂桜堤”を企画していたが、桜開花が昨年より2週間も遅れてしまい、
開花の翌日の桜見物はとても無理、ということで権現堂桜堤は断念することになった。
権現堂桜堤は断念したものの、この日の天気は快晴で最高気温は24℃の予報。
この条件下でウォーキングorハイキング”中止”はないでしょう、ということで、
急遽地元の朝日峠展望公園に変更したのだが、まずまずの評価だったと受け止めている。
桜の満開時期に合わせて企画するのは難しいとあらためて感じた次第である。
今年の桜見物は来年度第1回目(4月5日)に計画している土浦市の桜川散策に期待したい。

この日の万歩計は、9,200歩を計測していた。

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記念写真が2枚は初 三ツ石森林公園から円明院

2024年03月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)3月15日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第19回、令和6年(2024年)第4回「三ツ石森林公園から円明院
ハイキングに参加した。

この日の例会は、当初は前週の8日(金)に計画していたが、生憎の雨で1週間延期となり、
この日となった次第。
前回(2月9日洞峰公園~松見公園)から優に1か月以上経っていることになり、久しぶりの
例会ということになる。

第一集合場所の乙戸沼公園に集まった6名が車2台に分乗し、出発地の三ツ石森林公園
”もりの小屋”に到着したのは、弁当購入のため途中コンビニに立ち寄ったりしたため、
予定より5分ほど遅くなった9時51分だった。


この日の参加者の皆さんは殆どの人が既に集まっていた。
その後1-2名が到着したが、結局この日の参加者は14名ということに。
地元に近く、しかも天気は晴れという絶好の条件ではあったが、年齢とともに
山登りは控えようと言う人が増えて来ているように感じたのは、気のせいだろうか?
ここは、一時的な不調あるいは、たまたま都合が悪かっただけだったのだと思うことにしよう。


久しぶりの例会ということで、”もりの小屋”をバックに1枚目の記念撮影をして・・・


10時11分、先ずは浅間山(せんげんやま)の麓を目指して出発!


いきなり丸太の急階段が始まった。


『いやぁ 最初からこの階段はきついよねぇ』
先頭の男性陣の中に、何時も元気なTK会長の姿が見えないが・・・
記念撮影の時には写っていたはずなのに、とお気付きの方もおられると思うが、実はTK会長
数日前から咳込んでいるとのことで、この日は”もりの小屋”までは来たものの、
『もみじ谷まで歩いてみたけど、咳がきついんで参加は見合わせるよ』とのこと。
ということで、残念ながらTK会長はこの日は参加を見合わせることにされたという次第。


女性陣が後に続く。


丸太の階段が終わり、もみじ谷方面へ。


先頭を務めるのは、ここ三ツ石森林公園や2-3Km先の雪入ふれあいの里周辺は歩き尽くした
と言うほどのTM子さんにお願いしている。


右手の斜面にもみじの林が広がる。
『紅葉の頃に歩いてみたいわねっ』


”もりの小屋”を出発しておよそ5分後の10時16分、もみじ谷の案内標識を通過。


急な階段が平坦になった。
『やっぱし平らな径は楽だよなっ』


もみじ谷を少し進むと・・・


お花大好きのTM子さん、ネコノメソウが咲いている場所に案内してくれるという。
『たしか、この辺だったのよね~っ』


湿地のような場所にネコノメソウが咲いていた。


ネコノメソウ(猫の目草)
日本固有種で、南千島・北海道・本州・九州北部に分布。
山地の湿地、谷間、山麓の湿った場所などに生育し、よく群生する。
ときに水田などにも生える。(Wikipedia)


ネコノメソウに満足し、浅間山(せんげんやま)手前の東屋へ。


平坦な径を進むと・・・


10時24分、東屋に到着した。


水分を補給していこう。


皆さんそれぞれが持参したお菓子などが配られる、恒例のお茶タイムである。


『これ皆さんの口に合えば良いんやけどなぁ』


『ちょっと小腹が空いた頃だから、美味しいねっ』
楽しいひと時である。


浅間山(せんげんやま)の麓を目指す。
TM子さんの後に続く。


『今日は天気も良くて気持ちが良いわね~っ』


径の脇には伐採されたクヌギが並べられていた。


『結構なクヌギが伐採されてるねぇ』


径の右側にもクヌギの木が・・・


10時40分、浅間山(せんげんやま)の麓に到着した。


少し遅れて男性陣が、


『いやぁ けっこうきつかったよねっ』と言ってはいるが、余裕のある表情のHRさん。
かつては全国の山々を登りまくった山男だったそうだ。


浅間山麓を右に曲がり、閑居山方面の尾根道を進むと、直ぐに浅間山への登り口(下り口)を
通過した。


閑居山方面への尾根道を進む。


尾根道には杉林などもある。


杉林を抜け、


雑木林を進むこと凡そ15分、


10時58分、谷津コースへの分岐点に到着した。


ここで谷津コースへ。


『面白い形をしているよなぁ』


谷津コース下り口から約7分、「女房石」の標識があった。


標識に従って10mほど林の中に入って行くと・・・
「女房石」があった。


『すご~い、これが女房石なんだ~っ 初めて見たわぁ』 
石を見上げて思いっきり笑顔のTM子さん。


次々に皆さんが「女房石」へやって来た。


昭和57年(1982)3月に茨城県千代田村(現かすみがうら市)教育委員会から発行された
『千代田村の民俗』中の「上佐谷の女房石」に次のように説明されている。
 佐谷山に連なる谷津の裏山に、「女房石」と呼ばれている大きな石がある。
これは昔、豊臣秀吉の命を受けて、朝鮮に遠征した佐竹軍の軍平に加わり、異国の地を
馳せ巡って帰郷した歴戦の勇士某と、諸国行脚の途次、この地に留まった
六部(注)とが、
互いに村の見目麗しき一人の女性を見染めてしまった。

注:六部(ろくぶ)
室町時代に始まり、江戸時代には、僧侶のほかに、鼠木綿の着物に同色の手甲・甲掛・股引・脚絆をつけ、
仏像を入れた厨子を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を乞い歩いた者をいう。



そこで二人は、武力に訴えて自分の妻にしようと話し合い、嫌がるその女を無理やり
谷津の裏山に連れ出して石の上に乗せ、その前で二人は勝負を決したのである。
遂に六部が負けて、女性は勇士の妻になったと伝えられている。
このことから「女房石」の名が今に残っているという。



地元では又「夜泣き石」とも呼んで、夜泣きする子の母親がこの石にお参りすると
不思議に夜泣きが直ると云われている。



谷津コースへ戻って下る。


前方に一際大きな木が見えて来た。


スダジイ(スダ椎)の巨木とある。


これは中間点辺りだが樹の頂上はまだまだ高い。


見上げるとその大きさに圧倒される。
自分のデジカメでは全体を捉えきれない。
ちょっと気になるが、樹齢はどのくらいなのだろうか? 
(女房石もだが、出来れば説明板が欲しい)


谷津コースを下る。
落葉が滑り易いので、注意が必要だ。


後ろで大きな声がしたので振り返って見ると・・・
落葉で滑って転んでしまったようだ。


”シシ土手”と書かれた標識があった。
聞くところによると、”シシ土手”とは猪を追い込んで捕獲するための”土手”とのこと。
猪を追い込むと、猪は土手に行く手を遮られて進むことが出来なくなるのだそう。


目の前が開けて来た。


11時32分、谷津コースの終点に到着した。


次々に皆さんが下りて来た。


円明院を目指す。


『広々として気持ちが良いわね~っ』


次の目的地円明院へ。


左に曲がり、円明院へ。


後に続く皆さん。


鶏小屋を右に曲がると正面に円明院が見えて来た。


円明院をバックにこの日2枚目の記念写真を撮った。
2枚の記念写真を配るのは初めてのことである。


観音様や、


六地蔵を右手に観ながら石段を上ると・・・


11時53分、円明院本堂に到着した。
円明院は真言宗豊山派の寺院である。


円明院本堂から綺麗に手入れされた庭を臨む。
『ほんと、この庭はいつもきれいに手入れされてるよねっ』


円明院で一休み。


『ここにずっと座っててこの景色を眺めていたいわねっ』


『お腹が空いて来ちゃったっ』


12時6分、円明院を後にして、三ツ石森林公園”もりの小屋”を目指すことにした。


円明院の裏から殆ど人が通った形跡のない薄暗く荒れた感じの山道を通り、


三ツ石森林公園”もりの小屋”へ。
『かなり荒れてるわねっ』


ちょっとだけ緑のある径を抜け、


径の脇に無造作に捨てられたゴミの山を通り抜けると・・・


12時15分、三ツ石森林公園へ通じる道路に出ることが出来た。
『もう直ぐ三ツ石森林公園だよねっ』


3分後、三ツ石森林公園への入口に到着した。


ここで”もりの小屋”へ通じる階段を上る組と、


車道を進む組に分かれた。


緩やかだが長くてきつい車道を進むこと約8分の12時26分、”もりの小屋”駐車場に到着した。
階段を選んだ組は既に到着していた。


”もりの小屋”内で弁当を食べる組と、外のベンチで弁当を食べる組に分かれた。
自分は、天気が良いので外のベンチで食べることにした。
弁当タイム(1)


弁当タイム(2)


弁当タイム(3)


弁当タイム(4)


弁当が終わり、いったん全員が駐車場に集まり、


次回(3/30 権現堂桜堤)の概略を説明し、この日はこれで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


約40日ぶりの例会(三ツ石森林公園から円明院)が無事終わった。
天気も良く、地元で近いという好条件にも拘らず参加者が少なかったのには少しがっかり
というのが、正直な気持ちであるが、
一時的な不調あるいは、たまたま都合が悪かっただけだったのだと思うことにしよう。

また”もりの小屋”まで来たものの咳のため参加を見合わせたTK会長には残念と言うしかない。
しかし、無理はしないことの重要性をあらためて教えてもらったと思っている。
今年度の例会も残すところあと1回(権現堂桜堤散策)となった。
東京の桜開花予想は20日頃と言われているが、当日は満開の桜を観ることができるだろうか?
今から楽しみである。

この日の万歩計は、8,500歩を計測していた。

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エキスポセンターで折り返す 洞峰公園~松見公園

2024年02月09日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)2月9日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第18回、令和6年(2024年)第3回「洞峰公園~松見公園(つくば市)
ウォーキングに参加した。

この日、第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは5名。
乙戸沼公園に集まる人が次第に少なくなっているように感じている。
参加人数はさほど変わらないので、スタート地点に直行する人が増えているということである。
目指していた”直行直帰”が板に付いて来たということだと思う。


車2台に分乗して、第二集合場所の洞峰公園南駐車場に行ってみると・・・
既にかなりの人数の皆さんが集まっていた。


こちらは女性だけのグループで話に夢中な様子。


来年度の会費&スポーツ保険料の徴収や前回(1/26)の記念写真、次回(2/23)バスハイクの
座席表・地図、他にも来年度のスケジュール表・連絡網などいつもより多くの資料の配布に
思った以上に時間を要した。
9時45分、料金徴収や資料配布が何とか終わり、この日のコースの概略説明をした後、
TK会長の挨拶に続いて・・・


『いつまでも若く! 楽しく! 元気良く! 今年も一緒に歩きましょう!!』
力強い決意表明があり、


先ずは松見公園目指して、9時50分、出発!!
先頭は女性陣だ。
『歩きたくて仕方がなかったのよぉ~っ』
早くも会長の決意表明の効果なのか・・・実に頼もしい!!


この日は珍しく少し後にTK会長が続く。
多目的フィールドを右手に観ながら進み、


洞峰公園正面の石畳を


筑波新都市記念館方面へ。


筑波新都市記念館


手前を右に曲がり、洞峰池を左手に眺めながらアンツーカーのランニングコースなどを進む。


洞峰池
風は殆ど無く、湖面が鏡のようだ。


洞峰池上に突き出たような筑波新都市記念館が左手に見える。


洞峰池畔を進み、


地理不案内のため誤って北駐車場へ車を停めてしまったというD子さんと無事合流し、
つくば公園通りへ。


つくば公園通りを進む。
道路を潜るトンネルの両側に描かれた風景画に心を癒されながら・・・


トンネルを抜けると、きれいに整備されたつくば公園通りが続く。


『車が通らないから安心して歩けるし、散歩には持ってこいだよなっ』


『ここは桜の時期に歩いてみたい所だねっ』


10時17分、左手に二宮公園の時計台が見えた。
『珍しいわねっ、時計が正確な時刻を差しているじゃないっ!?』


二宮公園を過ぎてしばらく進むと・・・


南大通りが現れた。


『走ってる車が少ないわねぇ』


南大通りを過ぎると右手に竹園西小学校が。
校庭には、子供たちが元気良く走り回っているのが見える。
体育の時限なのだろう、時折教師の吹く笛の音が校庭に響く。


10時28分、つくば国際会議場裏を通過


目の前に竹園公園が現れた。


公園を取り囲むようにベンチが複数置かれている。


ここで小休止していくことにしよう。


早速備えられていたベンチに腰を降ろすG。


TK会長は、先に腰を降ろした女性に遠慮しているのだろうか?
後で聞くと、いったん腰を降ろすと次に立ち上がる時に難儀するためだとか。
そういう経験は自分もしたことがあるし、これからそういう頻度が多くなるだろう。


こちらはベンチには腰を降ろさないでいるGが。
”実にタフ”な女性陣である。


5分ほど後、竹園公園を出発してつくばセンター方面へ。


道路を横断すると、


左手はデイズタウンつくばだ。
この辺りは12月初旬は紅葉がきれいな場所である。


前方右に高層の建物が現れた。
『ずいぶん高いわねっ マンションなのかしら?』
後で調べたら、エスペリアつくば竹園と言い、地上15階地下1階の賃貸マンションで
総戸数230戸とのこと。


エスペリアつくば竹園の手前右手にあるのはつくばカピオだ。
つくばカピオは、1996年7月にオープンした、文化・スポーツ活動などによる市民の
交流の場として造られた総合文化施設である。
また、つくばカピオは、ダンス・演劇に適したつくば市のイベントホールでもある、そうだ。


高層ビルに囲まれたつくば公園通りをつくばセンター方面へ。


県道237号に架かる”さくら大橋”を渡る。


”さくら大橋”から土浦方面を臨む。


こちらは反対側の学園西大通り方面を臨んだところ。


”さくら大橋”を渡り切った所がつくばセンター広場になる。


つくばセンター広場の様子


つくばセンター広場の一角にホテル日航つくばビルが。


つくばセンター広場からTXつくば駅方面を臨む。


『まだ折返し地点は先なのかねぇ?』
1か月後には卒寿(90歳)を迎えるKKさん、不安そうな表情を浮かべる。
松見公園はまだかなり先のため、途中で折り返すことも考えなければとこの時思った。


小休止の後、中国料理「桃李」の前を通って、つくばエキスポセンター方面へ。


中央通りを跨いでつくば公園通りを進むと・・・
つくば公園通りの左側には、太陽系惑星が並んでいる。
一番手前が太陽で、水星・金星・地球・火星の順に惑星が並んでいる。


右側には図書館・美術館などが入っているつくば文化会館アルスが・・・


つくば文化会館アルスの少し先に(木星の次の)土星、


もう少し進むと・・・


(天王星の次の)海王星、


最後に冥王星の順に9個の惑星が並んでいるが、2006年に行われた国際天文学連合総会で、
惑星の定義が定められ、冥王星は惑星ではなくなった。
従って、現在太陽系惑星の数は8個となっている。
太陽系惑星を覚えるフレーズとして、昔は”すいきんちかもくどてんかいめい”と覚えさせられたが、
今では”すいきんちかもくどてんかい”という風に使われている、そうだ。


冥王星を過ぎると右手に純国産ロケット「H-IIA」の実物大模型が聳えていた。
高さは50mもある、とのこと。


11時6分、つくばエキスポセンターの純国産ロケット「H-IIA」の実物大模型前に到着したが、
皆さん、やや疲れが見えて来た感じのように見える。
ここから松見公園まではあと700mほどはあるだろう。
従ってここからの往復だけで、少なくとも約1.4Kmは歩かなくてはならない。
当初目的地としていた松見公園まで行くか、ここで折り返すか役員で相談した結果、
この日はここで折り返すのが賢明だろうということになった。


中央公園
池内にはレストハウスがあり、内部は有料での市民ギャラリーとなっている。


右手の中央公園の噴水を観ながら・・・


つくばセンター広場方面へ。


つくば文化会館アルスで体調を整えて・・・


つくば公園通りを進む。


つくば公園通りから中央通り(土浦方面)を臨む。


”つくばセンター広場”から石段を下りて、


つくばセンターバス乗り場を通り、


中央通りへ。


中央通りを左に曲がり、学園西大通り(国道408号)方面へ。


TXつくば駅前の交差点を横断してさらに進むと、


11時32分、学園西大通り(国道408号)の吾妻西交差点(三叉路)に到着した。


吾妻西交差点を左に折れると、あとは学園西大通り(国道408号)を真っ直ぐに進むだけである。


ゴールの洞峰公園南駐車場を目指す。


学園西交差点で県道237号を横断するところ。


県道237号を横断して、


学園西大通り(国道408号)を真っ直ぐに進む。


ゴールの洞峰公園南駐車場を目指す。


ゴールの洞峰公園南駐車場へ。


11時42分、「とんかつとんQ」前を通過。


20年以上も前になると思うが、豚ならぬ鰤(ぶり)のカツが大変美味しかったのを覚えている。
今でも人気のメニューのようだ。


店先にワインの空き瓶をずらりと並べている店があったが、閉まっていた。
店名は残念ながら見落としてしまった。


ゴールの洞峰公園南駐車場を目指す。


『あまり見たことのない実よねっ』 『柿のように見えるわねっ』
日本では老爺柿(ロウヤガキ)と言われているそうだが、中国から来た植物で、元々の中国名が
老鴉柿(ロウアガキ)と言われている、とのこと。
タンニン分の多い実が木についたままで熟すと真っ黒になり、鴉はカラスを意味し、
真っ黒に熟す実の様子をカラスになぞらえてこの文字が当てられたのではないか、とのこと。
・日本へ渡来したのは数十年前といわれ、庭木としての歴史は浅いが、柿のミニチュア版として
盆栽での人気は高い、とのこと。
・3~4月に開花し、9~10月に写真のような実ができる、のだそうだ。


11時50分、洋菓子のコートダジュール本社前を通過
『この店けっこう有名で美味しいんだよねっ』


南大通り(県道123号)を横断し、


学園西大通り(国道408号)を進む。


前方に東京靴流通センターつくば西大通り店の大きな看板が。


ゴールの洞峰公園南駐車場を目指す。


アンデルセン カフェつくば店横を通過し、


目の前の信号を横断すると、12時10分、洞峰公園に到着した。
『ゴールまでもう直ぐだねっ』   『ここまで来ると一安心だよねっ』


さらに西大通りを少し進むと、


12時13分、洞峰公園への入口(正門)に到着した。


洞峰公園への入口(正門)を入り、


公園内のランニングコースを朝とは逆方向に進むと、


12時17分、洞峰公園南駐車場に到着した。
『ゴーーーール!!』


その後続々と皆さんがゴールして来た。
『いやぁ 今日は疲れた~っ』


全員が無事ゴールしたのを確認。
次回(2月23日バスハイク)の説明をして、この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


洞峰公園から松見公園折り返しのコースだったが、思った以上に距離があったことから、
途中のつくばエキスポセンターの純国産ロケット「H-IIA」の前で引き返すことにした。
目的地の松見公園までは残り700mほどはあったと思われる。
無理をすれば歩ける距離だったと思われるが、会員の平均年齢が後期高齢者を越える年齢
(2月9日現在、77.5歳)になった我々にとって、無理はしない方が賢明という判断である。

次回(2月23日)はバスハイキング(南房総勝浦漁港周辺)を予定している。
今年初のバスハイキングが今から楽しみである。

この日の万歩計は、13,500歩を計測していた。

ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

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牛久沼越し雪景色の富士山に感動 牛久城跡・牛久沼周辺散策

2024年01月26日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)1月26日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第17回、令和6年(2024年)第2回「牛久城跡・牛久宿周辺散策
ウォーキングに参加した。

この日のコースは、これまで何度か歩いているが、JR牛久駅をスタート&ゴールとするのは
今回が初めてである。
過去には2010年6月11日に、得月院から雲魚亭・河童の碑・観光アヤメ園・牛久城址へと歩いている。
2017年3月17日には得月院を出発して牛久沼周辺を散策している。
2017年4月14日に初めて三日月橋桜コースを歩き、
2021年3月26日には2度目の三日月橋桜コースを歩いている。

荒川沖駅に集まったのは15名、まずまずの人数だ。


この日の朝の気温は6℃前後、しかも風が強くて寒い。
女性陣は陽の当たるホームの端に寄って電車を待っている。


男性陣はホームの中央で話に夢中になっている。


荒川沖駅9時5分発の電車が到着した。


牛久駅には定刻の9時12分に到着した。
牛久駅改札口前には荒川沖駅からの15名に、土浦駅から乗車した8名と龍ヶ崎市駅からの1名
が加わり、計24名が集まった。想定を超える人数だ。
やはり近くて過去に何度か歩いたことのあるコースというのが大きいと思われる。
電車でということもあるかもしれない。


この日のコース概要を説明し、続いてTK会長からの挨拶があり、


9時21分、牛久駅西口を出発!


先ずは国道6号方面へ。


国道6号の牛久駅西出口交差点を横断して、


牛久駅西口郵便局方面へ。


9時26分、牛久駅西口郵便局前を通過。


さらに真っ直ぐ進み、


スーパーカスミの駐車場を右手に見ながら進むと・・・


国道6号牛久土浦BPがある。
国道6号牛久土浦BP十字路を横断し、さらに左に横断して藤代方面へ。


右手には牛久町の家並みが見える。


国道6号牛久土浦BPに沿って進む。


左手に牛久小学校が見える。


国道6号牛久土浦BPを進む。


牛久小学校の300mほど先の信号を右折して300mほど進むと・・・


右手に牛久第三中学校が見えて来た。
『何となく見覚えのある景色だよなっ』
今までに何度かこの近くを歩いているが、最近では2021年3月26日(金)に三日月橋桜コース散策
として歩いているので覚えている方もおられることだろう。


道路を横断し、


三日月橋方面へ。


500mほど進むと、10時3分、最初の目的地牛久市観光アヤメ園に到着した。
観光アヤメ園は、総面積8,000平方メートルの敷地に約200品種、2万本のアヤメ、ハナショウブ、カキツバタが咲く。
毎年6月初旬から開花し、一番の見ごろは中旬になり、下旬まで楽しむことができる。
春には稲荷川のほとりに咲く桜とともに、桜並木が見事、と案内されている。


アヤメ園の中央にカッパの像がある。


カッパの像をバックに記念撮影だ。
『いやぁ(記念撮影は)久しぶりだねぇ』
記念撮影は昨年10月21日の「滝川渓谷ハイキング」以来となる。


観光アヤメ園を後にして、


右手に稲荷川を観ながら歩くことになする。


『この寒い中でも釣り人が居るんだぁ』
『好きなんだねぇ』


稲荷川の牛久沼手前を左に曲がり、


雲魚亭、河童の碑方面へ真っ直ぐに進む。


『この辺は少し風が弱くなったよねっ』
樹木が少しだけでも強風を遮ってくれるのがありがたい。


さらに道なりに真っ直ぐ進むと・・・


雲魚亭・河童の碑 400m、住井すゑ文学館 500mの案内板があった。


案内板に従って道なりに進むと、


稲荷神社の前に出た。


『いやぁ 満開だねぇ』 『もう直ぐ春って感じだよねっ』
ほぼ満開の白梅が美しい。


梅の木に見惚れながら進むと、右河童の碑 左雲魚亭の案内板が。
雲魚亭の下に何やら説明文が・・・
河童の碑から雲魚亭周辺にかけて花の苗を植える作業をしています。
芋銭の好んだ花 仙翁(せんのう)を中心に季節によって楽しめる花々を会員が
持ち寄ったものです。
年々充実させていきたいと会員一同張り切っております。
どうぞ温かく見守って下さい。
同時に竹林も整理しました。竹林内には立ち入らないで下さい。
ボランティアグループ 「芋銭の庭」


最初に河童の碑へ。


河童の碑


牛久市指定文化財(工芸品)
小川芋銭碑(河童の碑)
画聖小川芋銭は、明治元年牛久藩邸(現・東京赤坂溜池)で生まれ、同4年この地に移住、
少年期上京し、桜田小で勉学の後、彰技堂において画を学んだ。
同26年帰農以後は、郷土の伝説に登場する「河童」をはじめ「水の精」や「山の精」など
幻想的な世界を数多く描き、独自の画境を開いた。
一方芋銭は画のほかに、書や俳句にも通じ、絵を描く芭蕉とも称されており、昭和13年
71歳で他界するまで各地を訪れ、不朽の名作を残している。
平成二十五年四月二十二日指定  牛久市教育委員会


河童の碑の後ろにスダジイの大木が・・・


説明板には以下のように説明されている。
市民の木No.41  スダジイ(ブナ科)
樹高・15m、樹幹周り・400cm、樹齢・推定400年
(前略)
この辺りはかつて牛久藩の陣屋(1619年~1871年)の一部であり、近代日本画家の巨匠
小川芋銭(1868年~1938年)も四季を通して詩情豊かな沼畔に望むこの地をこよなく
愛しました。 牛久市


河童の碑を後にして、次の目的地雲魚亭へ。


河童の碑と雲魚亭の境界辺りに変わった道標が建てられていた。
正面に”國道方面”、右側面に「改善一歩」と刻まれている。
道標の横に「改善一歩」の刻字についての説明板が。
 この道標は、大正11年(1922年)に城中青年会(矯風会)の手によって、旧牛久村の
主要なみちすじに立てられたものの一つである。
当時、青年達が、道標を建てる計画をしていたところ、それを知った小川芋銭先生が、
永久に耐えられる石柱にしなさいと、これを寄付してくれたものである。
 青年会では早速好意を受け、芋銭先生の名を石柱に刻もうとしたが、先生は、
名前の代わりに「改善一歩」と刻みなさいと言われた。
 この改善一歩とは、自分の歩む道を善い方へ改めて進みなさい、という意味で、
現在7本が地区内に残っている。


「改善一歩」の意味を噛みしめながら進むと、10時32分、雲魚亭の裏庭に到着した。
浦庭には形の整った松の木が2本植えられていた。
そのうちの一つは”カッパ松”の名前が付いている。


そのむかし、村の若者が沼に棲むカッパに水の中に引きずり込まれ、死んでしまうことが
たびたびありました。
そこで、村で一番屈強な若者が、カッパ退治をすることになったのです。
ある日、その若者は、とうとうそのいたずらカッパを見つけました。
沼のほとりで昼寝をしているではありませんか。
若者はカッパを陸に引きずり上げ、松の木に括り付けて殺そうとしました。
ところが、カッパがあまりに泣いて詫びるので、気の優しい若者は、二度と悪事をしないことを
約束させ、カッパを放してあげました。
それ以来、沼で溺れる人はなくなりました。
またカッパを括り付けた松は「カッパ松」と呼ばれるようになったということです。


小川芋銭が揮毫した不動尊と書を刻んだ石碑群
 建碑者である医療法人土浦産婦人科(土浦病院)の院長石島ゑい(1885~1971)は、
心に不動尊を念じ、動じない覚悟で患者に向き合ったとされ、交流のあった芋銭の筆による
不動尊と書を石に刻みました。
 石碑は昭和4年(1922年)に制作され、病院の中庭に建てられました。
長らく医療現場を見守った石碑でしたが、病院の閉鎖に伴い牛久市に寄贈され、
現在地に移設されました。   令和3年3月 小川芋銭記念館雲魚亭保存会


雲魚亭
牛久沼をこよなく愛した画聖「小川芋銭」が晩年、牛久沼のほとりに建てたアトリエ「雲魚亭」。現在は小川芋銭記念館として芋銭の作品や遺品を一般公開している。
「雲魚亭」は芋銭の生前の数々の偉業を讃えるために昭和27年に芋銭の友人池田龍一氏が
中心となって建立された。


小川芋銭記念館雲魚亭
市指定文化財(建造物)  
雲魚亭 昭和12年建築 木造平屋建 瓦葺
平成22年6月28日指定 牛久市教育委員会


雲魚亭を後にして次の目的地へ。


雲魚亭からものの数分のところに住井すゑ文学館があった。
住井すゑ(1902~1997)は奈良県出身の作家。
昭和10(1935)年に、夫・犬田卯(いぬたしげる)の郷里である牛久村城中
(現・牛久市城中町)に家族で移住し、以来この地で執筆活動を行ない、
自由と平等を訴える作品を数多く発表した。
なかでも大作『橋のない川』は大ベストセラー小説となり、映画化された。
平成30(2018)年、住井すゑの書斎・抱樸舎(ほうぼくしゃ)・住宅の建物と土地が、
ご遺族より牛久市へ寄贈された。
改修工事を行ない、令和3(2021)年11月3日に牛久市住井すゑ文学館として一般公開された。


住井すゑ文学館の入口に現在地と周辺地図と観光地(A~F)の位置が表示されていた。


また、その隣に周辺の観光地(A~F)の写真と牛久沼の自然の写真が掲載されていた。
『牛久市観光アヤメ園はさっき行ったでしょっ、河童の碑と雲魚亭には今行ったばかりよねっ』
『夕焼けの富士山はとても綺麗だけど、この辺から富士山が観えるのかしらっ?』


一足先に敷地内に入った人から『牛久沼が見えるよっ』との声が・・・
声のする方へ行ってみると、一か所だけ木々の隙間から牛久沼が望める所があり、
皆さんがスマホやカメラのファインダーを懸命に覗いていた。


何とほぼ正面の牛久沼越しに真っ白な雪景色の富士山が見えるではないか。


『いやぁ こんな所から富士山を観られるとはねぇ・・・』
『しかも雪景色一色だもんねっ、感動ものだねっ』
『今日来た甲斐があったということよねっ』
自分も含めて皆さん満足のゆくこの日最高の景色だった、と思う。
入口で見た富士山の素晴らしい夕焼けの景色はまさにここからだったのだ、と納得した。


住井すゑ文学館を後にして、


かっぱの小径へ。


曲がりくねった坂道を下る(1)


曲がりくねった坂道を下る(2)


開けた所に出た。かっぱの小径である。


牛久沼の方に目をやると、富士山の頂上付近が少し見えただけだった。
住井すゑ文学館はかなり高い所(15mほど)にあったことが分かる。
牛久沼畔から富士山眺望の最高のポイントなのだと思った。


かっぱの小径を進む。


牛久沼はかなり風が強く、沖合はウサギが跳ねていた。
ウィンドサーフィンをやっていた人も諦めたのか、陸へ向かって来ていた。


かっぱの小径へ。


『お日様の反射が眩しいわねっ』


牛久沼の様子


かっぱの小径を進む。
『秋とか春に歩いてみたいわねっ』


かっぱの小径もこの付近で終わりになる。


かっぱの小径が終わり、左手に特別養護老人ホーム 元気館が見えた。
目指す牛久城址は右に曲がることになる。


特別養護老人ホーム 元気館とは反対側の方へ300mほど進むと、牛久城址への案内標識があった。


少し進むと通行止めのコーンがあったが、車両が対象なので、コーンを避けて進む。


薄暗くて細い荒地のような径を進むと・・・


右手に竹藪に囲まれた広場があった。
以前、ここを牛久城址の旧本丸跡と勘違いしたことがあったが、旧牛久城の出丸跡ではないかと
思っている。(はっきりとしたことは不明)


『こんな所に広場があったんだぁ』
初めての人には森の中にこんな広場があるとは思ってもみなかったのではないだろうか。


ここで小休止をしていこう。
『どうぞ どうぞっ』 持参したお菓子を配るいつもの景色だ。


『いただきま~すっ』 『いつもいつもありがとうねっ』


女性陣は一段と日当たりの良い場所に腰を下ろしている。


11時20分、小休止の後、牛久城址を目指して林の中を進む。


『急に広い場所に出たわねっ』


ここが本来の牛久城址である。


牛久城は岡見氏によって築かれた城で、牛久沼へ突き出した台地に位置し、三方を沼に囲まれている。
また、北条流の築城技術を取り入れて築かれており、惣構えをもっていた。
佐竹氏と結んだ多賀谷氏からの攻撃を受け岡見氏が滅亡したのちは北条氏方の持ち城となった。
その後「小田原の役」で北条氏が滅びると、豊臣秀吉によって由良国繁の母に牛久城が与えられ、
国繁が城主になったが、元和九年(1623年)に廃城となった。
江戸時代には山口氏が牛久陣屋を築き、明治維新まで存続した。
現在城址には土塁や空堀などの遺構が良好な状態で残っている。


牛久城址を後にして、次の目的地得月院へ。
農家に囲まれた細い道を進む。


細い道を得月院を目指す。


『これは薬師堂なのかしらっ?』


道路脇に小さな薬師堂が建っていた。
ご本尊の木造薬師如来坐像は牛久市の指定文化財(彫刻)として指定されている、とのこと。
奈良時代の僧「行基」の作と伝えられており、ほぼ半等身の薬師如来像、と説明されている。


11時34分、得月院前の駐車場に到着した。
この駐車場は何度か利用している。


得月院には、河童の絵を描き続けた日本画家・小川芋銭の墓があり、本堂の裏手に回れば
見学可能となっている。
得月院は小川芋銭の作品のなかでもモチーフとして使われたことがある。
得月院の門を潜ると・・・


直ぐ左手に閻魔堂があった。


閻魔堂の中には、中央に閻魔大王、その右側に妹の奪衣婆(だつえば)が睨みを効かせている。
三途の河原を渡ろうとしている亡者に対し、奪衣婆が亡者の身ぐるみを剥ぎ、その剥ぎ取った
衣服を、側に居る懸衣翁(けんえおう)という爺さんに渡す。
懸衣翁は受け取った衣服を衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝に下げると、亡者の
生前の業(ごう)の重みによって、悪いことをしてきた亡者の衣服は枝が撓るほど下がる。
それを閻魔大王が見ていて、その亡者に対し、あの世での処遇を決める、という仕組みだそうだ。


門を入った正面に得月院の本堂がある。
本堂は素朴ながらも趣のある造りになっている。
得月院は、文禄三年(1594年)牛久城に移り住んだ、由良国繁の母妙印尼輝子が開基した寺院。
地元出身で近代日本画壇の巨匠小川芋銭の菩提寺としても知られている。


本堂脇に立つカヤの木は、推定樹齢は約500年の大木で、樹幹約5m、樹高は20mほどある。
市指定文化財(天然記念物)となっている。
カヤの木は「蚊遣り(かやり)」のために焚いて煙をなびかせたことから、「カヤ」の名が
付いたとの説がある。材は緻密で堅く、木工・碁盤・将棋盤などに利用されている。
このカヤは近代日本画家の巨匠小川芋銭の二本の大木をモチーフにした作品「樹下石人談」に
書かれた木、とのこと。


本堂の奥へ行ってみると、


小川芋銭の墓があった。


得月院を出て左直ぐの所に牛久城の大手門跡を示す石柱が建てられている。


牛久城は、十六世紀の始めのころ、在地領主岡見氏によって築かれたといわれる。
天正十八年(1590年)岡見氏滅亡後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。
元和七年(1621年)由良氏が除封になり、廃城となった。
城は周囲三方を沼に囲まれ、一方の北側は台地を掘り切った要害堅固な旧城中集落全域を包む
大規模な城郭である。
大手門は、堀切のほぼ中央に「喰違い虎口」と「桝形馬出し」を備えた、厳重なものであった。
平成3年3月1日  牛久市教育委員会


牛久城大手門跡を後にして、次の目的地旧水戸街道の牛久宿方面へ。
国道6号牛久土浦BPを横断し、


旧牛久宿方面へ。


11時49分、八坂神社前を通過


八坂神社を過ぎて次の信号を左に曲がり、旧水戸街道を牛久駅方面へ。


本牛久郵便局前を通過すると・・・


明治天皇牛久行在所の際の宿所があった。


黒塀をめぐらした旧家飯島家の門脇にある明治天皇牛久行在所跡を示す石柱が建てられている。
これは明治十七年(1884年)の明治天皇女化原行幸の際の宿所を記念した碑で、
牛久という片田舎に明治天皇が訪れたことを物語っている。
当時としてはビッグトピックで、牛久から女化間の臨幸道の改修や牛久沼東岸の
新道の建設などが行われた。


旧水戸街道を牛久駅方面へ進むと、瑞雲山正源寺という寺があった。
文禄元年(1592年)、当時の牛久城主の由良国繁公の母君の発願により、戦で命を散らした
人々の菩提を弔う為に七観音八薬師の一つとして創建された曹洞宗の寺院である。


当初は、久宝山正源寺と称していたが、江戸時代に入り牛久藩主山口家二代目の弘隆公の時代に、
牛久藩のお膝元だった寺の門前は水戸街道の中央に位置する重要な中継駅として整備され、
牛久宿として栄えた。
それに伴い正源寺も牛久宿の安寧や街道を行き交う人々の安全を見守るお寺として、
弘隆公の支援を受け、現在の瑞雲山正源寺に改められた。


正源寺山門(鐘楼門)
本堂がこの山門を下った先に建っているというのは、あまり例がなく珍しいとされている、そう。


山門を潜り、坂を下って行くと、正源寺本堂があった。
曹洞宗瑞雲山正源寺
文禄元年(1592年)に当時の牛久城主由良国繁公の発願により創建された。
池波正太郎著の「鬼平犯科帳 雲龍剣」の中にも登場する、とのこと。


正源寺の境内にトチノキの大木があった。
樹高・17m、樹幹廻り・330Cm、樹齢・推定400年
木材には美しい模様があらわれることから、床柱や天井板、家具などにも使われるほか、
街路樹にもなっている。
有名なパリのマロニエの木は、この木の仲間だそう。


正源寺を後にして、ゴールの牛久駅へ向かう。


『いやぁ 今日はけっこう歩いたねぇ』
『疲れちゃったよっ』


前方に国道6号沿いの食事処「花屋与兵衛」が見えて来た。
間もなく牛久駅である。


牛久駅西出口交差点で国道6号を横断し、牛久駅へ。


12時20分、ゴールの牛久駅西口に到着した。


次回(2月9日)の説明の後、TK会長から労いの挨拶があった。
『久しぶりにちょっと距離が長かったようなので、ゆっくり身体を休めて下さい』
『また次回、楽しく元気に歩きましょうっ!!』
ということで、今日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


この後、駅前の食事処「日高屋」で食事をして、帰路に就いた。


牛久城跡&牛久宿周辺の散策が終わった。
この日のコースは、これまで三日月橋桜見物コースや、城中ルートなどそれぞれ
別々に歩いているため、さほど距離は感じなかったが、今回は一度に両方歩いたためか、
これまでで一番長い距離を歩いたような気がする。

初めて牛久駅をスタート&ゴールとしたことにより、参加人数が減るということはなく、
この寒さのなか、24名もの参加者が集まったことは、喜ばしい限りである。

強風が吹く中、寒さに耐えながら牛久沼畔を歩いた。
住井すゑ文学館から見えた全山が白銀に覆われた富士山には大いに感動させられた。
大げさに言うと、寒さが吹き飛ぶくらいの感動を受けたと感じている。
また、別の季節に歩いて、今回のような感動を味わいたいものである。

この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。

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初っ端から参拝をパス! 日本橋七福神巡り

2024年01月06日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)1月6日(土)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第16回、令和6年(2024年)第1回「日本橋七福神巡り
ウォーキングに参加した。

ここ数年は新年恒例として各地の「七福神巡り」を実施している。
今年は、”日本橋七福神巡り”を企画した。

通常であれば5日の金曜日に実施するところだが、通勤時間帯は避けるべきということで、
6日(土)に実施することにした。
荒川沖駅8時48分発の電車を待っているところ。


8時48分ちょうど、電車がやって来た。


取手付近の車内の様子。
当会のほぼ全員が揃って座り、楽しいひと時を過ごす。
まだ若干の空席が見られる。土曜日への変更は正解だ。


9時38分、北千住駅に到着し、


東京メトロ日比谷線へ。


日比谷線ホームに到着すると直ぐに中目黒行電車がやって来た。


グッドタイミングで中目黒行に乗車。
日比谷線車内はかなり混んでいたが、平日はもっと混むのかも・・・


10時01分、人形町駅に到着。


人形町駅A2出口(水天宮方面)へ向かう。


水天宮前交差点方面の出口へ。


A2出口付近にあった周辺地図で現在地を確認。
すぐ前の道路は、”甘酒横丁”と呼ばれているようだ。


出発前に点呼を取ると、この日の参加者は24名。
20名前後と想定していたので、予想を上回る参加者である。
年末に一応この日のコースの下見はしておいたが、全員無事にゴールすることを願って、
10時7分、最初の小網神社(福禄寿)を目指して、出発!


甘酒通りを進む。


身体の半分を突き出している鯨のモニュメント前を通過。


しばらく甘酒通りを進むと・・・


小網神社の案内表示板があった。


案内表示に従って進むと、左側に小網神社があった。
既に長い行列が出来ていた。
整理&誘導の人たちも見ることが出来る。


行列は小網神社のあるビルの一角から隣のタナベビルの先で右へと続いるようだ。
一つは銭洗いの行列で、タナベビルの端が最後尾となっているが・・・


もう一つの小網神社の行列は、タナベビルの先の道路を渡った所にある小公園の先まで
延々と続いていた。
ここから最後尾の位置は確認できない。


行列に並ぶかどうか迷っていたところ、NKさんから情報が入った。
最後尾の案内人に確認したら、”2時間待ち”と言われた、そうだ。
女性陣に小公園の端っこで待ってもらってる間、役員で相談した結果、小網神社の参拝は
パスしようということに。
七福神巡りも大事だが、あくまでも当会の目的はウォーキングであるため、ウォーキングを
優先しようということで意見が一致した。
皆さんに説明して納得していただいた。


参考までに昨年12月23日の下見の際に撮った写真を載せておく。
小網神社


福禄寿の像


小網神社の参拝はパスして、次の「茶の木神社」へ。


10時35分、銀杏八幡宮(銀杏稲荷)前を通過


銀杏稲荷には参拝者の姿はなかった。
『さすがに今はこの神社に参拝する人はいないよねっ』


10時40分、茶ノ木神社に到着。
茶ノ木神社には布袋尊が祀られている。
狛犬が狐なのをみると、稲荷神社ということになる。


茶ノ木神社は参道が殆どないので、我々だけでも道路にはみ出て並ぶことになる。


茶ノ木神社に参拝!


茶ノ木神社に無事参拝を終え、次に目指すは水天宮だ。
人形町通りの水天宮交差点から目指す水天宮がはっきりと見えた。


交差点を渡り、人形町通りを少し進むと、


水天宮への入口があった。


薄暗い石段を上ると、正面に水天宮の本殿が現れた。


こちらは七福神の寳生辨財天(ほうしょうべんざいてん)を祀るお堂だ。
かなりの参拝者が並んでいる。


寳生辨財天(ほうしょうべんざいてん)を正面から見たところ。


水天宮の狛犬
ブリヂストンの創立者である石橋正二郎氏によるご奉納とのこと。


水天宮の本殿に参拝!
寳生辨財天には少し離れた所から手を合わせただけで、水天宮を後にした。


入った所とは別の石段を通り、水天宮を後にした。


蛎殻町(かきがらちょう)のビルの間を進み、最初の信号を左に折れて進む。
次に目指すのは大国神を祀る松島神社である。


暫く進むと新大橋通りに出た。


この辺りは大きなビルが立ち並ぶ。


信号を渡って大門通りをちょこっと進むと、11時10分、松島神社に到着した。


松島神社にはあまり参拝者は並んでいなかった。
『あまり待たなくても済みそうねっ』


おかげで直ぐに参拝することが出来た。


次の目的地は毘沙門天を祀る末廣神社だが・・・


甘酒通り???
下見の時には通らなかったはずだが・・・


通りを一つ間違えてしまい、目指す末廣神社がなかなか見つからない。
近くに来ているのは間違いないのだが・・・


皆さんと一緒に探し回ること約10分、ようやく末廣神社を見つけることが出来た。


目指す末廣神社だ。


かなりの人が並んでいた。


10分くらい並べば済むだろうと考え、ここは列の最後尾に並ぶことにした。


末廣神社の沿革
末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時
(元和3年から明暦3年)、その地主神産土神として信仰されていました。
明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の
四か所の氏神として信仰されていました。
社号の起源は、延宝三年社殿修復の際、年経た中啓(扇)が発見されたので、氏子の人達が
悦び祝って末廣の二字を冠したものです。


末廣神社の鳥居を潜り、


列に並ぶこと凡そ10分後の11時43分、末廣神社本殿に到着し、参拝!


”毘沙門天像は、彫刻家浮田麻木氏が一木造で彫られた木像を御奉納いただき
お祀りしております” と紹介されている。
末廣神社の狛犬


新たに並んだ人たちの列を見ながら、次の目的地笠間稲荷神社へ向かった。


11時56分、金座通りを5-6分進んだ所に鎮座する笠間稲荷神社に到着した。
笠間稲荷神社の七福神は寿老神である。


笠間稲荷神社の正面の鳥居へ。


当会の皆さんも列を作って行儀よく並ぶ。


正面の鳥居を潜り、


並んで参拝の順番待ちをしているところ。


笠間稲荷神社本殿へ、参拝!!


神社境内の奥には稲荷神の御遣いとなる神使であるたくさんの狐が祀られていた。


笠間稲荷神社の臨時に設けられた縁起物売り場前を通り、


金座通りに面した方の鳥居を潜り、戻ることにした。


金座通りを人形町方面へ戻る際、道路反対側に久松警察署が見えた。


道路を渡り、久松警察署に隣接する久松児童公園で一休みしていくことにした。


12時17分、この日最後の目的地、恵比寿神を祀る椙森(すぎのもり)神社を目指して出発。


人形町交差点を右に曲がって、人形町通りを少し進むと・・・


玄冶店(げんやだな)跡の説明板が
以下のように説明されている。
江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の
拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれていました。
岡本玄冶(1587-1645)は京都に生まれ、医術を曲直玄朔(まなげんさく)に学びました。
元和九年(1623)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、
幕府の医師となりました。
後に法眼から法印に叙せられて啓迪院(けいてきいん)と号しました。
(中略)
玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐が脚色し、嘉永六年(1853)に中村座で初演された
「与話情浮名の横櫛」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台
となり、その名が広く世に知られるようになりました。
平成十六年三月   中央区教育委員会


史跡 玄冶店 碑


人形町通りを進み、左に折れてさらに右へ曲がると・・・


12時28分、椙森(すぎのもり)神社に到着した。


椙森(すぎのもり)神社に参拝!!


椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が
戦勝祈願をした所と云われています。
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を
勧請して厚く信仰した神社でした。
そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、
椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
(中略)
境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行を偲んで大正8年に建てられたもの
(昭和28年に再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
平成8年3月   中央区教育委員会


富塚の碑


(前略)
この富塚は、他に類を見ないと言われ、日本で唯一のものです。
今日では、宝くじの元祖として、多くの人々が心中祈願をしているようです。


境内にはたくさんの絵馬が奉納されていた。


この日最後の目的地である椙森神社の参拝を済ませたので、ゴールの東京メトロ銀座線の
三越前駅へ向かうことにしよう。


ビルの谷間を通ってしばらく進むと、昭和通り(首都高都心環状線)に出た。


少し左側へ行くと横断歩道があった。


首都高都心環状線の下を横断して昭和通りを渡り、


江戸桜通りを中央通りの三越前方面へ。


日本橋コレド室町で食事をして行きたいというKS夫妻とはここで分かれ、三越前へ。


コレド室町前を通過
『凄くモダンでお洒落な感じだね~っ』


12時58分、中央通りに到着した。
向い側に三越本店が見える。


中央通りを横断して、三越前へ。


この日は三越の獅子像前辺りで解散することにした。
ここからは皆さん思い思いの方へ。
『皆さ~ん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『気を付けてね~っ』


我々一行は、やや疲れが出たので、一駅だけだが銀座線で日本橋駅へ向かうことにした。
日本橋八重洲で食事を済ませれば、東京駅から常磐線に最も近いというメリットが得られる。


東京メトロ日本橋駅からは、何人かは好みの場所があるのか、雑踏に消えて行った。
日本橋八重洲付近は地理不案内なため、好みの店を探して街中を歩き周った。
とあるビルの地下入口にうなぎ専門の看板を見つけた。
値段も手ごろ(鰻重上:1,900円、特上:2,900円)だし、生ビールもある。
お腹も空いていたので、思い切って店に入ることにした。


先ずは生ビールで『かんぱ~い』 『お疲れさまでしたぁ』


『今日の生は特別に美味いねっ』


『最初はどうなるかと思ったけど、終わってみれば良かったんじゃないですかねっ?』


『ほんとだよねっ! ビールも最高っ!!』


注文した鰻重上が運ばれて来た。
お腹が空いていたからかも知れないが、とても美味しかった。
これで税込み1,900円はリーズナブルである。
次に東京駅に来た時には必ず立ち寄ることにしよう。
その時は特上を注文したい。


東京駅八重洲の大丸ビルを見上げながら・・・


東京駅へ。


14時21分、東京駅北口に到着した。

この後、14時44分発の常磐線水戸行に乗車し、荒川沖駅には15時53分に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

本年第1回目の例会(日本橋七福神巡り)が無事終わった。
初っ端から参拝をパスすることになり、この先どうなることかと心配したが、その後は
特に大きなトラブルも無く、ほぼ順調に参拝を済ませることが出来て、安堵している。
昨年は、一度も休むこと無く例会に参加出来たが、今年も全会参加を目標に、元気に
楽しく歩きたいと願っている。

この日の万歩計は、10,000歩を計測していた。

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コメント
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