令和6年(2024年)12月13日(金)
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第13回、令和6年(2024年)第18回「2024年 忘年ウォーキング」に参加した。
この日は今年最後の例会となる”忘年ウォーキング。
忘年会の場所は昨年と同じ土浦市下高津の「かね㐂本店」である。
荒川沖駅9時52分発の下り電車を待つ皆さん。
荒川沖駅からは、9名が乗車することに。
9時58分、電車は定刻どおり土浦駅に到着した。
皆さん、エスカレータは使わず階段を上る。
「健康ウォーキングの会」会員の意地といったところか。
土浦駅の改札口を出て、
土浦駅の東西を繋ぐ通路へ行ってみると・・・
大勢の仲間が集まっていた。
その数15名、龍ヶ崎から1名、荒川沖からの9名と合わせ25名となった。
事前確認した人数ぴったりである。
通行人の邪魔になるからと少し場所を移動し、必要資料の配布などを行い、「かね㐂」での進行や料金の
徴収などについて説明し、
10時16分、「かね㐂」に向けて出発!
階段を下り、土浦駅東口北口へ。
土浦駅前通路を県道263号へ。
土浦駅前の県道263号を横断し、
土浦港方面へ。
一番奥の港には、たくさんのヨットが。
左手に土浦港を見ながら進む。
この日は当会最高齢のKKさん(90)も元気に参加してくれた。
土浦港に係留されているヨット。
『男だったら一度は憧れちゃうよねっ』
『けっこうな値段するんでしょっ?』
港町方面へ。
ヨットの前方に川口公園のJ:COMスタジアム土浦が見える。
『昔来たことがあるなぁ』と昔を懐かしむ龍ヶ崎市から参加のTJさん(右)
『いやぁ 今日は寒いねぇ』
この日の土浦市の最高気温は9℃となっている。
対岸にJ:COMスタジアム土浦が見える。
土浦港の外(霞ヶ浦)へ出るにはもう少し先になる。
10時37分、土浦港から900mの地点を通過。
後方に女性陣が続く。
港町3丁目付近と思われる。
『ここの桜並木、桜の時期に歩いてみたいわねっ』
西浦中岸0.5Kmの地点を通過。
『こんな寒い中、何を狙ってるんだろうねっ』
意気投合している様子だが、二人で何を話してるのだろう?
桜並木は次第に右へカーブし始めた。
霞ヶ浦に出たのかも・・・
10時43分、土浦港から1,300mの地点を通過。
住宅街を見ると庭に真っ赤なもみじが。
『この時期に見頃になるなんて今年は随分遅れてるわねっ』
『前に見えるのは桜川の入口じゃないっ?』
対岸に国交省霞ヶ浦河川事務所土浦出張所の水門が見えた。
10時49分、土浦港から1,700mの地点を通過。
『かね㐂まで1/3くらいは歩いたかなっ?』
前方に桜川に架かる最初の橋、水郷橋が見えて来た。
水郷橋が次第に近くなって来た。
ススキの穂の向こう岸は桜川の対岸の桜並木である。
水郷橋へ。
11時2分、土浦港から凡そ2,500m、水郷橋の手前200mの地点で小休止だ。
『この分じゃかね㐂には11時半には着きそうだねっ』
数分の休憩後、かね㐂を目指す。
11時5分、水郷橋に到着。
県道263号を横断し、
11時8分、常磐線の下を通過。
水郷橋の一つ上流に架かる2つ目の櫻川橋へ。
11時11分、土浦港から2,900mの地点を通過
『このペースだったら、11時半には楽勝じゃないっ!』
桜川にはたくさんのオオバンが浮かんでいた。
櫻川橋の下を通った後、しばらく土手の上を歩き、
桜川に架かる霞ヶ浦から3つ目の匂橋を渡る。
この橋は車が通れないので安心して歩ける。
匂橋を渡る。
匂橋から桜川上流を見たところ。
この橋を渡ればもう直ぐ「かね㐂」本店だ。
匂橋を渡り、備前川を過ぎて真っ直ぐ進み、
下高津交差点の先が「かね㐂」になる。
正面に「かね㐂」の看板が見える。
11時26分、「かね㐂」に到着した。
『ちょっと早かったかなっ?』
『いらっしゃいませ~ どうぞこちらへ~』
「かね㐂」の店員さんに案内されて店内へ。
靴を脱いで予約していた部屋へ。
25名は一室には入りきれないので、「かね㐂」によって大きい部屋には18名、
隣の小さい部屋には7名の席が用意されていた。
特に席は決めてないので各自自由に座ってもらうことにした。
席はほどなく決まったようだ。
会計担当が飲物の注文を受け、店側に注文している間、皆さんの表情を撮らせてもらった。
KKさん(左)とKSさん(右)。
TJさん(左)とNKさん(右)。
KD子さん(左)、SB子さん(中)、YM子さん(右)
こちらは別室のAR子さん(左)、TK子さん(中)、IR子さん(右)
別室のYMさん(左)、SRさん(中)、HRさん(右)
別室一番奥のOG子さん
再び大きな部屋に戻ってAD子さん(左)とSR子さん(右)
NK子さん(左)とIK子さん(右)
注文した飲物も行き渡ったところで、TK会長の挨拶と音頭で・・・
『今年一年頑張りました、また来年も楽しく元気に歩きましょう! かんぱ~いっ』
食事の様子(1)
食事の様子(2)
こちらは別室、あらためて『かんぱ~いっ』をしてもらった。
食事の様子(3)
食事の様子(4)
(YMさんに撮ってもらったスマホの画面)
食事の様子(5)
会計担当の皆さん
食事の様子(6)
食事の様子(7)
食事の様子(8)
和気あいあいのうちに食事を楽しんだ小部屋の皆さん
会計担当の3名は、我々が食後のコーヒーを楽しんでいる間に料金徴収を終え、会計を済ませてくれたようだ。
会計処理も終わり、忘年会を終了することが出来た。
13時13分、「かね㐂」を出た。
『今日はけっこう盛り上がって本当に楽しかったわねっ』
『それでは皆さん、良いお年をっ!!』
13時15分、「かね㐂」を後にして各自駅方面や駐車場などへ向かった。
匂橋手前の所に来たところ、後ろの方から『KKさんが突然倒れた』との声が。
驚いて30mほど後方の備前川に架かる橋の方へ行ってみると・・・
KKさんが倒れていた。
KKさんの上半身をYMさんの奥さんが膝の上で支え、YM氏がKKさんの肩の辺りを引っぱって少しでも
奥様が軽くなるような姿勢でKKさんの状態を見守っていた。
『KKさ~んっ』と大きな声で呼ぶとかすかに薄目を開けるような仕草を見せ、意識はある感じだった。
その後最初は青白かった顔色が次第に血色が戻って来ているような状態になってきた。
10数分後に救急車が到着し、
KKさんと同行者1名(YM氏)を乗せ、
13時44分、救急車は出発した。
向かう先は土浦協同病院とのことだった。
後はKKさんの無事回復を祈るばかりである。
YMさんの連絡を持つことにしよう。
匂橋の所でそれぞれ別方向へ。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『良いお年をっ!!』
我々数名は土浦駅に向かった。
匂橋を渡った所でTK会長とは分かれた。
『お疲れさまでしたぁ』 『良いお年をっ!!』
土浦駅に向かう。
桜川の土手を土浦駅に向かう。
叶地蔵尊を祀った祠があったので、KKさんの無事回復を祈願した。
元々は度々見舞われた災害から護って欲しいとの願いから文政三年(1820)に造立されたものらしいが、
ここはKKさんの無事回復を願ってのこととなった。
願いが叶うことを祈った。
常磐線鉄橋の手前を左に曲がると・・・
土浦駅が見えた。
14時5分、土浦駅に到着した。
忘年会も無事終わり、土浦駅方面へ向かう途中にKKさんが突然倒れ、一時意識不明の状態に。
居合わせたみんなで力を合わせ、KKさんの介抱や呼び掛け、119番通報などの処理を行った。
救急車で土浦協同病院に搬送された時にはホっとしたが、その後の状態が気がかりである。
その後(19時頃)、病院へ同行したYMさんから電話が入り、無事退院することが出来て、
KKさんを自宅まで送っていった、との連絡が入った。
数時間病院で安静にしていたら、自宅で普通の生活が出来るほどに回復して退院した、
ということには大変驚いた。
少なくとも数日は入院するのではと思っていたので、びっくりしたというのが正直な気持ちである。
その後、KKさん本人からも『迷惑をかけて申し訳なかった』との電話があった。
迷惑だなんて、それよりも、兎に角無事に退院できたことの喜びの気持ちを真っ先に伝えた。
この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
令和6年(2024年)12月6日(金)
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第12回、令和6年(2024年)第17回「小町の里から鬼越もみじの森へ」ハイキングに参加した。
今年度のハイキングとしては、今年5月18日(土)の高柴山、10月11日(金)の雨引山以来3度目のハイキングとなる。
第一集合場所乙戸沼公園の銀杏もいつの間にかすっかり落葉してしまい、時間の流れを感じる。

この日乙戸沼公園に集まったのは、地元にも拘らず自分を入れて5名、ちょっと寂しい感じではある。
やはり山に登るということが敬遠されたのかも知れない。

車2台に分乗して出発場所の小町の館前の駐車場に行ってみると、かなりの人が集まっていた。

やはり、鬼越山(372m)位のハイキングはそれほど苦にはならないという人の姿が多い。

次回(忘年ウォーキング)や次々回(七福神巡り)などの地図を配布し、
今回初参加のYMさん夫妻(左の2人)の紹介などを終え、

10時9分、この日の道案内役をお願いしていたTM子さんとNZ子さんを先頭に、鬼越山の麓を目指して出発!
二人によると、10日ほど前に下見として鬼越山のもみじを見て来たそうだ。
その時は見頃にはもう少し時間がかかりそうとのことだった。
この日はこのところの冷え込みにより、見頃を期待しても良さそうとのことである。

TK会長たちも後に続く。

小町山・朝日峠登山口方面へ。
『いやぁ今日は素晴らしい天気だね~っ』
『雲一つないねぇ』

突き当りを左に折れ、小町山登山口へ。

『今日は、風がないから意外と寒く感じないよねっ』

少し離れて最後尾Gも続く。

10時16分、小町山登山口に到着し、振り返って朝日峠展望公園方面を見たところ。
自分の好きな景色の一つである。

小町山登山口に祀られた山の神にこの日の無事安全を祈願し、

小町山の沢コース方面へ。

小町山沢コースを進む。

丸太の橋で沢を渡り、薄暗い森の中を進む。

10時33分、熊の岩分岐点に到着し、ここで軽い休憩を摂ることに。

身体が熱くなって上着を脱ぐ人も。
自分も上着を脱いだが、リュックに仕舞うのが面倒なので腰に巻き付けた。

丸太の橋で沢を渡り、右手に竹の樋(とい)で作られた願いの滝を観ながら進む。

沢を流れる水の音を聴きながら沢コースのかなりな急坂を登る。

次第に急になってゆく坂道を上る。

沢沿いの坂道を上る。

10時45分、姫の滝を通過

姫の滝の先の分岐点を左へ。

10時53分、しずく石に到着。
しずく石からはしずくは流れ出ていなかった。

ここで軽い休憩を摂り、

三ツ石方面へ。

しずく石から三ツ石への間は小野小町のうたを詠みながら登る”うたのみち”になっている。
「いとせめてこいしきときはむはたまのよるのころもをかえしてそきる」
(貴方を恋しくて仕方がない時は、夜の着物を裏返しにして、眠るのです。)
小野小町の在世時、夜着を裏返しに着て眠ると、恋人が夢に出て来るとの俗信があったらしい。

三ツ石を目指す。

”うたのみち”の案内板前を通過

「あきかせにあふたのみこそかなしけれわかみむなしくなりぬとおもへは」
秋風に激しく煽られる稲穂の実ほど辛く悲しいものはない。
(せっかく実ったっというのに、その風によって空しく吹き飛ばされ、(酷い雨や暑い夏に耐えた)
今までの苦労も無意味なものになってしまうのだから。)
(別訳 恋をテーマにして)
あの人に飽きられた後の、逢えるという願いほど悲しいものはありません。
(そんな頼みにならない、あてにならない希望を信じた我が身が、空しくなってしまうと思うので。)

三ツ石への急な坂道を登る。
登りに夢中になって小野小町のうたをいくつか見落としてしまった。

三ツ石への急な坂道を登ると・・・

11時8分、三ツ石に到着した。

ここでしばしの休憩にしよう。
『ちょっときつかったわねっ』

『お茶が美味いっ』
『うたのみちの最後は堪えるよねっ』

『いやぁ 疲れた~っ』
久し振りの山登りは身体に堪える。

いつまでも休憩している訳にもいかないので、先へ行こう。

ここから先は急な上りが続く。

『ここは頑張るしかないかっ』
急坂道を登る皆さん。
自分もかなりへばって来ていた。

三ツ石からの急坂道を登ること20分余りの11時33分、松の木広場に到着した。
12,000歩を日課としているNKさん(84)もさすがに疲れた様子。

TK会長(85)『いやぁ 今日はほんとに堪えるよねっ』

YMさん夫妻(75,73)はそうでもなさそう。
やはり年齢の差なのだと思う。

『おひとつどうぞっ』
『ありがとう、いただきますっ』
いただいたビスケットはとても美味しかった。

11時41分、鬼越山の麓を目指して出発!

『あら~っ きれいっ』
見上げると、きれいに色付いたもみじが見えた。
下ばっかりに気を取られて

真っ赤に染まったもみじも。
”もみじの森”のもみじに期待が膨らむ。

鬼越山の麓まであと少しだ。

最後の急坂を上り切ると・・・

11時49分、鬼越山の麓に到着した。

全員が揃ったところで・・・

もみじの森へ。

パープルラインの道沿いを少しだけ歩き、

もみじの森へ。

パープルライン脇の林道を進む。

パープルライン脇の林道を進むこと約7分、

もみじの森のもみじ(1)が見えた。
『なかなかのもんじゃないっ』

もみじの森のもみじ(2)
『きれいだねっ』

もみじの森のもみじ(3)
『ベストのタイミングだったようだねっ』

もみじの森のもみじ(4)
『けっこう広い範囲でもみじがあるねぇ』

もみじの森のもみじ(5)
近くにはベンチが数か所あるだけだったが、『この辺で休憩しますかっ』

12時5分、この日は軽食を持参するように連絡網を回していたので、皆さん持参した軽食
(おにぎりやパンなど)を食べることにした。
軽食タイム(1)

軽食タイム(2)
皆さんおにぎりや、

軽食タイム(3)
パンなどを頬張っていた。

軽食タイム(4)
こちらは既に食べ終わっていたようだ。

12時17分、軽食も終わったのでもみじを見ながら下山することにした。

『今日来てほんとに良かったわよねっ』

『朝日峠のもみじ谷も良いけど、こっちの方が断然良いわよねっ』

『こんな素晴らしいもみじが観られるなんて幸せっ』
皆さんから感嘆の声が上がる。
企画は大正解のようだ。

三ツ石を目指して坂道を下る。

『下りはそれほど急坂じゃないから楽ねっ』

もみじの森を出発して坂道を下ること約20数分の12時45分、登山道脇にベンチがあったので、
そこで軽い休憩。

数分後に最後尾Gが到着したのを確認し、再び下山開始。

山道を下る。

さらに山道を下る。

12時59分、見覚えのある岩が現れた。
三ツ石で最大の巨岩である。
いつの間にか三ツ石と鬼越山登山道の間を結ぶ径を下っていたのだ。

下りは意外と疲れるものである。
三ツ石で少し休憩していこう。

少しの休憩だったら座らない方が良いかも・・・
(と言ったかどうかは知らないが・・・)

案内役のTM子さんによると、三ツ石からしずく石へ下山するのが楽では?と言うことを了解して
13時4分、下山開始したのだが・・・

TM子さんから別件の予定のため早めに下山したいとの申し出があったため、TM子さんには
先に下山してもらい、我々はゆっくりと彼女の後を追うような形で下ることにした。

13時11分、しずく石に到着

しずく石の急階段を下る。

しずく石の急階段を下り、

13時17分、姫の滝を通過

ゴールの小町の館を目指す。

途中”みちくさ処”で小休憩
TK会長はかなり疲れた様子だった。
『いやぁ参った!』

13時30分、希望の滝を通過
いつもに比べて水量が多いように感じた。

ゴールの小町の館を目指す。

ゴールの小町の館を目指し、杉林の中を下る。

丸太の橋で沢を渡り、

13時45分、小町山登山口の山の神に到着した。
この日の無事にお礼の参拝を済ませて、

小町山登山口の坂道を下り、

小野の集落を進むと・・・

突き当りを右へ曲がると、間もなくゴールの小町の館だ。

もみじの森の話しでもしているのだろうか・・・

14時1分、ゴールの小町の館駐車場に到着した。
『今日は私にはけっこうきつかったですが、頑張りました。
これからも健康のため、ウォーキング、ハイキングを楽しみましょうっ』
TK会長から元気の良い挨拶でこの日は解散することになった。

新規入会したばかりのYMさん夫妻(左)に今日の感想を求めると、『ちょっときつかったと言うのが
正直なところです』と答えてくれた。
ハイキングと言えるのは年数回だけ、あとは楽なウォーキングなので、これからも頑張って欲しいし、
楽しんで欲しいものである。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

今回初めて鬼越もみじの森(正式名称かは不明)へのハイキングを実施した。
朝日峠への途中にあるもみじ谷のもみじは幾度となく観たことはあるが、見頃を観たことはなかった。
この日の鬼越のもみじの森はまさに今が見頃と言えるものだったと思う。
もみじ谷のもみじよりも木の本数も多く、色合いが良いと感じた。
鬼越のもみじの森のもみじは今日初めて観たという人が多かったが、『素晴らしかった』
『素敵で綺麗だった』『今日来て良かった』などと感動の声がたくさん聞くことが出来た。
この日は軽食持参としたが、次に訪れる時は弁当持参にした方が良さそうだ。
この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第12回、令和6年(2024年)第17回「小町の里から鬼越もみじの森へ」ハイキングに参加した。
今年度のハイキングとしては、今年5月18日(土)の高柴山、10月11日(金)の雨引山以来3度目のハイキングとなる。
第一集合場所乙戸沼公園の銀杏もいつの間にかすっかり落葉してしまい、時間の流れを感じる。

この日乙戸沼公園に集まったのは、地元にも拘らず自分を入れて5名、ちょっと寂しい感じではある。
やはり山に登るということが敬遠されたのかも知れない。

車2台に分乗して出発場所の小町の館前の駐車場に行ってみると、かなりの人が集まっていた。

やはり、鬼越山(372m)位のハイキングはそれほど苦にはならないという人の姿が多い。

次回(忘年ウォーキング)や次々回(七福神巡り)などの地図を配布し、
今回初参加のYMさん夫妻(左の2人)の紹介などを終え、

10時9分、この日の道案内役をお願いしていたTM子さんとNZ子さんを先頭に、鬼越山の麓を目指して出発!
二人によると、10日ほど前に下見として鬼越山のもみじを見て来たそうだ。
その時は見頃にはもう少し時間がかかりそうとのことだった。
この日はこのところの冷え込みにより、見頃を期待しても良さそうとのことである。

TK会長たちも後に続く。

小町山・朝日峠登山口方面へ。
『いやぁ今日は素晴らしい天気だね~っ』
『雲一つないねぇ』

突き当りを左に折れ、小町山登山口へ。

『今日は、風がないから意外と寒く感じないよねっ』

少し離れて最後尾Gも続く。

10時16分、小町山登山口に到着し、振り返って朝日峠展望公園方面を見たところ。
自分の好きな景色の一つである。

小町山登山口に祀られた山の神にこの日の無事安全を祈願し、

小町山の沢コース方面へ。

小町山沢コースを進む。

丸太の橋で沢を渡り、薄暗い森の中を進む。

10時33分、熊の岩分岐点に到着し、ここで軽い休憩を摂ることに。

身体が熱くなって上着を脱ぐ人も。
自分も上着を脱いだが、リュックに仕舞うのが面倒なので腰に巻き付けた。

丸太の橋で沢を渡り、右手に竹の樋(とい)で作られた願いの滝を観ながら進む。

沢を流れる水の音を聴きながら沢コースのかなりな急坂を登る。

次第に急になってゆく坂道を上る。

沢沿いの坂道を上る。

10時45分、姫の滝を通過

姫の滝の先の分岐点を左へ。

10時53分、しずく石に到着。
しずく石からはしずくは流れ出ていなかった。

ここで軽い休憩を摂り、

三ツ石方面へ。

しずく石から三ツ石への間は小野小町のうたを詠みながら登る”うたのみち”になっている。
「いとせめてこいしきときはむはたまのよるのころもをかえしてそきる」
(貴方を恋しくて仕方がない時は、夜の着物を裏返しにして、眠るのです。)
小野小町の在世時、夜着を裏返しに着て眠ると、恋人が夢に出て来るとの俗信があったらしい。

三ツ石を目指す。

”うたのみち”の案内板前を通過

「あきかせにあふたのみこそかなしけれわかみむなしくなりぬとおもへは」
秋風に激しく煽られる稲穂の実ほど辛く悲しいものはない。
(せっかく実ったっというのに、その風によって空しく吹き飛ばされ、(酷い雨や暑い夏に耐えた)
今までの苦労も無意味なものになってしまうのだから。)
(別訳 恋をテーマにして)
あの人に飽きられた後の、逢えるという願いほど悲しいものはありません。
(そんな頼みにならない、あてにならない希望を信じた我が身が、空しくなってしまうと思うので。)

三ツ石への急な坂道を登る。
登りに夢中になって小野小町のうたをいくつか見落としてしまった。

三ツ石への急な坂道を登ると・・・

11時8分、三ツ石に到着した。

ここでしばしの休憩にしよう。
『ちょっときつかったわねっ』

『お茶が美味いっ』
『うたのみちの最後は堪えるよねっ』

『いやぁ 疲れた~っ』
久し振りの山登りは身体に堪える。

いつまでも休憩している訳にもいかないので、先へ行こう。

ここから先は急な上りが続く。

『ここは頑張るしかないかっ』
急坂道を登る皆さん。
自分もかなりへばって来ていた。

三ツ石からの急坂道を登ること20分余りの11時33分、松の木広場に到着した。
12,000歩を日課としているNKさん(84)もさすがに疲れた様子。

TK会長(85)『いやぁ 今日はほんとに堪えるよねっ』

YMさん夫妻(75,73)はそうでもなさそう。
やはり年齢の差なのだと思う。

『おひとつどうぞっ』
『ありがとう、いただきますっ』
いただいたビスケットはとても美味しかった。

11時41分、鬼越山の麓を目指して出発!

『あら~っ きれいっ』
見上げると、きれいに色付いたもみじが見えた。
下ばっかりに気を取られて

真っ赤に染まったもみじも。
”もみじの森”のもみじに期待が膨らむ。

鬼越山の麓まであと少しだ。

最後の急坂を上り切ると・・・

11時49分、鬼越山の麓に到着した。

全員が揃ったところで・・・

もみじの森へ。

パープルラインの道沿いを少しだけ歩き、

もみじの森へ。

パープルライン脇の林道を進む。

パープルライン脇の林道を進むこと約7分、

もみじの森のもみじ(1)が見えた。
『なかなかのもんじゃないっ』

もみじの森のもみじ(2)
『きれいだねっ』

もみじの森のもみじ(3)
『ベストのタイミングだったようだねっ』

もみじの森のもみじ(4)
『けっこう広い範囲でもみじがあるねぇ』

もみじの森のもみじ(5)
近くにはベンチが数か所あるだけだったが、『この辺で休憩しますかっ』

12時5分、この日は軽食を持参するように連絡網を回していたので、皆さん持参した軽食
(おにぎりやパンなど)を食べることにした。
軽食タイム(1)

軽食タイム(2)
皆さんおにぎりや、

軽食タイム(3)
パンなどを頬張っていた。

軽食タイム(4)
こちらは既に食べ終わっていたようだ。

12時17分、軽食も終わったのでもみじを見ながら下山することにした。

『今日来てほんとに良かったわよねっ』

『朝日峠のもみじ谷も良いけど、こっちの方が断然良いわよねっ』

『こんな素晴らしいもみじが観られるなんて幸せっ』
皆さんから感嘆の声が上がる。
企画は大正解のようだ。

三ツ石を目指して坂道を下る。

『下りはそれほど急坂じゃないから楽ねっ』

もみじの森を出発して坂道を下ること約20数分の12時45分、登山道脇にベンチがあったので、
そこで軽い休憩。

数分後に最後尾Gが到着したのを確認し、再び下山開始。

山道を下る。

さらに山道を下る。

12時59分、見覚えのある岩が現れた。
三ツ石で最大の巨岩である。
いつの間にか三ツ石と鬼越山登山道の間を結ぶ径を下っていたのだ。

下りは意外と疲れるものである。
三ツ石で少し休憩していこう。

少しの休憩だったら座らない方が良いかも・・・
(と言ったかどうかは知らないが・・・)

案内役のTM子さんによると、三ツ石からしずく石へ下山するのが楽では?と言うことを了解して
13時4分、下山開始したのだが・・・

TM子さんから別件の予定のため早めに下山したいとの申し出があったため、TM子さんには
先に下山してもらい、我々はゆっくりと彼女の後を追うような形で下ることにした。

13時11分、しずく石に到着

しずく石の急階段を下る。

しずく石の急階段を下り、

13時17分、姫の滝を通過

ゴールの小町の館を目指す。

途中”みちくさ処”で小休憩
TK会長はかなり疲れた様子だった。
『いやぁ参った!』

13時30分、希望の滝を通過
いつもに比べて水量が多いように感じた。

ゴールの小町の館を目指す。

ゴールの小町の館を目指し、杉林の中を下る。

丸太の橋で沢を渡り、

13時45分、小町山登山口の山の神に到着した。
この日の無事にお礼の参拝を済ませて、

小町山登山口の坂道を下り、

小野の集落を進むと・・・

突き当りを右へ曲がると、間もなくゴールの小町の館だ。

もみじの森の話しでもしているのだろうか・・・

14時1分、ゴールの小町の館駐車場に到着した。
『今日は私にはけっこうきつかったですが、頑張りました。
これからも健康のため、ウォーキング、ハイキングを楽しみましょうっ』
TK会長から元気の良い挨拶でこの日は解散することになった。

新規入会したばかりのYMさん夫妻(左)に今日の感想を求めると、『ちょっときつかったと言うのが
正直なところです』と答えてくれた。
ハイキングと言えるのは年数回だけ、あとは楽なウォーキングなので、これからも頑張って欲しいし、
楽しんで欲しいものである。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

今回初めて鬼越もみじの森(正式名称かは不明)へのハイキングを実施した。
朝日峠への途中にあるもみじ谷のもみじは幾度となく観たことはあるが、見頃を観たことはなかった。
この日の鬼越のもみじの森はまさに今が見頃と言えるものだったと思う。
もみじ谷のもみじよりも木の本数も多く、色合いが良いと感じた。
鬼越のもみじの森のもみじは今日初めて観たという人が多かったが、『素晴らしかった』
『素敵で綺麗だった』『今日来て良かった』などと感動の声がたくさん聞くことが出来た。
この日は軽食持参としたが、次に訪れる時は弁当持参にした方が良さそうだ。
この日の万歩計は、11,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
令和6年(2024年)11月16日(土)
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第11回、令和6年(2024年)第16回「千住宿からお化け煙突の跡地へ」
ウォーキングに参加した。
1週間ほど前には雨が予想されていたが、数日前頃からは雨の予報は次第に前日に移り、
この日はまずまずの天気となった。
この日荒川沖駅に集まった人は11名、まぁいつもの顔ぶれである。

荒川沖8時47分発の電車を待つ皆さん。

土曜日の電車は空いていた。
全員安心してゆったりと座って行けるのが嬉しい。

土浦駅からも11名が乗車したことで、参加者は22名となった。
下車駅の南千住駅までの小1時間は、会計担当によるバスハイクの余剰金の払戻や、
忘年会の参加希望などの確認などで有効に過ごすことが出来た。

9時40分、この日のスタート地である南千住駅に到着した。

めいめい体調を整えた後、コースの説明に続いてTK会長の挨拶があり、

9時56分、南千住駅をスタート!!
最初の訪問地、延命寺を目指した。

JR常磐線の下を潜り、JR常磐線と東京メトロ日比谷線の間に挟まれた場所に立地する
延命寺へ。

10時3分、南千住駅から5-6分で最初の目的地の延命寺に到着した。
この寺には延命地蔵(別名首切地蔵尊)が有名な寺で、近くに江戸初期から小塚原刑場が
あったところだ。
寛保元年(1741)に刑死者の菩提を弔うために建立されたものである。

延命寺のお地蔵様(延命地蔵)が台座に座っているのが見えた。

ウマさんの街道を歩くシリーズの”旧水戸街道を歩く”の第一日目に延命寺を訪れた時には、
東日本大震災の直後だったため、台座の上にお地蔵様の姿はなく、お地蔵様の頭の部分だけが
台座の脇に鎮座していたのを思い出した。
(2011年4月24日に訪れた時の写真)

延命寺を後にして次の目的地である円通寺へ向かった。

10時13分、小塚原回向院(えこういん)前を通過。
江戸時代には、刑死者を自由に供養することは許されなかったが、ここ小塚原回向院だけが
許され供養していたそうである。
桜田門外の変で伊井大老を暗殺した水戸浪士たちも小塚原で処刑されている。
鼠小僧次郎吉や吉田松陰の墓があることでも知られる。

回向院の先を左に曲がり、次の目的地円通寺を目指す。

突き当りの国道4号を横断し、

左折して少し進むと、10時24分、目指す円通寺に到着した。

この寺には弾痕も生々しい上野寛永寺の黒門が移築されている。
慶応4年(1868)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から
敗走した。

彰義隊士の墓
累々と横たわる隊士の遺体を見た当時の円通寺住持だった仏磨和尚は、神田旅籠町の
御用商人三河屋幸三郎とともに、官許を得て慶応4年(1868)の上野戦争のあとも
野ざらしにされていた彰義隊士の遺骸を秘かに火葬して円通寺に合葬した。
黒門もその縁で円通寺に移築されたという。

境内にはたくさんの戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者と思われる追弔碑や墓碑がある。
『まだみんな若かったんでしょうね~っ』

戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(1)

戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(2)

戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(3)

いくつかの追弔碑・墓碑に手を合わせ、円通寺を後にした。

国道4号を北上して千住大橋方面へ。

10時42分、素盞雄神社(すさのおじんじゃ)の前を通過。
素盞雄は別名牛頭天王(ごずてんのう)で、天王様と呼ばれている。

10時46分、隅田川に架かる千住大橋に到着し、大橋を渡る。

千住大橋を渡った所の左側に小さな広場があった。
広場の一角に”富嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二”の浮世絵顕彰碑があった。
以下のように説明されている。
葛飾北斎(1760-1849)は、富嶽三十六景で「武州千住」、「隅田川関谷の里」、
「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を千住地域を題材に描いています。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるために
画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
『この辺りからこんな感じで富士山がきれいに見えたんだねっ』

ここ千住大橋は”奥の細道矢立て初めの地”で、その昔、松尾芭蕉が弟子の曽良とともに
奥の細道へ旅立ちした地である。
「行く春や 鳥啼魚の 目に涙」
この句が紀行「奥の細道」の最初の句(矢立初め)ということだ。

堤防の石段を上り、隅田川方向に下って行くと・・・

千住大橋を渡る時に見えた、奥のほそ道 旅立ちの地の図があった。
与謝蕪村筆 「奥の細道図屏風」と書かれている。
与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」は6枚からなり、これは最初の屏風図絵である。

千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(1594)に
普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。
文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槙が使われたと
伝えられています。
(中略)
その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。
時には桟橋の上から見えるかもしれません。
「伽羅(きゃら)よりもまさる 千住の槙の杭」 古川柳
東京都 足立区

千住大橋の下に造られた「せんじゅこばし」を進むと・・・

国道4号の反対側に出ることが出来た。

ここにも松尾芭蕉の像を見ることが出来る。
『みんな顔が違うよねっ』

京成本線の高架橋の下を通り、旧日光街道を千住宿方面へ。

昭和5年(1930)当時の旧陸羽街道(旧日光道中)千住市場の問屋配置図を右手に見ながら進む。

墨堤通り(都道461号)交差点を横断し、

11時7分、稲荷山源長寺の前を通過。

旧陸羽街道(旧日光道中)を進む。

道路を横断した所から”千住ほんちょう商店街”が始まるようだ。
(この場所は道路の下を東京メトロ千代田線が走っていることになる)

道路を横断した所の足立成和信用金庫本店の前にも松尾芭蕉の像が立っていた。
『ずいぶんほっそりとした芭蕉だよねっ』

”千住ほんちょう商店街”を進む。

”千住ほんちょう商店街”の終わりか???

と思っていたら”千住ほんちょう商店街”はまだ続いていた。

さらに”千住ほんちょう商店街”を進むと・・・

右手突き当りに北千住駅が見えた。
北千住で最も賑やかな通りになっているので、食事処は多そうだ。
帰りはこの辺りで解散することにしよう。

”千住ほんちょう商店街”を真っ直ぐに進む。

”千住ほんちょう商店街”の両側の石柱に北斎富嶽三十六景のうち”従千住花街眺望ノ不二”の
画が飾られている。

この辺りは”宿場町通り”と名付られている。
千住宿の中心地だった場所なのだろうか?
千住宿は江戸四宿(東海道:品川宿、中山道:板橋宿、甲州街道:内藤新宿、
日光街道(旧陸羽街道):千住宿)の一つとして繁栄した。

11時29分、横山家住宅前に到着
屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。

街道に面して、間口が広く、奥行きが深い、”伝馬屋敷”の面影を今に伝える、商家である。
また、戸口は一段下げて造る(お客様を迎える心構えの表れ)のが特徴である。
(案内板より)

槍かけだんご かごや
水戸街道歩き2回目(2011年6月12日)にだんごを買って食べたことを想い出したが、
随分と店の雰囲気が変わってしまった感じがする。

2011年6月12日に撮影した時の槍かけだんご かごや
槍かけだんごの雰囲気としてはこの時の方が合っていたように思う。

電柱に名倉医院の看板が・・・

11時36分、名倉医院前を通過
名倉医院は骨接ぎの名医として知られた。

骨接ぎと言えば名倉、名倉と言えば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は関東一円に
有名である。
下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便が良かったため、駕籠や車で
運ばれて来る患者がひしめいていたという。
門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの堪り場であった。
(中略)
千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。
令和三年三月 東京都足立区教育委員会

名倉医院前の道を進むと、11時38分、荒川の土手に突き当たった。
(赤い矢印の所)
旧日光道中と旧水戸街道の分岐点はいつの間にか過ぎてしまったが、ここを右に曲がれば
旧水戸街道へは通じる。

この日の目的地お化け煙突のモニュメントは、ここを左に曲がって進むのだが、ここで一息
入れて行くことにしよう。

お茶タイム(1)

お茶タイム(2)

お茶タイム(3)

この辺りは海抜0mとなっている。

11時48分、最後の目的地お化け煙突のモニュメントを目指す。

足立区の生涯学習センター、足立区中央図書館のビルのトンネルを潜る。
屋上に公園でもあるのだろうか? 木々が生い茂っている。

突き当りに国道4号が走っているため、左に折れて国道に沿って少し戻ることになる。

200mほど戻った辺りで国道4号を横断し、

住宅街を進む。
案内図によると、この近くに昭和の初めから約90年に渡って地域の人たちに愛されてきた
銭湯ファン憧れの的の”大黒湯”という銭湯があることになっているのだが・・・
地元の人と思える人に尋ねたが、銭湯のことはよく知らないとのこと。
結局見つけることが出来ず、大黒湯は諦め、お化け煙突のモニュメントを目指すことにした。
後で分かったことだが、大黒湯は、2021年6月に諸事情で惜しまれながらも閉店となって
しまったらしい。建物も既に無くなっているようだ。

あとはこの日最後の目的地、お化け煙突のモニュメントを目指すだけである。

墨堤通りの元宿堰稲荷神社辺りではなかったかと思うが・・・
葛飾北斎の富嶽三十六景「武州千住」の千住浮世絵顕彰碑があった。
江戸時代より千住は風光明媚な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ
地域でした。
葛飾北斎(1760-1849)は、富嶽三十六景で「武州千住」、「隅田川関谷の里」、
「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を千住地域を題材に描いています。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるために
画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
(地図の左上の赤い印①が武州千住、②が隅田川関谷の里、③が従千住花街眺望ノ不二とある)

江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿掘と呼ばれました。
葛飾北斎の富嶽三十六景で「武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。

富嶽三十六景「武州千住」の千住浮世絵顕彰碑から少し進み、
帝京科学大学入口バス停を左に曲がって200mほど進むと、

右側に帝京科学大学千住キャンパスの建物があった。

帝京科学大学千住キャンパス前を通り抜けると、目の前に荒川(後の隅田川)の堤防があった。
堤防の階段を上ると、

目の前に隅田川の流れがあった。

遠くには東京スカイツリーが見えるが、こちらにはモニュメントなどは見えない。

右方向を見ると、隅田川に架かる尾竹橋が見えるが・・・

直ぐ隣に建つ帝京科学大学千住キャンパスの建物の方へ振り返ると・・・
『あったぁ~』 『これだよねっ』 『嬉しいっ!!』会員の皆さんから歓声が上がった。
”お化け煙突のモニュメント”だ!!

正面から見た”お化け煙突のモニュメント”

”お化け煙突”は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、
約40年間親しまれてきました。
この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、時には2本、1本に見えました。
実際には左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に
変わりました。
このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
(中略)

千住火力発電所は、昭和39年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿
小学校で滑り台として残され、この度帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして
再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺1/20のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。
資料・写真の提供 電気の史料館

モニュメントをバックに記念写真を撮った。

記念の写真を撮った時、時計は、12時40分を差していた。
お腹も空いてきたことだし、この日のゴール北千住駅を目指すことにした。
帝京科学大学千住キャンパス前を通り、

墨堤通りの元宿堰稲荷神社前を南方面へ。

千住瀧田交差点を左に曲がり、

国道4号線を横断すると、北千住駅はほぼ一本道である。

13時10分、旧日光道中の”千住ほんちょう商店街”に到着した。

人通りが多いので、簡単な挨拶で、この日はここで解散することに。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『気を付けて~っ!!』

いつものメンバー6人はTK会長の案内で、旧日光道中の「柏屋」という蕎麦屋に向かった。
13時を少し回っていたが、入店まで10分ほど待たされた。
人気のあるお蕎麦屋さんである。

先ずは生ビールで『かんぱ~いっ』

『お疲れさまでしたぁ』
『これで少しは疲れが取れるよねっ』

ちょうど生ビールが切れたため少し待たされたHRさんも遅れて『かんぱ~いっ』
『この一杯がうまいんだよなぁ』

めいめい好みの蕎麦を注文。
自分は、天もり蕎麦(1,600円)を注文した。
量も多く、美味しかった。

食後北千住駅へ向かった。
14時半頃の電車だったが、運よく我々4名全員は座って帰ることが出来た。

千住宿からお化け煙突の跡地へのウォーキングが無事終わった。
目的地の一つである大黒湯の建物を見つけられなかった時には少し疲れも出て来たが、
お化け煙突のモニュメントはこの日最大の目的地なので、これを諦める訳にはいかない。
最後にこの日最大の目的地に無事辿り着けた時は正直少し感激した、という次第である。
この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第11回、令和6年(2024年)第16回「千住宿からお化け煙突の跡地へ」
ウォーキングに参加した。
1週間ほど前には雨が予想されていたが、数日前頃からは雨の予報は次第に前日に移り、
この日はまずまずの天気となった。
この日荒川沖駅に集まった人は11名、まぁいつもの顔ぶれである。

荒川沖8時47分発の電車を待つ皆さん。

土曜日の電車は空いていた。
全員安心してゆったりと座って行けるのが嬉しい。

土浦駅からも11名が乗車したことで、参加者は22名となった。
下車駅の南千住駅までの小1時間は、会計担当によるバスハイクの余剰金の払戻や、
忘年会の参加希望などの確認などで有効に過ごすことが出来た。

9時40分、この日のスタート地である南千住駅に到着した。

めいめい体調を整えた後、コースの説明に続いてTK会長の挨拶があり、

9時56分、南千住駅をスタート!!
最初の訪問地、延命寺を目指した。

JR常磐線の下を潜り、JR常磐線と東京メトロ日比谷線の間に挟まれた場所に立地する
延命寺へ。

10時3分、南千住駅から5-6分で最初の目的地の延命寺に到着した。
この寺には延命地蔵(別名首切地蔵尊)が有名な寺で、近くに江戸初期から小塚原刑場が
あったところだ。
寛保元年(1741)に刑死者の菩提を弔うために建立されたものである。

延命寺のお地蔵様(延命地蔵)が台座に座っているのが見えた。

ウマさんの街道を歩くシリーズの”旧水戸街道を歩く”の第一日目に延命寺を訪れた時には、
東日本大震災の直後だったため、台座の上にお地蔵様の姿はなく、お地蔵様の頭の部分だけが
台座の脇に鎮座していたのを思い出した。
(2011年4月24日に訪れた時の写真)

延命寺を後にして次の目的地である円通寺へ向かった。

10時13分、小塚原回向院(えこういん)前を通過。
江戸時代には、刑死者を自由に供養することは許されなかったが、ここ小塚原回向院だけが
許され供養していたそうである。
桜田門外の変で伊井大老を暗殺した水戸浪士たちも小塚原で処刑されている。
鼠小僧次郎吉や吉田松陰の墓があることでも知られる。

回向院の先を左に曲がり、次の目的地円通寺を目指す。

突き当りの国道4号を横断し、

左折して少し進むと、10時24分、目指す円通寺に到着した。

この寺には弾痕も生々しい上野寛永寺の黒門が移築されている。
慶応4年(1868)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から
敗走した。

彰義隊士の墓
累々と横たわる隊士の遺体を見た当時の円通寺住持だった仏磨和尚は、神田旅籠町の
御用商人三河屋幸三郎とともに、官許を得て慶応4年(1868)の上野戦争のあとも
野ざらしにされていた彰義隊士の遺骸を秘かに火葬して円通寺に合葬した。
黒門もその縁で円通寺に移築されたという。

境内にはたくさんの戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者と思われる追弔碑や墓碑がある。
『まだみんな若かったんでしょうね~っ』

戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(1)

戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(2)

戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑(3)

いくつかの追弔碑・墓碑に手を合わせ、円通寺を後にした。

国道4号を北上して千住大橋方面へ。

10時42分、素盞雄神社(すさのおじんじゃ)の前を通過。
素盞雄は別名牛頭天王(ごずてんのう)で、天王様と呼ばれている。

10時46分、隅田川に架かる千住大橋に到着し、大橋を渡る。

千住大橋を渡った所の左側に小さな広場があった。
広場の一角に”富嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二”の浮世絵顕彰碑があった。
以下のように説明されている。
葛飾北斎(1760-1849)は、富嶽三十六景で「武州千住」、「隅田川関谷の里」、
「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を千住地域を題材に描いています。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるために
画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
『この辺りからこんな感じで富士山がきれいに見えたんだねっ』

ここ千住大橋は”奥の細道矢立て初めの地”で、その昔、松尾芭蕉が弟子の曽良とともに
奥の細道へ旅立ちした地である。
「行く春や 鳥啼魚の 目に涙」
この句が紀行「奥の細道」の最初の句(矢立初め)ということだ。

堤防の石段を上り、隅田川方向に下って行くと・・・

千住大橋を渡る時に見えた、奥のほそ道 旅立ちの地の図があった。
与謝蕪村筆 「奥の細道図屏風」と書かれている。
与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」は6枚からなり、これは最初の屏風図絵である。

千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(1594)に
普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。
文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槙が使われたと
伝えられています。
(中略)
その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。
時には桟橋の上から見えるかもしれません。
「伽羅(きゃら)よりもまさる 千住の槙の杭」 古川柳
東京都 足立区

千住大橋の下に造られた「せんじゅこばし」を進むと・・・

国道4号の反対側に出ることが出来た。

ここにも松尾芭蕉の像を見ることが出来る。
『みんな顔が違うよねっ』

京成本線の高架橋の下を通り、旧日光街道を千住宿方面へ。

昭和5年(1930)当時の旧陸羽街道(旧日光道中)千住市場の問屋配置図を右手に見ながら進む。

墨堤通り(都道461号)交差点を横断し、

11時7分、稲荷山源長寺の前を通過。

旧陸羽街道(旧日光道中)を進む。

道路を横断した所から”千住ほんちょう商店街”が始まるようだ。
(この場所は道路の下を東京メトロ千代田線が走っていることになる)

道路を横断した所の足立成和信用金庫本店の前にも松尾芭蕉の像が立っていた。
『ずいぶんほっそりとした芭蕉だよねっ』

”千住ほんちょう商店街”を進む。

”千住ほんちょう商店街”の終わりか???

と思っていたら”千住ほんちょう商店街”はまだ続いていた。

さらに”千住ほんちょう商店街”を進むと・・・

右手突き当りに北千住駅が見えた。
北千住で最も賑やかな通りになっているので、食事処は多そうだ。
帰りはこの辺りで解散することにしよう。

”千住ほんちょう商店街”を真っ直ぐに進む。

”千住ほんちょう商店街”の両側の石柱に北斎富嶽三十六景のうち”従千住花街眺望ノ不二”の
画が飾られている。

この辺りは”宿場町通り”と名付られている。
千住宿の中心地だった場所なのだろうか?
千住宿は江戸四宿(東海道:品川宿、中山道:板橋宿、甲州街道:内藤新宿、
日光街道(旧陸羽街道):千住宿)の一つとして繁栄した。

11時29分、横山家住宅前に到着
屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。

街道に面して、間口が広く、奥行きが深い、”伝馬屋敷”の面影を今に伝える、商家である。
また、戸口は一段下げて造る(お客様を迎える心構えの表れ)のが特徴である。
(案内板より)

槍かけだんご かごや
水戸街道歩き2回目(2011年6月12日)にだんごを買って食べたことを想い出したが、
随分と店の雰囲気が変わってしまった感じがする。

2011年6月12日に撮影した時の槍かけだんご かごや
槍かけだんごの雰囲気としてはこの時の方が合っていたように思う。

電柱に名倉医院の看板が・・・

11時36分、名倉医院前を通過
名倉医院は骨接ぎの名医として知られた。

骨接ぎと言えば名倉、名倉と言えば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は関東一円に
有名である。
下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便が良かったため、駕籠や車で
運ばれて来る患者がひしめいていたという。
門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの堪り場であった。
(中略)
千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。
令和三年三月 東京都足立区教育委員会

名倉医院前の道を進むと、11時38分、荒川の土手に突き当たった。
(赤い矢印の所)
旧日光道中と旧水戸街道の分岐点はいつの間にか過ぎてしまったが、ここを右に曲がれば
旧水戸街道へは通じる。

この日の目的地お化け煙突のモニュメントは、ここを左に曲がって進むのだが、ここで一息
入れて行くことにしよう。

お茶タイム(1)

お茶タイム(2)

お茶タイム(3)

この辺りは海抜0mとなっている。

11時48分、最後の目的地お化け煙突のモニュメントを目指す。

足立区の生涯学習センター、足立区中央図書館のビルのトンネルを潜る。
屋上に公園でもあるのだろうか? 木々が生い茂っている。

突き当りに国道4号が走っているため、左に折れて国道に沿って少し戻ることになる。

200mほど戻った辺りで国道4号を横断し、

住宅街を進む。
案内図によると、この近くに昭和の初めから約90年に渡って地域の人たちに愛されてきた
銭湯ファン憧れの的の”大黒湯”という銭湯があることになっているのだが・・・
地元の人と思える人に尋ねたが、銭湯のことはよく知らないとのこと。
結局見つけることが出来ず、大黒湯は諦め、お化け煙突のモニュメントを目指すことにした。
後で分かったことだが、大黒湯は、2021年6月に諸事情で惜しまれながらも閉店となって
しまったらしい。建物も既に無くなっているようだ。

あとはこの日最後の目的地、お化け煙突のモニュメントを目指すだけである。

墨堤通りの元宿堰稲荷神社辺りではなかったかと思うが・・・
葛飾北斎の富嶽三十六景「武州千住」の千住浮世絵顕彰碑があった。
江戸時代より千住は風光明媚な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ
地域でした。
葛飾北斎(1760-1849)は、富嶽三十六景で「武州千住」、「隅田川関谷の里」、
「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を千住地域を題材に描いています。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるために
画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
(地図の左上の赤い印①が武州千住、②が隅田川関谷の里、③が従千住花街眺望ノ不二とある)

江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿掘と呼ばれました。
葛飾北斎の富嶽三十六景で「武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。

富嶽三十六景「武州千住」の千住浮世絵顕彰碑から少し進み、
帝京科学大学入口バス停を左に曲がって200mほど進むと、

右側に帝京科学大学千住キャンパスの建物があった。

帝京科学大学千住キャンパス前を通り抜けると、目の前に荒川(後の隅田川)の堤防があった。
堤防の階段を上ると、

目の前に隅田川の流れがあった。

遠くには東京スカイツリーが見えるが、こちらにはモニュメントなどは見えない。

右方向を見ると、隅田川に架かる尾竹橋が見えるが・・・

直ぐ隣に建つ帝京科学大学千住キャンパスの建物の方へ振り返ると・・・
『あったぁ~』 『これだよねっ』 『嬉しいっ!!』会員の皆さんから歓声が上がった。
”お化け煙突のモニュメント”だ!!

正面から見た”お化け煙突のモニュメント”

”お化け煙突”は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、
約40年間親しまれてきました。
この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、時には2本、1本に見えました。
実際には左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に
変わりました。
このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
(中略)

千住火力発電所は、昭和39年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿
小学校で滑り台として残され、この度帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして
再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺1/20のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。
資料・写真の提供 電気の史料館

モニュメントをバックに記念写真を撮った。

記念の写真を撮った時、時計は、12時40分を差していた。
お腹も空いてきたことだし、この日のゴール北千住駅を目指すことにした。
帝京科学大学千住キャンパス前を通り、

墨堤通りの元宿堰稲荷神社前を南方面へ。

千住瀧田交差点を左に曲がり、

国道4号線を横断すると、北千住駅はほぼ一本道である。

13時10分、旧日光道中の”千住ほんちょう商店街”に到着した。

人通りが多いので、簡単な挨拶で、この日はここで解散することに。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『気を付けて~っ!!』

いつものメンバー6人はTK会長の案内で、旧日光道中の「柏屋」という蕎麦屋に向かった。
13時を少し回っていたが、入店まで10分ほど待たされた。
人気のあるお蕎麦屋さんである。

先ずは生ビールで『かんぱ~いっ』

『お疲れさまでしたぁ』
『これで少しは疲れが取れるよねっ』

ちょうど生ビールが切れたため少し待たされたHRさんも遅れて『かんぱ~いっ』
『この一杯がうまいんだよなぁ』

めいめい好みの蕎麦を注文。
自分は、天もり蕎麦(1,600円)を注文した。
量も多く、美味しかった。

食後北千住駅へ向かった。
14時半頃の電車だったが、運よく我々4名全員は座って帰ることが出来た。

千住宿からお化け煙突の跡地へのウォーキングが無事終わった。
目的地の一つである大黒湯の建物を見つけられなかった時には少し疲れも出て来たが、
お化け煙突のモニュメントはこの日最大の目的地なので、これを諦める訳にはいかない。
最後にこの日最大の目的地に無事辿り着けた時は正直少し感激した、という次第である。
この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
令和6年(2024年)11月1日(金)
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第10回、令和6年(2024年)第15回「西根の里山コース(土浦三中地区)」
ウォーキングに参加した。
この日の「西根の里山コース」は、当初9月6日に予定していたが、猛暑のため
9月27日に延期することにした。しかし、9月27日は雨のため「西根の里山コース」は
中止となってしまった。
この日(11月1日)は、当初都和公民館を発着とする「田園と山を眺めながらコース」
としていたが、都和公民館での検診と重なったことにより、都和公民館の駐車場が
利用できないことになったため、「西根の里山コース」を振替実施しようという
ことにした次第。
「西根の里山コース」は、これまでは乙戸沼公園から中村宿へと歩く際に歩いている。
1度目は2014年11月7日(金)、2度目は2020年2月14日(金)である。
乙戸沼公園の銀杏の木が大分黄色く色付いてきたが、見頃までもう一息といったところ。

三々五々、参加者の皆さんが集まって来た。

参加者の顔ぶれとしては、いつもの顔ぶれが多いが、数か月ぶりの人の顔も・・・
皆さん元気そうだ。

参加者は、予想していたよりも多いという感じ。
天気も良く、地元で距離もそれほどではないということが影響していると思われる。
その数は27名となった。

この日と次回の地図、それに前回(織田家ゆかりの町小幡)の記念写真などの配布を
行っていると、出発時刻となった。
『今日も元気で楽しく歩きましょうっ!!』 TK会長からの挨拶があり、

9時37分、出発!!
目指すは”西根の里山コース”の西根鹿島神社である。

乙戸沼公園横を走る学園東大通りの土浦公設市場前交差点の向い側は、
ドミノピザ土浦西根店だ。

左り斜め前は、ガストつくば学園南店である。

土浦公設市場前交差点を横断し、

ガストつくば学園南店の裏側の住宅地を西へ。

突き当りを右に曲がると、左に県立土浦産業技術専門学院の校舎が見える。

土浦産業技術専門学院の銀杏並木を観ながら進む。
『乙戸沼公園のよりも黄色くなってるわねっ』

土浦産業技術専門学院のサッカーグラウンドの所を左に曲がる。
『こんなサッカーグラウンドもあるんだぁ』

県道201号を常磐高速道方面へ。

県道201号を進む。

自動車が来ない隙を見計らって、県道201号を横断。
『みんなで渡れば怖くないっ!!』

道路を横断してしばらく県道201号を進むと・・・

常磐高速道が見えて来た。

常磐高速道の側道を右に曲がり、100mほど進むと、

土浦市「ふれあいセンターながみね」、「清掃センター」の案内標識があった。

案内標識に従って右の方へ。
左手一面に太陽光パネルが敷き詰められている。

道なりに進むと、右手に「清掃センター」の建物と煙突が見えて来た。

「清掃センター」へ曲がる道があるが、そのまま直進して進む。

右手に「清掃センター」を見ながら道なりに進むと・・・

薄暗い杉林が現れた。

道の両側には大量のゴミが捨てられていた。
『何でここに捨てちゃうのかねぇ、薄暗いからなのかなぁ』
『ひどいもんだね~っ』

薄暗い杉林を通り過ぎると、右手にテニスコートがあり、高校生らしき若者たちが
練習をしていた。
ユニホームの色と場所的なことから推察するに、常総学院高校の生徒ではないかと
思われる。

『朝から部活なのかしらっ?』
まだ10時を回ったばかりである。

10時5分、”西根の里コース”の標識に従って、

西根町一区の集落方面へ。

右手には田んぼの景色が広がる。
コース紹介で謳われている”西根の里山”の景色、それがこの景色なのではないだろうか。

西根町一区から二区へと通じる道路を横断して、

西根鹿島神社方面へ。

花畑には色とりどりの季節の花が咲いていた。

西根鹿島神社方面へ進んで行くと、

左手に校舎らしき建物が見えて来た。
常総学院中学校? それとも常総学院高等学校?

西根鹿島神社を目指す。

最後尾Gはマイペースのようだが、しっかりと我々一行の後に続いている。

左手にまた校舎らしき建物が・・・
前出の建物が常総学院中学校校舎で、こちらは常総学院高等学校校舎なのかも?

右手にはのどかな風景が広がる。
これも”西根の里山”を代表する景色の一つなのだろう。

西根鹿島神社へ。

最後尾のGも頑張って後を追って来ている。

10時18分、西根鹿島神社に到着した。

西根鹿島神社の文化財
この神社は中村西根に鎮座し、社伝によれば、創建は応永二年(1395)、現稲敷郡阿見町
竹来(たかく)の阿見神社の祭神を勧請したと伝えられている。
昭和53年(1978)3月25日に鹿島神社の本殿・拝殿・鳥居が市指定文化財に指定されている。

鹿島神社本殿
本殿形式は平入の三間社流造りで、屋根は茅葺であり、軒の組物は一手先である。
浜縁に脇障子はなく、高欄の四隅の親柱には神社建築では少ない唐様宝珠の逆蓮頭が
付いている。建物には彫刻などの飾りが少ない。建築当初の姿がよく残されている。
明和八年(1771)と嘉永五年(1852)の棟札が残されており、様式や構法からみて、
江戸時代中期の建築と推定される。
平成十年(1998)、本殿保護のため覆屋を建てた。 土浦市教育委員会

西根鹿島神社の拝殿に参拝
拝殿は、梁間三間、桁行三間の建物であるが、桁行中央の一間は実寸で二間分ある。
屋根は茅葺の寄棟造りである。本殿より構法も新しく、江戸時代後期の建築と
推定される。 土浦市教育委員会

神社の周りには、市指定の名木・古木が聳えている。
鹿島神社のウラジロ
樹高は23.0m、胸高囲2.02m、葉張り東西14.8m、南北14.3m と表示されているが、
実際には朽ちた古株があり、その脇にウラジロの幼木(樹高2mほど)が育っていた。

鹿島神社のイヌザクラ(バラ科)
樹高は23.0m、胸高囲2.15m、葉張り東西17.8m、南北18.6m と表示されている。

鹿島神社のエノキ(ニレ科)
樹高は21.7m、胸高囲2.46m、葉張り東西18.5m、南北13.3m と表示されている。

本殿の裏にはいろんな神社が合祀されている。
天満宮神社
学問・進学・受験の神、菅原道真公を御祭神として祀っている。

稲荷神社
五穀を司る神、狐が稲荷明神の使いの神。

愛宕神社
火防の神、御祭神は火産霊大神

雷神社(いかづちじんじゃ)
雨乞の神、御祭神は火雷命(ほのいかづちのみこと)

めいめい暫くの休憩(1)を摂る。

休憩(2)

休憩(3)

休憩(4)

10時32分、西根鹿島神社を出発!

神社正面の参道を進む。

参道の両側は、杉と桧の林になっており、昼なお薄暗い状態である。

『一人じゃ怖くて通れないよねっ』

参道を埋め尽くすほどのギンナンの実が落ちていた。

ギンナンの実
『臭いわねっ』 『まともに息が出来ないねっ』

薄暗い参道を進む。

参道を進む。

『この参道長いわね~っ』

薄暗い参道を歩くこと6分、ようやく明るい場所に出た。

『明るい所に出ることが出来た~っ』

次に向かう薬師堂も藪の中だ。

藪を抜けると・・・

10時42分、目の前に薬師堂が現れた。

『中には薬師如来様があるのかなぁ?』
薬師堂の中を覗いてみる皆さん。

『木製の像が並んでるけど、14体ほどあるねっ』

自分も中を覗いて見た。
左側から見ると、13体の立像が並んでいるように見える。

右側から見ると、14体の立像が並んでいた。
残念ながら薬師如来像は無かった。(以前はあったように記憶している)

10時45分、薬師堂を後にして、薬師堂の前の径を進むと・・・

西根町二区公民館に出た。

西根集落についての以下のような説明板があった。
鎌倉街道の通っている中村西根の集落には、屋敷の周囲に高い生垣をめぐらせた農家が
多く見られます。
筑波おろしの季節風を遮るとともに、火災の類焼を防ぐためのもので、風土が生んだ
生活の知恵といえるものです。
見事に刈り込まれた常緑のシラカシの高垣は竹林沿いの通りに続いて、美しく特徴ある
集落景観を形作っています。
また、丘陵地であるこの辺りの畑地からは筑波山が良く見え、道端には道祖神なども
残るのどかな地域です。

西根集落を進む。

西根集落を進む。

大きな倉庫のような建物が・・・時代を感じさせる建物である。

火除けの高垣の説明があった。
この付近の農家は、屋敷の周りに背の高い生垣をめぐらしています。
これは火災時の類焼を防ぐために植えられたもので、美しく刈り込まれたシラカシの
高垣が、特色ある集落景観をつくっています、とある。

『これは高垣じゃないのかなぁ』

高生垣らしき景観を眺めながら、進む。
『今は大分少なくなったんじゃないの~っ』

高生垣の場所を過ぎ、西根町一区方面へ。

『立派な門構えの家だよね~っ』

『西根には大きな家が多いよねっ』

『塀も素晴らしいわよねっ』

『今時、火の見櫓は珍しいんじゃないっ?』

火の見櫓の下にぽつんと地蔵菩薩像が佇んでいた。

西根町三区方面へ。

西根町三区方面へ。

もう直ぐ常総学院高のテニスコートがあった所だ。

左側にはのどかな田園風景が広がる。

西根の里山コースの案内標識に従って、西根町三区の方へ。

住宅地を進むと・・・

モダンな建物が見えて来た。
ABCテニスアカデミー(テニススクール)である。
この時間はテニスをやっている人はいなかった。

芝生を刈っているようだ。
『やっぱ、芝生を刈った跡はきれいだねっ』

こちらは自動車のような乗り物になっている。
『一度運転してみたいよねっ』

11時30分、県道201号のコンビニ店前に出た。
ゴールの乙戸沼公園は近い。

ゴールの乙戸沼公園を目指す。

学園東大通りの歩道に設置されている西根の里山コースの標識に従って右に曲がり、

学園東大通りを進む。

左手に乙戸沼公園の駐車場が見えて来た。

朝方通ったドミノピザ土浦西根店前に到着。

土浦公設市場前交差点を横断すると・・・

11時44分、ゴールの乙戸沼公園駐車場に到着した。
昼前に到着するというのは最近では珍しい。

最後にTK会長の締めの挨拶があり、今日はここで解散することにした。
次回(11月16日)は、旧日光街道千住宿からお化け煙突のモニュメントへのコース、
楽しみである。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『また次回お会いしましょうっ!!』

当初9月6日に予定していた「西根の里山コース」だったが、7月初旬から9月中旬にかけて
異常とも思える猛暑続きで、9月末に延期としていた。
ところが、今度はその日が雨となり、ついに中止となった本日のコースであった。
しかし、今度は当初今日に予定していた都和公民館をスタート&ゴールとする
「田園と山を眺めながらコース」が、検診のために駐車場が利用できなくなった
ことで、中止となっていた9月6日のコースを急遽復活することが出来たのである。
二転三転したこの日の「西根の里山コース」、思わぬことから復活出来たことは
嬉しい限りである。
11月に入り、ようやく秋らしい天気になったこの日、皆さんにはウォーキングを
心行くまで楽しんでもらえたのはないかと思った次第である。
この日の万歩計は、12,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第10回、令和6年(2024年)第15回「西根の里山コース(土浦三中地区)」
ウォーキングに参加した。
この日の「西根の里山コース」は、当初9月6日に予定していたが、猛暑のため
9月27日に延期することにした。しかし、9月27日は雨のため「西根の里山コース」は
中止となってしまった。
この日(11月1日)は、当初都和公民館を発着とする「田園と山を眺めながらコース」
としていたが、都和公民館での検診と重なったことにより、都和公民館の駐車場が
利用できないことになったため、「西根の里山コース」を振替実施しようという
ことにした次第。
「西根の里山コース」は、これまでは乙戸沼公園から中村宿へと歩く際に歩いている。
1度目は2014年11月7日(金)、2度目は2020年2月14日(金)である。
乙戸沼公園の銀杏の木が大分黄色く色付いてきたが、見頃までもう一息といったところ。

三々五々、参加者の皆さんが集まって来た。

参加者の顔ぶれとしては、いつもの顔ぶれが多いが、数か月ぶりの人の顔も・・・
皆さん元気そうだ。

参加者は、予想していたよりも多いという感じ。
天気も良く、地元で距離もそれほどではないということが影響していると思われる。
その数は27名となった。

この日と次回の地図、それに前回(織田家ゆかりの町小幡)の記念写真などの配布を
行っていると、出発時刻となった。
『今日も元気で楽しく歩きましょうっ!!』 TK会長からの挨拶があり、

9時37分、出発!!
目指すは”西根の里山コース”の西根鹿島神社である。

乙戸沼公園横を走る学園東大通りの土浦公設市場前交差点の向い側は、
ドミノピザ土浦西根店だ。

左り斜め前は、ガストつくば学園南店である。

土浦公設市場前交差点を横断し、

ガストつくば学園南店の裏側の住宅地を西へ。

突き当りを右に曲がると、左に県立土浦産業技術専門学院の校舎が見える。

土浦産業技術専門学院の銀杏並木を観ながら進む。
『乙戸沼公園のよりも黄色くなってるわねっ』

土浦産業技術専門学院のサッカーグラウンドの所を左に曲がる。
『こんなサッカーグラウンドもあるんだぁ』

県道201号を常磐高速道方面へ。

県道201号を進む。

自動車が来ない隙を見計らって、県道201号を横断。
『みんなで渡れば怖くないっ!!』

道路を横断してしばらく県道201号を進むと・・・

常磐高速道が見えて来た。

常磐高速道の側道を右に曲がり、100mほど進むと、

土浦市「ふれあいセンターながみね」、「清掃センター」の案内標識があった。

案内標識に従って右の方へ。
左手一面に太陽光パネルが敷き詰められている。

道なりに進むと、右手に「清掃センター」の建物と煙突が見えて来た。

「清掃センター」へ曲がる道があるが、そのまま直進して進む。

右手に「清掃センター」を見ながら道なりに進むと・・・

薄暗い杉林が現れた。

道の両側には大量のゴミが捨てられていた。
『何でここに捨てちゃうのかねぇ、薄暗いからなのかなぁ』
『ひどいもんだね~っ』

薄暗い杉林を通り過ぎると、右手にテニスコートがあり、高校生らしき若者たちが
練習をしていた。
ユニホームの色と場所的なことから推察するに、常総学院高校の生徒ではないかと
思われる。

『朝から部活なのかしらっ?』
まだ10時を回ったばかりである。

10時5分、”西根の里コース”の標識に従って、

西根町一区の集落方面へ。

右手には田んぼの景色が広がる。
コース紹介で謳われている”西根の里山”の景色、それがこの景色なのではないだろうか。

西根町一区から二区へと通じる道路を横断して、

西根鹿島神社方面へ。

花畑には色とりどりの季節の花が咲いていた。

西根鹿島神社方面へ進んで行くと、

左手に校舎らしき建物が見えて来た。
常総学院中学校? それとも常総学院高等学校?

西根鹿島神社を目指す。

最後尾Gはマイペースのようだが、しっかりと我々一行の後に続いている。

左手にまた校舎らしき建物が・・・
前出の建物が常総学院中学校校舎で、こちらは常総学院高等学校校舎なのかも?

右手にはのどかな風景が広がる。
これも”西根の里山”を代表する景色の一つなのだろう。

西根鹿島神社へ。

最後尾のGも頑張って後を追って来ている。

10時18分、西根鹿島神社に到着した。

西根鹿島神社の文化財
この神社は中村西根に鎮座し、社伝によれば、創建は応永二年(1395)、現稲敷郡阿見町
竹来(たかく)の阿見神社の祭神を勧請したと伝えられている。
昭和53年(1978)3月25日に鹿島神社の本殿・拝殿・鳥居が市指定文化財に指定されている。

鹿島神社本殿
本殿形式は平入の三間社流造りで、屋根は茅葺であり、軒の組物は一手先である。
浜縁に脇障子はなく、高欄の四隅の親柱には神社建築では少ない唐様宝珠の逆蓮頭が
付いている。建物には彫刻などの飾りが少ない。建築当初の姿がよく残されている。
明和八年(1771)と嘉永五年(1852)の棟札が残されており、様式や構法からみて、
江戸時代中期の建築と推定される。
平成十年(1998)、本殿保護のため覆屋を建てた。 土浦市教育委員会

西根鹿島神社の拝殿に参拝
拝殿は、梁間三間、桁行三間の建物であるが、桁行中央の一間は実寸で二間分ある。
屋根は茅葺の寄棟造りである。本殿より構法も新しく、江戸時代後期の建築と
推定される。 土浦市教育委員会

神社の周りには、市指定の名木・古木が聳えている。
鹿島神社のウラジロ
樹高は23.0m、胸高囲2.02m、葉張り東西14.8m、南北14.3m と表示されているが、
実際には朽ちた古株があり、その脇にウラジロの幼木(樹高2mほど)が育っていた。

鹿島神社のイヌザクラ(バラ科)
樹高は23.0m、胸高囲2.15m、葉張り東西17.8m、南北18.6m と表示されている。

鹿島神社のエノキ(ニレ科)
樹高は21.7m、胸高囲2.46m、葉張り東西18.5m、南北13.3m と表示されている。

本殿の裏にはいろんな神社が合祀されている。
天満宮神社
学問・進学・受験の神、菅原道真公を御祭神として祀っている。

稲荷神社
五穀を司る神、狐が稲荷明神の使いの神。

愛宕神社
火防の神、御祭神は火産霊大神

雷神社(いかづちじんじゃ)
雨乞の神、御祭神は火雷命(ほのいかづちのみこと)

めいめい暫くの休憩(1)を摂る。

休憩(2)

休憩(3)

休憩(4)

10時32分、西根鹿島神社を出発!

神社正面の参道を進む。

参道の両側は、杉と桧の林になっており、昼なお薄暗い状態である。

『一人じゃ怖くて通れないよねっ』

参道を埋め尽くすほどのギンナンの実が落ちていた。

ギンナンの実
『臭いわねっ』 『まともに息が出来ないねっ』

薄暗い参道を進む。

参道を進む。

『この参道長いわね~っ』

薄暗い参道を歩くこと6分、ようやく明るい場所に出た。

『明るい所に出ることが出来た~っ』

次に向かう薬師堂も藪の中だ。

藪を抜けると・・・

10時42分、目の前に薬師堂が現れた。

『中には薬師如来様があるのかなぁ?』
薬師堂の中を覗いてみる皆さん。

『木製の像が並んでるけど、14体ほどあるねっ』

自分も中を覗いて見た。
左側から見ると、13体の立像が並んでいるように見える。

右側から見ると、14体の立像が並んでいた。
残念ながら薬師如来像は無かった。(以前はあったように記憶している)

10時45分、薬師堂を後にして、薬師堂の前の径を進むと・・・

西根町二区公民館に出た。

西根集落についての以下のような説明板があった。
鎌倉街道の通っている中村西根の集落には、屋敷の周囲に高い生垣をめぐらせた農家が
多く見られます。
筑波おろしの季節風を遮るとともに、火災の類焼を防ぐためのもので、風土が生んだ
生活の知恵といえるものです。
見事に刈り込まれた常緑のシラカシの高垣は竹林沿いの通りに続いて、美しく特徴ある
集落景観を形作っています。
また、丘陵地であるこの辺りの畑地からは筑波山が良く見え、道端には道祖神なども
残るのどかな地域です。

西根集落を進む。

西根集落を進む。

大きな倉庫のような建物が・・・時代を感じさせる建物である。

火除けの高垣の説明があった。
この付近の農家は、屋敷の周りに背の高い生垣をめぐらしています。
これは火災時の類焼を防ぐために植えられたもので、美しく刈り込まれたシラカシの
高垣が、特色ある集落景観をつくっています、とある。

『これは高垣じゃないのかなぁ』

高生垣らしき景観を眺めながら、進む。
『今は大分少なくなったんじゃないの~っ』

高生垣の場所を過ぎ、西根町一区方面へ。

『立派な門構えの家だよね~っ』

『西根には大きな家が多いよねっ』

『塀も素晴らしいわよねっ』

『今時、火の見櫓は珍しいんじゃないっ?』

火の見櫓の下にぽつんと地蔵菩薩像が佇んでいた。

西根町三区方面へ。

西根町三区方面へ。

もう直ぐ常総学院高のテニスコートがあった所だ。

左側にはのどかな田園風景が広がる。

西根の里山コースの案内標識に従って、西根町三区の方へ。

住宅地を進むと・・・

モダンな建物が見えて来た。
ABCテニスアカデミー(テニススクール)である。
この時間はテニスをやっている人はいなかった。

芝生を刈っているようだ。
『やっぱ、芝生を刈った跡はきれいだねっ』

こちらは自動車のような乗り物になっている。
『一度運転してみたいよねっ』

11時30分、県道201号のコンビニ店前に出た。
ゴールの乙戸沼公園は近い。

ゴールの乙戸沼公園を目指す。

学園東大通りの歩道に設置されている西根の里山コースの標識に従って右に曲がり、

学園東大通りを進む。

左手に乙戸沼公園の駐車場が見えて来た。

朝方通ったドミノピザ土浦西根店前に到着。

土浦公設市場前交差点を横断すると・・・

11時44分、ゴールの乙戸沼公園駐車場に到着した。
昼前に到着するというのは最近では珍しい。

最後にTK会長の締めの挨拶があり、今日はここで解散することにした。
次回(11月16日)は、旧日光街道千住宿からお化け煙突のモニュメントへのコース、
楽しみである。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『また次回お会いしましょうっ!!』

当初9月6日に予定していた「西根の里山コース」だったが、7月初旬から9月中旬にかけて
異常とも思える猛暑続きで、9月末に延期としていた。
ところが、今度はその日が雨となり、ついに中止となった本日のコースであった。
しかし、今度は当初今日に予定していた都和公民館をスタート&ゴールとする
「田園と山を眺めながらコース」が、検診のために駐車場が利用できなくなった
ことで、中止となっていた9月6日のコースを急遽復活することが出来たのである。
二転三転したこの日の「西根の里山コース」、思わぬことから復活出来たことは
嬉しい限りである。
11月に入り、ようやく秋らしい天気になったこの日、皆さんにはウォーキングを
心行くまで楽しんでもらえたのはないかと思った次第である。
この日の万歩計は、12,000歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
令和6年(2024年)10月19日(土)
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第9回、令和6年(2024年)第14回「城下町小幡の歴史をたどる(甘楽町)」
ウォーキングに参加した。
「城下町小幡の歴史をたどる」を最初に企画したのは、2020年(令和2年)3月27日(金)
だったが、この時はコロナ禍で中止となった。
その次は昨2023年(令和5年)6月2日(金)だったが、あいにくの雨で中止となり、
今年こそはと初企画から5年目、3度目の企画でようやく実施の運びとなった次第である。
この日の最初の出発地は、7時00分に土浦市民会館、ここ土浦市三中地区公民館は
7時20分の出発としている。
7時前から三中地区公民館から乗車する会員の皆さんが集まって来た。
集合時刻前にはきっちりと集まってくれるのは嬉しい。その数13名。
『今日の現地の天気はまあまあのようだねっ』
『15時頃から雨という予報になってるけど、その頃はもう帰りのバスに乗ってるでしょうから
問題ないわよねっ』

7時21分、土浦市民会館を出発した城南交通のバスがやって来た。
三中公民館の裏の道を入って来るバス運転手のレベルにはいつも感心させられる。
『よくあそこを曲がって来れるもんだよなぁ』

土浦市民会館からは9名が乗り込んでいる。
三中公民館からの13名がバスに乗り込んで、この日の参加者は合計22名となった。

車内の状況(1)

車内の状況(2)

車内の状況(3)

座席には朝食(コンビニ)のおにぎり弁当が配られていた。
全員が指定の席に着席したことで、7時30分、甘楽町小幡を目指して出発!

経路を誤って進んだため少し遅くなったが、7時44分、圏央道つくば牛久ICを通過し、

圏央道を九喜白岡方面へ。

8時23分、九喜白岡JCTを過ぎ鶴ヶ島方面へ。

8時29分、最初の休憩地である菖蒲PAに到着。

ここで10分の休憩を取り、

再び圏央道に戻って少し走ると、関越道鶴ヶ島→東松山間が”事故通行止”の表示が。

運転手さんは、”事故で通行止め”は、かなりの渋滞が予想されるため、関越道鶴ヶ島JCTの
かなり手前の圏央道川島ICで降りて、国道254号で関越道の東松山ICを目指すのが良いだろう
とのこと。ここは全面的に経験豊富な運転手さんの判断に任せることにした。
8時51分、圏央道川島IC出口を降りた。

川島ICを降りると、料金所へは既に長い車の列が続いていた。

8時58分、ようやく川島ICの料金所を通過出来た。
高速を降りて料金所を通過するのに7分間かかった。普通であれば30秒もかからない距離だ。

国道254号は、相当混雑していた。
『これって、みんな東松山ICへ向ってるのかしらっ?』
『考えることはみんな同じなんだねっ』

『さっきから殆ど動いてないよねっ』

9時25分、東松山市に入った。
川島ICを降りて25分近くになるが、2Kmほどしか走っていない状態である。
運転手さんによると、関越道の東松山ICまではあと5-6Kmはありそうとのこと。

スマホのニュース情報によると、この日の関越道の事故は、
「NEXCO東日本によると、19日午前4時55分ごろ、関越道下り線の鶴ヶ島IC→東松山IC間で、
車3台が関係する事故が発生。同7時45分現在、同区間が通行止めとなっている。
埼玉県警高速道路交通警察隊によると、大型トレーラーが、タイヤがバーストして中央分離帯
に衝突。そのトレーラーに後続のトラックが追突したという。トラックの60代とみられる男性運転手が死亡した。」
渋滞の車の列は遅々として進まない。

10時26分、道路標識に高速道路を示す緑色の関越道の文字が見えて来た。
関越道が少しだけ近づいているということだが・・・

11時15分、緑色の「関越道東松山IC」の文字が見えて来た。
407号バイパスまで300mの地点ということは、東松山ICまではあと5Kmほどと思われる。

11時33分、407号バイパスの交差点手前に差し掛かった。

407号バイパスを通過した辺りで、後部座席の数名が尿意をもよおして来たようだと。
運転手さんとどこか適当な場所はないだろうかと相談していたら、運転手さんが前方右手に
「VIVA HOME」という看板を見つけた。
運転手さんによると、「VIVA HOME」は、大きなスーパーのようなホームセンターで、
駐車場も大きく、トイレも備わっている、とのこと。
近くにコンビニが一つあるようだが、人数も人数なので、「VIVA HOME」へ向かって
もらうことに。

東松山駅近くの狭い道路を「VIVA HOME」へと向かった。

12時6分、「VIVA HOME」に到着した。
『これで何とかなる~っ 助かったぁ~』
自分も同じ気持ちである。

皆さん、一斉にトイレに向かった。

『こっちに案内標識があるよっ』

12時17分、ほぼ全員が無事にトイレを済ませ、車に戻って来た。

「VIVA HOME」から国道254号へ戻り、関越道東松山ICへ乗るルートも運転手さんが
最適な近道を探してくれた。
東松山市内を少し走って出た国道254号の交差点は、直ぐ隣が関越道の東松山ICだった。
ほんとに頼りになる運転手さんである。

12時43分、関越道東松山IC料金所を通過。
上里SAで待ってくれている弁当屋さんに東松山ICを通過したことを運転手さんに代わって
連絡した。
運転手さんによると、あと30分くらいで上里PAに到着することになりそうとのこと。

東松山IC料金所通過し、新潟・長野方面へ。

関越道を走る。
関越道下り方面は、やや混んではいたが、快調に走ることが出来た。
今までの国道254号の大渋滞が嘘のように感じられた。

13時14分、上里SAまで500m地点を通過。

13時16分、上里SAで昼食弁当を受け取った。
弁当屋さんは、9時30分頃には既に到着していたようなので、3時間半ほど待たせて
しまったことになる。

全員に弁当を配り、道の駅「甘楽」に到着するまでに食べることにした。
城南交通社の当初案では、道の駅「甘楽」の到着時刻は10時30分だったので、3時間ほど
遅れており、時間を有効に使うために車内で食べることにしたのである。
弁当タイム(1)

弁当タイム(2)

弁当タイム(3)

弁当タイム(4)

弁当タイム(5)

この日の弁当は高崎名物の”だるま弁当”だ。
真っ赤なだるまの形をしたプラスチック製の赤い容器となっている。

中身は、茶飯・山菜きのこ煮・穂先竹の子煮・椎茸煮・コールドチキン・鶏八幡巻・花豆煮
黒こんにゃく・赤こんにゃく・栗・山くらげ・小ナス漬け・山ごぼうとなっている。
お腹が空いて来ていたのもあるが、とても美味しかった。

バスは藤岡JCTから上信越道へと分岐して、13時31分、甘楽PAを通過。
小さな雨つぶがフロントガラスを濡らし始めて来た。

13時36分、富岡ICを降りて、

甘楽町を走ること約6分、前方に道の駅「甘楽」が見えて来た。

13時44分、この日のウォーキングのスタート&ゴールとなる道の駅「甘楽」に到着した。
今からでは予定のコースは回りきれないと判断し、見学箇所を限定して回ることにした。

13時51分、城下町小幡の歴史をたどるウォーキングのスタートである。
TK会長を先頭に道の駅「甘楽」を出発して、最初の目的地である楽山園を目指した。
楽山園は外せない。

雄川に沿った”せせらぎの路”を進む。

小幡地区の案内図で道を確認しながら進む。

しばらくは雄川に沿った”せせらぎの路”を進む。

先頭を行く2名は会計担当のNZ子さんとIW子さんである。
楽山園の入場券を買ったりするために先行しているのだ。
少しでも時間を稼ぎたいという気持ちの表れである。

”国指定 名勝楽山園 入口”の案内標識があった。

案内標識に従って進み、

楽山園の北裏門(出口専用)前を通過して右へ曲がると・・・

前方に名勝楽山園の入口らしき建物が目に入った。

14時4分、名勝楽山園入口に到着した。
先に到着した会計担当から入場券とパンフレットが渡された。
入園料は通常は300円だが、20名以上の団体は割引で250円となる。

中門を入ると・・・

庭門の前には御殿跡の広い空間になっていた。

楽山園の庭門を潜ると・・・

目の前にいきなり池が現れた。この池は昆明池と言うらしい。
後方に小さな腰掛茶屋(四阿)が見える。

腰掛茶屋をバックに記念撮影を済ませた。

腰掛茶屋
全国でも珍しい五角形の形をしている四阿だ。

腰掛茶屋から昆明池を観たところ。
楽山園は、江戸時代初期に織田氏によって造られた小幡藩邸の庭園である。
池泉回遊式の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する
過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色があるとのこと。
群馬県内唯一の大名庭園だそうだ。
池泉回遊式の借景庭園:池の周りに築山や茶屋を配するとともに、周辺の山々を
借景に持つ庭園。
取水は雄川堰一番口から小堰をめぐり、江戸時代と変わらぬ流路で昆明池に流れ込む。

腰掛茶屋より一段高い所に建っているのは、庭園全景が見渡せる梅の茶屋である。
屋根が茅葺、庇がコケラ葺きの建物となっている。

梅の茶屋の内部
藩主が休憩したり、庭園の景色を楽しんだと言われている。
皆さん、藩主になった気分かな??

梅の茶屋から昆明池を望む。

昆明池には見事な色合いの緋鯉の姿が観られた。(その1)

(その2)

『たくさんの鯉がいるのね~っ』

熊井戸氏の館跡
以下のように説明されていた。
名勝楽山園は、江戸時代初期に織田氏によって陣屋藩邸・庭園が造営されています。
それ以前は小幡氏の重鎮だった熊井戸対馬守正満の屋敷があり、この屋敷跡等を利用して、
小幡藩が造られたと『上野国誌』に記述されています。
小幡氏は甘楽の地を本拠とする豪族です。この地は古くは小幡氏が居住していたとも云われ、
中世の大城郭の国峯城(直線距離で園の南東約2Km)が完成すると居を転じています。
そしてここに熊井戸氏が屋敷を構えました。おそらく小幡氏の命によるものと思われます。
(以下略)

熊井戸氏跡の古井戸を覗き込む皆さん。

南東側の庭園の説明板から南東側の庭園を望む。

南東側の庭園には睡蓮の花が咲いていた。

昆明池を左手に観ながら・・・

庭門へ向かう。

十九軒長屋(1)
藩邸の使用人たちが暮らしていた。

十九軒長屋(2)
現在は、事務所と展示スペースがあり、楽山園の紹介や出土品などが展示されている。

十九軒長屋(3)
大型スクリーンで城下町小幡の映像も上映されている。

楽山園の中門を出ると、正面に織田氏七代の藩主の幟が並んでいた。
一番手前は小幡藩織田家 初代藩主 織田信勝、信良-信昌-信久-信就-信右-信富の
歴代順に並んでいる。

楽山園の次は、旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷に向かうことにした。
楽山園の中門前の広い道を進むと、

旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷の案内標識があった。

14時47分、旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷に到着した。

旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷
主屋は、木造平屋建て寄棟造りの茅葺である。

皆さんが覗き込んでいるのは?

資料によると土間となっているが・・・
入口の柱の所に小さな文字で”玄関”と書かれた札が貼られていた。
『ここを玄関として使っていたのかしらっ?』

土間(玄関約10畳)から板の間(約10畳)を見たところ。
『ここはどう見ても土間だよねっ』

奥の間(左側10畳)と中の間(右側10畳)

座敷(8畳)

庭園(以下パンフレットより)
庭園は主屋の南側に位置し、段差のある敷地を巧みに利用しています。
藩政時代より小幡の町中を流れる雄川堰から導水し池を作り、築山・庭石や植栽により
作庭しています。
庭園の背景として、南に遠望される山々が借景を構成し、庭園美の極みと言えます、とある。
(以下略)

屋敷の外から見える庭園の古木の松が見事だ。

14時59分、旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷を後にして、小幡郵便局の所を左に曲がり、

道なりに進んだのだが・・・

自分の進んでいる方角が解らなくなり、近くの地元の人にいろいろと訊ねたものの、
中小路よりも織田宗家七代の墓を奨められ、織田宗家七代の墓を目指すことにした。
県道46号を数百m進んで行くと、左側に消防分団の消防小屋があり、

消防小屋の向い側に織田公公園と書かれた標識があった。
ここを左に曲がれば織田氏七代の墓を祀っている小幡山 崇福寺に行きつくことになるのだ。

この後バスが待っている道の駅「甘楽」まで戻るのは時間の関係上かなり大変と思われたので、
皆さんが七代の墓をお参りしている間に、運転手さんに迎えに来てもらえないか電話した。
運転手さんは快諾してくれた。
緩やかな坂道を上って行くと、織田氏七代の墓が並んでいた。

向かって右側から小幡藩織田家 初代藩主 織田信勝(のぶかつ)ー信良(のぶよし)ー信昌(のぶまさ)
ー信久(のぶひさ)ー信就(のぶなり)ー信右(のぶすけ)ー信富(のぶとみ)の歴代順に並んでいる。
大名家の墓所らしい風格を見せている。(初代藩主信勝以外の写真は割愛する)

織田氏七代の墓から公園全体を望む。

こちらが実際の景色

織田氏七代の墓地まで迎えに来てくれたバスに乗り込み、会計担当者の集金に応じた。
数分後、会計担当さんから、『徴収された料金は、予算どおりだった』と報告があった。
『会計さんっ、ご苦労様でしたっ』

15時46分、織田宗家七代の墓を後にして、帰路に就いた。
『途中で雨に降られるかもと心配したけど、何とか持ったわねっ』

後部座席で恒例の”お疲れさんの会”が始まった。
自分もそのうち後部座席へ移動することにしよう。

16時6分、関越道の藤岡ICに隣接する道の駅「ららん藤岡」で小休止。
運転手さんの提案で、土産物を買ったりする時間を入れて通常より5分余計に休憩時間を
採ることにしたとのこと。
こういった心遣いが何とも嬉しい限りである。

道の駅「ららん藤岡」
かなり薄暗くなって来たため、ライトアップの照明灯が点燈し始めた。

皆さん、手に手に土産物を持ってバスに戻って来た。

16時31分、藤岡JCTまで1Kmの地点を通過。

後の席からTK会長たちが呼んでいる。

誘われるままに後部座席に行くと、NGさんが道の駅「ららん藤岡」で買ったお酒
(妙義山)が振舞われ、遠慮なくいただいた。
この日のお酒は何時になく美味しかった。
自分も持参したワインをカップに注いで皆さんに回した。
備え付けの冷蔵庫に入れていたので、冷たくて美味かった。

17時45分、最後の休憩地である圏央道 菖蒲PAに到着。
外は真っ暗になっている。

後部座席は大いに盛り上がっていた。

バスはしばらく圏央道を走り、18時40分頃、つくば牛久ICを通過し、三中公民館へ。

18時54分、バスは無事に三中公民館に到着した。
予定では17時40分頃に到着としていたので、1時間15分ほど遅く着いたということになる。
土浦市民会館から乗車した皆さんとはここでお分かれである。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『また次回の例会でお会いしましょうっ』

この日は、当初企画してから6年目、3度目にしてようやく”城下町小幡の歴史をたどる”を
実施したが、全くの想定外の事故渋滞に会い、3時間半遅れて出発地に到着するという
大ハプニングに見舞われた。
最初の目的地に3時間半近くも遅れたことから、予定していたコースは歩けず、途中で
一時道に迷ったこともあり、行ける所だけに行こう、という半ば行き当たりばったりの
ウォーキングとなった。
楽山園、旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷、織田氏宗家七代の墓を巡ったが、城下町小幡藩の
織田氏ゆかりの地を回れたことで、思わぬ事故渋滞に呆然となりつつも、記憶に残る
1日となった。
これは、いつも利用している城南交通社のバス運転手さんの協力があったからこそ、
と感謝している。
この運転手さんの協力がなかったら、城下町小幡の6年振り3度目の企画を諦めて、
途中で引き返していたかも知れない。
『運転手さん、ありがとうございました』
この日の万歩計は、9,500歩を計測していた。
”ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。
原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和6年度(2024年度)第9回、令和6年(2024年)第14回「城下町小幡の歴史をたどる(甘楽町)」
ウォーキングに参加した。
「城下町小幡の歴史をたどる」を最初に企画したのは、2020年(令和2年)3月27日(金)
だったが、この時はコロナ禍で中止となった。
その次は昨2023年(令和5年)6月2日(金)だったが、あいにくの雨で中止となり、
今年こそはと初企画から5年目、3度目の企画でようやく実施の運びとなった次第である。
この日の最初の出発地は、7時00分に土浦市民会館、ここ土浦市三中地区公民館は
7時20分の出発としている。
7時前から三中地区公民館から乗車する会員の皆さんが集まって来た。
集合時刻前にはきっちりと集まってくれるのは嬉しい。その数13名。
『今日の現地の天気はまあまあのようだねっ』
『15時頃から雨という予報になってるけど、その頃はもう帰りのバスに乗ってるでしょうから
問題ないわよねっ』

7時21分、土浦市民会館を出発した城南交通のバスがやって来た。
三中公民館の裏の道を入って来るバス運転手のレベルにはいつも感心させられる。
『よくあそこを曲がって来れるもんだよなぁ』

土浦市民会館からは9名が乗り込んでいる。
三中公民館からの13名がバスに乗り込んで、この日の参加者は合計22名となった。

車内の状況(1)

車内の状況(2)

車内の状況(3)

座席には朝食(コンビニ)のおにぎり弁当が配られていた。
全員が指定の席に着席したことで、7時30分、甘楽町小幡を目指して出発!

経路を誤って進んだため少し遅くなったが、7時44分、圏央道つくば牛久ICを通過し、

圏央道を九喜白岡方面へ。

8時23分、九喜白岡JCTを過ぎ鶴ヶ島方面へ。

8時29分、最初の休憩地である菖蒲PAに到着。

ここで10分の休憩を取り、

再び圏央道に戻って少し走ると、関越道鶴ヶ島→東松山間が”事故通行止”の表示が。

運転手さんは、”事故で通行止め”は、かなりの渋滞が予想されるため、関越道鶴ヶ島JCTの
かなり手前の圏央道川島ICで降りて、国道254号で関越道の東松山ICを目指すのが良いだろう
とのこと。ここは全面的に経験豊富な運転手さんの判断に任せることにした。
8時51分、圏央道川島IC出口を降りた。

川島ICを降りると、料金所へは既に長い車の列が続いていた。

8時58分、ようやく川島ICの料金所を通過出来た。
高速を降りて料金所を通過するのに7分間かかった。普通であれば30秒もかからない距離だ。

国道254号は、相当混雑していた。
『これって、みんな東松山ICへ向ってるのかしらっ?』
『考えることはみんな同じなんだねっ』

『さっきから殆ど動いてないよねっ』

9時25分、東松山市に入った。
川島ICを降りて25分近くになるが、2Kmほどしか走っていない状態である。
運転手さんによると、関越道の東松山ICまではあと5-6Kmはありそうとのこと。

スマホのニュース情報によると、この日の関越道の事故は、
「NEXCO東日本によると、19日午前4時55分ごろ、関越道下り線の鶴ヶ島IC→東松山IC間で、
車3台が関係する事故が発生。同7時45分現在、同区間が通行止めとなっている。
埼玉県警高速道路交通警察隊によると、大型トレーラーが、タイヤがバーストして中央分離帯
に衝突。そのトレーラーに後続のトラックが追突したという。トラックの60代とみられる男性運転手が死亡した。」
渋滞の車の列は遅々として進まない。

10時26分、道路標識に高速道路を示す緑色の関越道の文字が見えて来た。
関越道が少しだけ近づいているということだが・・・

11時15分、緑色の「関越道東松山IC」の文字が見えて来た。
407号バイパスまで300mの地点ということは、東松山ICまではあと5Kmほどと思われる。

11時33分、407号バイパスの交差点手前に差し掛かった。

407号バイパスを通過した辺りで、後部座席の数名が尿意をもよおして来たようだと。
運転手さんとどこか適当な場所はないだろうかと相談していたら、運転手さんが前方右手に
「VIVA HOME」という看板を見つけた。
運転手さんによると、「VIVA HOME」は、大きなスーパーのようなホームセンターで、
駐車場も大きく、トイレも備わっている、とのこと。
近くにコンビニが一つあるようだが、人数も人数なので、「VIVA HOME」へ向かって
もらうことに。

東松山駅近くの狭い道路を「VIVA HOME」へと向かった。

12時6分、「VIVA HOME」に到着した。
『これで何とかなる~っ 助かったぁ~』
自分も同じ気持ちである。

皆さん、一斉にトイレに向かった。

『こっちに案内標識があるよっ』

12時17分、ほぼ全員が無事にトイレを済ませ、車に戻って来た。

「VIVA HOME」から国道254号へ戻り、関越道東松山ICへ乗るルートも運転手さんが
最適な近道を探してくれた。
東松山市内を少し走って出た国道254号の交差点は、直ぐ隣が関越道の東松山ICだった。
ほんとに頼りになる運転手さんである。

12時43分、関越道東松山IC料金所を通過。
上里SAで待ってくれている弁当屋さんに東松山ICを通過したことを運転手さんに代わって
連絡した。
運転手さんによると、あと30分くらいで上里PAに到着することになりそうとのこと。

東松山IC料金所通過し、新潟・長野方面へ。

関越道を走る。
関越道下り方面は、やや混んではいたが、快調に走ることが出来た。
今までの国道254号の大渋滞が嘘のように感じられた。

13時14分、上里SAまで500m地点を通過。

13時16分、上里SAで昼食弁当を受け取った。
弁当屋さんは、9時30分頃には既に到着していたようなので、3時間半ほど待たせて
しまったことになる。

全員に弁当を配り、道の駅「甘楽」に到着するまでに食べることにした。
城南交通社の当初案では、道の駅「甘楽」の到着時刻は10時30分だったので、3時間ほど
遅れており、時間を有効に使うために車内で食べることにしたのである。
弁当タイム(1)

弁当タイム(2)

弁当タイム(3)

弁当タイム(4)

弁当タイム(5)

この日の弁当は高崎名物の”だるま弁当”だ。
真っ赤なだるまの形をしたプラスチック製の赤い容器となっている。

中身は、茶飯・山菜きのこ煮・穂先竹の子煮・椎茸煮・コールドチキン・鶏八幡巻・花豆煮
黒こんにゃく・赤こんにゃく・栗・山くらげ・小ナス漬け・山ごぼうとなっている。
お腹が空いて来ていたのもあるが、とても美味しかった。

バスは藤岡JCTから上信越道へと分岐して、13時31分、甘楽PAを通過。
小さな雨つぶがフロントガラスを濡らし始めて来た。

13時36分、富岡ICを降りて、

甘楽町を走ること約6分、前方に道の駅「甘楽」が見えて来た。

13時44分、この日のウォーキングのスタート&ゴールとなる道の駅「甘楽」に到着した。
今からでは予定のコースは回りきれないと判断し、見学箇所を限定して回ることにした。

13時51分、城下町小幡の歴史をたどるウォーキングのスタートである。
TK会長を先頭に道の駅「甘楽」を出発して、最初の目的地である楽山園を目指した。
楽山園は外せない。

雄川に沿った”せせらぎの路”を進む。

小幡地区の案内図で道を確認しながら進む。

しばらくは雄川に沿った”せせらぎの路”を進む。

先頭を行く2名は会計担当のNZ子さんとIW子さんである。
楽山園の入場券を買ったりするために先行しているのだ。
少しでも時間を稼ぎたいという気持ちの表れである。

”国指定 名勝楽山園 入口”の案内標識があった。

案内標識に従って進み、

楽山園の北裏門(出口専用)前を通過して右へ曲がると・・・

前方に名勝楽山園の入口らしき建物が目に入った。

14時4分、名勝楽山園入口に到着した。
先に到着した会計担当から入場券とパンフレットが渡された。
入園料は通常は300円だが、20名以上の団体は割引で250円となる。

中門を入ると・・・

庭門の前には御殿跡の広い空間になっていた。

楽山園の庭門を潜ると・・・

目の前にいきなり池が現れた。この池は昆明池と言うらしい。
後方に小さな腰掛茶屋(四阿)が見える。

腰掛茶屋をバックに記念撮影を済ませた。

腰掛茶屋
全国でも珍しい五角形の形をしている四阿だ。

腰掛茶屋から昆明池を観たところ。
楽山園は、江戸時代初期に織田氏によって造られた小幡藩邸の庭園である。
池泉回遊式の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する
過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色があるとのこと。
群馬県内唯一の大名庭園だそうだ。
池泉回遊式の借景庭園:池の周りに築山や茶屋を配するとともに、周辺の山々を
借景に持つ庭園。
取水は雄川堰一番口から小堰をめぐり、江戸時代と変わらぬ流路で昆明池に流れ込む。

腰掛茶屋より一段高い所に建っているのは、庭園全景が見渡せる梅の茶屋である。
屋根が茅葺、庇がコケラ葺きの建物となっている。

梅の茶屋の内部
藩主が休憩したり、庭園の景色を楽しんだと言われている。
皆さん、藩主になった気分かな??

梅の茶屋から昆明池を望む。

昆明池には見事な色合いの緋鯉の姿が観られた。(その1)

(その2)

『たくさんの鯉がいるのね~っ』

熊井戸氏の館跡
以下のように説明されていた。
名勝楽山園は、江戸時代初期に織田氏によって陣屋藩邸・庭園が造営されています。
それ以前は小幡氏の重鎮だった熊井戸対馬守正満の屋敷があり、この屋敷跡等を利用して、
小幡藩が造られたと『上野国誌』に記述されています。
小幡氏は甘楽の地を本拠とする豪族です。この地は古くは小幡氏が居住していたとも云われ、
中世の大城郭の国峯城(直線距離で園の南東約2Km)が完成すると居を転じています。
そしてここに熊井戸氏が屋敷を構えました。おそらく小幡氏の命によるものと思われます。
(以下略)

熊井戸氏跡の古井戸を覗き込む皆さん。

南東側の庭園の説明板から南東側の庭園を望む。

南東側の庭園には睡蓮の花が咲いていた。

昆明池を左手に観ながら・・・

庭門へ向かう。

十九軒長屋(1)
藩邸の使用人たちが暮らしていた。

十九軒長屋(2)
現在は、事務所と展示スペースがあり、楽山園の紹介や出土品などが展示されている。

十九軒長屋(3)
大型スクリーンで城下町小幡の映像も上映されている。

楽山園の中門を出ると、正面に織田氏七代の藩主の幟が並んでいた。
一番手前は小幡藩織田家 初代藩主 織田信勝、信良-信昌-信久-信就-信右-信富の
歴代順に並んでいる。

楽山園の次は、旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷に向かうことにした。
楽山園の中門前の広い道を進むと、

旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷の案内標識があった。

14時47分、旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷に到着した。

旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷
主屋は、木造平屋建て寄棟造りの茅葺である。

皆さんが覗き込んでいるのは?

資料によると土間となっているが・・・
入口の柱の所に小さな文字で”玄関”と書かれた札が貼られていた。
『ここを玄関として使っていたのかしらっ?』

土間(玄関約10畳)から板の間(約10畳)を見たところ。
『ここはどう見ても土間だよねっ』

奥の間(左側10畳)と中の間(右側10畳)

座敷(8畳)

庭園(以下パンフレットより)
庭園は主屋の南側に位置し、段差のある敷地を巧みに利用しています。
藩政時代より小幡の町中を流れる雄川堰から導水し池を作り、築山・庭石や植栽により
作庭しています。
庭園の背景として、南に遠望される山々が借景を構成し、庭園美の極みと言えます、とある。
(以下略)

屋敷の外から見える庭園の古木の松が見事だ。

14時59分、旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷を後にして、小幡郵便局の所を左に曲がり、

道なりに進んだのだが・・・

自分の進んでいる方角が解らなくなり、近くの地元の人にいろいろと訊ねたものの、
中小路よりも織田宗家七代の墓を奨められ、織田宗家七代の墓を目指すことにした。
県道46号を数百m進んで行くと、左側に消防分団の消防小屋があり、

消防小屋の向い側に織田公公園と書かれた標識があった。
ここを左に曲がれば織田氏七代の墓を祀っている小幡山 崇福寺に行きつくことになるのだ。

この後バスが待っている道の駅「甘楽」まで戻るのは時間の関係上かなり大変と思われたので、
皆さんが七代の墓をお参りしている間に、運転手さんに迎えに来てもらえないか電話した。
運転手さんは快諾してくれた。
緩やかな坂道を上って行くと、織田氏七代の墓が並んでいた。

向かって右側から小幡藩織田家 初代藩主 織田信勝(のぶかつ)ー信良(のぶよし)ー信昌(のぶまさ)
ー信久(のぶひさ)ー信就(のぶなり)ー信右(のぶすけ)ー信富(のぶとみ)の歴代順に並んでいる。
大名家の墓所らしい風格を見せている。(初代藩主信勝以外の写真は割愛する)

織田氏七代の墓から公園全体を望む。

こちらが実際の景色

織田氏七代の墓地まで迎えに来てくれたバスに乗り込み、会計担当者の集金に応じた。
数分後、会計担当さんから、『徴収された料金は、予算どおりだった』と報告があった。
『会計さんっ、ご苦労様でしたっ』

15時46分、織田宗家七代の墓を後にして、帰路に就いた。
『途中で雨に降られるかもと心配したけど、何とか持ったわねっ』

後部座席で恒例の”お疲れさんの会”が始まった。
自分もそのうち後部座席へ移動することにしよう。

16時6分、関越道の藤岡ICに隣接する道の駅「ららん藤岡」で小休止。
運転手さんの提案で、土産物を買ったりする時間を入れて通常より5分余計に休憩時間を
採ることにしたとのこと。
こういった心遣いが何とも嬉しい限りである。

道の駅「ららん藤岡」
かなり薄暗くなって来たため、ライトアップの照明灯が点燈し始めた。

皆さん、手に手に土産物を持ってバスに戻って来た。

16時31分、藤岡JCTまで1Kmの地点を通過。

後の席からTK会長たちが呼んでいる。

誘われるままに後部座席に行くと、NGさんが道の駅「ららん藤岡」で買ったお酒
(妙義山)が振舞われ、遠慮なくいただいた。
この日のお酒は何時になく美味しかった。
自分も持参したワインをカップに注いで皆さんに回した。
備え付けの冷蔵庫に入れていたので、冷たくて美味かった。

17時45分、最後の休憩地である圏央道 菖蒲PAに到着。
外は真っ暗になっている。

後部座席は大いに盛り上がっていた。

バスはしばらく圏央道を走り、18時40分頃、つくば牛久ICを通過し、三中公民館へ。

18時54分、バスは無事に三中公民館に到着した。
予定では17時40分頃に到着としていたので、1時間15分ほど遅く着いたということになる。
土浦市民会館から乗車した皆さんとはここでお分かれである。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『また次回の例会でお会いしましょうっ』

この日は、当初企画してから6年目、3度目にしてようやく”城下町小幡の歴史をたどる”を
実施したが、全くの想定外の事故渋滞に会い、3時間半遅れて出発地に到着するという
大ハプニングに見舞われた。
最初の目的地に3時間半近くも遅れたことから、予定していたコースは歩けず、途中で
一時道に迷ったこともあり、行ける所だけに行こう、という半ば行き当たりばったりの
ウォーキングとなった。
楽山園、旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷、織田氏宗家七代の墓を巡ったが、城下町小幡藩の
織田氏ゆかりの地を回れたことで、思わぬ事故渋滞に呆然となりつつも、記憶に残る
1日となった。
これは、いつも利用している城南交通社のバス運転手さんの協力があったからこそ、
と感謝している。
この運転手さんの協力がなかったら、城下町小幡の6年振り3度目の企画を諦めて、
途中で引き返していたかも知れない。
『運転手さん、ありがとうございました』
この日の万歩計は、9,500歩を計測していた。
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