ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.54 大坂城

2017年05月14日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年5月14日(日)

この日訪れた大坂城は、別称錦城・金城(きんじょう)とも呼ばれる。
水運の利に恵まれた、大阪で最も標高の高い上町台地に、豊臣秀吉が
天下取りの拠点とするべく、天正十一年(1583)に築城を開始。
これが、豊臣大坂城である。

天正十三年(1585)には五重八階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、
金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守を完成させた。
これによって、秀吉は天下人の権威を欲しいままに示した。

しかし、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では徳川勢を撃退したが、
翌年の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上してしまった。

その後徳川幕府は、元和六年(1620)、徳川への政権交代を
天下に知らしめるために、豊臣大坂城の縄張りの上に盛土をし、
石垣を新たに積み直して城を築いた。
そして秀吉の天守を上回る規模で白漆喰総塗籠の徳川大坂城天守が
寛永六年(1629)に完成した。
現在残る石垣と堀は、この工事によって出現したものである。

しかし、この天守も寛文五年(1665)に焼失。
以来昭和六年(1931)に復興されるまで天守は存在しなかった。
なおこの3代目天守は豊臣大坂城天守を模して、徳川大坂城天守台の
上に建てられている。

東京駅7時3分発の「ひかり461号」に乗車し、
新大阪駅には10時ちょうどに到着した。
新大阪駅で駅弁を買い求めた。


大坂城に入る前に、大坂城の南西にある大阪歴史博物館
(天守閣入場料も含めて900円)に立寄ってみることにした。


NHKに隣接している大阪歴史博物館
(入口は、NHKと同じになっている)


10階の展示フロアの北端からは、広い外堀や高い石垣に囲まれた広大な
大坂城の縄張りが見晴らせる。
絶好の眺望スポットではあるが、ガラスが反射して写りが良くない。
しかし、二の丸南側に屈曲しながら長く続く石垣は圧巻の一言。
安くはなかったが、料金を払って来ただけのことはある。


大阪歴史博物館の10F~7Fの展示は軽く流して大坂城へ。
大坂城公園の南東角に入ると、大坂城南外堀が見える。
寛永五年(1628)からの工事で完成した石垣は、
ほぼ同じ大きさの割石を布積みにした打込接布積を採用している。


南外堀の石垣隅角部は、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせた
算木積みとなっている。
西から東を望むと石垣が同じ曲線で重なって見える。
寛永期の石垣構築技術の高さを知ることができる。


かつては雁行する石垣上に土塀が走り、一番から七番までの二重櫓が
建っていた、とのこと。
見えているのは六番櫓である。


南外堀を左に回り、大手土橋を進むと、


左に元和六年(1620)に建設された重用文化財の千貫櫓がある。
大手土橋や西側の水堀に横矢を効かせている。
初重に出窓型石落し、二重目には唐破風をつけた二重二階櫓である。


『千貫』の名は、本願寺の戦いの際、この付近にある櫓を攻めあぐねた織田信長が、
「千貫文出しても奪いたい」と言ったことに由来すると伝わる。
国指定重要文化財になっている。


大手土橋の右側の南外堀と見事な曲線の石垣
石垣隅角部は、算木積みとなっている。


大手門
寛永五年(1628)に造営された大坂城の大手口の正門である。
高麗門様式で、建設当時の姿を留めている。


屋根は本瓦葺き、扉と親柱は黒漆総鉄板貼りである。
親柱と後の控柱との間にも屋根を載せている。
大手門の南北に続く塀には岩岐(石段)があり、鉄砲狭間が開けられている。
門、塀とも重要文化財に指定されている。


重要文化財の大手門を入るとそこが大手桝形になっている。
周囲を土塀と巨大な多聞櫓が取り囲む。
正面には、鉄砲狭間や格子窓を配した続櫓が、
前方左には巨大な渡櫓がある。


鉄砲狭間


大手門を潜り大手桝形に入ると、巨石に目を見張らされる。
正面の続櫓に位置する大手見付石は、表面積が29畳敷(47.98㎡)で城内第4位、


左の大手二番石は、表面積が23畳敷(37.90㎡)で第5位、


右の大手三番石は、表面積が22畳敷(35.82㎡)で第8位。
いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島とされている。


渡櫓(多聞櫓)
大手口の枡形の石垣にある櫓。
大門の上部を跨ぐ渡櫓と南に直角につながる続櫓で構成されている。
高さは14.7mで全国でも最大規模。
渡櫓の壁面には通路幅いっぱいに格子窓を設けており、
櫓床下は槍落しが造られている。
もし、大手門が破られても、この桝形で敵を食い止めるためだ。


櫓門を潜って城内から見た渡櫓(多聞櫓)


土日限定で3つの櫓(多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵)の内部が特別公開されていた。
(入場料金は700円)
これは、素通りする訳にはいかない。


入場料700円でチケットを購入し、先ず多聞櫓へ。
靴は脱いでビニール袋に入れて、スリッパに履き替えて中に入る。


多聞櫓内部


多聞櫓の兵士たちの詰所
この部屋は、いざ戦いというときに兵士たちが籠城して
寝泊りするために作られたもの。
多聞櫓は大手門を防衛する兵士が詰めた場所なのだ。


大坂城石垣の刻印が展示してあった。


槍落とし
千貫櫓の石落しと同じ機能の装置で、侵入しようとする敵に
真上から槍や石などを浴びせた。
下からは気付かれにくい構造となっている。


多聞櫓を出ると、見学路は千貫櫓に続いていた。
千貫櫓は、西の丸庭園の南西側にあり、大手口を守る二層の隅櫓である。
織田信長が石山本願寺を攻撃している最中、この付近にあった櫓からの攻撃に悩まされ、
「千貫払ってでもその櫓を奪い取りたい」と言ったという故事に由来する。
造営は元和六年(1620)で大坂城最古の建築物と云われる。


千貫櫓内部


展示されている火縄銃は、ずしりと重かった。


千貫櫓から見た外堀(乾櫓方面)


千貫櫓の見学が終わって外へ出ると、そこは西の丸庭園だった。
櫓内部見学料金には、西の丸庭園の入園料(200円)も含まれていたのだ。
園内ではちょうど弁当を食べているところだった。


西の丸庭園から天守閣を望む。


天守閣を眺めながら弁当にしよう。


外堀に沿って西の丸庭園内を進むと、坤櫓(ひつじさるやぐら)跡があった。


坤櫓跡
ここには西の丸の隅櫓の一つが建っていた。
西の丸の南西(坤)にあたることから坤櫓と呼ばれた。
規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じであった、そうだ。


坤櫓跡から西外堀方面を望む。
千貫櫓や大手門、大手土橋が見える。


坤櫓跡から外堀に沿って進むと、乾櫓があった。
乾(戌亥)は北西を表す言葉で、西の丸の北西に位置することから
この名が付いている。


大手口から京橋口までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、また、
堀を隔てた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから、
「三方正面の櫓」とも呼ばれた、とのこと。
乾櫓から北西側外堀を望む。


乾櫓から南西側外堀を望む。


乾櫓から焔硝蔵へ向かう途中に大阪迎賓館があった。
国際会議「APEC’95」の舞台となった大阪城西の丸庭園内の大阪迎賓館が、
予約制レストランとして2016年5月中旬にオープンしたもの。


大阪迎賓館の少し先に焔硝蔵(火薬庫)があった。
櫓見学の最後の建物である。
焔硝蔵は、屋根が瓦葺で、頑丈な石造りとなっている。


外装だけでなく、壁・天井・床・梁の全てを石造りとした構造は
他に全く例がない、そうだ。
石壁の厚さは約2.4mとのこと。


焔硝蔵出口
焔硝蔵は、江戸城や二条城といった将軍の城をはじめ各地の大名の城にもあるが、
江戸時代のまま残っているのはこの一棟だけだそうだ。


西の丸庭園から内堀を挟んで天守閣を望む。


黄金色の御座船(遊覧船20分1,500円)が見える。
乗っている人は秀吉の気分に浸っているのだろう・・・


西の丸庭園から天守閣を望む。


望楼展望台には大勢の人の姿が見える。


西の丸庭園
現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の
防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。
公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、
本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった、そうである。


西の丸庭園(パノラマ写真)


西の丸庭園を出て、


南仕切門跡へ向かう途中、内堀の一部が空堀になった部分があった。
西の丸庭園方面の空堀を望む。
ここに敵を引き寄せ戦闘を行ったという。


桜門方面の空堀を望む。


西の丸庭園から本丸に行くには、南仕切門跡を左に折れ、
太鼓櫓跡の前を通って桜門へ向かうことになる。
南仕切門跡を通過


太鼓櫓跡から二の丸を通って進むと本丸の大手である桜門に達する。


桜門へ行く前に二の丸にある豊国神社や六番櫓・一番櫓を見ておこう。
太鼓櫓跡正面を南外堀方面へ進むと、六番櫓がある。
二の丸の南外堀石垣の隅角に建てられていた一番から七番までの二重櫓で、
現存する一つである。


修道館前を通過
修道館は、柔道・剣道・なぎなた・弓道その他武道の普及振興を図り、
社会秩序の確立と青少年の健全な育成に寄与するという目的で、
武道の錬成道場として昭和38年に設立された。
中からは、大きなかけ声が聞こえていた。


豊国神社鳥居の先に、


豊臣(羽柴)秀吉像が建てられていた。


豊国神社拝殿
大阪城内桜門の正面に鎮座する神社で「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」
「豊臣秀長卿」を奉祀する神社である。
農民から天下人になった秀吉公に肖り、出世開運の神として
信仰を集めているとのこと。


豊国神社本殿へ参拝を済ませ、


二の丸一番櫓へ向かう。


一番櫓
二の丸南面の最も東にあることから「一番櫓」という。
大坂城は南面が陸続きであるために二の丸の南外堀に向けて
一番から七番の櫓を設けて防御としたが、現存するのは、
この一番櫓と六番櫓のみである。


一番櫓から南外堀を望む。


一番櫓の南寄りに二番櫓があったと思われる跡があった。


二番櫓跡から南外堀を望む。


本丸の大手である桜門への登城橋


桜門へ。


桜門前から見た本丸南側の空堀。
巨大な石材で算木積が組まれている。
隅石としては、日本最大規模と云われる。


桜門
高麗門形式の門
その名称は、豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、
当時二の丸に桜の馬場と呼ばれる場所があったことから、
門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。


銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団指令部庁舎(旧大阪市立博物館)
の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。
銀明水井戸は、徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸の内の一つで、
本丸御殿台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。
大坂城内で最も格式の高い井戸の一つである。


本丸の正門にあたる桜門の枡形も高麗門と多聞櫓で構成されている。
桝形の正面には域内最大の面積を持つ蛸石と呼ばれる巨石が迫る。
蛸石は、城内第1位の巨石で、表面積はおよそ36畳敷(59.43㎡)、
重量は108トンと推定されている。


表面左下に蛸に見える模様があることから、蛸石と呼ばれている。
備前岡山藩主の池田忠雄の担当によって築かれ、
石材は備前岡山産の花崗岩が用いられている。


蛸石の左手にも巨石がある。
振袖石と呼ばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85㎡)で、城内第3位。


桜門桝形を抜けると、右手に工事中の大きな建物が目に入る。
天守閣と同じ昭和六年(1931)に陸軍第四師団司令部として建てられた建物だ。
1960年からは大阪市立博物館として利用された。


工事中の囲いに大坂城の変遷を示す資料が展示されていた。
豊臣秀吉築城の大坂城


大坂夏の陣 大坂城落城


徳川幕府再築の大坂城


徳川期の大坂城


天守を失った大坂城
徳川時代の天守は、寛文六年(1665)、北側の鯱に落雷して焼失した。
それから昭和六年(1931)に再建されるまで、大坂城は天守のない城だった。


復興直後の大坂城
現在の天守は、昭和六年(1931)に建設、
外観復元で内部は鉄筋コンクリート八階建て、
高さは54.8mで「大坂夏の陣図屏風」を参考に、
豊臣時代の天守を再現した。
大坂城には①豊臣時代に建てた天守、②徳川時代に建てた天守、
③昭和になって建てた天守、の3つが存在したことになる。


旧大阪市立博物館の脇に建つ金蔵。
幕府御用金を収めた施設で、頑丈な造りになっている。
金蔵は国内では大坂城にしか残っていない、そうである。


本丸に聳える天守閣は、徳川幕府が築いた天守台の上に、
大阪市民からの寄附を得て建設された。
大阪城天守閣が所蔵する「大坂夏の陣図屏風」に描かれた天守が
モデルになっている。


天守閣入口
入場料金は600円だが、大阪歴史博物館で買ったチケットで入場出来た。


金明水井戸屋形
大坂城の小天守台にある井戸を金明水といい、それを覆う建物を
金明水井戸屋形という。
井戸は水面まで約33mの深井戸である。
寛永三年(1626)の銘があり、天守と同時期に造営された。


大坂城天守閣は、鉄筋コンクリート造りの外観5層内部8階で
登録有形文化財に指定されている。
1階~7階は展示施設、最上階は望楼展望台になっている。
100名城スタンプは、天守閣入口を入った1F案内所にあった。


最上階の望楼展望台には、大勢の観光客がいた。
韓国・中国の人が圧倒的に多い。


望楼展望台からの眺め(1)
西の丸庭園


望楼展望台からの眺め(2)
山里丸


望楼展望台からの眺め(3)
金の鯱


望楼展望台からの眺め(4)
青屋門と大阪城ホール


望楼展望台からの眺め(5)
青屋門


望楼展望台からの眺め(6)
パノラマ写真


望楼展望台からの眺め(7)
御座船


望楼展望台からの眺め(8)
工事中の旧大阪市立博物館


天守閣を後にして、山里丸へ向かう。


徳川期の天守台は、打込接布積を採用している。


天守台の隅角部は、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせた
算木積みとなっている。


天守閣の西を北に向かうと山里丸へと出る。


その手前を左に折れると、


兵士を隠していた隠し曲輪に突き当たる。
本丸に唯一築かれた帯曲輪で、再建時の江戸幕府によるものである。
天守まで攻め込まれた際の反撃拠点として設けたと思われる、とのこと。


本丸北の一段低くなった場所が山里丸で、


現在は刻印石広場になっている。


大坂城築城の過程で石垣に刻まれた刻印石が展示されている。


大坂城が多くの大名を動員した天下普請で築かれたことが感じられる。


刻印石広場の先には豊臣秀頼と淀殿の自刃の地の石碑が建てられている。
二人は大坂夏の陣の時、この辺りにあった櫓で自刃したという。
秀頼、淀殿ら自刃の地碑には献花する人が後を絶たない。


山里丸を北に進むと、本丸搦手にあたる桝形虎口があり、


その先に本丸と二の丸の北側を繫ぐ極楽橋がある。


極楽橋を渡り切り、


東へ折れると青屋口へ、西に折れると京橋口へと続く。
ともに大坂城の搦手にあたる。


青屋口には、古材を用いて復元された青屋門が建つ。
青屋門は、二の丸北東にある櫓門である。
戊辰戦争で焼失して復元されたが、再び第二次世界大戦の空襲で焼失。
昭和44年に復元された。


青屋門は太平洋戦争の空襲で甚大な被害を受け、
建物の高さなどは推定復元がされている。


京橋口の桝形には、蛸石に次ぐ巨石である肥後石が残る。
畳約33畳敷(55.71㎡)で城内第2位の大きさである。


京橋口


京橋口から北外堀を望む。


京橋口から西外堀を望む。
乾櫓が見える。


西外堀の外側から見た乾櫓
切妻破風を付けている。
外壁面には石落しが設けられている。


時間に余裕があれば、外堀の外周をぐるっと回って見てみたかったが、
帰りの電車のことを考えると、この辺で止めておこう。
乾櫓を見たのを最後に、地下鉄谷町線の天満橋駅へ向かった。

100名城巡りは、今回の大坂城で95番目となった。
残り5城となったが、全て九州の城である。
出来るだけ早く全城登城を達成したいものである。

ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城巡り No.100 首里城

2017年02月21日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年2月21日(火)

この日は、「日本100名城」99番目の「中城城」に続いて、
100番目の「首里城」へ登城した。
首里城に関する事前の知識としては、「日本100名城」ガイドブックに
紹介されている、以下のようなものだ。

首里城は、1427年の記録に城の整備について記されていることから、
創建はそれ以前だと推定される。
城の基本的な縄張が完成したのは尚真王と尚清王の時代(1477~1555)と
考えられている。

城は東西約400m、南北約200mの規模を誇り、内部と外部で構成されていた。
内部は御庭を中心とした行政空間、その南側の「京の内」という祭祀空間、
東側の「御内原」という居住空間からなり、正殿・南殿・北殿など
主な建物は内部に置かれていた。

首里城は、王位争いや失火で3度焼失したが、その都度再建された。
明治になって軍が入った後、学校となった。
太平洋戦争では城のすべてが灰燼に帰したが、平成14年には正殿など
城の建物が再建されている。

平成12年(2000)に世界文化遺産に登録された。
また、平成18年(2006)に「日本100名城」に選定されている。

道路を渡った所が首里城公園になる。
”守礼門”の文字が見える。


道路を渡ると、”甦る首里城の碑”が建てられていた。


首里城公園の石碑前で記念撮影
小雨が降りだした。傘を差しての見学になりそう。


首里城の案内看板に従って進むと、


総合案内所があった。
入場券を売っている所かと思ったが、違った。


時計は12時40分を回っており、お腹も空いていたので、
先ずは腹ごしらえをしようということに。
レストセンター首里社館のレストラン「首里社」で昼食を摂った後、
首里城公園の資料を入手して守礼門へ向かった。


守礼門への途中、民族衣装の女性たちが記念撮影を奨めていた。


首里城の見取り図


13時27分、守礼門に到着
1527年~1555年の4代目・尚清王代に初めて建立。
扁額に「守禮之邦(守礼之邦)」と掲げられていることから
守礼門と呼ばれるようになったと言われている。


「守礼」とは単に礼節・マナーを守るという意味だけではなく、
儒教の「礼」、つまり「琉球は礼節を重んずる国である」、
「琉球は清との間に結ばれた、臣下・親子のような国際関係の秩序を守る」
という意味を持っている。


守礼門を潜った先に園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)がある。
石門とその奥の森を園比屋武御嶽と云い、王府の祈願所であった。
石門は、神社で言う拝殿にあたるが、本殿に相当する建物はなく、
石門の後ろに広がる森がそれにあたるという。
石門の創建は、尚真王時代の1519年。
1933年には旧国宝に指定されたが、沖縄戦で大破、1957年に復元され、
後に解体修理し、1986年に完成した。
石材は主に琉球石灰岩を用い、板葺唐破風屋根を表す屋根の飾りなどに
日本と中国の様式を合わせて用いた沖縄独特の優れた石造建築である。
(沖縄県教育委員会)


園比屋武御嶽石門は、世界文化遺産に登録されている。


歓会門(かんかいもん
首里城の城域内に入る第一の正門である。


石垣の隅頭石は、城壁の飾りの一種で、角の部分を上方に緩やかに突出させたもの。
石垣の角が反り返っているのは、中城城で見たのと同じだ。


13時33分、歓会門に到着
大きく湾曲した城壁中央をアーチ形に開けて門としている。
中国皇帝の使者「冊封使」(さっぽうし)などを歓迎するという意味で
この名が付けられた。「あまへ御門」とも言う。
「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており、
「歓会」はその漢訳である。
門の両側の一対の獅子像「シーサー」は、魔除けの意味を持っている。
1500年ごろの創建だが、沖縄戦で焼失し、昭和49年(1974)に復元された。


歓会門の内側には、当時の服装をした守衛らしき人がいた。


歓会門を過ぎて、緩やかな石段の先に瑞泉門が見える。


瑞泉門の手前左側に久慶門(きゅうけいもん)が見えたので、
1枚だけ撮って瑞泉門に戻った。
久慶門は、別名「ほこり御門」とも云う。
「ほこり」は、歓会門の別名「あまへ(よろこび)」と対になっていて、
「よろこびほこる」の意味になる。
歓会門が正門であったのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したと云われている。
また国王が寺院にお参りする時や北の地方に行幸する時などにも使われた。
沖縄戦で焼失し、昭和58年(1983)に復元された。


瑞泉門への坂道の途中、石段の横に四文字の碑が並んでいた。
この石碑は、龍樋の水の清らかさを称賛した冊封使(さっぽうし)
たちの書を刻んだもので、冊封使七碑と呼ばれている。
沖縄戦でほとんどが破壊されたが、1996年(平成8年)、
拓本を下に復元された。


13時39分、瑞泉門(ずいせんもん)に到着
瑞泉門の名は、龍樋の水が瑞泉(りっぱな、めでたい泉という意味)と
讃えられたことに由来する。別名「ひかわ御門」とも云う。
「ひ」は樋のことで、「かわ(川)」は、沖縄では井戸や泉をことを指す。
さきほどの歓会門と違い、双璧の石門の上に櫓が乗っている。
この形式は、日本本土の主な城の門と共通している。


内側から見た瑞泉門
創建は1470年頃。
沖縄戦で焼失したが、平成4年(1992)に復元された。


13時40分、漏刻門(ろうこくもん)に到着
漏刻とは、中国語で水時計という意味。
この門の上の櫓の中に水で時間を計る水槽(水時計)が設置されていた。
水が漏れる量で時間を計っていたと云われている。
門を過ぎた広場には日時計があり、その二つで時刻を計り、
太鼓をたたいて時を知らせた。


漏刻門の別名は「かご居せ御門」とも云う。
駕籠で登城することを許されていた身分の高い役人も、国王に敬意を表し、
この門で駕籠から下りたということからそのように呼ばれた。


創建は15世紀頃、老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを
平成4年(1992)に復元した。
内側から見た漏刻門


13時41分、広福門(こうふくもん)前の広場に到着
「広福」とは「福を行き渡らせる」という意味。
建物そのものが門の機能を持っているのが特徴。
門の正面に向かって左側(東)が戸籍の管理をする「大与座」、
右側(西)が神社仏閣などを管理する「寺社座」という役所になっていた。
創建年は不明、明治末期頃に撤去され、平成4年(1992)に復元した。


広福門前の広場の日影台(にちえいだい
漏刻が水時計であるのに対し、日影台は日時計のこと。
琉球王国時代、首里城では日時計を用いて、正午およびその前後の時刻をはかり、
また漏刻でくわしい時刻をはかったと云われている。
1739年から使われ始めたと云われ、1879年の廃藩置県まで王国の時を刻み続けた。


日影台から久慶門辺りを望む。


日影台から市街地を望む。
見えている建物は、沖縄県立芸術大学だ。


広福門を潜り、「下之御庭(しちゃぬうなー)」に出て、中から広福門を見る。
下之御庭とは、沖縄の表現で「下の庭」という意味である。
首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る前の広場で、
正殿前で行われる様々な儀式の控え場所となっている。


広福門は戸籍の管理をする「大与座」と神社仏閣などを管理する「寺社座」
という役所であったが、現在、御庭へのチケット売り場になっている。
一般の入館料金は、820円だ。


13時47分、奉神門(ほうしんもん)を潜る。
奉神門は、神を敬う門という意味で、首里城正殿のある御庭へ入る最後の門である。
3つの入口のうち、中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)などの
身分の高い人だけが通ることができた、そうである。
別名「君誇御門」
ここから有料になる。


奉神門を潜ると、御庭(うなー)に出る。
御庭から奉神門を見る。


御庭の正面向いに正殿がある。
御庭では、元旦の儀式など重要な祭事や、中国からの使者を迎える儀式をはじめとした
外交上の儀礼が行われた。
敷かれているタイルは磚(せん)という敷瓦で、この色違いの列は儀式のときに
諸官が位の順に並ぶ目印であった。
中央の道は「浮道」と言い、国王や冊封使など限られた人のみ通ることができた。


正殿
国王の政務やさまざまな儀式が行われた建物。
平成4年に再建された琉球最大の木造建築である。
中国北京の天安門を模しているとも・・・


正面の石階段の両脇の龍の彫刻を「大龍柱」と言い、
その奥にはもう一対の「小龍柱」がある。
その他に屋根や柱などにも龍はたくさんあり、
首里城の中心的な建物に相応しい装飾が施されている。


南殿(なんでん)・番所(ばんどころ
平屋部分が番所で、首里城へ登城してきた人々の取次をする
受付的な役割を持つ建物だった。
左側の2階建て部分が南殿である。
南殿は別名「南風の御殿」とも言い、日本式の年賀・節句などの行事、
薩摩藩の役人の接待が行われた。
創建は17世紀前半で日本風の建物となっている。
二つの建物とも日本式ということで、彩色はされなかった。


北殿はかつては北の御殿、議政殿とも呼ばれていた。
創建は1506~1521年頃とされ、中国風の建物となっている。
記録では、1709年の首里城の大火で他の建物とともに焼失し、1712年頃再建された。
通常は王府の行政施設として機能し、表15人衆(大臣)や筆者、
里之子(さとぅぬし)と呼ばれる役人等が働いていた。
米海軍のペリー提督が黒船を率いて琉球を訪れた時にも、ここで式典が行われた。
沖縄サミットの晩餐会に利用された場所である。
館内では、パネルなどで首里王府の位置やしくみ、冊封式典(さっぽうしきてん
などを解説している。


御庭のパノラマ写真


御庭の全体図


13時50分、内部を見学するため南殿の番所へ。
14時にボランティアガイドの方の案内がスタートすると言うので、
イヤホンを借りて、付いて廻った。
琉球王国時代に製作された漆器、絵画等の美術工芸品などを中心に
展示している。
ただしここから先は、撮影禁止となっている。


途中で撮影OKの個所があった。
御書院である。
国王が日常の執務を行った建物であり、取次役や近習など側近の者が
その周辺に控えていた。


また中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、
ここで接待を行うこともあった。


書院の庭園
城内で唯一の本格的な庭園である。
自然の露岩を利用し、琉球松と蘇鉄で築山や谷が表現されている。
書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える歌を詠んだ、とのこと。


鎖之間(さすのま
鎖之間は琉球王朝時代、王子の控所であり、諸役の者たちを招き、
懇談する施設であった。


内炉之間(うちろのま
御書院の裏座にあたり、お茶を点てて客人に振る舞っていた場所である。


順路には、諸所に琉球王朝時代の服装をした人がもの静かに立っていて、
我々見学者を迎えてくれる。


南殿から御庭を見る。


黄金御殿(くがにうどぅん)・寄満(ゆいんち
黄金御殿は、国王、王妃と王母のプライベートゾーンといえる建物で、
2階には居間や寝室があった。
寄満は、国王とその家族の食事の用意をした所で、御台所筆者、包丁、
あがま(女中)、御水使、下代などがいた。


近習詰所(きんじゅうつめしょ
近習頭や近習役、筆者、側近など、約20名あまりの役人が詰めていた場所。


表(行政)空間と内(居住)空間との取次
首里城は、政治を行う御庭側の「表」の空間と、居住スペースである御内原の
「内」の空間に分けられ、その境界は近習詰所と黄金御殿の間にあった。
一方が他方に用事がある場合、近習詰所の”鈴”を鳴らして合図を送った。


2階御差床(うさすか)と御書の扁額
2階の御差床は国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところである。
儀式の際には床の間に香炉・龍の蝋燭台・金花・雪松などが置かれ、
壁には孔子像の絵が掛けられていた。
部屋の上部には、かつて中国皇帝から贈られた御書の扁額が掲げられていた。
「中山世土(ちゅうざんせいど)」の扁額はその一つであり、
”中山は代々、琉球王国の国である”との意味。


「輯瑞球陽(しゅうずいきゅうよう)」
”琉球が幸せであることを祈っている”の意味


「永祚瀛壖(えいそえいぜん)」
”海の向こうにある琉球を永く幸いに治めよ”の意味とされている。
これらの扁額は、古記録をもとに再現された。


唐幬豊(からはふ
この部屋は唐幬豊と呼ばれ、正月の儀式や中国皇帝への親書(上表)を
送る時などに、国王が唐衣装で椅子(御幬椅)に座り、御庭に並ぶ諸官とともに
儀式を執り行った重要な場所である。
御庭からこの部屋を眺めると、唐破風造りの屋根や龍の飾りに囲まれた
格式ある空間になっている、そうだ。


熱心に説明をしてくれているボランティアガイドのお嬢さん。
説明は、イヤホンを通してなので、離れていても良く聞こえる。


1階御差床(うさすか
中央の一段高い床が正殿で行われる政治や儀式の際に、
国王が出御する玉座「御差床」である。
この裏側には2階に通じる階段があり、国王はこの階段を降りて「御差床」についた。
左右には国王の子や孫が着座した「平御差床」がある。
御差床の両脇の朱柱には金龍と五色の雲が描かれ、天井は丸く上部に折り上げて
格式を持たせている。


17世紀に与えられた琉球国王印
中国の明朝(1368~1644)が滅びた後、清朝(1644~1912)の皇帝から
尚質王に与えられた国王印。
この前に琉球は、明朝から与えられた国王印を返している。


18世紀に与えられた琉球国王印
1756年に清朝の乾隆帝から与えられた国王印。
この国王印は、琉球王国が崩壊した時から行方不明になっている、とのこと。


正殿の木組み模型


南殿・正殿の見学が終わり、続いて北殿へ。


北殿には、御庭の模型があり、儀式の様子をビジュアルに見ることができる。
また、パネルなどで首里王府の位置や仕組みなどが解説されている。


儀式の様子
正殿の王に向かって深々と頭を垂れる、家臣たち。
整然と並んだ様は壮観である。


こちらは、冊封式典(さっぽうしきてん)の儀式の様子


この日案内をしてくれたボランティアガイドのお嬢さんともここでお別れだ。
『ありがとうございましたぁ』


北殿内の土産物売り場はけっこう広い。
かなりの人で賑っていた。
ここで100名城スタンプを押し、一安堵である。


ここでもいろんなシーサーが売られていた。


相変わらず土産物探しに余念がないかみさんたち・・・


出口へ向かう前に南殿の茶室でお茶をいただくことにした。
再度南殿の番所から入り、茶室へ向かった。
南殿の茶室(鎖之間:さすのま)入口
見学の時にこの傍を通ったが、このような案内には気が付かなかった。
かみさんたちはしっかり見ていたということである。


廊下を通って鎖之間に案内される。
鎖之間は琉球王朝時代、王子の控所であり、諸役の者たちを招き、
懇談する施設と言われていた。


「わだかまった松」
書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える詩を詠んだ。
その様子を「わだかまった松と蘇鉄とを、奇怪な格好をした石の間に、
互い違いに植えている」と伝えている。
(わだかまった松:地を這うような広がりのある樹高の低い樹形の松)


裏御座
鎖之間の裏座にあたり、お茶を立てた場所。
御書院にあったものと同じ造りである。


我々がお茶をいただくのは御鎖之間だ。


出されたのは、琉球王朝時代の伝統菓子とジャスミンの香りがするさんぴん茶。
お茶はお代り自由である。


琉球王朝時代の伝統菓子は、
花ぼうる・くんぺん・ちいるんこう・ちんすこうの4種類。
これで310円というから安い。


首里城の全てとまではいかないが、大方の所は見たので、
出口へ向かった。


京の内(きょうのうち
城内最大の祭祀空間(信仰儀式の場)である。


京の内は、神聖な御嶽が数多くあり、”聞得大君”などの神女により、
王家繁栄・航海安全・五穀豊穣が祈られた。


西(いり)のアザナ(展望台)へ。


展望台からの景色(1)
那覇市内
あいにくの雨模様で遠くまでは見渡せなかった、残念!


展望台からの景色(2)
奉神門とその後ろに正殿の屋根が見える。


展望台からの景色(3)
首里社館(首里城公園レストセンター)


木洩門(こびきもん
王朝時代、首里城の建物の建設や修理、石積修復工事の
資材搬入時に使用され、普段は石を詰めて閉じられていた。
現在は、見学ルートの入口になっている。


木洩門を出た所に首里城跡の碑があった。


レストセンター首里社館レストラン
昼食を摂った所である。


レストセンター首里社館の中を抜けると、総合案内所の前に出た。


首里高校の向いには玉陵(たまうどぅん)がある。
玉陵は、第二尚氏王統の陵墓である。


駐車場へ戻る前に、玉陵を見ておきたい。
かみさんたちは先に駐車場に戻りたいと言うので、一人で玉陵へ。


玉陵奉円館入口で、観覧券(300円)を購入。


玉陵に関する資料は奉円館の地下室に展示されていた。


玉陵全体模型
玉陵は1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、
第二尚氏王統の陵墓となった。


墓室は3つに分かれている。
東室(左側)は、洗骨後の王と王妃の墓室となっている。


西室(右側)には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られた。


中室(中央)は洗骨前の遺骸を安置する部屋であった。
通常は何も置かれていない。


歴代王の蔵骨器(写真)
玉陵の墓室には遺骨をおさめた蔵骨器が全部で70基あり、
ここではその中の27基を展示している。


歴代王の蔵骨器(写真)


骨壺が展示されていたが、
この骨壺は、那覇市内から発見されたもので、玉陵のものではない。


こちらはサンゴ石製石厨子


奉円館を後にして、ガジュマロの並木道を進むと、


玉陵に到着した。
高い石の塀に囲まれている。


最初の門を潜ると、


中庭のような広場がある。


次の門を潜った先に・・・


玉陵が現れた。
全体のパノラマ写真


東室(左側)


中室(中央)


西室(右側)


狛犬(左)
雌獅子


狛犬(中央)


狛犬(右)
雄獅子


首里城・玉陵の見学が終わり、この日の宿泊先がある、
那覇市内へ向かって車を走らせた。


ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城巡り No.99 中城城

2017年02月20日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年2月20日(月)

この日は、昨日泊った北谷町のホテルから中城城へ直行した。
中城城についての予備知識は、概略以下のようなものである。

城は沖縄本島中部の中城村の石灰岩丘陵上に築かれており、
北東から南西にかけて6つの郭(かく)が並んでいる。

中城城は、14世紀後半に琉球の豪族先中城按司(さきなかぐすくあじ)が
数世代にわたり、西の郭・南の郭・一の郭・二の郭の主な部分を築き上げた。

1440年に読谷の座喜味城から移って来た「読谷山按司:護佐丸(ごさまる)」
によって北の郭・三の郭が増築され、現在見られるグスクの形が完成したと
考えられている、とのこと。

護佐丸は、1458年、勝連城主阿麻和利(あまわり)の策略によって滅ぼされた。
護佐丸滅亡後は、琉球国王の世継ぎである中城王子世子の居城となり、
さらにその後は間切番所、中城村役場が置かれ、1945年(昭和20年)3月頃に
戦争により焼失するまで、中城村の行政の中心となっていた。

駐車場から管理事務所に向かう途中、中城城(なかぐすくじょう)の
城壁の一部が見えた。


9時50分、中城城跡に到着する。
中城城跡案内図を見る。
東西に長く、郭が並んでいるようだが、何しろ初めてなのでよく分らない。
世界遺産だし、城内各所に説明板くらいはあるだろう。
と気軽に考えていたが、これが甘かった。


9時59分、チケット売り場で観覧料400円/人を購入。


登城口は坂道になっている。
いきなりの坂道に、『ここは歩くしかないな』と歩き出そうとした時、


かみさんたちがカートに乗り込んで、早く乗るようにと促された。
無料で上まで運んでもらえるのだそうだ。
拝観料に含まれているのかも・・・
せっかくなので、カートに乗ることにした。


カートは1分足らずで世界遺産の碑前に到着し、ここで下された。
距離にして、150mほどだった。
2000年12月2日、中城城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、
ユネスコの世界遺産リストに登録された、とある。
日本100名城にも選定されている。


世界遺産碑の脇に城跡の模型があった。
右側(北東)から左側(南西)にかけて、石垣で築かれた連郭式の城域だ。
右側から三の郭・二の郭・一の郭・南の郭と郭が連なっている。
中城城跡の最大の特徴は、数多い沖縄のグスクの中で、
最も多くの遺構がほぼ原形のまま残されているということ、のようだ。


石段の先に、三の郭の東側の城壁(石垣)が見える。


三の郭は、新城(ミーグスク)とも呼ばれる。
1440年に座喜味城から移ってきた、護佐丸が増築したと考えられている。


三の郭の石垣は、石を五角形や六角形に加工して、


「相方積」(亀甲乱れ積み)という積み方で築かれている、とのこと。


三の郭の前の広場は、記念運動場になっている。


広場から中城湾を望めるが、この日はあいにく曇っていて、
遠くまで見通すことは出来なかった。


広場の一角に下へ下りられるような石段があったが、
ロープが張られ通行禁止の札が立っていた。
「与喜屋ノロの墓」へ通じる入口ではないかと思われる。


東に向かって建てられた裏門
北の郭から三の郭へと通じる拱門(アーチ形の門)である。


ペリー探検隊一行がエジプト式と評した裏門の精巧なアーチ形が美しい。


10時12分、裏門を潜ると北の郭へ出た。
北の郭の左奥は三の郭へと続く石段がある。


北の郭側から裏門を見たところ。
しっかりとした造りの門だ。


裏門の左側には、北の郭のアザナ(物見台)がそそり立っている。
石垣の先端が反り返った相方積みの城壁である。


急な石段を上って三の郭へ。


三の郭へ上ると、右手に琉球石灰岩で積まれた二の郭の高い城壁が聳える。
迫力ある造りに圧倒される。


向かって左側の城壁
布積み(豆腐積み)と呼ばれる技法が用いられている、そうだ。
思わず見惚れてしまう。


こちらは向かって右側の城壁
城壁の角の先端が反り返っているのが特徴だ。


三の郭の広場から二の郭の城壁全体を望む。
築城技術を見て、幕末に訪れたペリー艦隊の島内探検隊がその美しさや堅固さを
絶賛したと伝わる。


三の郭の広場と城壁


三の郭の城壁には石段があるが、上には行けない。


10時18分、三の郭を後にして、北の郭へ。


北の郭の城壁からの眺望
右手に先ほど潜って来た裏門が見える。


北の郭の城壁からの眺望
挟間が設けられている。


ウフガー(大井戸:番所井戸)の案内標識が。


石段を下って行くと・・・


ウフガー(大井戸)があった。
西の郭には夫婦井戸と呼ばれる二つの井戸がある、そうだ。
ウフガーは、別名バンジュガー(番所井戸)とも呼ばれている。
もともと城郭の外側にあった水場を、護佐丸(1440~1458年居城)が、
城内に取り込むため北の郭を増築して井戸を造ったと考えられている。


この井戸はバンジュガー(番所井戸)とも呼ばれていることから、
一の郭に番所が置かれていた頃に造られた石積みではないかと考えられている。
城郭内に水を確保していることが、この城の特徴でもある、そうだ。
井戸の周辺ではひんやりとした冷気を感じた。


北の郭へ戻り、


二の郭・一の郭・西の郭へ通じる門を潜る。


西の郭へは立入禁止になっていた。
西の郭は諦めて、


順路に従って二の郭・一の郭・南の郭方面へ。


階段を上ると、


10時24分、二の郭の広場に出た。


二の郭から見る一の郭の城壁
二の郭の城壁と同様、布積み(豆腐積み)と呼ばれる技法が用いられている。


二の郭の広場
三の郭の広場より少し広い感じだ。


二の郭の城壁へは石段があり、上れるようになっている。
城壁を歩いてみよう。


二の郭の石積みは、布積みという技法で積まれている。


城壁の曲線が美しい。
本土の城の石垣とは異なり、一際目を引く。


城壁から見た二の郭の広場
正面に見えるのは、一の郭の城壁である。
手前の石碑は日露戦争の忠魂碑


二の郭の城壁から三の郭を見下ろしたところ。
三の郭前の記念運動場も見える。


二の郭の城壁から中城湾方面(太平洋)を望むこともできる。


二の郭の城壁上を一周し、一の郭へ。


一の郭へ通じるアーチ門
ペリー探検隊一行が称賛したと言うのも頷ける。


10時31分、アーチ門を潜ると、中城城で最も広く最も標高が高い一の郭に出た。
一の郭は正殿跡があった場所である。
歴代の先中城按司や中城按司「護佐丸」が居城していたと伝えられている。
ここは、中城城の中心にあり、政(まつりごと)を執り行っていた建物が
建っていたと考えられている。
(注:沖縄のグスクには、本土の城にあるような天守閣は存在しない、とのこと)


護佐丸滅亡後は、中城の地が琉球国王の世継ぎである中城王子の所領となり、
17世紀前半にはこの場所に間切番所(まぎりばんじょ)が置かれ、
明治期には琉球の日本併合とともに番所は役場と名を改め、
1945年4月の沖縄戦で焼失するまで、同地は中城の行政の中心地として
長い期間使用されていた、とのこと。


後に建てられた間切番所(まぎりばんじょ)は、廃藩置県後は
中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失した、そうである。
一の郭の正殿付近から今潜ってきたアーチ門を見る。


城内には、各所に拝所が見られる。
城内には八つの御嶽があるという。


一の郭にも2つ拝所があり、これはそのうちの一つ。
拝所:中森ノ御イベ(通称:着替御嶽:ちげーうたき


一の郭から、拝所及び二の郭へ通じるアーチ門方面を望む。
城壁の曲線が美しい。


一の郭には観月台がある。


観月台からの眺望は素晴らしい。


観月台からの眺望


沖縄成田山福泉寺


まるで廃城のような不気味な建物だ。
最初に遠目に見た時は、中城城の一部かと思った。


中城湾に面して石油備蓄タンクが見えるが、何かの工場?だろうか。


一の郭の西側城壁前には、解体工事のためか、
番号と数字の書かれた石が並べられていた。


南の郭へ通じる石造拱門(アーチ形の門)は、既に解体工事は終わっていた。


10時39分、門を潜った内側から南の郭の拱門を望む。
アーチ形に石を組んだこの形式の門はグスクの特徴ともなっている。


拝所・雨乞いの御嶽


拝所:小城ノ御イベ
南の郭にある聖地久高島への遥拝所(通称久高遥拝所)


南の郭


御當蔵火神(通称:首里遥拝所)


南の郭の城壁に残る穴は、火矢のための挟間だった、と考えられている。
鍛冶屋や西の郭近くから、金属弾や石弾が見つかっている、そうである。
種子島に鉄砲が伝来するより約100年も前のことと言うから、驚きである。
琉球は、唐や明と貿易をしていたことから、武器先進国だった中国から
火器を容易く手に入れることが出来たと考えられる、とのこと。


10時43分、南の郭から正門へ


正門は、首里城に向かって開かれ、かつては石造りの門の上に
木造りの櫓が乗っていた痕跡がある、そうだ。


正門の正面(首里城方面)から見たところ。
後ろに見えるのは、修理工事中の一の郭の西側城壁だ。


正門の前に「史跡中城城」の碑が建てられている。


正門正面から全体を望む。


順路に従って鍛冶屋跡へ。


10時46分、坂道を下ると、広場に出た。


右手に見えるのは、アメリカ統治時代の不良債権の残骸?
心霊スポットでもあるらしい。


広場の左手に回ると鍛冶屋跡(カンジャーガマ)が。


鍛冶屋跡(カンジャーガマ)
鍛冶を行っていた所と云われているが、城のためか集落のためか定かではない。
一説によれば護佐丸か阿麻和利に備えるために武具を作っていたとも伝えられている。


10時49分、鍛冶屋跡を後にして、入口へ戻ることにした。
途中に世界遺産の碑が建てられていた。
最初に見た碑と同じである。


左側が戻りの道だ。


戻りの道は、舗装されている。


ハイビスカスが咲いていた。


10時56分、城の入口に到着
およそ1時間の城内散策だった。
かみさんたちは、とっくに到着してゲームに夢中な様子だった。


この後、歴史的建造物(民家)で、国の重要文化財に指定されている、
中村家住宅に立ち寄った後、首里城へ向かった。


ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城巡り No.98 今帰仁城

2017年02月19日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年2月19日(日)

沖縄本島北部の丘陵上に位置する今帰仁城(なきじんじょう)を訪問した。

今帰仁城は、別名を今帰仁(なきじん)グスク、北山城(ほくざんじょう)と言う。
14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。
今帰仁城の創建は、明確ではないが、13世紀末から14世紀初めにかけて造られ、
14世紀前半頃に古期石灰岩を利用した石垣が積まれ、15世紀前半には
城域が拡張されて、主郭(本丸)・大隅・志慶真門郭(しげまじょうかく)など
10の郭からなる現在の姿になったと考えられている。

記録では、1383年に怕尼芝(はねじ)が今帰仁城主になり、その後3代にわたり、
北山王を名乗ってこの地を統治した。
琉球全土を統一しようとした中山王尚(しょう)氏の攻撃にも耐えたが、
調略によってついに1416年に城は陥落。
尚氏のものとなった城は、慶長十四年(1609)、薩摩軍に攻められて炎上、
廃城となった。
その後も城は聖域・拝所として存続した。

自分の予備知識としてはこの程度で、
沖縄の城を訪問するのは、もちろん初めてである。

先ず「今帰仁村グスク交流センター」の券売所で観覧チケット(400円)を購入する。


城跡入口の看板の先に、


今帰仁城跡屋外模型があった。
城跡には1.5Kmにも達する壮大な石垣が当時のまま残っている。
南北350m、東西800m、面積37,000㎡。
県内最大級の城(グスク)として名高い。
平成12年に世界文化遺産に登録されている。


順路に従って城跡へ。
前方に低い石垣が見えて来る。


外郭と発掘された建物跡
高さは2m前後と比較的低い石垣が延長数百m蛇行して続いている。
2007~2010年の発掘調査で、規模の大きな石造りの基壇と呼ばれる
石積み遺構が確認された。
基壇の上には木造の建物が建築されたと考えられるが、
建物の礎石などが失われていたため、建物の規模は分かっていない、そうだ。


城内の郭の中でも基壇や石積みが多用される建物は主郭や大庭、御内原など
城内中枢部に限られることから、ここに建てられた建物は重要な機能を担った
建物と推定されている。
発掘で見つかった建物跡の年代はおおよそ16世紀頃と考えられている、とのこと。


炉跡を伴う堀立柱建物跡
平成19~20(2007~2008)年の調査で炉跡とそれに伴う堀立柱建物が確認された。
炉の最下層から多くの炭化種子(イネ・ムギ・アワ等)が確認されたことから、
調理の際に使用された食に関わる遺構と考えられる。
この場所(外郭)は、台所として使用されていたものと考えられる、とのこと。


大隅(ウーシミ)の城壁


古期石灰岩を使用した大きくカーブした城壁は圧巻である。


「大曲り」の城壁
本土の城とは明らかに異なる曲線だ。


大隅の城壁をバックに記念撮影
快く撮ってくれたのは台湾からの観光客だった。


平郎門入口でチケットの半券を渡し、


平郎門を潜る。
平郎門の名称は、1713年に編集された『琉球国由来記』に
「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場する。


1742年に描かれた『今帰仁旧城図』の史料にはこの場所が本門として記されている。
2つの史料から今帰仁城の重要な門がこの門で、平郎門と呼ばれていたことが分かる。
現在見る門は昭和37年の琉球政府時代に修復されたもの。
銃眼を設けた石造りの門が特徴である。


平郎門を潜ると、その先の大庭へと続く石階段(戦後に造られたもの)の左右に
カンヒザクラ(寒緋桜)の並木がある。


別名ヒカンザクラで、花色は濃い桃色、全国で最も早く1月中旬には開花する。
毎年1月~2月には桜祭りが行われている、そうだ。
訪れた時(2月19日)は、満開を過ぎたばかりと思える状態だった。
一見桃の花か紅梅のようにも見えたが、間違いなく桜だった。


寒緋桜の並木が続く。


右手に旧道入口があった。
平郎門から直線的な石階段は、1960年代に整備された階段である。
本来の登城道は、平郎門から城内に向かって石階段の右手側にある。
(旧道については、後述する)


石階段の左手に大隅(ウーシミ)への入口があったが、
現在、立入禁止になっている。
大隅は、かつて、戦時に備え馬を養い、城兵達の訓練場であったと伝えられている。
また、ここには城外に抜けることができる抜け穴(洞窟)がある、そうだが、
金網で塞がれていて中に入ることはできない、とのこと。


寒緋桜の並木を大隅辺りから平郎門方面を見たところ。


寒緋桜の並木を上って行くと、大庭(ウーミャ)と呼ばれる場所に出る。
大庭を取り囲むように正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が配置していたと考えられ、
行事等に利用された重要な広場である。
(周囲の景色を見渡しているうち、撮影する機会を逃してしまった)

大庭の一角に歌碑が建てられていた。
志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑
今帰仁の城 霜成りの九年母(くにぶ) 志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
およそ次のような意味だそうだ。
今帰仁城にようやく世継ぎが誕生した。
霜が降りるころ、つまり季節はずれに実ったみかんのようだ。
志慶真乙樽はこどもをあやして遊んでいる。
みかんを輪にして、首にかけたり、はずしたりしている。


ソイツギ(城内下之御嶽)
今帰仁城内には御嶽(ウタキ)のイベ(最も聖なる場所)が2つある。
大庭の北西にあるソイツギは、『琉球国由来記』(1713年)に「城内下之御嶽」、
神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧暦8月のグスクウイミという祭祀の時、
今帰仁ノロが五穀豊穣を祈願する。
御内原にあるテンチジアマチジ(城内上之御嶽)や神ハサギ跡とともに
祭祀場として拝まれる、とのこと。
ちょうど男性がお祈りをしており、その横で女性が三線を奏でていた。


北殿跡の北側の一段高いところを御内原(ウーチバル)と呼んでいる。
御内原は、今帰仁城に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、
城内で最も重要な御嶽(ウタキ)のイベがある。
御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて
今帰仁城の大隅の城壁の全てを望むことが出来る。


御内原跡からは今帰仁の集落と東シナ海が一望できる。
手前は大隅
戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられている。


御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて
今帰仁城大隅の城壁の全てを望むことが出来る。


御内原跡からの眺望(パノラマ画像)


テンチジアマチジ(城内上之御嶽)
御嶽(ウタキ)とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、
神が存在、あるいは来訪する場所のことである。
テンチジアマチジは御内原の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽である。
最も神聖な場所とされ、昔は御内原とこの区域は男子禁制で、城内の女官によって
子孫繁栄・国家安泰・五穀豊穣を祈願したと伝えられている。


大庭から志慶真門郭(しげまじょうかく)を望む。


大庭の主郭(俗称本丸)へ。


主郭に設けられた展望台


主郭展望台から志慶真門郭(しげまじょうかく)を望む。
曲がりくねった城壁が眼下に一望できる。


主郭(本丸)
城内で最も中心的な建物があった場所である。


主郭にある火の神の祠
この祠は、「今帰仁里主所火の神」と呼ばれ、第二尚氏時代の
北山監守一族の火の神が祀られている。
北山監守は1665年に首里に引き揚げるが、かつての根所(旧宅地)の
火の神として崇められてきた。


旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人が城ウイミの祭祀を現在も行っている。
祠の中には香炉と火の神を象徴する石が置かれており、今でも門中の行事である
今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えない、そうである。


志慶真門郭(しげまじょうかく)へ。


志慶真門を潜ると、


正面にクバの御嶽が現れる。
今帰仁城の西にある古生代~中生代の石灰岩からなる丘陵である。
琉球の時代から続く聖地で、地元ではウガーミと呼ばれる神域で、とのこと。


右手には主郭の高い石垣が続いている。


左手に志慶真門郭への階段がある。


この郭は、志慶真門郭と呼ばれている処で、城内で最も東に位置する郭である。
ここには城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられる、そうだ。


志慶真門郭は昭和55年度~57年度に発掘調査が実施され、
志慶真門郭と大庭(ウーミャー)との通路石敷が確認されている。


発掘調査で4つの建物があったことが分かった、そうだ。
建物は6m x 6m、あるいは4m x 5m程度の規模で中に炉跡が見つかっている。
瓦が出土していないことから、茅か板葺き屋根の堀立柱建物だったと考えられている。
出土遺物には武具類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、
「家族単位」の生活が営まれていたと考えられている、とのこと。


石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法がなされている。


志慶真門郭から主郭(本丸)の城壁を望む。
志慶真川に面して築かれた城壁がそそり立つ様は壮観である。


志慶真門郭を後にして、主郭に戻る。
旧道の近くにカラウカーと呼ばれる所があった。
カラウカーは、常時水をたたえている場所で、かつて女官たちが髪を洗ったり、
水量で吉凶を占ったりした場所と伝えられている。
旧暦7月盆明けに行われる今泊区の大折目の際には、
今帰仁ノロ率いる神人たちが巡拝する場所となっていた、とのこと。


旧道(下り口)
1980年代の発掘調査によって石敷きの小道が発見された。
曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、防衛機能上幅は狭く急な小道となっている。


大きな岩盤の谷間を利用して道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても
大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないよう工夫された造りになっている。
岩だらけの下り道は歩き難いことこの上ない。


旧道を下る時に見えたカーザフ
城内でも一段と低い所で、カーは川や湧泉を、ザフは迫で谷間を意味する。
ここの谷間は自然の石が露頭しており、岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、
かつての城壁として鉄壁を誇ったものと想像されている。


旧道を下って行くと、寒緋桜の並木道の旧道上り口に出た。


寒緋桜の並木道の先は、平郎門となる。


平郎門の脇に今帰仁城跡碑があった。


外郭の外れにミームングスクがあるとのことなので、行ってみることに。


今帰仁ノロ殿内火の神の祠と書かれた標識があった。
かつて今帰仁ノロの居住地であったとされ、現在は火の神が残されている。


ハンタ道
現今泊集落から今帰仁城への里道は「ハンタ道」と呼ばれている。
この道は今帰仁城が城として機能していた頃の登城道として利用された
歴史の道である。
ハンタ道のハンタとは崖を意味する。
今帰仁城の東側を流れる志慶真川は、深い谷になっていて、断崖絶壁が続く。
そこから、ハンタという名前が付けられた、そうだ。


ハンタ道を下って行くと、
「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」があった。
ノロとは琉球国の神職で、琉球王国統一後は首里の印が押された辞令書が発行され、
ノロが任命されていた、そうである。
今帰仁ノロは今帰仁・親泊・志慶真ムラの3つのムラの神役を統率して
今帰仁城内及び城跡周辺の聖地で年中祭祀を司祭していたノロである。


祠の内部
コンクリートブロックの上に香炉が3つ並んでいた。


薄暗いハンタ道を下って行くと、


別の祠があった。
「供のかねノロ殿内火の神の祠」である。
今帰仁ノロの次位神役で、「供の」は「お供(従者)」の語意と解されている。
この祠は別名「下の殿」と呼ばれる。
現在は、他の拝所と同様に祠だけが残るが、
ノロ屋敷の旧宅であったと考えられている。


少し広い道に出た。
ハンタ道は右の方へ案内されている。


70mほど進むと、ミームングスクへの案内標識があった。


進んでみると、岩が無造作に積み上げられたような状態になっていた。


ミームングスクは今帰仁城の出城ではなかったかと考えられている。


高さ約1.5mの石積みが方形状に積まれている、とのことだったが、
かなり崩れている状態で、原形を留めていない。


模型のミームングスクとはかなり異なる。
修復が必要ではないかと思われるが・・・


ミームングスクからの帰りは、ハンタ道とは別の道を通った。
「阿応理屋恵(あおりやえ)火の神之祠」の案内標識があった。
今帰仁城跡周辺には3つの火の神の祠があるようだ。
①「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」
②「供のかねノロ殿内火の神の祠」
③「阿応理屋恵火の神の祠」
今帰仁城のすぐそばには、ノロが3人いたことになる。


阿応理屋恵ノロは国頭地方全体を管理するノロで、
今帰仁ノロや供のかねノロより上位の役職らしい。
今帰仁ノロが地方公務員なら、阿応理屋恵ノロは、
国家公務員ということになる、そうだ。


「阿応理屋恵火の神の祠」の内部


「今帰仁村歴史文化センター」
今帰仁城の入場券の半券で入ることができる。
今帰仁城跡から出土した出土品の展示や今帰仁村の歴史に関する企画展を行っている。


最初に観覧チケットを購入した「今帰仁村グスク交流センター」で
念願の今帰仁城の「100名城」スタンプを押した後、古宇利島へ向かった。
沖縄の「100名城」中城城・首里城は翌20日を予定している。

ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城巡り No.1 根室チャシ跡群

2016年08月01日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2016年8月1日(月)

チャシ跡は、アイヌ文化期(13~19世紀)の砦跡とされているが、チャシ跡の築造は、18世紀頃までとされている。
砦の他にも見張場・聖地・祭祀場などの使われ方をしたようで、その規模や形状はさまざま、そうである。

北海道内には500ヵ所以上のチャシ跡が確認されている。
特に道東地方はチャシ跡の分布密度が高く、根室市内にはチャシ跡が32ヵ所現存している。
その殆どがオホーツク海を臨む海岸段丘上に造られている。
根室半島のチャシ跡群は保存状態が良好なこと、分布密度が高いこと、寛政元年(1789)の
和人のアイヌ民族に対する非道が発端の「クナシリ・メナシの戦い」と関連性が高いことから、
根室半島に分布する24ヵ所が、「根室半島チャシ跡群」として、昭和58年に国指定史跡となっている。
根室半島のチャシ跡群分布図


日本100名城ガイドブックの他には何も資料を持ち合わせていないため、
前日、スタンプ押印も兼て「根室市歴史と自然の資料館」を訪れることにした。
ガイドブックには「根室市歴史と自然の資料館」の住所は記載されておらず、
電話番号を頼りにNAVIに入力すると、花咲港中央付近が案内された。

花咲港近くの大八カニ店から「根室市歴史と自然の資料館」へ直接電話して、場所を教えて貰った。
電話では直ぐ近くのようだったので、歩いていけると考え、指示に従って進むことにした。
これが意外に遠かった。
指示どおり近くに花咲港金刀比羅神社があった。


金刀比羅神社から少し先の坂道を上って行くが、それらしき建物は見当たらない。


場所を間違えたのではないかと、少々不安になった。
深い霧の中、急坂の道を上って行くこと約400m、


ようやく「根室市歴史と自然の資料館」に辿り着いた時には、体中が汗だくになっていた。


「根室市歴史と自然の資料館」でスタンプを押印し、パンフレットを貰った。
パンフレットには、ヲンネモトチャシ跡とノツカマフ1・2号チャシ跡の説明や、
クナシリ・メナシの戦いとチャシ跡の関係など、日本100名城ガイドブックには
記載されていない情報が載っていた。
これらの情報を元にチャシ跡を訪れることにしよう。


大八カニ店に戻り、今夜のつまみに花咲蟹を購入。
花咲蟹がたっぷりと入ったカニ炒飯もお薦めらしい。
NHK-BS3の”心たび”で日野正さんが美味しそうに食べていたのを思い出した。
カニ炒飯は、実際に大変美味しく孫にも好評だった。


花咲蟹が美味かったのは言うまでもない。


翌日(8月1日)、先ずは納沙布岬を訪れることにした。
納沙布岬へ向かう途中、根室市街地(西浜町)の近くの岬にチャシ跡らしきものが見えたが、
これは、日本100名城ガイドブックに記載されているアツケシエト1号2号チャシ跡だろうか?


納沙布岬灯台
北海道灯台発祥の地で、本土最東端の灯台である。
日本で一番早く朝日が昇る。


本土最東端納沙布岬の標柱を前に孫と記念撮影


納沙布岬には、北方領土の返還を求める標柱が多い。
”呼び返そう 祖先が築いた 北方領土”


”返せ 全千島 樺太 北の防人”
全ての日本人の願いが込められている。


北方館の建物には、”北方領土は日本の領土”と書かれている。


四島返還を求める碑には、”四島のかえる日平和の日”が英語で併記されている。


四島のかけ橋の碑


聖火のように赤々と灯が燃えている。
四島が返還されるまで絶えることなく燃え続けるのだろう。


四島のかけ橋には、次のように刻まれている。
四つの島がしっかり支え合っているこのシンボルは、歯舞・色丹・国後・択捉島の祖国復帰をひたすらに願う
全国民の祈りを込めて、建立されました。
みなさんとともに、わが国固有の領土であるこの島々が祖国に還る日を、力強く祈念しつづけましょう。


北方館の前に寛政の蜂起和人殉難墓碑が建てられていた。
「根室市歴史と自然の資料館」で入手したパンフレットにも記載されている。
「墓碑裏面には、和人の視点からアイヌ民族が不意に襲って来たとあるが、
和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と事実は異なる」
との記述がある。


墓碑表面:横死七十一人之墓
(不慮の死を遂げた七十一人の墓)


墓碑裏面には、
寛政元年五月に、この地方の凶暴なアイヌが集まり、突然反乱を起こした。
偶然居合わせた侍や漁民、合計七十一人が殺された。その姓名の記録は役所にある。
ここに合わせて供養し、この碑を建てる、と刻まれている。
和人を殺害したアイヌ民族37人は、ノッカマップに連れてこられ処刑された、そうである。


墓碑側面には、文化九年歳在壬申四月建
(文化九年四月に建てる)と刻まれている。


日本100名城ガイドブックには、根室半島の概略地図と、チャシ跡名が記載されている。
そこで、記載されていた納沙布岬近くのポンモイチャシ跡を探した。
地図で示された辺りの景色だが、ここがポンモイチャシ跡かどうかは定かではない。


標識などは何もなく、残念ながらポンモイチャシ跡を見つけることは出来なかった。


パンフレットに示されたチャシ跡を求めて、温根元漁港へ向かう。


温根元漁港の近くにヲンネモトチャシ跡の標識があった。


標識に従って進むと、草原に人が歩けるほどの細い道が続いていた。


草原の中を進むと、ヲンネモトチャシ跡の案内板が立っていた。


案内に従って進むと、


温根元野鳥観察舎があった。
海鳥やチシマシギをじっくり観察できるスポット、だそうだ。


野鳥観察舎をさらに進むと、右手に温根元の漁港が見えてきた。


温根元漁港を見ながら進むと、


根室半島チャシ跡群の標柱が建っていた。


ヲンネモトチャシ跡
チャシ跡は平に盛土され、周りを壕が囲んでいる。
深さは2-3m、かつてはもっと深かったのだろう。


小高い所がヲンネモトチャシ跡で、手前の窪んだ所が壕跡である。


ヲンネモトチャシ跡に立って、先ほどの根室半島チャシ跡群の標柱(白い杭のようなもの)を見たところ。
後方には温根元の民家が見える。
手前の窪んだ所が壕跡。


ヲンネモトチャシ跡には先ほどとは別の標柱が建っていた。
チャシ跡から温根元漁港を望む。


ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(1)

ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(2)

ヲンネモトチャシ跡から見た温根元漁港(3)


今度は、温根元漁港からヲンネモトチャシ跡を見てみた。
日本100名城ガイドブックに載っていた写真と同じだ。


岬の先端がヲンネモトチャシ跡で、標柱が見える。


ヲンネモトチャシ跡を後にして、ノツカマフチャシ跡へ向かった。
ヲンネモトチャシ跡から根室市方面へ10Kmほど走ったノッカマップ岬に
ノツカマフ1号・2号チャシ跡の案内標識があった。
小さいながらも車が数台停まれる駐車場もあった。


案内標識に従ってノツカマフチャシ跡へ向かった。


雑木林を抜けると、


広い草原になっていて、細い道が続いていた。


細い道は次第に細くなって、草むらの中を歩く感じである。
この日は霧雨のような雨が降っていたので、ズボンの膝から下はびしょ濡れになってしまった。


ノツカマフチャシ跡の案内板
左側は2号チャシ跡で、1号チャシ跡は右側になっている。


最初に右側の1号チャシ跡へ向かった。
草むらの中を50mほど進むと、根室半島チャシ跡群の標柱が立っていた。
チャシ跡は、16~18世紀ごろ造られたアイヌの砦跡で、当チャシ跡は、
壕が半弧形に横二つ合わさったように掘られている、とある。


ノツカマフ1号・2号チャシ跡の説明板


ノツカマフ1号・2号チャシ跡の周辺地形図
ノツカマフ1号チャシ跡は、半円形の壕が2つ連結して構成されている。
壕の幅は約5m、深さは2-3mと深く、壕の一部に「土橋」と思われる高まりが見られる。
壕の内側は盛土され、チャシ跡中心部は平坦になっている、とのこと。


1号チャシ跡(正面から見たところ)
深くなっている所が壕である。
壕の向うは盛土がされて小高くなっている。


1号チャシ跡(左側の壕)


1号チャシ跡(右の壕)


1号チャシ跡中央部から説明板方面を見たところ。


1号チャシ跡(右の壕)


1号チャシ跡(土橋のある辺りか?)


1号チャシ跡から右方向に小さな港が見える。


1号チャシ跡から引き返し2号チャシ跡へ向かう。


1号チャシ跡から120mほど進むと、ノツカマフ2号チャシ跡の標柱があった。


2号チャシ跡標柱から先端を見たところ。


2号チャシ跡から標柱を見たところ。
左右に窪みが見られるのは、半円形で幅2-3mの壕が巡り、深さ50Cmほどと浅く造られている。


2号チャシ跡の先端は海に面している。


先端から海を見たところ。


ノッカマップ湾の海岸から見たノツカマフ1号チャシ跡
ノツカマフ1号・2号チャシ跡は、ノッカマップ湾に突き出した岬の上にある。


また、オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕が巡る形となっている。


この後、土砂降りとなった雨の中、日本100名城ガイドブックに紹介されていた他のチャシ跡(ヒリカヲタチャシ跡)を探したが、
残念ながら標柱も含めて見つけることはできなかった。
根室半島を後にして、知床方面へ車を走らせた。

ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする