年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

埼玉県文書館へ再び

2020年01月16日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の昭和18年9月の新聞記事の確認で浦和駅で降りて再び文書館へ行く。朝は雨模様だったので誰もいない。スマホに撮った前回の記録の照合をした。
 昭和18年9月8日の毎日新聞の埼玉版は二種類あって、浦和版と草加版で一日二枚ある日もある。鮮明でコピ-しやすい日を複写する。文書館は二階にあるが一階が埼玉県立熊谷図書館の浦和出張所なので、朝日新聞と読売新聞埼玉版の所在を確認する。朝日の埼玉版は戦後から、読売は昭和の初めからマイクロフィルムで熊谷にありそうだ。
 文書館での記事の確認で、昭和18年9月30日の埼玉師範学校の繰り上げ卒業生139名の辞令が載っていた。叔父は今の東武日光線の大袋駅付近の学校のようだ。
縮刷版の新聞は虫眼鏡でも印字が不明で苦労する。
 
 
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座る所のないタワマン・ムサコの中原図書館

2020年01月15日 | 宅老のグチ
南武線の武蔵小杉駅途中下車でタワマンの中間層にある川崎市立中原図書館へ朝日新聞の昭和18年9月の記事を見に行く。昔の中原図書館は付近の人で混んでいたがタワマンではビジネスとか学生で椅子が占領され、読むべき席なし。
 昔は良かった。
これなら都立中央図書館の方が良かった。中原図書館は駅から近いし、無料で勉強できる施設という感じ。
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ずっと好きだったwin7

2020年01月14日 | 宅老のグチ
今日1月14日でwin7のサポ-トが終わる。10は個人的には慣れないし。年寄りは保守的で現状維持が好き。

笠間の海軍飛行場跡を訪問する。どうやらここも遺跡となりそうで風化を恐れる人たちによって、戦後直した部分を元に戻すための資金を集めている。1000万円以上集めたい様だ。戦後75年。心の風化は止まる気配がある。この施設を見学していた老人が旧軍事施設を巡る旅を始めるという。今生きている人は戦死した人たちの記録を残さないと申し訳ないという気持ちがあるようだ。加害の部分もあるだろう。で過去の記録がないと対処の仕様ができない。不都合なぶぶんは心の記憶と記録を消す。
 2月11日から16日まで銀座で知覧の遺書が公開される。この頃疑問に思っていることを聞きたい。
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認知症の医者を見て

2020年01月13日 | 宅老のグチ
母がかなりの認知症だが99歳ということで納得している。ただデイサ-ビスで近年孤立しているようだがその中身が不明だった。 TVで初めて母の孤立を想像できた。母は金銭的に自立しているのいわゆる老女の愚痴会には参加できないようだ。
 今は専業主婦の時代だが20年もすれば女性も働く時代となり、生き残りの多い老女会で社会知識が足りないで孤立するかもしれない。
 老人の堂々巡りの会話はボケなければ付き合えない。
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一族の星

2020年01月12日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
野田郷土誌 佐藤真著 野田市著図書館所蔵
(東葛飾)群立乙種野田農学校。大正10年4月15日開校。学校の建設費用とか敷地は野田醤油(株)[現在のキッコ-マン(株)]の寄付が多大だった。初期の生徒数は125名で埼玉・茨木県から通学する者も11名あった。大正12年郡制度が廃止となって県立となり、それまで乙種であったものが昭和4年甲種となり、野田農工学校となった。戦後野田高等女学校と野田農工学校が統合し、野田高等学校となった時もあったが分離され、普通科は野田高等学校・農業工業系は清水高等学校となった。叔父が通ったのは野田農工学校で父はまだ付近に通う学校が無かったため、高等小学校卒の学歴しか無かったと女学校出の母は自慢げに話していた。
今から思うと当時の主な産業は農業で千葉県の中では野田市は醸造業の盛んなところで、食品化学とか醸造機械の知識が必要なところだった。江戸川を下れば江戸に着く地域性があって、醤油関連産業の人脈が野田と江戸東京を結んでいた。父が本所区厩橋の陸軍御用の漬物商人黒川屋本店に勤めたのはこのような関係だと思われる。ここで父は奈良漬・福神漬の製造知識を得たと思われる。特に醤油を使う福神漬は戦後の品評会で賞をもらった時の喜びを母は嬉しそうに話していた。今床の間にその時の記念の金属製の花瓶がある。
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野田農工学校の資料を求めて

2020年01月11日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
千葉県野田市は醤油の町である。商店街は昔のようではないが中心のところに文化施設がある。その中に図書館がある。平日のほぼ無人に近いところで千葉県立清水高等学校60年史を出してもらう。かなりの卒業生の戦中の記録があった。
 多くは戦争に派遣されなかった人たちの記録でそれでも当時の野田市周辺の事情が分かる。農業系の生徒は北海道に耕作に行き、工業系の生徒はキッコ-マンの工場で労働したようだ。戦後学校は千葉県立清水高等学校となり、農業系の学科は昭和39年頃に消えた。今は食品化学の学科が残るが後は工業系の学校である。
叔父が卒業した時期はモノ不足で埼玉師範学校でも農業を教えていて、学校教師を目指していたののだろうか。
 東武野田線の江戸川に架かる橋を描いた絵を川辺小学校に残して特攻に行ったという言い伝えがある。この絵の意味は歩いて農工学校まで行ったということとかも知れない。学校行事で野田市から二重橋を見るため歩いて行った記録がある。帰りは電車のだった。埼玉師範学校も浦和から二重橋で皇居遙拝後歩いて戻ったという行事があった。
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小学校の校庭にある戦争の記念碑

2020年01月10日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻に行った叔父が卒業した春日部市立川辺小学校に行った。教頭先生に案内され校庭の隅にある戦争の記念碑を見る。日露戦争と大正年間の記念碑のようだった。
目的は叔父の最後の写生がまだ残っているかということと、特攻に行く前に川辺小学校上空を低く飛びあいさつして消えていったという。記録から昭和20年2月の終わり頃だろう。5月20日に台湾から沖縄へ特攻した。
 教頭先生の情報では今の小学校の先生の半分くらいは埼玉大学教育学部出身で先輩である叔父がこの小学校出身で戦死した記録は知らないだろう。埼玉師範学校から陸軍特別操縦士官の試験に10人が合格したことが埼玉地方版の毎日新聞9月8日号に出ている。一名は陸軍・海軍にも合格しているが多分海軍を選択したと思われる。叔父の名前は新聞記事になくこの時点では不合格だったようだ。この日の陸軍・海軍の試験に合格した人を除くとすべて戦後に教職となった。精査しなければならないのだが師範学校から戦場に行った140名中戦死等によって昭和25年の同窓会記録には18名ほど記録がない。師範学校から海軍へ行った人の方が戦死者は多い。不合格だった叔父はどうして合格になったのだろうか。視力が1.5あったためなのだろうか。欠員が出たからだろうか。遺書はないので想像しかない。
 飛行機の士官に応募した学生は師範学校生徒が多かったと思われる。靖国神社の図書館で特操の件を聞いた時、学歴を聞かれたのは師範学校出が特攻には多いのだろうか。
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飯島虚心・半十郎

2020年01月09日 | 宅老のグチ
飯島虚心(半十郎)
この名前を知ったのは河鍋暁斎美術館で館長から、暁斎の交友などの文献コピ-をもらって一番気になった人物だった・団団珍聞の投書家で上田花月という人物がいる。投書名が多数あって虚心かもしれないと思って検索するとどうやら異なり戊申戦争の最後で降伏した旧幕臣のようだ。
 福神漬の文献の人物と河鍋暁斎の交友記録が重なる部分が多い。梅亭金鵞(瓜生政和)と飯島虚心は河鍋暁斎の評伝を書いている。梅亭はどちらかというと暁斎の絵を重点的に書いてあって、虚心の方が子孫の美術館館長の評価が高い。
 飯島虚心の解説で明治の25年頃まで日本人による浮世絵の評価が低く、かえって欧米人の方が評価が高かった様だ。この明治の20年代は鹿鳴館などを作った極端な欧化主義から日本文化の良さを見直す時期がとなった。
 明治の20年代に河鍋暁斎・梅亭金鵞も死去した。そして明治憲法発布までの空白期の研究者は少ない。
 上田花月(飯島保作)は信州上田出身・第八十二銀行創設者の一人。彼の収集した書籍は上田市立図書館に所蔵されている。
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埼玉文書館へ再び

2020年01月08日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
1月6日訪問し、休館だった埼玉県の公文書を保存公開している文書館へ再び7日に訪問した。初めてなので要領を係の人に聞いて又入館カ-ドを作った。無料とのこと。前日ネットで調べた(埼玉師範学校男子部同窓会発行・会員名簿・昭和25年1月現在)を出してもらった。すでに叔父は特攻死しているので名簿に載っていないかもしれないと思いつつ、少し時間が経って紙袋に入った状態で出てきた。この昭和の初めから昭和30年頃は紙の品質が悪く、出されたとき係の人から貴重書のような説明があった。
 昭和16年頃からの名簿に戦死した地名とか、戦病死とかの記載が目立った。戦後教員となった人は勤務先の学校が記載されていた。どうやら勤務先にない人は〇印があって死亡、もしくは行方不明のようだった。昭和18年9月に繰り上げ卒業となった、国立埼玉師範学校卒業生140名の名簿が出てきて、叔父の名前の上に〇印があった。数えると約18名が〇印があって勤務先が不明だった。多分戦死したのだろう。
この名簿が出てくるまで、文書館で開架のところにあった埼玉新聞を眺めていたら、肝心の昭和18年7月から9月にかけて欠損している部分があって当時の状況が不明だった。あとでこの件に質問すると毎日新聞埼玉県版の記事を出してもらったところ、昭和18年9月8日の記事で(学園に歓喜の渦)として埼玉県の学校から陸・海鷲合格者決まるという記事を見つけた。埼玉師範学校から10名の陸軍特別操縦士官の名前があった。しかし叔父の名前は無かった。また海軍には浦和高校2名で師範学校は24名合格だったようだ。従って少なくとも師範学校から10✙24✙叔父で35名以上の卒業生が死の危険性のある軍務に応募し、合格した。139名の9月卒業者の35名はどう考えるとよいのだろうか。1名は9月には卒業していないで遅れて卒業した人もあるようだ。
 叔父の名前が漏れたのはなぜなのだろうか。このことから親族に伝わる一時川辺小学校で教師をしていたということと繋がるのだろうか。
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新年早々のミス

2020年01月07日 | 宅老のグチ
1月6日なら御用初めで官公庁は始まりだと思って確認せず、埼玉県の公文書を公開している文書館へ行った。浦和駅から歩いて15分ほどで県庁の真後ろにある。文書館は閉まっていた。思わず(シマッタ)と思い、急遽西川口の河鍋暁斎記念美術館へ行く。ここはすでに3回は入っている。暁斎の子孫が公開している美術館で規模は小さいが絵より文献を探しているので学芸員に頼み、資料を探す。
 河鍋暁斎画談の著者瓜生政和は別名梅亭金鵞で福神漬の命名者で共通している人脈があって、資料の少ない明治前半期の少ない手がかりを探していた。そしたら和服姿の館長が戻ってきて、瓜生政和の件を訊ねると逆にまだ誰も調べていないので調べてくださいと言われた。そこで調べている事情を話した。偶然予定なしの雑談だった。その後交友関係のコピ-をもらい、日暮里で下車。ここもミスした。福神漬顕彰碑のある浄光寺は西日暮里駅の後ろで日暮里駅は谷中だった。諏訪台通りを戻り、途中冨士見坂と案内があるところで富士を探すがビルによって見えない。浄光寺で写真を撮ったが以前訪問した時から顕彰碑の位置が変わったように思える。気のせいかの知れない。地震と台風で動かなければよいのだがとにかく大きい。
 その後鶯谷駅を目指すがラブホテル街で道に迷い、風俗案内所めぐりとなった。目的は根岸のことを調べている喫茶店を探すことだが後で探すと少し捜索のところが違っていた。昔関西で働いていた時、ラブホテルに納品していたので、あの目的がないのにうろつくことは平気である。
 日暮里より浅草まで歩き、浅草寺の混雑を眺め、東武浅草駅付近の火事現場を見つつシルバ-パスの使えるところまで行く。2万歩くらいはなっただろう。正月の食べすぎは解消。
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戦時下の滋賀師範

2020年01月06日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
戦時下の滋賀師範: 昭和18年の卒業生 (淡海文庫) 
滋賀県平和祈念館 (編集)
 都立中央図書館の2階・開架のところにこの本があった。思わず読みふける。2016年の滋賀報知新聞の記事では(現在の滋賀大学教育学部は、第二次世界大戦中「滋賀師範」の名で親しまれ、生徒たちが教員を目指し、日々、勉学に励んでいた。
 戦争末期の昭和十八年は、戦況悪化で不足した戦場の指揮官や航空兵を補充するため、師範学校でも多くの卒業生が出征し、また、生還の可能性がない特別攻撃隊に志願した者も多かった。)
 多分戦後に生き残った人たちの文献ではこのような記事になるだろう。当時の様子が特に昭和18年の前半の日本の情勢と師範学校にある戦争の状況感がつかめない。昭和18年4月に県立師範学校が国立となり、さらに各県にあった女子師範学校も統合された。寮や授業は戦後まで統合していないようだが学校行事が統合され、男女が共通の空間にあることもあったようだ。昭和18年9月に卒業させられた男子学生の進路を決断する心境がよくわかる。陸軍から派遣された教官によって先生なることを諦めさせられた人が多かった気がする。
 人数的には海軍特攻隊員の方に応募した人が多いのだが知覧の陸軍特攻隊記念館の方が師範学校出身が目立っていて、戦後の評価の無念さが感じる。陸軍は行きたくないのに洗脳され志願させられたという思いの人が多いと秘かに思う。あの当時の学校の雰囲気では遅かれ早かれ召集が来ると男子学生は思っていたようだ。歴史はその年の暮れには学徒出陣となって、学びの学校はなくなった。
 都立中央図書館には全国の教育学部の歴史の本が多数ある。まだ数冊を昭和18年9月ころを重点的に読んでいるがなぜ教え子を戦争に向かわせた教師像の解釈が異なっているし、さらに記述が少ない本もある。語りたくないのもあるだろう。
 当時の大本営発表をそのまま信じていない状況で親に相談することもなく、同級生と寮で考えて、無断で死の危険の確立が高い飛行機搭乗を叔父は選んだようだ。
 

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令和の初セリから日本ののんびり感

2020年01月05日 | 宅老のグチ
毎年この時期はニュ-スが少ないので豊洲の初セリの話題となる。すでに世界は動いていて第三次大戦と騒ぎだしている。アメリカとイランの問題は拡大しつつあって、これにイスラエルが加わり、ロシアが加われば第一次大戦がサラエボの暗殺から始まったと思えば無いこともない。
 先の大戦で昭和の学徒出陣以後の日本の学校はほとんど教育は無くて、工場に派遣されたり、農作業をしていたようだ。特に生き残った人の多い女子師範学校の話は今でも面白い。戦後先生となって記録を残しているが、戦前のモンペ姿で連日工場で働き暇なとき勉学し、妄想にふけっていたようだ。しかし寮生活に欠かせない食が不足し、自由な妄想も多くの夢が食物だったようだ。たまの休暇で自宅に戻ると農家が多いので腹いっぱい食べておなかを壊したようだ。彼女たちは帰宅病と言っていたようだがひもじい寮の食事から山盛りの食糧を残すことなく食べたようだ。
 4日の広尾の図書館で日本の教育大学の百年史を数冊読みふけった。昭和18年9月に繰り上げ卒業の状況を知るためだった。
 やはり陸軍特別操縦見習士官に入った人は師範学校出身が多い様だ。海軍は希望者が多く募集の苦労は少なかったように思える。しかし朝日新聞の18年7月の記事から陸軍の不人気が感じられた。これは当時の陸軍の古参兵によるいじめが蔓延していて、広く知れていたようだ。優秀な学生が海軍に行ってしまう恐れもあったようで海軍の航空関係の募集の記事は少ない。
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東京都の中央卸売市場の統計

2020年01月04日 | 築地市場にて
一般にはあまり知られていないが東京都の情報公開で東京都が管理する中央卸売市場の統計がネットで約50日程度遅れて公開されている。すぐに公開していないのはこの数字が1円単位までの公開でさらに税務所等に申告する数字と一致する。この数字で市場の使用料が計算されるのでこの数字をごまかすということは準公金をごまかすことになり監査で問題となる。毎月10日までに売上報告を提出し、15日ころまでに面積割使用料、あとは電気代と共益費用が加わる。
 電気代は東京電力に直接支払うのではないので詐欺師が東京電力の電気代をお安くしますと築地にいたときシバシバ電話が来ていた。
 この様なお金の事情を知っているのはごく一部の人で築地のことを評論しているライタ-は豊洲の市場の使用料が大幅にあがったというのは間違いで東京都の市場の条例で都議会で審議され公開されている。
 築地の面積割使用料と多摩の市場の使用料が同じという理不尽さも感じるが公平ということで東京都の言い分だった。銀座の隣の市場が辺鄙な多摩市場と事務所の使用料は同じということは今でも不思議。
 この東京都中央卸売市場条例はこれを根拠として運営されているので多くのライタ-が読んでいないで築地や豊洲を評論していることに気が付く。
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正月はGAOかYOUTUBE

2020年01月03日 | 宅老のグチ
そろそろお節も飽きてきた。TVはスポ-ツのみ。GYOの見ダメ。ちょっとCMの工夫があっても良い。明日までの休みで4日より図書館通い。
 ゴーン逃亡事件は日本の司法がアメリカ寄りからいわゆる儒教司法に戻る気がする。特に香港情勢に対して左翼の人たちの表明が少ないし、経済重視の日本資本家は無言で表明しても実に穏やか。
 儒教的なすがまま。無抵抗。どうも香港駐在の中国スパイの情勢分析が弱い様だ。日頃の選挙で論戦がなされていないので本音の声を聴いていないようだ。香港はいま本土からの恩恵を受ける人と家賃の高騰に押される人との格差が増えているのではないのだろうか。
 それでも解らないのが長寿世界一ということだ。彼らの長寿の原因は何だろう。



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レバノンから除夜の鐘・ゴ-ン

2020年01月02日 | 宅老のグチ
日本の司法制度は江戸時代の町奉行の仕組みが残っていて、少ない訴訟で済まそうとする。法解釈を論議で行うのは上層部で下級は相対で済ますように仕向ける。そこで前例のない事例になると強訴となり、処罰される。さらに強訴を起こされたことで治安維持者が処分される。
 幕末の混乱期は幕府の治安維持機構が弱体化し役人を兼ねる博徒と博徒専門が対立した。オリンピックの後バクチで経済活性化しか今の政府は策は無い様だ。すでに観光客であふれて公害になりつつあるのに博徒観光客を増大する策しか頭にないのだろうか。
 以前と違って人生が長い。日本人には一獲千金は道徳上嫌われる。さらに慣れない大金で人生を狂わす事例を聞く。先日大金を見せびらかした人が殺された。為政者は景気浮揚として金を回そうとする。高額な当選金で宝くじを販売しているが売り上げが減少している。少額でも楽しめる公営ギャンブルも少し復活したようだ。
 未決の逃亡者への日本人の見る目は厳しい。無罪ならどうして法廷で論戦しないのだろうか。次の異国人の犯罪者に対しての目は厳しい。特に保釈金は高騰する気がする。
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