年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

一族の星

2020年01月12日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
野田郷土誌 佐藤真著 野田市著図書館所蔵
(東葛飾)群立乙種野田農学校。大正10年4月15日開校。学校の建設費用とか敷地は野田醤油(株)[現在のキッコ-マン(株)]の寄付が多大だった。初期の生徒数は125名で埼玉・茨木県から通学する者も11名あった。大正12年郡制度が廃止となって県立となり、それまで乙種であったものが昭和4年甲種となり、野田農工学校となった。戦後野田高等女学校と野田農工学校が統合し、野田高等学校となった時もあったが分離され、普通科は野田高等学校・農業工業系は清水高等学校となった。叔父が通ったのは野田農工学校で父はまだ付近に通う学校が無かったため、高等小学校卒の学歴しか無かったと女学校出の母は自慢げに話していた。
今から思うと当時の主な産業は農業で千葉県の中では野田市は醸造業の盛んなところで、食品化学とか醸造機械の知識が必要なところだった。江戸川を下れば江戸に着く地域性があって、醤油関連産業の人脈が野田と江戸東京を結んでいた。父が本所区厩橋の陸軍御用の漬物商人黒川屋本店に勤めたのはこのような関係だと思われる。ここで父は奈良漬・福神漬の製造知識を得たと思われる。特に醤油を使う福神漬は戦後の品評会で賞をもらった時の喜びを母は嬉しそうに話していた。今床の間にその時の記念の金属製の花瓶がある。
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