年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

野菜の暴落か

2011年11月15日 | 築地市場にて
関西の白菜相場からどうやら野菜が全国的に暴落しているようである。比較的暖かい陽気で適当に雨が降って、作柄も良い。漬物も増量セールで販売促進活動をしているようだが需要は伸びていない。まだ築地市場青果部の駐車場には置き荷のミカンや白菜・大根が現れていない。もう少し寒さが増すと置き荷となるだろう。
 大阪市場の白菜の値段では東京のゴミ処理価格より安く、生産者の手取りはマイナスとなるに違いない。この野菜価格で工場野菜が打撃を受ける。今まで外部から入った野菜生産企業は天候の順調な時の長い野菜価格低迷に耐えられない。この安い野菜はこの時期は品質が良いので工場野菜は価格で負けてしまう。あのユニクロも野菜では失敗した。
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浴恩園あと

2011年11月14日 | 築地市場にて
大名庭園の放送を見ていたら、見慣れた浜離宮公園が出ていた。ここは木村 芥舟(きむら かいしゅう)や中島三郎助の三男・中島与曽八が生まれたところです。築地中央卸売市場の地は、かつて天下の名園とうたわれた浴恩園があったところです。市場正門わきの浴恩園跡とあったが気にはしていなかったが寛政四年(1792年)白河藩松平定信が一万七千余坪の地を得て隠居した浴恩園と言う大名庭園であるという。いま白河藩の幕末を調べていると、白河戦争は戊辰戦争の節目の戦いであった。幕末二本松藩が一時的に白河領を管理していて、複雑な政治抗争を病弱な藩主に代わって重役が処理していたようである。銃器の進歩が刀の時代からほんの12歳ほどの少年でも武器が扱えるようになり、戦争に参加させるようになった。二本松少年隊の隊士の年齢をみると今の中学生程の年齢である。
 明治になって生き残った福島県民の中で心の中に薩長だけでなく同志を裏切った事から複雑な地域間心情が今でも残っている気がする。戊辰戦争150周年で終りとなるのだろうか震災処理と心情処理。
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十二歳の戊辰戦争 林洋海著2

2011年11月13日 | 福神漬
福神漬の様々な経緯を調べてゆくと幕末から戊辰戦争の頃の福島二本松藩の武士・町民の複雑な想いが明治になっても残っていて、今でもふとした時の表面に現れるようである。会津と違って二本松の少年隊は上士・下士の差はなく戦闘に参加していたこの本に書いてあった。高橋太華(二本松藩士の子)石井研堂(郡山町人の子)等に明治中期以後にも大きな影響があって彼らの心のなかに隠されていた事が福神漬という食べ物の色々な出来事や交友から現れてきているように見える。
 特に石井研堂が缶詰の起原でわざわざ島原の乱や五稜郭の戦いを記述しているのが気にかかる。この件では日本缶詰協会の歴史では北海道が缶詰の始まりという。
明治初期の政治小説を書いたと言われる戸田欽堂と高橋太華の関係も幕府末期の大垣藩の揺れがもたらしたかもしれない。戊辰会津の小説等は多いが今でも二本松の話を聞くこともなく、時間がたってゆく。
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十二歳の戊辰戦争

2011年11月12日 | 福神漬
十二歳の戊辰戦争 林洋海著
福神漬命名の経緯を追ってゆくとどうしても幕末福島二本松藩のことを調べることとなる。この本の著者によると戊辰戦争は鳥羽伏見の戦いで始まるのではなく、白河戦争からだという。戦国時代の刀による戦いから銃器を中心した戦争に変化したのが東北の戦争かもしれない。しかし刀の力で組織された旧幕府軍では実際に戦闘に参加したのは下士だという。飯盛山で戦死した白虎隊の殆どは下士の子弟で上士の子弟の白虎隊員は鶴ヶ城内にこもって西軍の砲撃で死んだという。
ドン五里という言葉を初めてこの本で知った。白河戦争で西軍の砲声きいた仙台藩兵士はすぐに五里離れた郡山まで逃げたと言われた。火縄銃の時代から新しい銃器に変わっても武士階級が変わらなかったということかもしれない。刀は武士の象徴である。なた豆は漢字で書くと「刃豆」となり武士の象徴を意味するものかもしれない。福神漬には初期の試作品からなた豆が入っていた。
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デジタル本

2011年11月11日 | 築地市場にて
最近デジタル本を読む機会と機械が増えた。国会図書館の所蔵されている昔の本が国会図書館に行かなくても読むことができるようになった。国会図書館の最大の欠点は本が来るまで時間がかかることと借り出した本の中身が期待はずれになることが数々ある。時間と交通費がムダとなる。引用されていた本を確認するための出かけたのが期待外れの事が多い。
 今国会図書館の小原鉄心伝をデジタル本として読んでいるのだが印字がにじんでいるのと読めない漢字で完全には理解が出来ない。それでも理解した部分から小原鉄心と言う人物が勤王派と見られたのは彼の交友関係と思われる。今では大垣近辺の人の維新史マニアしか知らない人物と思われる。
 古い書籍は再入力して読むしかないだろう。ここに著作権を発生させれば比較的早く古典がデジタル化され、平等な学問関係が出来るだろう。東京に住んでいると地方の人達の研究の困難さが解らない。

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明治戊辰梁田戦蹟史

2011年11月10日 | 福神漬
明治戊辰梁田戦蹟史 真下菊五郎∥著
鳥羽伏見の戦い後、東征軍と旧幕府軍が今の栃木県足利市付近にある梁田宿で初めての大規模な戦闘があった。早朝の官軍の攻撃で大部分の旧幕府軍は逃亡したが激しい戦闘があり、多くの地元の目撃者があった。大正12年に出版されたこの本は多くの地元民の目撃談があり、かなりの見物人があったことがわかる。
 梁田の戦いで大垣藩兵は先陣を務めたので、この戦果に対して新政府は鳥羽伏見での戦闘に幕府軍として参加した兵士の処分を死罪とすることから一等減じることとしたという。(岐阜県史)
福神漬のルーツを追ってゆくと大垣藩関係者が様々な場面で出会う。幕末というのはかなり人の流動性があった時代だったかもしれない。
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鳥羽伏見の戦い

2011年11月09日 | 福神漬
鳥羽伏見の戦い-幕府の命運を決した四日間 野口武彦著
福神漬のルーツを探っていくと歴史の分岐点によく出会う。鳥羽伏見の戦いもその一つとなる。美濃大垣藩は鳥羽伏見の戦いでは幕府軍に参加していて、10名程の戦死者を出している。しかし、多くの歴史書では大垣藩がこの戦いにどのような経緯で参加せざるを得なかった事情が記述されている書籍は少ない。
 鳥羽伏見の戦いで幕府軍に参加したため、小原鉄心の努力によって藩の方針を朝廷支持に変更後も朝廷に対しての忠誠を示すため,東征軍の中では先陣を務める事となった原因である。関東に進出し、最初の大規模な戦闘である梁田の戦いで功績を上げた大垣藩は鳥羽伏見の戦いで参加した兵士の減刑を得た。後に白河の戦いで勝利後、鳥羽伏見の戦いで参加した大垣藩兵士は自由となった。
 福島二本松藩は藩主の妻が大垣藩戸田氏共の兄弟で白河の戦いでは調停を期待したいたのだが裏切られた。今でも残る戊辰戦争の福島県内の心の棘の原因の一つでもある。
 大垣藩戸田氏共を生んだ母は薩摩藩の出身であったため、藩内事情が薩摩に伝わっていたと思われ、大政奉還後まもなく大垣藩小原鉄心が慶応3年12月に朝廷から上京指示が出ている。徳川に対しての忠誠とペリー来航時の幕府の弱体事情を知っていた小原は病気を理由とした書類を朝廷に送り、新政府にすぐには参加しなかった。鳥羽伏見の戦い後、大垣藩内世論を小原の説得で変えたという。
 ここにペリー来航時に浦賀奉行戸田氏栄と大垣藩兵を浦賀に送った小原鉄心との関係が歴史の出てくる。
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東京都の爆弾調査

2011年11月08日 | 築地市場にて
ETVの白熱教室明治大学を夜中に見ていたら安心安全の議論をしていた。どうも安心は日本人のみ通用する言葉らしい。東京都は都内に流通している食品、特に関東東北生産品の放射能汚染調査を行うという。汚染されている食品が発見されれば余程適切な表現がなければ同種他産地の商品も影響を受けるだろうし、また放射能が検出されなくても、数値が低いとか、サンプル数が少ないとクレ-ムが付き安心とはならないだろう。多分東京都はこの数値では安全であると言うだろう。
結局どの数値でも安心とはならない。震災後、少し冷静さを失っている。
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立冬の千枚漬

2011年11月07日 | 趣味としての漬物
11月8日は立冬です。この頃になると昔は京都付近で栽培される聖護院カブが寒さで甘みが増して千枚漬の漬け込みに最適となります。今では冷蔵庫の中で漬け込み出来るのと北海道とかの寒さの早い地域で千枚漬用のカブが栽培されているので昔ほど立冬を意識することはありません。
 千枚漬が売れ出す頃、今年の終わりを意識します。とんでもない一年が早く終わって心機一転の春を待ちたい気分です。タイの天気情報を見ているとようやく雨の少ない時期に向かっているようです。
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幸田露伴と根岸党の文人たち

2011年11月06日 | 福神漬
幸田露伴と根岸党の文人たち-もうひとつの明治 出口智之著から
江戸の戯作者の時代から逍遥・露伴の活躍する時期まで日本文学の歴史は空白である。しかし、実際はかなりの出版物があって、今の時代の価値に合わないと見られ文学的評価されないでいる。およそ、商品としての本はその読者の需要によって供給されると考えられる。明治20年ころまでの本は江戸時代の状況を知っている人達が生きていて主要な読者であった。その上文明開化で武士が没落している時期でもあった。過去の束縛から新しい束縛が発生する時期でもあった。
 根岸党の評価は難しい。この本にちらほら現れる鶯亭金升は当時記者生活を送っていたので根岸党には参加していないように思えるがしかし彼は名前が示すようにうぐいすの里根岸に明治7年頃から22年頃まで住んでいた。また根岸党の遊びは梅亭金鵞等も行なっていた。根岸党の人たちが福神漬を酒のツマミとして食していたのは上野付近だったし、戊辰戦争の怨念が入っていると思っていたのだろうか。福神漬の周囲の人達は反明治政府の人たちが多い。江戸に郷愁を感じつつ、新時代に対応せざるを得ない人が甘くてしょっぱい濃口醤油(関東の味)の漬物を食べていた。
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新聞雑誌発生事情 興津要著から

2011年11月05日 | 福神漬
新聞雑誌発生事情 興津要著から
三遊亭圓朝は明治2年南茅場町宮松亭に出演していた。今の中央区茅場町1丁目から2丁目付近にあった。明治5年にできた両国の立花家の出演問題から圓朝は旧来の色々な道具を使用した話しを捨て、扇子一本の素噺に転向したと言われる。
 この南茅場町の3年間で付近に三菱東京店(明治3年)ができ、花香恭次郎は町内のどこかの商店で慣れない仕事をしていた。

明治2年ならば函館で戦争が終わったか終わらないかの時期だし、江戸が東京となった頃かも知れないがまだ生活も落ち着いていない時代に落語を聞いていたとは。江戸の治安を維持していた南茅場町の与力・同心はそのまま引き続き東京の治安を維持していたようでまだこの時期は西軍幹部との軋轢が少なかったかもしれない。
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最後の戯作者たち 興津要著から

2011年11月04日 | 福神漬
最後の戯作者たち 興津要著から
講談社文庫本「妙竹林話七偏人」の解説で興津氏は明治14年に梅亭金鵞は團團社の正社員の座を退き、客員の地位におさまった。17年には日本橋の出版社鶴声者編集企画主任になったという。興津氏によるとこの頃は旧態依然たる戯作で新時代と合わず低調な作品であったという。ところが明治16年に梅亭金鵞の「妙竹林話七偏人」が万宇堂から再出版されている。あまり深く考えていなかったが「最後の戯作者たち」の本を読んでいるとこの明治16年から17年頃の出版事情から理解できるようになった。
 明治になって、東京で洋紙が製造でき、新聞の販売拡大に寄与したのは西南戦争によって報道が過熱した結果である。と同時に西洋活字が従来の木製活字を追い払う事になった。この活字事情の変化が戯作本出版までやってきたのが16年頃だという。明治初期の大新聞(政論を中心とした新聞)から小新聞(庶民が読者として想定していて戯作や歌舞伎・事件などを扱いルビ付きで読み易い)出てきて明治10年代初期は作者が不足していたという。市井の事件を扱う小新聞で「続き物」の記事となり、新聞小説ができた。10年代、池之端の守田宝丹の「芳譚雑誌」等の戯作雑誌の相次ぐ出版され戯作本の復興の兆しがあった。また印刷技術の変化は江戸時代の総仮名絵画中心の読み物としての合巻から漢字フリガナ付き読み物としての質的変化をきたしたこともあり、明治10年頃までは木版刷りの合巻から活版印刷となり、大幅に戯作本の価格が低下した(半額以下)。また木版では熟練した彫刻師でも文字の彫刻に手間取り、出版速度の点でも活版本に対抗できなかった事情があった。
 明治16年に「妙竹林話七偏人」が出版され、その本の中で池之端の香撰茶屋が出でてくるので酒悦主人が梅亭に当時開発中の缶詰漬物の命名を依頼したと思われる。この方法は今でも宣伝方法として用いられている。
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花嫁のれん2から

2011年11月03日 | 築地市場にて
テレビ欄をみていたら忘れていた事を思い出した。今年の夏頃、花嫁のれんというドラマで漬物関連の話題となるので考証をする人を紹介してくれと組合から連絡があった。どうやらドラマが始まったので原作者の小松江里子さんの姿を見ると、どうして大阪出身なのに漬物の事を知らないのだろうと考えた。少し前まで漬物の本場は関西だった。漬物専業店が小売市場には必ずあった。朝飯は漬物とご飯とみそ汁が関西の朝だった気がする。今は関西の小売市場が激減し、漬物の事を詳しく消費者に伝える人が少なくなった気がする。
関東では小売市場はほとんどなく漬物専業店はデパートの中でしかなかった気がする。
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惰性の節電

2011年11月02日 | 築地市場にて
すでに強制節電が終わったのに築地市場が午後は暗い。まだ惰性的に節電していて気分も暗い。場内寿司屋の行列も若干長くなったが、震災以前と比べれば半分の長さかもしれない。日曜日に入っている求人広告も築地周辺は増えているようであるが築地市場の求人は皆無といって良い。はっきりとしない豊洲移転は明らかなデータが出るまで水産の人達は動かないのだろうか。老朽化した冷蔵庫はフロンガスの問題で先送りすることはできない。今まで故障しても修理で済ましてきたが昔の冷凍機に対応するフロンガスの在庫が少くなっている現状から新品の冷蔵庫を購入することになると無駄な投資となるおそれがある。
築地周辺では環状2号線の準備工事の連絡があって、追い出しにかかっているように感じるのは自分だけだろうか。隅田川の築地市場桟橋撤去工事を冬の雨の少ない時期に行うのは当然のことだが工事予告に工事時期の必要性の説明が少ない。
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ふたまた

2011年11月01日 | 築地市場にて
古くは源平の時代から戦国時代まで家名の存続のため、新勢力と旧勢力との抗争時にそれぞれの親族が分裂して加担している例が多い。どうやら今日の朝日新聞の報道によると、中央区が着々と進む築地市場の豊洲移転を眺めて、絶対反対から次善の策を提示したようである。それは築地市場の移転した後に小さな消費者用の市場を作り移転に不安視している業者を収容し、なお場外市場の存続を図る計画と見た。今世界中の都市の風景は均一化されてきて、築地場外のようなレトロな場所は貴重な観光資源となっている。
 これから豊洲へ行く人、築地に残る人、廃業する人、新たに豊洲へ参入する人があるだろう。その中には「ふたまた」かける人もあるだろう。豊洲と築地の両方に出す人もあるかもしれない。
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