日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
了翁禅師の経営している『錦袋円』の薬舗は現在の台東区池之端通仲町の地にあった。屋号は「勧学屋」といい、上野・不必池に接していた。
僧侶に似合わぬ販売方法で『錦袋円』を販売していった。薬の効能書きは、水戸光圀の揮毫になる「万病錦袋円」の文字に左甚五郎の額縁で「一人一度きり二度は売らぬ」と病人の心理を捕らえる宣伝と美少年を利用して江戸市中を売り歩かせるという販売政策で成功した。このことは当時でもかなり有名であった。
了翁の商売には大助という美少年を抱えて「勧学屋」という屋号で商いをした。かの美少年は間もなく亡くなったが後にもまた大助といって前と同じような美少年が商いしたので薬を必要とする人ばかりでなく美少年を見るために「勧学屋」は混雑した。了翁の商売は直ぐにニセ薬が現れたり、僧侶の商売としての営利行為に対して世間の批判が絶えなかった。
池之端 男ばかりの 総籬(そうまがき)
総籬とは江戸吉原で、最も格式の高い遊女屋。入り口を入ったところの格子(籬)が全面、天井まで達している。
開業6年後、黄金3000両の収益があったという。
この3000両を基にして,さらに寛永寺の支援により、最初に不忍池弁天島の南方に小島を作り小さな経蔵を建立し、大蔵経を納められた。この池は、経堂を建てた島と言うことで、経堂島と呼ばれた。(今はない)不忍経蔵(しのばずきょうぞう)を造った。
この経蔵には大蔵経を中心に仏教ほか多くの書籍が収集され、しかも自由閲覧としたほか、仏典や儒教等の学術講座を開講したことから、我が国最初の図書館と言われている。了翁禅師42歳、寛文11(1671)年のことで、この年が我が国最初の図書館開設年とされている。
了翁禅師の経営している『錦袋円』の薬舗は現在の台東区池之端通仲町の地にあった。屋号は「勧学屋」といい、上野・不必池に接していた。
僧侶に似合わぬ販売方法で『錦袋円』を販売していった。薬の効能書きは、水戸光圀の揮毫になる「万病錦袋円」の文字に左甚五郎の額縁で「一人一度きり二度は売らぬ」と病人の心理を捕らえる宣伝と美少年を利用して江戸市中を売り歩かせるという販売政策で成功した。このことは当時でもかなり有名であった。
了翁の商売には大助という美少年を抱えて「勧学屋」という屋号で商いをした。かの美少年は間もなく亡くなったが後にもまた大助といって前と同じような美少年が商いしたので薬を必要とする人ばかりでなく美少年を見るために「勧学屋」は混雑した。了翁の商売は直ぐにニセ薬が現れたり、僧侶の商売としての営利行為に対して世間の批判が絶えなかった。
池之端 男ばかりの 総籬(そうまがき)
総籬とは江戸吉原で、最も格式の高い遊女屋。入り口を入ったところの格子(籬)が全面、天井まで達している。
開業6年後、黄金3000両の収益があったという。
この3000両を基にして,さらに寛永寺の支援により、最初に不忍池弁天島の南方に小島を作り小さな経蔵を建立し、大蔵経を納められた。この池は、経堂を建てた島と言うことで、経堂島と呼ばれた。(今はない)不忍経蔵(しのばずきょうぞう)を造った。
この経蔵には大蔵経を中心に仏教ほか多くの書籍が収集され、しかも自由閲覧としたほか、仏典や儒教等の学術講座を開講したことから、我が国最初の図書館と言われている。了翁禅師42歳、寛文11(1671)年のことで、この年が我が国最初の図書館開設年とされている。