年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

了翁禅師 4

2007年01月20日 | 福神漬
日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
承応2年(1653年)隠元禅師が中国から日本に来た。了翁は彼に師事したので了翁禅師と呼ばれるのであろう。先日、「了翁が不忍池弁天島の南方に小島を作り小さな経蔵を建てた場所がどこか」と弁天島の住職に聞いたところ、この寺は天台宗で禅師は禅宗なので知りませんといわれた。
寛文4年宇治山田の黄檗山万福寺を出て(了翁35歳)諸国を回り江戸に向かった。そこで積年の厳しい修行による体のいたみが出、昔湯沢で世話になった人の処方した薬を飲んだところ痛みが治まった。そこで了翁はこの薬を広く江戸市民に施し同病の人を救うのも功徳となりと、またその利益をもとにすれば大蔵経を納めた経蔵を一国に一蔵置きたい了翁の希望がかなう時期も早められるだろうと思った。
了翁は浅草の観音に参篭し薬の名前を占ったところ何度占っても『錦袋』と現れたので『錦袋円』と名づけた。『錦袋円』を販売するに当り僧侶の身分で商売するにはいささかためらい親戚の者の力を借り,東叡山下不忍池畔に薬舗を開き、了翁が自ら店主となり、『錦袋円』を売り始めた。薬の販売は莫大な収入をもたらしたので、禅師はかねてからの大願の実現に専心した。(寛文5年了翁36歳)

『錦袋円』はなぜ売れたか?
寛文11年錦袋円の店 上野繁盛史より
50人の美少年ばかり選んで江戸市中を売り歩いたばかりでなく、上野池之端仲町の店先には勧学屋大助と称して了翁の後は代々美少年を養子として迎えられ、その養子は美少年に限られていたという。

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