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もいちどアイドル

 バーだから、ここ「海神」の常連客は男性が多い。とはいえ、女性客も少数ながらいる。今、入ってきた客も女性の常連だ。
 50を少し過ぎた初老の女性。孫がいてもおかしくない年齢と見受けられるが、不思議と老けた感じはしない。少女のころの可憐さを残している。
「マスター、あたしのお酒まだ残っている」
 鏑木はバランタインのボトルを見た。
「まだ半分以上残ってますよ」
「良かった。考える時間がまだあるわ」
「水割りでいいですか」
「ええ。麦チョコちょうだい」
 鏑木は水割りのグラスと麦チョコの小皿をカウンターに置いた。
「ありがと」
「梅田さんは、昔から麦チョコが好きですね」
「そうね。昔、ステージでちょっと麦チョコが好き、と口ばしったら、部屋が麦チョコで埋まったことがあったわ」
「どうしたんですか。梅田さん」
「なにが?」
「昔のことをおっしゃったりして」
「久しぶりに咲子から電話があったの」
「咲子さんというと、あの杉田咲子さんですか」
「そ」
 梅田虹子は、今は保険の外交をやっているが、30年前は芸能人だった。いわゆるアイドル歌手で、2曲ほどヒットを飛ばして、芸能界から消えた。その後結婚したが、夫と死別。子供もいない。50を過ぎた今も独身だ。「あの人は今」という企画の番組に出てくれとの打診を何度か受けたが、すべて断っている。もともと芸能界には向いていないと自分では思った。友だちもいなかったが、同時期にデビューした同い年の杉田咲子だけは親友だった。咲子はその後、ポップスから演歌に転向して、地方を回りながら細々と歌手を続けている。虹子が芸能界を引退した時に、最も残念がったのは咲子だった。
「咲子ったら、あたしにね、もう一度ステージに立てって」
「どうするんですか」
「あたしのボトルが空になったら返事するといったわ」
「なぜボトルなんですか」
「なんでもいいのよ。きっかけが欲しいだけ」
 虹子は遠くを見る目をした。30年前を見ているのだろうか。未来を見ていないことだけは確かだ。
「お代わりちょうだい。ストレート。ダブルでね」
 虹子は立て続けにお代わりした。
「だいじょうぶですか」
「いいのよ。咲子もツミね」
 カラン。カウベルが鳴って客が入ってきた。虹子と同年輩の女性だ。
「咲子」
 バサッ。咲子は2着の衣装をカウンターに投げてよこした。ピンクとブルーのフリフリのミニスカートだ。
「それを着て、二人でもう一度アイドルしよ」
 そういうと咲子は虹子の横に座った。
「手伝うわ。あんたの決断を。マスター、わたしもバランタインのロックちょうだい。そのボトルで」
 咲子にグラスをわたして、鏑木は虹子に聞いた。
「私も手伝います。梅田さんあなたのボトルからバランタインを頂いていいですか」 
「いいけど。なぜ」
「私も梅田虹子のファンだったのです」
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