雫石鉄也の
とつぜんブログ
とつぜんコラム №209 リーダーの決め方
動物が単独で生存するのならば問題はない。ところが複数の動物が生存していると群となる。動物が群となると事が複雑になる。それぞれが他を気にせずてんでばらばらに生きているのならいい。ところが動物の群には必ずリーダーなる存在が発生する。イワシの群にも猿の群にもリーダーはいる。その方が全体としてコトが有利に運ぶからだろう。リーダーは群を導き群のメンバーの安全と快適を保証して、見返りにリーダーとしての権益を得る。
いまのところ人間は地球の生物のトップに立っている。その人間はいうまでもなく群をつくる動物だ。とうぜん人間の群にもリーダーはいる。
文明勃興以前は、人間のリーダーの仕事は、猿のリーダーとさして変わらない。リーダーの仕事は群に安全を保ち、食料の確保に頭を使い、群がバラバラにならないようにまとめることだ。このためリーダーにもとめられる条件は腕力だろう。当初は暴力を背景に群を支配したのであろう。
文明が興り、人間の群はそう単純なものではなくなった。群の安全を保証し、食料を過不足なく供給し、子供を産み育て次世代を養育するには、腕力だけではなく政治力も必要になった。そこで人間の群のリーダーは政治力と腕力=暴力を兼ね備えたリーダーとなり、それが酋長だとか族長とかいわれるようになり、それが発展し領主とか王とか皇帝といわれる存在になったのだろう。
近世になって民主主義という制度ができて、群のリーダー=為政者は腕力にモノをいわせて、みんなを屈服させてなるモノではなく、投票によって為政者を決めるということになった。と、いうことで、群のリーダー=為政者を決める最も良い方法は民主主義ということになっている。いまのところは。
で、この民主主義というのは果たして本当に最良の方法だろうか。この方法だと群のリーダーを大衆が決めるということだ。高潔な人格高邁な知性を持つ人から、品性下劣、無知蒙昧な輩。わたしやあなた、あのおじさん、このおばさん、みんなでよってこってリーダー=為政者を決めるわけだ。で、国民が優等生ばかりの国があったとして、その国の為政者が理想的な為政者になるかといえば、そうではないのが複雑なところだ。はたしてこの「一般大衆」なるものは信頼していいものだろうか。
いままで「一般大衆」が最良の為政者を選出してきただろうか。もしそうなら世界はもっといいものになっているだろう。では民主主義に替わるもっといい為政者を創る方法があるだろうか。ここらで本気で考えなくてはいけないのではないか。
いまのところ人間は地球の生物のトップに立っている。その人間はいうまでもなく群をつくる動物だ。とうぜん人間の群にもリーダーはいる。
文明勃興以前は、人間のリーダーの仕事は、猿のリーダーとさして変わらない。リーダーの仕事は群に安全を保ち、食料の確保に頭を使い、群がバラバラにならないようにまとめることだ。このためリーダーにもとめられる条件は腕力だろう。当初は暴力を背景に群を支配したのであろう。
文明が興り、人間の群はそう単純なものではなくなった。群の安全を保証し、食料を過不足なく供給し、子供を産み育て次世代を養育するには、腕力だけではなく政治力も必要になった。そこで人間の群のリーダーは政治力と腕力=暴力を兼ね備えたリーダーとなり、それが酋長だとか族長とかいわれるようになり、それが発展し領主とか王とか皇帝といわれる存在になったのだろう。
近世になって民主主義という制度ができて、群のリーダー=為政者は腕力にモノをいわせて、みんなを屈服させてなるモノではなく、投票によって為政者を決めるということになった。と、いうことで、群のリーダー=為政者を決める最も良い方法は民主主義ということになっている。いまのところは。
で、この民主主義というのは果たして本当に最良の方法だろうか。この方法だと群のリーダーを大衆が決めるということだ。高潔な人格高邁な知性を持つ人から、品性下劣、無知蒙昧な輩。わたしやあなた、あのおじさん、このおばさん、みんなでよってこってリーダー=為政者を決めるわけだ。で、国民が優等生ばかりの国があったとして、その国の為政者が理想的な為政者になるかといえば、そうではないのが複雑なところだ。はたしてこの「一般大衆」なるものは信頼していいものだろうか。
いままで「一般大衆」が最良の為政者を選出してきただろうか。もしそうなら世界はもっといいものになっているだろう。では民主主義に替わるもっといい為政者を創る方法があるだろうか。ここらで本気で考えなくてはいけないのではないか。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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民主主義の根幹を揺るがす問いかけですね(笑)。
この問題は2つの要素から成り立っていると思います。
端的に言えば権力と責任のバランス。
もう少し砕けて言えば、ひとつはリーダーを求める側の姿勢。リーダーに何を求めどんなリーダーを欲しがっているか。
もう一つはリーダーになる側の姿勢。リーダーとして何がしたいのか、何を群れに求めるのか。
この2つの要素の絡まり方で、リーダーを選ぶ方法が絞り込まれるのではないでしょうか。
安心と安全な生活を保障してくれるなら、多少の不自由はいとわないという群れと、権力欲と名誉欲の強いリーダーがマッチすれば、独裁という方法も有りでしょう。大きな政府や社会主義もこの範疇かと思います。
個々の能力に応じて自由に活動したいから、社会保障は最低限でいいという群れと、細かな厄介ごとは自分たちで解決してくれという緩いリーダーがマッチすれば、自由主義政府や無政府ということもあり得るかな。
資本主義や小さな政府が目指すのはこういうことでしょう。
さて、国会議員選挙や大都市圏の議員選挙では、立候補者が乱立しますが、地方の過疎の市町村議会では立候補者が定員に満たなかったり無投票で決まるとこも稀ではなくなりました。
町内会で役員へのなり手がなくて困っているなど最たるもの。
片や責任以上に権力が大きく保証され、片や責任に見合った権力が保証されていないということが根底にあるのでしょう。
群れとリーダーの権力と責任のバランスが整備されないと、リーダーのーダーの選出方法を変えても結果は同じかも。
例えば、川があって川岸に農民と漁民がいて、農民は川向こうの畑に行くため橋が要る。漁民は漁業の邪魔だから橋は不要。こういう場合、両者の調整をするのにリーダーが要りますね。両者が戦争になって勝った方のリーダーが、この川岸の国の王となるのでしょう。支配者ってこうやってできるのではないですか。
とどのつまり、ほんとは完璧な善政を行う聖人のような独裁者がでてきて理想的な政治を行えば、それでも良いのですが、その人も人間、いずれ腐ってくるでしょう。
人間に任さずコンピュータで政治をすれば、感情を抜きにして治世をするでしょうが、そのコンピュータを誰がプログラムするかが問題になってきます。
原始社会では、軍隊が有力で、それが、制度化、社会として成熟の過程において、合意形成の必要性が起こり、整備されたのが、政府や官僚制で、支配者としての男性が優位だったのも、時代背景によるでしょうね。
女性が優位というのは、自由主義と資本主義経済によって、貨幣が社会を支え、同時に、法によって、紙に過ぎない貨幣が、国家の信頼によって保証されたもので、大きな体制から、家族が重視されているのも、これだけ、平和な時代が作られたがゆえだと思います。
日本は、江戸時代然り、官僚制支配が長かったので、宗教勢力は覇権には直接関われ無かったわけですが、その体制によって、個人の正しさよりも、組織や集団の実力主義があって、宗教性というのはカリスマに付きまとう属性として、オピニオンリーダーは、その宗教性というマンネリ、教義化から独立して、どれだけ、異論を提唱出来るか、だと思います。
それを理解し、あるいは、前向きに論評出来る事で、ネット社会やITを使った様々な闇、それは、評論界に確固たる権威が無い事でしょうね。語る事にも、責任と、一定のレベルを保った作品を送り出し続ける事で、そのストーリーの製作者と、評論家というのは、大衆への啓蒙に関わる上で、同じ地平に立つ、無責任なゴシップにしない、という事が求められるべきではないでしょうか。
かの北の独裁国もいちおうは民主主義を標榜してますが、現実はご承知の通りです。いまの中国にはとても言論思想の自由がありません。
大衆が自由に発言し考えることができて民主主義となるのでしょう。でも、自由の国アメリカで自由に選ばれた大統領がアレですから、民主主義も完璧とは言いがたいですね。
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