走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

酒向正春先生の帰郷

2010年08月10日 23時52分01秒 | うれしい
 酒向先生が松山に帰ってくるというので、久しぶりにお会いした。
少し早いお盆休み。
日々医療の現場で頑張っておられる先生にとっては久しぶりの骨休み。

 話の始まりは、週刊現代に載っていた先生の記事。
「名医が選ぶ名医50人」という内容で、その辺の裏話なども聞きながら楽しい時間が過ぎる。

 自分のことではないが、先生の最近の人脈ネットワークの広がりをお聞きするのも私たちにとっては、また楽しい。
誰が聞いても知っているような経営者や企業の名前が出てくる。
先生自身も言われているが、ネットワークが広がれば広がるほど組織のトップに行き着く。
不思議なものである。

 そして、最後は今一番興味を抱いておられるソーシャルビジネスの話。
そのきっかけとなったのは、ノーベル平和賞を受賞したバングラデシュの経済学者であり、グラミン銀行を設立したムハマド・ユヌス氏と知己を得たところからだと言う。
(内心、そこまで行き着かれたか...)

グラミン銀行は20年間マイクロクレジットを通して貧困層を支援してきた銀行であり、貧困層に的を絞ったことが高く評価された。
その彼が、我が国にも目を向け始めてくれているという。

 私たちの活動もある財団からアジアの発展国で通用しそうなモデルだと評価してもらえている。
うれしかった。
でも、まずは日本の地域社会の中で実践し、揉む必要がある。
そして、その活動は既に始動している。
自分たちが進もうとしているベクトルが先生の思われているベクトルと同じだったことがとっても嬉しかった。

 今度帰られた時は、先生の好きな「お好み焼き」で語らうことを約束し、わかれた。
本当に楽しい夜だった。 

お金がないから知恵を絞る

2010年08月09日 21時03分48秒 | つぶやき
 友人から電話がかかってきた。
今進めているプロジェクトで行政の専門分野のボランティアが欲しいという。
突っ込んで理由を聞くと、助成制度などを申請するときに助かる(便利?)といった類(たぐい)のものだった。

 少し考えた。
本末転倒のような気がする。
しかも、仮に助成金が取れてもそれだけを当てにしてしまわないかという危惧もあった。

そこで、何が欲しいのかと質問したら、農機具が欲しいと。
多分それだけではないのだろう。
恐らく初期投資に必要な資金が欲しいのだろうと。

 でも、冷たく言い放つ。
「現物で寄付してもらったら?」
「え!!」
「今の時代、企業は不景気で喘いでいる。だからといって行政をあてにすると、仮に思惑どおりいったとしても、その先はどうなるん?また、困ったら行政をあてにするん?」
「そんなことはないです...」
「なら、何で最初から自立の道を探さんの?例えば鍬が10本欲しいなら、贅沢言わんかったら鍬ならただでくれるよ」
「そうか...」
「10本の鍬を集めることを目標に置くからお金が必要やということになると思うんよ。大切なことは、『何で鍬がいるの』と聴いてくれる所有者が10人出てきて、それをきっかけにを10人の仲間が増えること、そのことが大切じゃないん?一人でも多くの仲間を揃えないかんと言いよるおまえらしくないぜ」
「そうですね」
「このことは、誰でもない私がおまえに教えてもらった手法や。金がないならチエを絞らんと」
「すみません、大切なこと忘れてました」

 私たちの活動は小さな活動です。
でも、この活動を少しづつカタチにしていければ大きな輪となって広がるような気がします。
それだけに行政を当てにしない活動にしてこそ、真の活動になるような気がします。

リーダーの資質とは?

2010年08月04日 23時42分04秒 | つぶやき
 三国志の中でどの人物が一番嫌いかと問われると、迷わず「曹操」と応えてしまう。
なぜかというと、三国志を知るきっかけはNHKの人形劇「三国志」がきっかけだからだろう。
その人形劇も「三国志演義」がもとになっており、これ自体物語を大衆化させるために書かれている通俗小説なので偏った人物像にスポットを当てて書かれており、どうしても曹操が悪者になってしまっている。
でも、よくよく考えると最後に生き残っていくのは曹操一族であり、曹操自身たくさんの有能な人材が周りを固めている。
つまり、魅力のあるリーダーだったにちがいない。

 そう思わせる話に「官渡の戦い」がある。
先日、NHKの名将の采配「曹操~長期戦を制した決断~三国志 官渡の戦い」というのをやっていた。
 三国志の英雄・曹操が黄河の平原で大軍に完全勝利した戦いに迫るものである。2つの砦を使った敵兵力の分断作戦や兵糧に着眼した大逆転策などを、戦場再現ジオラマを使って推理するというもの。
ゲストは、渡邉美樹さんと山口もえさん。(山口さんは少しトンチンカンでしたが、それもご愛嬌かな...)

 内容は、三国志の英雄の1人・曹操が黄河沿いで、敵の大軍を「機動力と知略」で破った戦術を、戦場を再現したジオラマを使い推理する。
黄河の渡河地点にある“とりで”を使った序盤の作戦では敵の大軍を分散させるための陽動作戦を行い、終盤戦では兵糧攻めに苦しむ曹操が一晩で大逆転勝利をつかむために相手の兵糧を焼き払い敵兵の戦意を低下させるなどの奇襲作戦をやってのける。

 そして、どの作戦にも共通するのは大将である曹操が常に先頭に立つこと。
それが正しいかどうかは、その時の環境で異なるが、圧倒的に味方の兵が少ない時は徹底して必死に戦うことで一人の力を最大限出させることが重要である。
そのためには、どうやれば味方の兵のモチベーションが上がるのかを熟知していたのであろう。
さらに、敵兵にとって何を攻撃すればモチベーションが下がるかも。
本当に恐ろしい人物である。

 そして、なによりも頼りになるリーダーである。

無縁社会が忍び寄る

2010年08月03日 21時44分49秒 | つぶやき
 最近、二つの事件がセンセーショナルに取り上げられている。

 一つは、若いシングルマザーの幼児二人の置き去り死亡事件(もはや殺人事件)、もう一つは113歳の女性の所在不明事件である。

この事件に共通するのは、近隣社会と関係を断っている人たちが巻き起こした事件である。
この事件を通して「無縁社会」は確実に忍び寄っていると、思った。

当然事件を引き起こした当事者に問題がある。
しかし、それだけで済まされる問題ではないような気がする。
地域社会の中で、臭いものやめんどくさいものには蓋をしてしまう風潮が、引き起こした悲しい事件なのではないかと思う。
いつも弱い立ち場の者が犠牲になる。

地域コミュニティに携わった者として、ずっと地域コミュニティが崩壊した時の怖さを危惧していた。
そして、今、地域社会の最前線にいて感じることは、確実に地域社会の中の救済システムが機能不全を起し始めていることを感じる。
どんなに組織をつくっても担当する顔ぶれは同じである。
つまり、偏った人たちに負担がかかっている。

しかし、その人たちにそれに見合った報酬が出ているわけではない。
だからというわけではないが、手を挙げてくれる後継者が少なくなり、固定化し、高齢化する。
このことを危機だと捉えている行政職員が何割いるのだろうか。
世代が若返る中で、ものの考え方が変ってきていることに行政は気づいていないということをたくさん感じる。
「地域住民」という言葉でひとくくりにし、その変化に目をそむけているような気がする。

委任状などで任命したら、(お世話いただく方には)行政の(言う)とおり動いてもらわないという穿った考え方が蔓延しているような気がする。
地域の人たちは、それでも汗をかいてくれる。
お世話をしてくれる人たちは行政と地域の人たちの板ばさみになりながら、でも行政よりに行動をしてくれる。
本当にありがたい。
でも、その人たちのことをほとんど考えずに、行政の論理で物事を進めてしまう。
無縁社会の到来は、決して地域住民の責任だけではなく、戦略を持たない行政の問題でもある。

今、無縁社会問題に真剣に取り組まなけいと、とんでもない地域社会になると心配しており、この問題解決に向けて仲間たちと具体的な行動を起こし始めている。


ライバル

2010年08月02日 23時45分31秒 | ちょっといい話
 NHKのふたり「しのぎあい、果てなき絆~日本料理人・山本征治×奥田透~」という番組を見ていて、久しぶりに感動した。

 番組の内容は、世界が注目する日本料理界の雄、山本征治さんと奥田透さん。
二人は兄弟弟子で究極のライバル。
はも、鮎、大うなぎなど、初夏の食材に挑む二人のしのぎあいと絆の物語に迫るというもの。
性格が異なる二人が目指すものが同じというのがおもしろい。
その目標とは、「日本料理を進化させる」こと。
だが、その手法は異なる。

NHKのホームページを引用すると次のとおり。

世界が注目する日本料理界の雄がいる。
“世界最先端の料理の1つ”といわれ「世界のベストレストラン50」に日本料理として初めて選ばれた山本征治と、レストランガイド「ミシュランガイド」で3年連続三つ星を獲得、王道の料理で海外にも知られる奥田透だ。
ふたりは同じ料亭で修業をした兄弟弟子で究極のライバル。
日本料理の食材がもっとも豊富な初夏。はも、あゆ、大うなぎに挑むふたりの“しのぎあいときずな”の物語に迫る。

 奥田がその修行時代(徳島の料亭)、その寮に住む山本の部屋を訪ねたとき、そこに奥田が収集していた本があり、探し回っても手に入れられなかった本がそこにあったという。
そのとき奥田は、「似ている」と思った。
そして、二人は熱く語り合うのである。
今、山本は六本木で、奥田は銀座でそれぞれ店を持ち、今でも互いを切磋琢磨しあう。
でも、お互いのノウハウを隠さない。
むしろ、さらけ出す。
そのぶつかり合いは凄まじく、鬼気迫るものがある。

 世間的には、奥田が一歩リードしているかのように見える。
その奥田が、「神様は、あの(山本の)才能を私には与えてくれなかった」と涙ぐむ。
それほどに山本は天才なのだ。
 そして、山本も「(奥田を)追い続けます」と奥田の才能を認める。
互いが自己の才を知り、相手の才を知り、その上で自分らしいやり方を極めようとしている。

 こんなライバルにめぐり合えることは幸せかもしれないと思った。

道後 湯釜薬師祭

2010年08月01日 13時59分09秒 | 地域情報/その他
 今日は、道後公園に「湯釜薬師祭」に出かけてきました。
 恥ずかしながら、このいわれについては全く知らなかったためホームページで調べたところ、三好恭治氏の「一遍徒然草紙」に掲載されていたのでご紹介します。

【松山市史】第五巻記載の公式の発表を先ずは記載しましょう。
 県指定(建造物) 石造 湯釜   松山市道後公園    松山市
昭和29年11月24日 指 定
 直径166.7cm,高さ157.6㎝の円筒形,花崗岩の湯口で、天平勝宝年間(749~757)に作られ、正応元(1288)年河野通有の依頼により一遍上人が湯釜の宝珠に南無阿弥陀仏の6字の名号を彫ったという。享禄4(1531)年河野道直が尾道の石工に命じ、胴まわり部に天徳寺徳応禅師撰文の温泉記を彫らせた。この湯口は現在の道後温泉本館ができるまで使われたもので、温泉史上貴重なものである。

(1)円筒形花崗岩の湯口製作が天平勝宝年間(749~757)とすれば、大仏開眼(752)の時代で伊予国に国分寺が建立された時代です。鎌倉時代は13世紀ですから遡ること4~500年ということになります。「奈良時代の湯釜」説の根拠は荒唐無稽ではないようです。

(2)正応1年は一遍の最後の帰郷した年に当たります。河野道有・一遍・湯釜の宝珠・南無阿弥陀仏を結びつけるとすれば逆に正応1年しかありえないことになります。郷土史の文献では「~という」又は「~と伝えられる」と記述しており確証はありません。尚[湯釜]でなく宝珠に「南無阿弥陀仏」と彫られていますが、一遍筆の確証はありません。

(3)享禄4年の記述は1710年頃に編集された「予陽郡郷諺集」(伊予史談会叢書⑮)に基づくものです。

(4)明治以降使用された湯釜は神の湯、養生湯始め幾つか湯釜がありましたので、今後観光資源として活用することも考えてほしいものです。昭和49年刊行の「道後温泉」(松山市発行・編集委員長 和田茂樹)が最も信頼できる研究資料集でしょう。

尚、この「湯釜」ですが、今日では「湯釜薬師」と呼称しており、毎年8月1日を「湯釜薬師祭」として温泉の守護佛をお祭りし、この祭りを皮切りに「道後温泉まつり」がスタートします。当一遍会でもお供えし会員代表が参列しております。

それでお坊さんが来ていたのかと納得しました。
本当に知らないことばかりだと痛感したところであります。