北畠顕信は、親房の次男で、南朝の公家・武将。
生没年不詳、墓所の所在地も不詳で、顕信のキャリアー・事跡も未だ不詳の部分が多い。
特に後半生の最後の方は、九州征西大将軍懐良(かねよし)親王に従って、筑前大原(現在の福岡県大保原)で戦没したとの説もあり、又顕信の事跡のほとんどが「太平記」に頼り、しかも戦前の勤皇論争によっても大きく歪められた側面も手伝って、戦後の研究が進んだとは云え、不明な部分が多い。
以下史実として認められている部分について、紹介する。
1336年、足利尊氏により、後醍醐天皇が京都華山院に幽閉されると、顕信は伊勢で挙兵し、天皇を吉野に還幸させた。
1338年には、兄顕家と共に摂津・河内・和泉に転戦した。
顕信は山城男山(現在の京都府八幡市)に布陣して、南軍の兵を集め、京都進撃の機会を窺っていた。顕信の役割は北軍を男山の要害に引きつけて、和泉の顕家軍を側面から援護することであった。
顕信は北軍相手に一歩も譲らなかったため、北軍大将の高師直は、狙いを顕信から顕家に変えて、堺・石津浜に方向転換し、未だ態勢の整っていない顕家軍を急襲し、顕家を討死させた。
北朝軍師直の臨機応変な戦術・俊敏な行動力は南朝軍より数段上手であった。
顕家の戦死後、顕信は陸奥鎮守大将軍となって、伊勢国司に任ぜられ、父・親房の後見を受けて、伊勢国の地固めに専念することになった。
この時期北畠氏の根拠地は、田丸城(現在の三重県玉城町)であった。
その後、父・親房と共に義良親王を奉じて、結城宗弘・伊達行朝ら率いる奥州軍も加わり、東国下向を計画したが、運悪く暴風に遭遇し、伊勢に吹き戻され、遠征は失敗に帰した。
当時は各地で南北朝軍による戦闘が繰広げられていたため、陸路ではなく、伊勢・熊野の村上水軍が南朝側に味方していたこともあり、海路ルートで奥州へ向かう計画は当然であった。
又顕信の身辺警護は、腕利きの「修験者」が当たり、特に熊野系の修験者が顕信の周囲に目配りをしていたと見られる。
その後、陸奥に入った顕信は南朝方の中心として、南部氏、伊達氏、田村氏らの支援を得て宇津峰城(現在の福島県郡山市内)に入り、北朝方に対峙した。

写真は、現在郡山市の宇津峰城址。
1343年常陸国の南朝方が壊滅すると、1347年宇津峰城も北朝方の総攻撃を受け落城し、顕信は北奥に奔った。
1351年、顕信は多賀国府奪還作戦を開始した。
一旦多賀城攻略に成功した顕信であったが、1352年には北朝勢に奪還されてしまい、顕信はふたたび宇津峰城に立て篭った。一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、1353年、遂に宇津峰城は落城した。
宇津峰城は徹底的に破壊され、顕信は出羽藤島城(現在の山形県藤島町)に撤退し、奥州南朝方の勢力は大きく後退した。


写真は、顕信が祀られている、山形県天童市の北畠神社鳥居と境内拝殿。
顕信は吉野に帰って、その後大納言・右大臣に任じられた。
その後の消息について不詳な部分が多いが、北畠顕信は出羽国に奔り,後の浪岡御所(現在の青森県)北畠氏として命脈を保つことになったという説もある。
生没年不詳、墓所の所在地も不詳で、顕信のキャリアー・事跡も未だ不詳の部分が多い。
特に後半生の最後の方は、九州征西大将軍懐良(かねよし)親王に従って、筑前大原(現在の福岡県大保原)で戦没したとの説もあり、又顕信の事跡のほとんどが「太平記」に頼り、しかも戦前の勤皇論争によっても大きく歪められた側面も手伝って、戦後の研究が進んだとは云え、不明な部分が多い。
以下史実として認められている部分について、紹介する。
1336年、足利尊氏により、後醍醐天皇が京都華山院に幽閉されると、顕信は伊勢で挙兵し、天皇を吉野に還幸させた。
1338年には、兄顕家と共に摂津・河内・和泉に転戦した。
顕信は山城男山(現在の京都府八幡市)に布陣して、南軍の兵を集め、京都進撃の機会を窺っていた。顕信の役割は北軍を男山の要害に引きつけて、和泉の顕家軍を側面から援護することであった。
顕信は北軍相手に一歩も譲らなかったため、北軍大将の高師直は、狙いを顕信から顕家に変えて、堺・石津浜に方向転換し、未だ態勢の整っていない顕家軍を急襲し、顕家を討死させた。
北朝軍師直の臨機応変な戦術・俊敏な行動力は南朝軍より数段上手であった。
顕家の戦死後、顕信は陸奥鎮守大将軍となって、伊勢国司に任ぜられ、父・親房の後見を受けて、伊勢国の地固めに専念することになった。
この時期北畠氏の根拠地は、田丸城(現在の三重県玉城町)であった。
その後、父・親房と共に義良親王を奉じて、結城宗弘・伊達行朝ら率いる奥州軍も加わり、東国下向を計画したが、運悪く暴風に遭遇し、伊勢に吹き戻され、遠征は失敗に帰した。
当時は各地で南北朝軍による戦闘が繰広げられていたため、陸路ではなく、伊勢・熊野の村上水軍が南朝側に味方していたこともあり、海路ルートで奥州へ向かう計画は当然であった。
又顕信の身辺警護は、腕利きの「修験者」が当たり、特に熊野系の修験者が顕信の周囲に目配りをしていたと見られる。
その後、陸奥に入った顕信は南朝方の中心として、南部氏、伊達氏、田村氏らの支援を得て宇津峰城(現在の福島県郡山市内)に入り、北朝方に対峙した。

写真は、現在郡山市の宇津峰城址。
1343年常陸国の南朝方が壊滅すると、1347年宇津峰城も北朝方の総攻撃を受け落城し、顕信は北奥に奔った。
1351年、顕信は多賀国府奪還作戦を開始した。
一旦多賀城攻略に成功した顕信であったが、1352年には北朝勢に奪還されてしまい、顕信はふたたび宇津峰城に立て篭った。一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、1353年、遂に宇津峰城は落城した。
宇津峰城は徹底的に破壊され、顕信は出羽藤島城(現在の山形県藤島町)に撤退し、奥州南朝方の勢力は大きく後退した。


写真は、顕信が祀られている、山形県天童市の北畠神社鳥居と境内拝殿。
顕信は吉野に帰って、その後大納言・右大臣に任じられた。
その後の消息について不詳な部分が多いが、北畠顕信は出羽国に奔り,後の浪岡御所(現在の青森県)北畠氏として命脈を保つことになったという説もある。
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