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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠顕能のキャラクター・生涯

2006年12月25日 | 歴史
北畠顕能は親房の三男で、1335年に南朝より伊勢国司として、一志郡多気(現在の三重県津市美杉町上多気)に赴任した。生没年は不詳。
顕能は、兄・顕家が陸奥で南朝方として活躍中、伊勢の家名を継ぎ嫡流となり、南朝勢力の中心となって活躍した。抗戦をモットーとして、武力によって伊勢を支配した。
特に北朝方を支持する土着勢力・独立系の土豪勢力と小競り合いを繰返していたと云う。
足利氏に対抗して、最後まで忠義を貫いた忠臣として崇められている。

1338年、吉野と伊勢平野を結ぶ山地の多芸(現在の美杉町多気)に居館を移し、背後の標高600mほどの霧山に最初の城を築き、ここを拠点として吉野朝廷を支えた。
霧山城は長期戦に備えるための典型的な山城で、常時は山麓の居館に居住し、いざという時は、背後の山城に詰める作戦であったと見られる。

右上の写真は、津市美杉町ふるさと資料館に展示された北畠顕能公御像。
そして戦国時代の8代目当主・北畠具教の代に、織田信長によって滅ぼされるまで、伊勢の名家としての基礎を築いくと共に、1335年以来具房まで9代にわたり、約240年間、伊勢一帯の南朝勢力の中心であり続けた。

即ち南北朝が統一された後も、伊勢国司としての地位を墨守し、伊勢の守護大名として、室町時代を生き抜き、多気だけでなく、伊賀地方・大和南部も支配下に納めていたと云う。
北畠時代の繁栄を裏付けるように、当時は多くの寺院や武家屋敷などが、多気に存在したと云う。



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