幕府は、松平容保を京都守護職として、松平慶永を軍事総裁職として、長州に恭順を迫ったが、反応は鈍かった。
幕府は八方塞の状況で、一方で京の秩序を回復し、長州を罰し、他方で薩摩の開国論を牽制しなければならなかった。
状況打破の切り札は、やはり慶喜しかいなかった。
そこで朝廷は、慶喜に対して、“禁裏守衛総督・摂海防御指揮”の役職を命じたことで、慶喜はいわば“京”治安の総大将となった。
慶喜は朝廷直属の身分となった?
しかし朝廷には軍事力が備わっていなかったことから、幕府の機構を使うしかなかった。慶喜は水戸藩からも兵を徴集し、軍備体制つくりを急いだ。
それにしても、慶喜は幕府の大将なのか、朝廷の味方なのか、指揮命令系統がはっきりしなかった?????
幕藩体制はここまで脆弱・曖昧になってしまったということ!!!!!
そしてついに「禁門の変」・「蛤御門付近の激戦」が始まった。


写真は、京都御苑西側の蛤御門入口及び御門主柱に付けられた、生々しい弾痕。
“池田屋事件”で新撰組により藩士が殺されたという情報が、長州藩にもたらされると、福原越後他攘夷積極派の家老は、高杉晋作他慎重派を抑えて挙兵し、山崎天王山・嵯峨天龍寺・伏見長州屋敷などに兵を集めて陣営を構えた。
朝廷内部でも、長州勢の駆逐を求める強硬派と穏健派が対立したため、禁裏守衛総督(軍司令官の意)を拝命した慶喜は、退兵を呼びかけたが、京都蛤御門付近で、長州藩兵が、会津・桑名・薩摩各藩の陣営と激突した。
長州軍は三方から御所を攻め入ろうとした結果、朝廷内は大混乱、天皇を移すことも考えられていた。
かろうじてその場を阻止した慶喜は、公卿の動揺を抑えたり、戦場を巡ったりの大奮戦であったと云う。



写真は上から、“禁門の変”で犠牲となった久坂玄瑞の銅像、京都相国寺の長州藩士合同墓所及び長州藩士戦没者の墓がある、京都相国寺内の林光寺。
結局、尊攘を唱える長州勢は敗退・壊滅し、久坂玄瑞らが殺害された。
久坂玄瑞は、松下村塾では高杉晋作と双璧を成したほどで、浪士隊を率いて長州藩兵と共に上京し、京都山崎に結集して戦ったが、流れ弾に当り自刃した。
京都守護職の会津藩主・松平容保は薩摩藩と連携して、長州の攘夷急進派を弾圧する体制を既に整備していた。
慶喜は、初めての実戦に勝利したが、後に慶喜は「一生で決死の覚悟をしたことが三度あるが、そのうち一つがこの“禁門の変”であった。」と述懐している。
“禁門の変”において、長州藩兵が御所へ向けて発砲したことを理由に、幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うことになった。
幕府は八方塞の状況で、一方で京の秩序を回復し、長州を罰し、他方で薩摩の開国論を牽制しなければならなかった。
状況打破の切り札は、やはり慶喜しかいなかった。
そこで朝廷は、慶喜に対して、“禁裏守衛総督・摂海防御指揮”の役職を命じたことで、慶喜はいわば“京”治安の総大将となった。
慶喜は朝廷直属の身分となった?
しかし朝廷には軍事力が備わっていなかったことから、幕府の機構を使うしかなかった。慶喜は水戸藩からも兵を徴集し、軍備体制つくりを急いだ。
それにしても、慶喜は幕府の大将なのか、朝廷の味方なのか、指揮命令系統がはっきりしなかった?????
幕藩体制はここまで脆弱・曖昧になってしまったということ!!!!!
そしてついに「禁門の変」・「蛤御門付近の激戦」が始まった。


写真は、京都御苑西側の蛤御門入口及び御門主柱に付けられた、生々しい弾痕。
“池田屋事件”で新撰組により藩士が殺されたという情報が、長州藩にもたらされると、福原越後他攘夷積極派の家老は、高杉晋作他慎重派を抑えて挙兵し、山崎天王山・嵯峨天龍寺・伏見長州屋敷などに兵を集めて陣営を構えた。
朝廷内部でも、長州勢の駆逐を求める強硬派と穏健派が対立したため、禁裏守衛総督(軍司令官の意)を拝命した慶喜は、退兵を呼びかけたが、京都蛤御門付近で、長州藩兵が、会津・桑名・薩摩各藩の陣営と激突した。

長州軍は三方から御所を攻め入ろうとした結果、朝廷内は大混乱、天皇を移すことも考えられていた。
かろうじてその場を阻止した慶喜は、公卿の動揺を抑えたり、戦場を巡ったりの大奮戦であったと云う。



写真は上から、“禁門の変”で犠牲となった久坂玄瑞の銅像、京都相国寺の長州藩士合同墓所及び長州藩士戦没者の墓がある、京都相国寺内の林光寺。
結局、尊攘を唱える長州勢は敗退・壊滅し、久坂玄瑞らが殺害された。
久坂玄瑞は、松下村塾では高杉晋作と双璧を成したほどで、浪士隊を率いて長州藩兵と共に上京し、京都山崎に結集して戦ったが、流れ弾に当り自刃した。
京都守護職の会津藩主・松平容保は薩摩藩と連携して、長州の攘夷急進派を弾圧する体制を既に整備していた。
慶喜は、初めての実戦に勝利したが、後に慶喜は「一生で決死の覚悟をしたことが三度あるが、そのうち一つがこの“禁門の変”であった。」と述懐している。

“禁門の変”において、長州藩兵が御所へ向けて発砲したことを理由に、幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うことになった。
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