纏向遺跡は桜井市の北部、天理市と境を接し、烏田川と巻向川に挟まれた扇状地上に広がり、東西2km・南北1.5kmほどにも及ぶ遺跡で、古墳時代前期を中心としている。
全国にある古墳時代前期の遺跡の中でも、ずば抜けてその規模が大きく、運河・大型墳墓・大型祭殿建物等の建設に見られる大規模な土木建築工事が行われており、又南関東から北部九州に至るまでの各地から持ち込まれた大量の搬入土器が発見されている。
写真は、桜井市纒向矢塚古墳の纒向型前方後円墳平面図。
従来、弥生墳丘墓とみられてきた前方後円形をなす墳墓を、古墳時代出現期の古墳形態として、纒向型と表現。
纏向石塚古墳をはじめとする“纏向型前方後円墳”に見られる、定型化された発生期の古墳(後円部の長さ2:前方部1の割合)が全国に広がったとされる。
写真は上から、纒向石塚古墳の発掘現場、現在の纏向石塚古墳光景、本遺跡から出土した庄内式土器。
平成8年の発掘調査では、纏向石塚古墳の築造が3世紀前半(墳丘盛土内から発見された3,600点余りの土器が、全て3世紀前半のモノ)であり、日本最古の前方後円墳であることが確認されており、又導水施設や韓式系土器の発見があったという事実等々から総合判断すると、当時日本の中心地であったであろうと容易に想像できる。
写真は、纒向古墳群周辺の地図及び第11代・垂仁天皇の纒向珠城宮址の石碑。
当時、纒向地域がヤマト政権の中心であった理由とは?
1、平成6年の第80次調査で、古墳時代前期と思われる幅2m・深さ2mほどの大溝と土塁状の高まりを、現在渋谷向山古墳(景行天皇陵)がある近辺で検出し、この高まりの平坦面には、柱穴が1.6mの等間隔で3個並んでいる事実も確認。
写真は、天理市の渋谷向山古墳と桜井市の纒向古墳群との位置関係。円内が纒向古墳群の場所。
平成6年の発掘調査結果から、この大溝と土塁状の高まりの東側には、豪族居館・倉庫群・工房群等の存在を推測できると言う。
又この地域が垂仁天皇の纏向珠城宮(たまきのみや)跡の伝承地であることも興味深く、更にはこの調査で、土塁と柵列を伴ったV字溝も検出されていることは単なる偶然であろうか?
以上のような事実と推測を積み重ねて推理を更に展開すると、現在の大和古墳群を含めた西側の古墳地域に対し、東側には、豪族居館を中心に据えた一大大和政権の行政区域及び大和民族の生活拠点が広がっていたのではないかと、夢とロマンは更に拡大する。
更には若しや、この一大大和政権が卑弥呼の邪馬台国であったかもとロマンは一層飛躍せざるを得ない。
東側区域の発掘調査は未だ行われていないが、このような大溝と土塁状の高まりを持った施設の発見が、纒向地域の一部である巻野地区内一帯の更なるビックな発見とロマンが多少なりとも現実味を帯びてくることに大いに期待したい。
2、纏向遺跡から出土する土器には、大和以外の地域で作られたものが多く見られ、全体の15%がいわゆる「搬入土器」といわれ、搬入土器の出身地は南関東から北部九州までの広範囲に亘っているとのこと。
関東系・東海・北陸・近江・河内・播磨・吉備・山陰・瀬戸・北部九州等広範囲に大別できるらしい。
写真は、纏向遺跡に全国各地から移入された土器類。
搬入土器には煮炊き用の瓶の出土が多く見られ、各地から人々が纏向へ来た際、食生活慣習やローカルな生活文化を土器・道具等と共に搬入し、人間交流が盛んに行われていたことを物語っている。
又出土物の中には、朝鮮半島からの物も見られ、これらの土器と共に大陸や朝鮮半島の高度な技術も、纏向に伝わってきたことを明らかにしていると云える。
以上のように、纏向地方の人的・物的・ノーハウ的国内外交流は、全国的なレベルに比較しても、かなり高度な文化レベルに達していたと想像できる。
文化・交易・技術等の面でも当時の日本をリードしていたと云える。
ところで、大陸との交流の証として最も確かなものは文字の発見であるが、現在までのところ見つかっていない。文字を保存できる媒体が極めて限られているハンディーもあるが、今後の更なる発掘調査結果に期待したい。
3、古墳時代前期の当時、大和地方に環濠集落があったかどうか、現在までの調査結果では、環濠集落はなかったらしいとのこと。
当時の大和政権の広域強力パワーからして、近隣地域は既にコントロール下に治め、あえて環濠を張り巡らす必要はなかったのではないかと想像できる。
全国にある古墳時代前期の遺跡の中でも、ずば抜けてその規模が大きく、運河・大型墳墓・大型祭殿建物等の建設に見られる大規模な土木建築工事が行われており、又南関東から北部九州に至るまでの各地から持ち込まれた大量の搬入土器が発見されている。
写真は、桜井市纒向矢塚古墳の纒向型前方後円墳平面図。
従来、弥生墳丘墓とみられてきた前方後円形をなす墳墓を、古墳時代出現期の古墳形態として、纒向型と表現。
纏向石塚古墳をはじめとする“纏向型前方後円墳”に見られる、定型化された発生期の古墳(後円部の長さ2:前方部1の割合)が全国に広がったとされる。
写真は上から、纒向石塚古墳の発掘現場、現在の纏向石塚古墳光景、本遺跡から出土した庄内式土器。
平成8年の発掘調査では、纏向石塚古墳の築造が3世紀前半(墳丘盛土内から発見された3,600点余りの土器が、全て3世紀前半のモノ)であり、日本最古の前方後円墳であることが確認されており、又導水施設や韓式系土器の発見があったという事実等々から総合判断すると、当時日本の中心地であったであろうと容易に想像できる。
写真は、纒向古墳群周辺の地図及び第11代・垂仁天皇の纒向珠城宮址の石碑。
当時、纒向地域がヤマト政権の中心であった理由とは?
1、平成6年の第80次調査で、古墳時代前期と思われる幅2m・深さ2mほどの大溝と土塁状の高まりを、現在渋谷向山古墳(景行天皇陵)がある近辺で検出し、この高まりの平坦面には、柱穴が1.6mの等間隔で3個並んでいる事実も確認。
写真は、天理市の渋谷向山古墳と桜井市の纒向古墳群との位置関係。円内が纒向古墳群の場所。
平成6年の発掘調査結果から、この大溝と土塁状の高まりの東側には、豪族居館・倉庫群・工房群等の存在を推測できると言う。
又この地域が垂仁天皇の纏向珠城宮(たまきのみや)跡の伝承地であることも興味深く、更にはこの調査で、土塁と柵列を伴ったV字溝も検出されていることは単なる偶然であろうか?
以上のような事実と推測を積み重ねて推理を更に展開すると、現在の大和古墳群を含めた西側の古墳地域に対し、東側には、豪族居館を中心に据えた一大大和政権の行政区域及び大和民族の生活拠点が広がっていたのではないかと、夢とロマンは更に拡大する。
更には若しや、この一大大和政権が卑弥呼の邪馬台国であったかもとロマンは一層飛躍せざるを得ない。
東側区域の発掘調査は未だ行われていないが、このような大溝と土塁状の高まりを持った施設の発見が、纒向地域の一部である巻野地区内一帯の更なるビックな発見とロマンが多少なりとも現実味を帯びてくることに大いに期待したい。
2、纏向遺跡から出土する土器には、大和以外の地域で作られたものが多く見られ、全体の15%がいわゆる「搬入土器」といわれ、搬入土器の出身地は南関東から北部九州までの広範囲に亘っているとのこと。
関東系・東海・北陸・近江・河内・播磨・吉備・山陰・瀬戸・北部九州等広範囲に大別できるらしい。
写真は、纏向遺跡に全国各地から移入された土器類。
搬入土器には煮炊き用の瓶の出土が多く見られ、各地から人々が纏向へ来た際、食生活慣習やローカルな生活文化を土器・道具等と共に搬入し、人間交流が盛んに行われていたことを物語っている。
又出土物の中には、朝鮮半島からの物も見られ、これらの土器と共に大陸や朝鮮半島の高度な技術も、纏向に伝わってきたことを明らかにしていると云える。
以上のように、纏向地方の人的・物的・ノーハウ的国内外交流は、全国的なレベルに比較しても、かなり高度な文化レベルに達していたと想像できる。
文化・交易・技術等の面でも当時の日本をリードしていたと云える。
ところで、大陸との交流の証として最も確かなものは文字の発見であるが、現在までのところ見つかっていない。文字を保存できる媒体が極めて限られているハンディーもあるが、今後の更なる発掘調査結果に期待したい。
3、古墳時代前期の当時、大和地方に環濠集落があったかどうか、現在までの調査結果では、環濠集落はなかったらしいとのこと。
当時の大和政権の広域強力パワーからして、近隣地域は既にコントロール下に治め、あえて環濠を張り巡らす必要はなかったのではないかと想像できる。
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