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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 第一次幕長戦争

2007年05月12日 | 歴史
長州藩は尊攘思想を掲げて京の政局に関わっていたが、1863年に薩摩・会津両藩による「8・18の政変」で京を追放され、1864年には、毛利藩主父子の赦免を求めて、軍事行動・「禁門の変」を起こし、敗退した。





写真は、京都ホテルに所在する長州藩邸跡の光景及びホテル玄関口にある藩邸跡の石碑。

”禁門の変”で敗退した際、朝廷は、長州藩が京都御所へ向かって発砲を行ったことを理由に、朝敵とみなし、幕府に対して長州征討の勅許を下した。
幕府は、長州制圧を決定し、諸藩に長州征討の命令を出した。しかし様子見の諸藩の反応は芳しくなかった。

そんな状況下、尾張藩主・徳川慶勝を総督に、広島へ36藩参加・15万の兵を集結させて、長州へ進軍を果たした。

一方長州藩は、下関に4ヶ国連合艦隊の砲撃を受けて、それどころではなかった。下関戦争後、長州藩内部では、保守派が政権を握っていた。



写真は、長州藩家老・益田右衛門介の肖像。
長州に同情的になっていた、西郷隆盛は、「禁門の変」の責任者である、益田右衛門介など3家老の切腹、三条実美ら5公卿の他藩への移転、山口城の廃城などを、撤兵の条件として提案した。
幕府総督・尾張藩主徳川慶勝は、これを受け入れ、長州藩庁もこの提案に従い、恭順を決定したため、幕府は長州から兵を引き上げた。

幕府の強硬派は、このような寛大な処置に不満で、ここにも慶喜の温情が関係しているとの疑念を持っていたと云う。
第一次長州征討に形だけは勝利したものの、その責任者処分問題は幕府の肩に重くのしかかり、京の混乱は続いていた。

朝廷からは将軍上洛の催促、幕府は処分問題について、長州藩を江戸に呼び出そうと必至だが、思う通りにならなかった。

幕府は、「長州処分は江戸で行うので、将軍は上洛しない」方針を固め、京を守る慶喜と容保に帰幕を要請した。この要請は、朝廷に拒否されたばかりか、容保からも将軍上洛を説得され、やむなく将軍家茂は京へ向かった。

このような幕府内・朝廷と幕府の関係がギクシャクしていた状況は、長州藩に付け入る隙を与えることになり、長州藩内部では、再び倒幕強硬派が台頭していた。
幕府の長州征討要請に対して、諸藩はいずれも長州再征伐に及び腰であった。

打開策が見えないまま、慶喜の積極的な朝廷工作により、再び勅許を得て、長州へ最後通牒が発せられた。
しかし薩摩藩は出兵を拒否し、多くの藩もこれに同調し、幕府にとって、極めて不本意・未説得のまま、第二次長討戦闘に入った。


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