近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県川西町の島の山古墳とは!

2008年12月01日 | 歴史
古墳時代前期末頃に築かれた全長190mの前方後円墳で、奈良県下の前方後円墳約300基のうち第20番目の規模に相当。
明治年間に古墳後円部の発掘により、多量の石製腕飾り類が出土、竪穴式石室があったと考えられている。





写真は、1996年発掘調査時の石製腕飾り出土状況及び緑色凝灰岩製の車輪石・鍬形石など。

古墳前方部の発掘調査により、粘土槨と呼ばれる埋蔵施設が存在することが分かり、緑色凝灰岩製の車輪石・鍬形石・石釧等140点の石製腕飾り類、銅鏡3面、碧玉・製合子3点、大型管玉5点等が埋葬されていたことが判明。

前方部の墳墓は、主被葬者ではなく、陪葬墓であったことも幸いし、無盗掘の状態で発見されたとのこと。

~現在話題にしているのは、多量の碧玉製品は実用目的ではなく、副葬用か、祭祀用の用具かの論争と、被葬者は一体誰なのか?祭祀者として女性ではないか?権力者の近親者か?いずれにしても大和政権は既に確立されていたことから、当時の大王クラスの権力者かその宗教的支配者であったのではないかと想像されるが。

~3世紀が邪馬台国を中心とした30余国の小国が乱立時代、5世紀は大和政権が全国統一を果たしていたのに対し、4世紀は記録の少ない時代と言われるだけに、今後の更なる研究・調査活動の成果に期待。

~碧玉製品の発見は、中国の玉器崇拝思想が強かっただけに、時代交流の証拠として、他の金銅製の装身具・馬具等と共に、交流が裏付けられたと言える。

~考古学的視点からの課題解決とは別に、古墳の周辺環境も含めた文化財保全の問題が、一方で深刻であるように思える。奈良県・川西町の行政指導、環境問題に対する対応に注目したい。



本古墳は写真のように、みかん・野菜等の農耕地として利用され、景観を著しく阻害。更なる発掘継続計画があるようだが、今後環境保全問題とどう取組むか?



島の山古墳内で盛んな農耕栽培の風景。戦前は、辺り一面桜の木で覆われ、メンテも素晴らしく大王クラスの古墳に相応しかったとか。現在は30余名の土地所有者が畑地として利用、周辺環境は悪化の一途。



島の山古墳周濠沿いの掘建小屋風景。川西町が、掘っ建て小屋用として周濠を個人賃貸しているとのこと。
生活排水からか、お濠の水質悪化も含め環境は著しく悪化。川西町の対応は?

→出土物が世間を涌かせているのとは対照に、行政指導の真価が問われる。

→ヤマト王権の枢軸集落と見られた纒向遺跡は、祭祀・政治中枢としての機能のほか、開発拠点・生産拠点としての要素も持っていたが、古墳時代前期終焉には、奈良盆地中央部の島の山古墳の造営により、東南部地域・纏向遺跡の重要性・拠点性が消失したと云う。



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