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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

黒塚古墳の発掘現場訪問記!

2008年11月28日 | 歴史
黒塚古墳は奈良県天理市にある、全長約130m・後円部径約72m、後円部高さ約11m・前方部高さ約6mの前方後円墳。3世紀後半から4世紀前半の古墳時代前期前半頃の築造と考えられている。

纏向遺跡に近い黒塚古墳からは34枚もの銅鏡が出土した。そのほとんどは卑弥呼が中国・魏の皇帝からもらった鏡との見方がある、三角縁神獣鏡であることから、邪馬台国ではないかという説がある。

それら34枚の銅鏡の分析結果が次々と発表されているが、最新の分析情報では、ラクダ・ゾウの絵とか「洛陽」の字などが発見され、中国産の可能性が強まってきたようだ。

仮に中国産でなく、渡来人による国産説であっても、中国との緊密な外交・政治関係が裏付けられたと云える。



平成10年2月、黒塚古墳の現地発掘説明会の様子。
ライトに照らされた現場は異様な雰囲気。2日間で17千人が全国から集まったほどの関心をひきつけた、一大ハプニングであった!



黒塚古墳石室の副葬品である、三角縁神獣鏡出土状況。
今回の大発見は、鏡と大和政権とが深く結びついていたことが証明されたと見て良い。

弥生時代後期の環濠集落→邪馬台国の首長、卑弥呼の墓に象徴されるような時代変遷の延長として、豪族の古墳時代→大和政権→王朝時代という時代の移り変りの中で、仮に纏向遺跡が邪馬台国であれば、邪馬台国が大和朝廷さらには天皇家に直結する可能性が出てくる。



写真は黒塚古墳全景。黒塚古墳の発見は、纏向遺跡が初期大和政権の母体であることは間違いないとの論拠になっている。

黒塚古墳の発見・発掘は日本国中を邪馬台国論争の渦に巻き込んだ。
黒塚古墳の被葬者は、卑弥呼政権の外交等を司る家臣ではなかったか?



展示館も備えた、現在の黒塚古墳光景。纒向遺跡中心からわずか3kmほど北側に位置しているが、纒向遺跡との深いかかわりが推測される。

→恐らく中国魏王の指示、即ちこれらの鏡を主従関係の証として家臣に配布するようにとの指示に従って、その勅を実行すべき役割を負っていたのではないかと報じられている。

いずれにしても、今後更なる分析結果からもっと驚くべき事実が明らかにされることを期待したい。








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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (ななし)
2008-11-29 07:59:48
邪馬台国(大和国)が魏と交易したのは、対朝鮮半島情勢が大きく影響しているでしょう。ちょうど、この頃、公孫氏の興亡で半島で大混乱が起きていた時期だから。

倭国内(日本国内)の権威云々は、あんまり関係ないように思う。

そもそも、中国から日本まで遠距離であり、もし纏向遺跡が邪馬台国の首都ならば、この国家は倭国内でかなり強大な帝国を構築していたことになり、魏の権威は基本的に無関係。

たぶん、中国鏡をモデルに、新しい鏡を作ったにすぎないんじゃないの?

それと、箸墓が卑弥呼の墓ならば、日本書紀や古事記の復権に繋がる。はじめて、中国史書(魏書など)と日本史書(記紀など)の内容が一致する。
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