近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市の百舌鳥大塚山古墳とは!そのⅠ

2010年07月20日 | 歴史
百舌鳥古墳群は、大阪上町台地に繋がる、広い台地の西部の低・下位段丘を利用して造られ、その台地には百済川が谷を刻んで西流している。

即ち百済川の北側に半島状の地形ができているが、そこに百舌鳥古墳群がある耳原。





写真は、百舌鳥大塚山古墳の南を流れる百済川光景と同百済川沿いのマンション開発状況。

3世紀には渡来人が移住してきたといわれているが、百済川の北に住んでいた百済人は鉄を作り、鉄が副葬された古墳造りにも土木技術で貢献したらしい。

その後、百済川の南に新羅人が移住してきたが、彼らが作り出したのが須恵器で、堺市は朝鮮半島を中心とした、人と文化の国際交流の最先端の役割を演じていたと云える。

耳原の古墳群は、百舌鳥古墳群の中では古いほうで、巨大な大仙古墳から比較的小さな乳岡(ちのおか)古墳まで大きさはまちまち。





写真は、百舌鳥大塚山古墳の案内板が立てられた上野芝町公園外側と内側の光景。
ここを先端に南側に本古墳が所在。

この半島状のような地形の中で、百舌鳥大塚山古墳は、堺市西区上野芝にかつて存在した古墳で、履中陵古墳の南約400mに位置する西に向けた前方後円墳。

本古墳は、5世紀前半の古墳時代中期の古墳だが、陵墓や史跡等に指定されていなかったことから、残念ながら戦後の宅地造成で消滅した。





写真は、百舌鳥大塚山古墳の1948当時の空撮及びその後、開発が進んだ現在の古墳跡の様子で、残念ながら住宅地に変容してしまった。

墳丘の全長約168m・後円部径約96m・高さ約14m・前方部幅約113m・高さ約12mの前方後円墳で、百舌鳥古墳群では第5位、全国でも第54位の大きさを誇っていたらしい。

墳丘は三段築成、くびれ部には造り出しがあり、周濠がめぐっていたと云う。









写真は、区画整備された百舌鳥大塚山古墳跡の住宅地化光景、住宅地道路先に覗く履中陵の遠景及び同古墳の輪郭を残し屈曲した道路の形状。

1949年に墳丘が削られ、周濠も埋め立てられ、地上から姿を消したと云う。

また、かろうじて残っていた墳丘の裾部も、1986年の宅地造成工事により全て削り取られてしまった。

戦後に破壊された古墳として最大規模であり、現在は、写真の通り、道路の形状に輪郭の痕跡を残すのみ。






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