東北地方を中心に、全国各地の縄文遺跡から夥しく出土する土偶は、縄文人にとって、どのような役割を担っていたのか?
土偶の正体・体つきは、“ヒト”とははっきり判断できないほど、曖昧で不恰好な姿で、精霊のイメージのような存在でもあった。
土偶は、その形・大きさから、恐らく掌の中に収められて、祈られ・願をかけられた精霊であったかもしれない。

写真は、茨城県高萩市の小場遺跡から出土した土偶片。
女性や母性を意識した形状の土偶が多いことから、動植物の繁殖や豊饒の祈願など、呪術的儀式に使われていたという説や、土偶のほとんどが壊されて、捨てられたものが多いことから、病気・怪我などの身代わりであったとする説もある。


写真は、岩手県大迫町縄文遺跡の完形土偶及び山梨県櫛形町の鋳物師屋遺跡の大型完形土偶。
国立歴史民俗博物館の調査・集計によると、全国でこれまでに出土した土偶は、約15,000点余りで、都道府県別では第1位は岩手県の約2,200点が段突で、第2位の山梨県に600点以上の大差をつけて、全国一の出土量を誇る。
しかし出土していない未発見のものも含めると、実数は10倍以上に達するとも云われている。
壊された縄文女神の化身たちが、土偶の形で、彼らの存在・主張を神に託した、祈りの証であり、縄文人が神なるものの実在を当り前に感じ、彼らの日常生活が神や霊を中心に廻っていた証でもあると云える。
土偶を現在の宗教観に照らしてみると、例えば現在残っている神道の祭礼慣習・宗教観は、その源流を縄文時代に見出していると云う。
又土偶は、現代の社寺に祀られている、ご神像や仏像のようなもので、悪霊を恐れさせるために、異形の相をして神なる存在であることを示しているとも。
霊力の強い神様や仏様は、皆異形の相をしており、縄文人は土偶の姿で表される異形の神を、魔除けや悪霊除けとして信仰していたのではないか?
悪霊を土偶に封じ込め、それを壊すことで、邪気・悪運・呪い・怨霊などが再び出てこないように祈念していたのではないか?

写真は、青森市三内丸山遺跡から出土した板状土偶。
この十字形のような平面土偶は、口がオチョポ口の筒のような形で、この口や全体像の形は、苦しんでいる子供のお祓いを祈願した姿に見える。
子供の病気を治すために、子供に憑いた悪霊を土偶に封印して、割って祓い除けたと想像される。


写真は、神奈川県城山町の川尻中村遺跡から出土した土偶及び東京多摩ニュータウン縄文遺跡から出土した胎児をもつ土偶。
土偶が初めて出現した時期は、縄文早期中葉の関東地方であったが、その後土偶の流れは近畿、さらに津軽海峡を越えて北海道、更には南九州にも現われたが、十分に普及しなかったと云う。
縄文中期になってようやく東日本全域に土偶保有の遺跡が増加し、後期・晩期へと続いた。しかし西日本には土偶製作の風潮は浸透しなかった。
後期の近畿地方には土偶製作が見られたが、東日本の中期以降、後期から晩期にいたる2,500年ほどが圧倒的に多く、土偶存続の地域的・時代的偏りが大きいのは、東西縄文文化の差異に関わる自然・文化現象と見られるが・・・。
東日本、特に東北地方にこそ、土偶が行き渡った特殊事情、例えば寒冷化現象による住食環境の激変、疫病の蔓延などが原因であったかもしれない。
東北地方北部だけは、弥生時代になっても、依然として土偶を保有し続けた。
土偶の正体・体つきは、“ヒト”とははっきり判断できないほど、曖昧で不恰好な姿で、精霊のイメージのような存在でもあった。

土偶は、その形・大きさから、恐らく掌の中に収められて、祈られ・願をかけられた精霊であったかもしれない。

写真は、茨城県高萩市の小場遺跡から出土した土偶片。
女性や母性を意識した形状の土偶が多いことから、動植物の繁殖や豊饒の祈願など、呪術的儀式に使われていたという説や、土偶のほとんどが壊されて、捨てられたものが多いことから、病気・怪我などの身代わりであったとする説もある。



写真は、岩手県大迫町縄文遺跡の完形土偶及び山梨県櫛形町の鋳物師屋遺跡の大型完形土偶。
国立歴史民俗博物館の調査・集計によると、全国でこれまでに出土した土偶は、約15,000点余りで、都道府県別では第1位は岩手県の約2,200点が段突で、第2位の山梨県に600点以上の大差をつけて、全国一の出土量を誇る。

しかし出土していない未発見のものも含めると、実数は10倍以上に達するとも云われている。
壊された縄文女神の化身たちが、土偶の形で、彼らの存在・主張を神に託した、祈りの証であり、縄文人が神なるものの実在を当り前に感じ、彼らの日常生活が神や霊を中心に廻っていた証でもあると云える。

土偶を現在の宗教観に照らしてみると、例えば現在残っている神道の祭礼慣習・宗教観は、その源流を縄文時代に見出していると云う。
又土偶は、現代の社寺に祀られている、ご神像や仏像のようなもので、悪霊を恐れさせるために、異形の相をして神なる存在であることを示しているとも。
霊力の強い神様や仏様は、皆異形の相をしており、縄文人は土偶の姿で表される異形の神を、魔除けや悪霊除けとして信仰していたのではないか?

悪霊を土偶に封じ込め、それを壊すことで、邪気・悪運・呪い・怨霊などが再び出てこないように祈念していたのではないか?

写真は、青森市三内丸山遺跡から出土した板状土偶。
この十字形のような平面土偶は、口がオチョポ口の筒のような形で、この口や全体像の形は、苦しんでいる子供のお祓いを祈願した姿に見える。
子供の病気を治すために、子供に憑いた悪霊を土偶に封印して、割って祓い除けたと想像される。



写真は、神奈川県城山町の川尻中村遺跡から出土した土偶及び東京多摩ニュータウン縄文遺跡から出土した胎児をもつ土偶。
土偶が初めて出現した時期は、縄文早期中葉の関東地方であったが、その後土偶の流れは近畿、さらに津軽海峡を越えて北海道、更には南九州にも現われたが、十分に普及しなかったと云う。

縄文中期になってようやく東日本全域に土偶保有の遺跡が増加し、後期・晩期へと続いた。しかし西日本には土偶製作の風潮は浸透しなかった。
後期の近畿地方には土偶製作が見られたが、東日本の中期以降、後期から晩期にいたる2,500年ほどが圧倒的に多く、土偶存続の地域的・時代的偏りが大きいのは、東西縄文文化の差異に関わる自然・文化現象と見られるが・・・。

東日本、特に東北地方にこそ、土偶が行き渡った特殊事情、例えば寒冷化現象による住食環境の激変、疫病の蔓延などが原因であったかもしれない。
東北地方北部だけは、弥生時代になっても、依然として土偶を保有し続けた。

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