近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

桜井市の茶臼山古墳とメスリ山古墳の謎とは!

2011年08月18日 | 歴史
茶臼山古墳とメスリ山古墳の北に、纒向・柳本・大和と命名された古墳群が南からこの順で続いている。

これらの古墳群の中心には、盟主的な巨大前方後円墳がそれぞれ中小の前方後円墳を従えている。

例えば、纒向古墳群には全長278mの箸墓古墳がある。柳本古墳群には、全長300mほどの渋谷向山古墳(景行天皇陵)と全長約240mの行燈山古墳(崇神天皇陵)が存在する。さらに大和古墳群には、全長約220mの西殿塚古墳がある等々。

これらの巨大前方後円墳は、初期のヤマト王権を築き挙げた大王墓と考えられている。

しかし、桜井茶臼山古墳にしてもメスリ山古墳にしても、これらの古墳群とは少し距離をおいて、それぞれ単独墳として築かれている。

茶臼山古墳の竪穴式石室内は真っ赤な水銀朱で彩られ、81面分以上の銅鏡片が見つかっている。6基のうち桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳以外は宮内庁から陵墓指定されているため、調査はできないのは誠に残念。

メスリ山古墳には、古墳時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り、天井部を持つ合掌式の竪穴式石室を持ち、内部には遺骸がないが、武器ばかりが埋納された、格納庫・遺品庫であったと考えられている。

以上のように、宮内庁の陵墓指定がされていないために実行された、貴重な発掘成果を以ってしても、両古墳を大王墓の系列に含めるかどうかで、研究者の解釈は必ずしも統一されていない。

以下にいくつかの説を紹介しよう。

まず、奈良盆地東南部の前期大型古墳の立地・墳形・周濠形態・副葬品などの組み合わせなどから総合的に判断して、両古墳も初期ヤマト政権の盟主墓と見なし、大王墓の系列に含める説がある。

国立歴史民俗博物館の研究者などは、箸墓→西殿塚→茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に大王墓が築かれたと想定している。この説を支持する研究者は多い。

その一方で、大型古墳の系列が一系列でない可能性を指摘する説もある。

土師器壺や特殊埴輪の存在に注目して、箸墓→西殿塚・茶臼山→渋谷向山・メスリ山→行燈山という流れを想定し、茶臼山・メスリ山古墳の被葬者が大王と同時に存在し、大王としての機能を分担した可能性を想定している。









写真は上から、桜井茶臼山古墳の上空写真、同古墳の全体像、メスリ山古墳空撮及び同古墳の平面図。

双方とも、写真の通り、柄鏡形の墳形を持ち、大王墓とは異なるとも云われているが。

柄鏡式前方後円墳は、前方後円墳の形が定まる以前の古墳時代前期に造られたものと想定されている。

古墳時代前期に築造され、前方部が細長く、高さが低くかつ幅が狭い特徴を持つ、九州日向独特の築造形式の前方後円墳で、日向地方以外では、茶臼山やメスリ山古墳など景行天皇の巡幸経路に存在するのみで、全国的には極めて少ない。

茶臼山・メスリ山古墳双方とも大王墓から除外する研究者がいるが、その理由として、両古墳の前方部が撥形でなく柄鏡形であること、周濠を巡らさないこと、古墳群を構成しないで独立していること、などを上げている。

茶臼山・メスリ山古墳の被葬者として、安倍氏の祖先との伝承がある“オホヒコ”と“タケヌナカハワケ”が候補としてあげられている。

この地域に天皇陵造営の伝承が伝わっていないことがその理由で、むしろ桜井市を本拠地とした安倍氏との関連を重視した上での想定と見られる。

今から1700年前に生まれ、波乱に満ちた人生を生き、そしてこの地を奥津城として永久の眠りについた人物は、はたしてどのような男だっただろうか。

ヤマト王権の系譜を継いだ大王だったのか、それとも磐余の地(飛鳥に隣接する奈良県桜井市の南部地域)を根拠とした大豪族の首長だったのか?

現在のところ、両古墳からの出土品は、まだ具体的なことを何も語ってくれない!





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