近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 慶喜の私生活

2007年06月23日 | 歴史
静岡居住時代30年間、慶喜は子宝に恵まれ、美賀子夫人との間には子供はなかったが、同居していた側室の“中根幸・新村信”との間に、10男・11女をもうけた。
歴代将軍では、家斉の55人・家慶の29人に次いで、子宝3番目と云う。

21人の子供たちのうち、成人したのは14人で、初めの頃は夭折が多かったと云う。夭折は過保護が原因で、ある時期から町の健康な庶民の家庭に預ける、いわゆる里子に出したと云う。





写真は上から、側室の中根幸及び新村信。
側室のお二人は顔立ちがそっくりで、どっちが母親かなど子供たちは、普段余り意識しなかったらしい。

側室のお二人は非常に仲が良く、慶喜への世話、即ちお湯殿当番と夜のお伽は、一晩おきに交代で勤めたと云う。

皆同じ屋根の下で暮らしていたが、子供たちは生母を“幸”とか、“信”とか呼び捨てにしていたらしく、生みの親に対するような、呼び言葉をかけることはなかった。“幸”と“信”は“側女中”とも呼ばれ、使用人扱いであったと云う。

当時発刊されていた「徳川慶喜家子女 略系図」には、6男・8女の子女全員が、美賀子の子として紹介されており、“幸”や“信”について全く触れられていなかった。産まれた子の貴賎は、父親の素性によると云われた、古い習慣の名残と見られる。

徳川慶喜家当主は、2代目が“信”系譜の公爵・“慶久”で貴族院議員、三代目が慶久の嫡男で公爵・“慶光”で、同じく貴族院議員を勤め、大日本史の研究でも知られている。



写真は、4代目現当主の徳川慶朝氏で、慶喜が好んだという珈琲を再現している光景。静岡名産茶ではなく、コーヒーとは何とも皮肉?
“慶朝”は、コーヒー研究家・写真家として、現在も活躍中。

慶久の次女・“喜久子”は、高松宮妃殿下として知られている。

慶喜公の10男・“信”系譜の“精”は、勝海舟の婿養子に迎えられていた。
“精”は、実業の世界に入り、浅野セメント・石川島飛行機などの重役を勤めた。

慶喜公の娘・“幸”系譜の“糸子”は、貴族院議員で陸軍軍人の“四条隆愛”に嫁いでいる。

徳川慶喜家が“公爵”を与えられただけに、慶喜の子供たち・子孫とも、貴族或いは貴族らしい地位を継承していると云える。



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