近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪市平野区の長原古墳とは!そのⅡ

2010年08月17日 | 歴史
長原遺跡は、旧石器時代から近世までにわたる、長期・広範囲の遺跡だが、ここからは古墳時代に絞って、取上げたい。







写真は上から、舟形埴輪が出土した長原高廻り古墳群石碑、同古墳現場のマンション開発状況及び同2号墳から出土した舟形埴輪。

1988年4月に、写真の通り、舟形埴輪が発掘され、まれにみる良好な遺存状態だったそうで、古代舟の構造を考える上で、叉当時の造船技術を伝える、貴重な文化遺産となっているらしく、国の重要文化財に指定されている。

写真手前の舟形埴輪は、長原高廻り2号墳から出たもので全長129cm、後ろは同1号墳から出土した全長100cmほどの舟形埴輪。

いずれも袴抜きの舷側板を付けた準構造船で、手前のものは特有な形(前後がワニのように二股に分かれている)をしているが、南久宝寺遺跡で見つかった部材からこのような船型は実在したことが分かった。

この2号墳は、直径21mの墳丘に1.5mの周濠を持つ5世紀前半の円墳で、長原古墳群の中でも早期に造られた古墳。

2003年の調査地周辺は、弥生時代から古墳時代にかけての遺構・遺物が密集して分布している地域で、以前の調査でも多くの知見を得ることができたと云う。

前回調査地のすぐ北に隣接する今回の調査地でも、多くの遺構や遺物が発見されたと云う。

他の場所にも点在している、長原古墳群は、平野区の長原遺跡に包括される埋没古墳群で、開発に伴う発掘調査によって現在までに200基以上が発見されている。

大多数の古墳は1辺10m以下の小方墳で、5世紀代に築かれているが、初期の4世紀後半~5世紀初頭に築かれた古墳はやや大型で、方墳の他に円墳がある。

弥生時代中期後葉から古墳時代中期(約2,100年前~1,500年前)に至る成果は注目されていたが、弥生時代中期~後期には集落、弥生時代終末期~古墳時代前期には墓域そして古墳時代中期には再び集落へ、という土地利用の変遷を把握する事ができたと云う。










写真は上から、地下鉄出戸駅脇の長原古墳群石碑、本古墳群から出土した埴輪のオンパレード、本古墳群から出土した勾玉・ガラス玉・鹿角製刀子などの埋葬品、本古墳群出土の馬型と鶏型埴輪及び長原45号墳出土の武人形埴輪。

長原高廻り1・2号墳から見つかった、多種類で数多くの埴輪は、国の重要文化財に指定されている。

特に長原40号墳から出土した埴輪の特徴から、古墳中期に属する古墳とみられている。

また全長100mをこえる前方後円墳の跡もあり、勾玉・管玉やガラス玉、馬型や家型埴輪などの埋葬品を伴い、古代から現在までの地割りの変遷が見られたらしい。



写真は、2009年の長原遺跡発掘調査現場のうち、鍛治工房跡。

2009年1月の発掘調査の結果、長原遺跡のうちで、古墳時代中期の5世紀前半に鉄器を生産した鍛冶工房跡が出土した。

百舌鳥・古市古墳群の大仙古墳(仁徳天皇陵、堺市)など巨大古墳を築いた「倭の五王」の時代に当たり、近畿で最古の鉄器生産遺構という。

造営されて間もない古墳を壊して工房を設けていることから、当時の政権が関与しているのは確実で、「大和王権直営の鉄器生産拠点」と見られている。

鍛治工房跡は、4世紀末から5世紀初めに造営された方墳跡に、2棟建てられていたとみられる。

1棟ごとに一辺約8mの「コ」字形の溝を設け、排水などに利用されていた。叉棟の間に井戸跡が見つかったほか、周囲からは炉にくべたとみられる大量の炭、排水や湿気よけに利用されたとみられる溝からは、鉄器製造の際に出た、3cmほどの鉄さいが発見された。

百済があったソウル近郊の旗安里(キアンニ)遺跡(3~4世紀)などでも同様の溝が確認されており、「朝鮮半島の渡来人がもたらした先端技術を駆使して造りだした!」と見られている。

市内の同時期の古墳からは、大量の鉄器が出土しているが、これまでどこで生産されたのかは不明だったが、今回の発見は、鉄器生産の歴史を解明する手がかりになりそうだ。

今回発見された鍛治工房で生産された鉄器が、近郊の巨大古墳の造営に伴う土木工事に使用された可能性が高く、鍛治工房が大和王権の軍事、経済活動を支えていたことが窺える。






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