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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

アイヌ民族・文化 江戸の歴史と“シャクシャインの戦い”とは!

2007年11月08日 | 歴史
静内川流域の領地を巡り、アイヌ集落間で対立が続いていたが、“シベチャリ”のチャシ(砦)を拠点としていた“シャクシャイン”首長側が勝利し、“松前藩”の仲介によって、アイヌ民族間の領地争いに講和が成立するかに見えた。

しかし、松前藩は道南を占領し、アイヌ人を辺境の蝦夷地へ封じ込めたが、和人たちはその蝦夷地までも侵食し始めた。
叉アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要し、受入れないとアイヌ人の子女を人質に取るなど、不当な搾取と圧制を繰返した。

このようにアイヌ人は、不当な交易条件や“砂金採掘”利権の圧迫を受けていたことから、以前から高まっていたアイヌ人の和人への不満が、松前藩の仲介を巡って一挙に爆発したことで、アイヌ人間の対立が、一転して結束へとまとまる結果となった。

1669年“シャクシャイン”率いるアイヌ軍は、松前藩に対して蜂起し、各地で“シャクシャインの戦い”を起こし、砂金掘りや交易に訪れた船舶を総攻撃して、和人を殺傷した。



写真は、北海道静内町真歌公園の“シャクシャシン像”。

松前藩から急報を受けた、徳川幕府は東北諸藩に対して松前藩へ援軍・鉄砲・兵糧の供与を命じて実行された。
松前藩は、幕府・東北諸藩の支援を受けたことで多数の鉄砲を装備することが出来たことから、弓矢に頼るシャクシャイン側が不利となったことに鑑み、奥地での長期戦に切替えた。

長期戦を恐れた松前藩は、“シャクシャイン”に和睦を申し入れた。
しかしこの申し出は松前藩の意図的な罠であり、“和睦の酒宴”の席で、“シャクシャイン”は殺害され、指導者を失ったアイヌ側は鎮圧された。



写真は、“シャクシャイン”像前で行われる、恒例の法要祭。

アイヌ人が容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌ人たちは交易者に対して仁義・儀礼を重んじ、和睦を持ちかけられると、アイヌ統率者は誠意を持ち威儀を正して再会儀礼に臨み、仁義を尽す純粋な民族感情があったと思われる。

鎮圧された結果、松前藩によるアイヌへの搾取・圧制は一段と厳しくなり、アイヌ人は絶対服従を強いられ、事実上“奴隷”として酷使されるようになった。

和人の搾取・圧制に対するアイヌ民族の組織的蜂起は、18世紀後半まで続いた。特に松前藩から交易権・漁業権を手に入れた商人による、先住民アイヌに対する暴虐・非道な弾圧などは目に余り、処刑・斬首にまで及んだと云う。

そして松前藩は、国後島・道東部のアイヌ人たちをも制圧するに及んで、松前藩の支配は、遠隔地へと広がりを見せた。



写真は、オーストラリアのアボリジニ先住民族。
18世紀後半は、北海道・アイヌだけでなく、アメリカン・インディアン、オーストラリア・アボリジニなど、地球上相次いで、先住民に対する迫害・虐殺が繰返されていた。


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